鴉と坂

近藤一

プロローグ

 ガアガア、ガアガアと。鴉が鳴いた。

 頭から近い塀の上に、数羽止まっている。

 耳障りな鳴き声に、少年は思わず顔を顰めた。

「行くよ」

 少年は、自分を呼んだ母の元に、逃げるようにして駆け寄った。

 その日の気温は近年、稀に見る猛暑だった。強い日差しから身を護るために、母から被された帽子は、今はもう何の意味の無い飾りとして、背中でぶらぶらと垂れ下がっていた。

 肌を伝う汗が、今日と言う日の熱波の酷さを表していた。

 母がタオルを取り出して、少年の頬に伝った汗を拭った。

 それから少年の肩にタオルをかけて、帽子をもう一度、深く被せた。

「もう少しだからね」

「うん」

 これから少年たちは、不摂生な叔父の様子を見に行くのだ。

 少年はこれまでに一度も、叔父の家に行こうとは思えなかったが、その日は、何となく母に付いて行こうと思った。

 母に帽子を被せられたおかげで、顔の付近が少し涼しくなった。帽子を被れば、少し暑さを凌げることが、分かった。

 近くに落ちていた木の棒を拾って、地面を叩きながら歩いた。

 そんな少年の様子を見て、母は溜息を吐くが、辞めさせることは無かった。

「ざらざら……」

 まだ真新しい木の棒は、樹皮が少し荒れていた。

 その感触に顔を歪めるが、少年は決して木の棒を離そうとは思えなかった。

 河川敷。芝生を揺らす心地よい風が吹いた。ふわりと風に乗って運ばれた、シトラスの香り。その出所を探すが、それらしい影は無かった。

 空を見上げると白い雲が、まるで馬のように形作っていた。

 気が付けば猛暑を忘れ去り、この心地よい風に身を任せ、風景を楽しみながら歩いていた。

 同年代がゲームで遊んでいるのに比べて、少年はこうして日常を楽しむことが出来る子供だった。

「ほら、着いた」

 木の棒で地面を叩いていると、あっという間に目的地に到着した。

 母から木の棒を置くように促され、手の汚れを拭き取って貰いながらアパートの様子を観察した。

 お世辞にも立派とは言えない、二階建ての小さなアパート。錆びだらけで外見が悪く、申し訳程度に置かれた花瓶にはオレンジ色の花が咲いていた。

 小学校で少年が育てているので、名前を知っていた。

「お母さん、マリーゴールドだよ。あれ。僕、学校で育ててるの」

「そうね。こっちよ」

 母は頷き、少年の手を引いて階段を上がった。

 ようやく、日陰に入った。母は深い息を吐いて、鞄からハンカチを取り出し、自分の頬を拭った。その様子を見て少年も、肩に掛けられたタオルで自分の頬を拭った。

「偉いね」

「うん」

 少年は前に、母から、ひと様の家に上がるなら、泥や砂を落とすようにと、念押しされた事があった。

 母が汗を拭っているのを見て、同じかな?と思って、真似をしたんだ。

 だから褒められて、嬉しかった。

 母はハンカチを仕舞うと、チャイムを鳴らした。

「……お留守番かな?」

「ううん。いるはずよ」

 母は、もう一度鳴らす。

 だが、また、しばらく待っても、誰も出て来なかった。

「入っちゃおうか」

「いいの?」

「うん。叔父さんはね、いくら待っても出て来ないからね」

 そう言うと、母は部屋の扉を開いた。

 最初に、匂い。古い畳の、お婆ちゃんの家に似た臭いが鼻に付いた。

 続いて、部屋の散らかり様だ。玄関には長靴、スニーカー、下駄が一足ずつ、乱雑に投げ捨てられていた。壁際には何枚もの段ボールが積み重なっている。

「おじゃまします……」

 恐る恐る、部屋に入った。

 母はもう、と文句を言いながら散らかった靴を並べている。

 少年も、靴を並べて、玄関に上がった。

 左を見れば台所があった。シンクの上にはカップラーメンの容器が重なり、床には何本もの酒の瓶が並べられていた。

 母はもう一度、深い溜息を吐く。

 それから、夫婦喧嘩で見せるような激怒した様子では無くて、肩をすくめて「仕方ないなあ」と呟きながら、部屋の奥に続く襖を開いた。少年もその後に続く。

「兄さん。たった二週間で、どうやったらこんなに散らかせるんですか?」

「……うん? あれ? ああ、そうか。もう、そんな時間だったんだね」

 そこにいたのは、何とも頼りなさそうな、細身の男だった。乱雑に伸ばしている頭髪を、ぐちゃぐちゃに掻き毟って、白い粉が肩の上に落ちる。ふけというやるだ、母が父に「ちゃんと髪を洗え」と怒っていたのを、見ていたから知っていた。

