ライフ①


「モカちゃん、何読んでるの?」


 質問と同時に覗き込んできた友達は、あたしが視線を向けると目を真ん丸くさせていた。



 放課後の帰宅途中の電車の車内。



 今日は運よく座席に座れた雑然とした車内で、隣に座る友達が真ん丸くしていた目でゆっくりと二度瞬きをする。



 そして変な間を置いて「人体に興味があるの?」と続けて質問を口にしたから、あたしは「少し」と答えて読んでた人体図鑑を閉じた。



 閉じた時に生じた風に煽られたかのように友達は身を引き、元の姿勢に戻る。



 ただその目は未だにあたしが持ってる図鑑に向けられたまま。



 興味津々という感じのその態度から、どうやら我が友も人体に興味があるらしいと難なく悟った。



「モカちゃんその本、朝からずっと読んでたよね……?」


「うん。先生にはとっても申し訳ないけど、授業中も少しばかり読んでた」


「まさか図鑑だとは思わなかったよ。ブックカバーが付いてるから、何なのか分からなくて、てっきり小説の単行本でも読んでるのかと……」


「小説には余り興味がない」


「そうだよね。モカちゃん小説ってあんまり読まないもんね。うん。そっか。図鑑だったのか。……うん。そっか……」


「読み終わったら貸してあげるからね」


「え!?」


「もうちょっと待ってね。あと二日くらいで読み終わる」


「え……っと……」


「一応、あたしのお勧めのページに付箋しておくね」


「お、お勧め? 図鑑にお勧めってあるの……?」


「もちろんあるよ。で、そうやって好みを示す事によって、その個人の趣味嗜好が分かる。だからあたしは本の貸し借りは情報交換のひとつだと思ってる」


「……そっか」


「出来るだけ早く読み終わるようにするから――あっ、あたし降りなきゃ」


 ちょうど駅に着いた電車の座席から立ち上がり、「また明日」と告げるあたしを友達は見ていなかった。



 友達の視線は図鑑に釘付けで瞬きすらしない。



 どうやら我が友は相当に人体に興味があるらしく、この本が手元に来る事を待ち望んでいると難なく察する事が出来た。



 あたしが離れて――実際は凝視している本が遠ざかって――ようやく状況に気付いたらしい友達は、ハッと顔を上げて「またね」と手を振ってくる。



 そんな友達に手を振り返しながら電車を降りたあたしはホームに残り、友達を乗せた電車が発車するのを見送った。



 すっかり電車が見えなくなってから改札に向かい、駅を出て帰り道にあるスーパーに寄る。



 今日の夕飯は肉じゃがと魚にしようと既に決めていたから、スーパーでは然程さほど時間を掛けずに買い物を終え帰路に着いた。



 家に着いた時には既に五時を回っていて、急いでキッチンに向かい肉じゃがを作り始めた。



 肉じゃがは味がみ込むまで煮込みたいだけに、今日の献立は失敗だったかもしれない。



 いつもはもう少し帰宅する時間が早いけど、肉じゃがを作ろうと思ってた今日に限って、放課後友達たちと学校で談笑してしまった。



 あれさえなければこんなに慌てずに済んだのにと、思った直後にお母さんに圧力鍋を買ってもらおうと決めた。



 結局時間ギリギリまで煮込んで、微妙に納得出来ないながらも完成した肉じゃがの三分の一をタッパーに詰め込み、それを持って急いで家を出た。



 いつもより十分ほど遅い時間。



 全力疾走するあたしの両腕に抱えられてるタッパーの中で、肉じゃがの汁がタプタプと揺れる。



 汁を零さないように気を遣いながらも全力で走るあたしは、外階段を上がる時には息が切れていた。



 今にも崩れ落ちそうな外階段を駆け上がり、二階の一番手前の部屋の前で足を止めると、共用の外廊下に面してある、台所の小さな窓から明かりが漏れていて、部屋の主がいる事を示してる。



