第 話 心の中の夜
ふらふらとした一匹の蠅が屋根に留まり、その線のような前足をすりすりと擦る。
館の前。
赤毛の男は乾いた葉を数枚焼いて濃い黒の煙をたく。
琥珀の少女はべたんと足をのばしてばたばた振った。
次の指令までの待機、これまでで最も肩の力を抜ける時間が流れている。
「さっきひまわりの国旗あったじゃん。ひまわりって、すっごくいい花言葉がいっぱいあるんだよね。本数でも意味が変わるおしゃれな感じで!」
赤毛の男は、ほとんど音のない空返事をする。
「1本がひとめぼれ!11本は最愛!15本は謝罪の気持ち。17本!はちょっと変で、届かない絶望の愛。100が永遠の愛!1000が輪廻を超えた愛!やばくない?!きゃー!」
「花言葉か………」
薄緑の目は遠くを見る。
「ふふ、ナーシェも、花の名前なんだよ。知ってた?」
「………いいや」
遠くを見ていた目が戻ってくる。
「花言葉とか、あるのか」
「あるよ!でも秘密。てかロスってさぁ。なんか嫌いなものってある?」
少女は、あぐらかいて太陽を見つめる男の背後へ忍び寄る。
「あん?いや……特には」
"ある。皆への思いやりを知らず、自分だけのことを考える人"
「え~そうなの?じゃ好きなものは?ナーシェ、目のきれいな人が好き」
少女は赤毛かぶさる薄緑の目をのぞく。
"視界の端、後ろから、首かしげた
「すごくきれい。お天道様に葉っぱかざしたみたいな色してる」
「そうかよ」
緩む唇をへの字に引き上げる。
「ねえ何が好きなの」
「さあなぁ…………」
「じゃあ好きな髪形は?できそうならナーシェその髪したげる」
男は少女から目を離し、太陽を見上げた。
「いや、そんなことより………お天道様……だな。やっぱり」
睨む顔でふくれ面を作る少女。
「なんで」
赤毛の男は、その光のあたたかさに目を閉じる。
「誰でもあったかくしてくれるだろ。弱くても、強くても、人殺しでも、泥棒でも」
「え人殺し?そんな悪い奴認める気?」
「おいちげぇだろ。ただそういう懐のあたたかさが好き……なのか?」
「へ~そうなんだ。でも本当の意味で誰でも照らしてくれてるわけじゃなくない?」
赤毛の男は目をあける。その目は思案に遠くを見た。
「だってほら。太陽って夜照らしてくれないじゃん」
大きな背中をつつく、小さくて細い人差し指。
「あ~~~~なるほどな」
「昼だけじゃなくて夜もいてくれたっていいじゃん」
少女は後ろから、ふぅ〜と耳に息をかける。
「まあな」
「ナーシェ寒いの嫌いだからさ。ほら」
少女は鞄へ手を突っ込んだ。
少女の手には、人丈程度の長布。それには数々の実績があった。留め具、防寒具、止血用の締め布、革帯が千切れたときのための簡易な腰帯と多岐にわたる。
杭矢で腕に穴が空いたとき、止血のためにきつく巻かれていたのはこの長布。
特に、捕縛をした者に対する目隠しとしても役立った。気配とは耳や鼻だけでなく、目からも感じるもの。この長布の、三角を組み合わせた幾何学的な模様、その術陣は力の気配を断つことができる。
「夜に太陽があったらっての想像してみて。おりゃ!」
薄緑の瞳へ、夜がごとき暗闇が降りてきた。
その一瞬で、心臓がうなりをあげて早鐘打つ。
その暗闇、太陽あるべきところは月のような灰色になった。
手を入れて、長布を持ち上げる。
差し込む光。
太陽の熱が、暗闇の凍えを押し流した。
だが心の中、今の背丈の半分もない幼い己の影が、夜の化け物に襲われている。
うずくまっているところ、大きな体の化け物が、その背中へ、その巨体に見合った大きな爪を何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
皮膚はどうしようもないほど穴が空いて、布切れのようにずたずた。
爪が、肩の骨形がなくなるまで砕く。
肉がなくなっても、同じ穴に何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
「こらやめろ」
たった一瞬の出来事。目隠しされてから、笑みを浮かべて数秒。
震えを抑えるための、喉に力みのある平静な声。
「あ…………」
深呼吸で大きく肩が上下している。
少女には、それが憔悴しているように見えた。
「ごめん」
太陽が雲で陰った。
「何が」
振り向いてとぼけた笑みを向ける男。
「だって」
少女は男へ手をすべらせ、背中からぎゅっと抱きしめる。
その手は、ゆっくり、止まった。心臓の上で。
少女の息が、男の首筋をなでた。
「今はもうぜんぜん平気なんだけどよ……そうでもないみたいだな」
"背中、夜の凍えを思い出した傷痕、左右端までぐしゃぐしゃに治った皮膚が痒くなる。"
「ナーシェもね」
ふたりは心の中に夜を描いていた。
それぞれの夜で、小さな自分が、夜の化け物の食い物にされている。
「お腹に大けがしたことあってさ」
人の身に残る傷痕はすべて、凍える夜の時間に刻まれたもの。
「まあなんとか死ななかったけど」
男から少し離れて、その大きな背中を小さく細い人差し指でさする。
「でもあのとき、今でも弱いのにもっとうーんとずっと弱くってさ」
文字を書くような動きで背中をなぞる人差し指。
「もうだめだ~ってなったとき石ころとかとにかくいろんなの投げまくったら倒せちゃった」
ぴたりと止まる指。
「ああそっかこうして生きていけばいいんだな~って。自分の力じゃなくて、頭使って道具も使う、みたいな?それで、ちゃんとそれができるようになった。だから」
少女は肩へと顎をのせて、ぎゅぅっと抱きしめた。自らの心臓を押し当てる。
「ナーシェもう怖くないよ」
まるで止まっているかのように、その心臓はおだやかだった。
「ね?ほら、なんていうの。ナーシェより強いんだからさ」
雲隠れしていた太陽がふたりへ降り注ぐ。
それを見上げる薄緑の目と、伏せる枯葉色の目。
「そう、かもな」
首筋に、小さな頬がぷっくりと押し付けられている。
ふたりの夜に、あけぼのが訪れた。
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