 着ているのは、お祭りでお年寄りが着ている、和服だ。確か、甚平という名前だった。部屋にエアコンは付いておらず、窓を全開にして、扇風機で入って来る風を部屋全体に流して、循環させていた。

「おお、悠真君。大きくなって」

「兄さん、シャワー入って来て」

「え、甥っ子と久しぶりの再会を……」

「いいから。そんな汚い身体で、悠真に触らないで」

 母は本気で、怒っていた。

 その圧力に負けて、叔父は項垂れながらも浴室に向かった。

 その間に母は部屋を片付ける。散らばったゴミを袋に入れて、掃除機をかける。

 もう、と文句を言いながら、母は叔父に「掃除しろ」とは一言も言わなかった事に、違和感を覚えた。

 けれど、幼かった少年はその違和感をすぐに忘れ、叔父の本棚にあった漫画を手に取って、読んでいた。

 木枯らしを転がすようにして風鈴が鳴る。釣られて、顔を上げれば、タオルで頭を拭きながら、浴室から出て来た叔父がいた。

「こん、にちは」

 叔父とは言っても、直接は随分と前に一度、会った切りの人だ。

 緊張を隠し切れずに裾を握り、真っ直ぐに向き合わないように、俯きながら挨拶をする。

「はい、こんにちは。……久しぶりだなあ、悠真。大きくなったなあ」

 と、大きいわりに細い手で、頭をわしゃわしゃと撫でられた。

 父はあまり、こういうスキンシップをしてくれる人では無かったから、嬉しかった。

「悠真が羨ましいなあ、川端康成と同じ苗字だもんなあ」

「かわばた、やすなり?」

「そうだぞぅ。明治の大文豪だ。もしかしたら、川端康成の生まれ変わりかもしれないなあ」

「もう。適当なこと言わないで、兄さん」

 そんな話をしていると、母が買って来ていたお茶とケーキを運んで来た。

 部屋の中央にある、もう真夏だというのに毛布が掛けられたままのちゃぶ台を囲む。

「兄さん、最近どうなの?」

「まあまあかな」

 母の質問に、叔父は薄ら笑いを浮かべながら頷いた。

 軽薄そうに見えた、その笑みは、幼いながらに触れてはいけない部分を、直感させるには十分な程、陰を持っていた。

「ん? ああ、ごめんよ。編集者さんからだ。……もしもし」

 携帯が鳴り、叔父は何度か相槌をうった。

 それから、食べかけのケーキを置いて、部屋の奥にある小さな机に向かった。すっかり使い古された座布団に腰を下ろす。机の上には何冊もの本や、ぐちゃぐちゃの作文用紙が錯乱していた。

 部屋の隅々まで掃除していた母が唯一、散らかっているというのに、何の手も加えなかった場所。

 叔父は、置いていた筆ペンを持った。

 叔父が筆ペンを持った途端に、部屋の雰囲気が変わった。

 あの優しかった叔父の眼差しに、鋭いものが宿る。

 ただ一点。20×20、四百字詰めの作文用紙を睨み付けるように、顔を動かさない。

 つらつらと音を立てながら、ペンを走らせる叔父。

 別人のように思える叔父の伸び切った髪が、まるでオーラに煽られるようにして逆立っているように見えた。

「悠真。叔父さんはね、小説家なのよ」

「しょう、せつか?」

 不思議な言葉だった。

 聞いたことは無くても、意味は分かった。

 小説を書くお仕事だ。

「あれ?」

 目を、凝らした。叔父の背中に金色の糸が垂れ下がっていたからだ。幻だと思い、目を擦ってもその糸は、逆立つ髪のように消える事は無かった。

 けれど。今は、そんな事を忘れるくらいに、その背中に魅入られた。

「恰好良いね」

「……うん」

 母の瞳が、まるで宝物を見ているように、嬉しそうに潤んでいた。

 そして少年は、俺は。そのダンゴムシのように、みっともなく丸まった小さな背中に、憧れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る