極短小説 きみにだけありがとう

宝力黎

 きみにだけありがとう

 酷い一日だった。朝は最高に混む時間に電車が止まってしまった。復旧に一時間かかります――とだけ告げたアナウンスが、その後は一切無かった。それを我々勤め人の上司に告げたところで《だからどうした》でしかない。

 意外なほど文句を言う者がいない。慣れなのか、諦めなのか、ふと牧場の羊を思い出した。柵で遮られた外には行けないが、足下に草さえあれば文句など無い。ああ自分は羊だなどと馬鹿なことをつぶやきながら駅を出た。案の定タクシー待ちは何処かの人気ラーメン店並みに人の列を成している。自分の番が来る頃には昼食時間が来ているように思え、バス停に向かった。

 乗務員不足の為――というのはニュースでも耳にしていた。路線バスは便数が減り、時刻表には悲劇的な数がポツンポツンと書かれていた。

「歩いたら一時間は掛かるな……」

 そう言いながら足は既に歩き出していた。見れば周囲にも、同じ決断の元で歩くのだろう、悲しげなサラリーマンたちが歯を食いしばり、半泣きで歩いている。

 それでもなんとか会社近くまで辿り着くことが出来た。

「買っていこう……」

 社屋傍のコンビニで昼食を買うことにした。用意さえしておけば自席で昼を摂れる。遅れた分働く意思はあるんですと見せなければならない。上司は思うことがあっても特段表情に出さないだろう。口では「仕方ないよなあ」と言うだろう。だが心では違う。人とはそういう生き物だ。

 頭を下げて席に着き、仕事を始めるとすぐにクレームの電話が入った。どう考えてもこちらに落ち度のない案件だが、電話を握って頭を下げた。ようやく解放してもらうと、今度は取引先工場から《火急対応願います》のメールが届いた。納入されている工作機械が不具合だという。電話に切り替えて訊ねると、どうやら不慣れな新入社員の《やらかし》だと判った。それでも相手は言った。

「迅速な対応込みで使わせてもらってますしね」

 すぐに社員を向かわせますと答えて電話を切った。「早くしてよ」と言って電話を切った相手の女性社員は舌打ちもしていた。

 なんとか夕方になり、あと小一時間ほどで退社出来ると思っていたら同僚社員が言ってきた。

「かみさんがちょっとアレでさ、悪いんだけど積み残し、たのめる?いや、ちゃんと埋め合わせはさ、こんどさ、できたらさ、ね?だから」

 返事をするより早く踵を返して去って行った。金曜の残業は避けたい。それは誰も同じだ。誰かに押しつければ楽が出来る――そう考えるのも誰も同じだ。だが、するとしないの違いは大きい。

 やっと仕事を終えて社屋を出ると雨だった。ゲリラ豪雨だ。予報では言ってない奴だ。そして傘は無い。雨に当たらず歩ける駅までのルートは無い。

「ついでに石けんとシャンプーがあればな」

 自虐で呟いたが、笑う気にもなれない。

 それでもどうにか自宅の最寄り駅に降り立つことが出来た。ずぶ濡れでワイシャツは透け、見られたくもないし誰も見たいなどと思っているはずも無い、見ても誰も得をしない乳首が見えている。悲しくなり、胸にバッグを抱きしめた。道路は乾いている。どうやらゲリラ豪雨は本当に狭い範囲のものだったらしい。

 ぺったりと張り付いた髪だ。自分でもカッパかよと思う。濡れ鼠の俺を通行人が見ている。すれ違う女子高校生二人がクスクス笑うのも判った。笑っていいよ。そりゃあおかしいよな。俺だってこんな奴を見たら笑うさ。そう思い、苦笑し、泣きそうになる。

 マンションに戻ると食うものは無い。疲れ果てて食いに出る気にもなれない。そういうときのコンビニだ。俺はよく使う近所のコンビニに入った。

 弁当と飲み物の他に動画を観るとき手元に欲しいお菓子を数点カゴに入れてレジに向かった。店員の女性はテキパキとこなしてくれた。

 カネを払い、袋を手にしたとき、その店員は言った。

「風邪引かないでくださいね」

 驚いて顔を上げた。

「あ、よくお店に来てくれますよね」

 おかしな中年ならばここでおかしな勘違い劣情を抱きそうなものだが、俺は違う。そんなものよりも豊かな、温かな気持ちを感じた。一瞬どう応えるか迷ったが、微笑んでみることにした。

「ありがとう」

 そう言って店を出た。店を離れていくとき、一度振り返った。あの子は豊かな気持ちを持っているのだろうな。そう思えた。温かなものが欲しいならば、自分がまず人にそうであるべきだと思えた。呟いたのは「ありがとう」の一言だった。顔を上げ、もう一度言ってみた。

「きみにだけ、ありがとう」

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