 あたしは大きく二度深呼吸をしてから気合いを入れるようにコホンと小さな咳ばらいをして、力いっぱい引っ張れば鍵が壊れて開いてしまいそうなドアをノックした。



 部屋の中から応対の声はない。



 でもこっちに向かって歩いてくる足音は聞こえる。



 ドアをノックしてから三十秒ほどが経ったくらいに「はい」という遅い返事と共にドアが開かれ、その向こうに愛しい人の姿が現われる。



 肩にタオルを掛けている愛しい人はお風呂上がりで、石鹸の匂いを漂わせてる。



 いつもの時間なら大抵スウェットに上半身裸のままなのに、今日はいつもより十分遅い所為で既にしっかり服に着替えている事が非常に残念。



 愛しい人は、濡れた黒髪から頬に落ちる滴を気にしてはいないようで、その滴を拭おうとしない。



 頬を伝い顎に流れていく一粒の滴が、あたしを妙な気分にさせる。



 あたしを見つめる黒い瞳に、その妙な気分は更に増す。



――アムアムしたい。



 猫や犬が遊んでる時にするように、アムアムって感じで甘噛みしたい衝動に駆られた。



 尺側手根伸筋しゃくそくしゅこんしんきんをアムアムしたいって気持ちでいっぱいになった。



 だからあたしはドアの前に突っ立ったまま、袖が肘まで上げられて曝け出されている愛しい人の尺側手根伸筋を眺め、衝動を抑えるのに必死だった。



 見てたらアムアムしたくなるって分かってるのに目が逸らせない。



 今にもしゃぶり付きそう。



 そんな矢先に、「何?」と掛けられた声は、あたしの衝動を完全に抑えてくれた。



 その低い声は耳に心地好く、頭の芯に響いてくる。



 腕から視線を上げると愛しい人と目が合い、途端にドキドキと胸が鳴る。



 自分で制御出来ない何かがあたしの中でモゾモゾと動き始める。



「も、元親君、もう、ご飯、食べた?」


「今、食ってた」


「じゃ、じゃあ、コレ、今日も、作りすぎたから、お裾分け」


 持ってきたタッパーを差し出すと、それは自然と受け取られた。



 受け取る時に一瞬だけ元親君の指先があたしの手に触れた。



 たったそれだけの事で、今日も持ってきて良かったと、心底思うあたしは幸せ者だと自分でも思う。



 元親君は受け取ったタッパーに目を向けて、「今日は肉じゃが」と小さく呟き、あたしに視線を戻す。



 そしてジッとあたしを見つめると、



「何でそんなに息が切れてる?」


 不思議そうな声を出した。



「走って、きた、から」


「どこから?」


「家、から」


「…………」


「全力、で」


「…………」


「だ、から」


「お前の家、隣だろ」


「うん」


「隣から走っただけで息切れ?」


「そう」


「…………」


「全力、だった、から」


「全力で走るほど距離ないだろ」


「ある」


 あたしの返事に元親君は「ふーん」と相槌を打って、スッと部屋の中に視線を向けた。



 だからあたしは「じゃあ、お邪魔します」と、いつものようにボロアパートの一室に足を踏み入れた。



「なあ、前から不思議に思う事があるんだが」


 あたしが靴を脱ぐ為に狭い玄関からほんの少し中に入った元親君は、



「お裾分けとお前が俺の部屋に入る事は絶対にセットなのか?」


 今更ながらの事を口にする。



 どうして今更そんな事を言い出すのかと思ったけど、疲れてる人間はおかしな事を口走ったりするものだから敢えて突っ込むのはやめた。



「タッパー持って帰らなきゃいけないから」


「でも明日も来るんだろ?」


「うん。作りすぎたら」


「なら、明日来た時にこのタッパーを持って帰ればいいと思うのは俺だけか?」


「うん。元親君だけだと思う」


「…………」


「元親君、庭師の仕事忙しいの?」


「別に普通」


「とっても疲れてるっぽいよ」


「…………」


「今日は早く寝た方がいいね」


 話ながら入った部屋は、そこまで言うともう窓際まで着いていた。



 通りすぎた部屋の中央の床にはコンビニのお弁当が置いてある。



 既に蓋が開けられてるお弁当は、卵焼きがひと口かじられてて、その上に使用中の割り箸が置いてあるから、持って帰りたい衝動に駆られた。



 卵焼きと割り箸。



 両方欲しい。



 今にもそれに手を伸ばしてしまいそうになったあたしは、どうにかその気持ちを抑え込んで窓際に腰を下ろし、



「緑茶でいい」


 まだ玄関先にいてこっちを眺めてる元親君にそう告げて、居住まいを正した。



 そんなあたしの背後には、あたしの家がある。



 窓に背を向けて座ったから、背中に「家」の気配を感じる。



 本来なら、「家」というものに用いるのは、この場合「存在」という言葉なのかもしれないけど、このボロアパートの一室に対してのあたしの家は、「気配」という言葉の方がしっくり来る気がする。



 一日に二度。



 朝と夜、この部屋を眺める場所となってるあたしの家は、「気配」を放ってるような気がする。



「麦茶しかねえ」


 言葉と同時に目の前に腰を下ろした元親君が、マグカップを差し出してくる。



 ただ目の前と言っても元親君が向き合ってるのはお弁当で、あたしに対しては横を向いてる。



 そして距離的にも人がひとり入れるくらいはある。



 だからこの部屋が二帖くらいしかなかったらいいのにと思う。



「麦茶で我慢する」


 気遣いの言葉を口にしてマグカップを受け取ると、元親君は「そりゃどうも」と、あたしの気遣いにお礼を言ってお弁当を食べ始める。



 あたしは温かい訳でもないのにマグカップに入ってる麦茶を持ち、それをひと口飲んでから、



「元親君。今度、一緒にコップを買いに行こうよ」


 ナイスな提案をする。



 この部屋にはガラスのコップがないから、それがいいと思う。



 けど。



「…………」


 元親君はこの手の言葉を無視する傾向にある。



 最初の方こそ聞こえてないのかと思ったけど、どうやら意図的なものらしい。



 元親君がそうする理由を、さといあたしは悟ってる。



 わざわざ本人の口から聞かなくても悟る事が出来る。



 今も尚、ご近所から「犯罪者」というフィルタ越しに見られ、敬遠されている元親君は、あたしを気遣い、一緒にいたらあたしまでそんな目で見られるようになる事を懸念してる。



 だからこそ。



「元親君の事好きだから、一緒に出掛けたいと思ってる」


「…………」


 何度となく繰り返す愛の告白も無視される。



 そして時には、



「好き」


「…………」


「好きィ」


「…………」


「好――」


「静かに出来ないなら帰れ」


 少々邪険に扱われる。



 もう何回目かも分からないほどしてる告白はまた流された。



 事情が事情だから全く気にしてないけど。

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