20. 決戦

赤い満月の夜だった。何か不吉な事が起こると昔誰かが言っていた。リアの城は先日のパーティーの賑わいが嘘だったように、不気味なほど静まり返っていた。広い玄関ホール、天井からぶら下がるシャンデリア、ベルベットの赤い絨毯が敷かれた階段。俺とエリックさんとビルの3人で正面から入る。



「そっか、ラディーの死に様を見届けに来たんだ」



リアが白いブラウス姿で、その天使のような微笑みを浮かべながら俺たちの前に現れた。その横を見て俺は目を見開いた。



「エヴァ!」



ビルが眉間に皺を寄せてそう一歩踏み出すと、リアはとても面倒くさそうにエヴァの首根っこを掴み、ビルの方に放り投げた。何発殴られたのだろう、抵抗は一切しなかったのだろうか。顔は腫れ上がり、服は血で汚れ、息も絶え絶えだった。



「よくまぁ僕のところに戻って来られたものだよね。殺そうかとも思ったんだけど、だったらラディーの首を取る瞬間を見せてやろうかと思って。一応生かしておいた」



虫唾が走る。エリックさんは奥歯を噛み締めるが、俺も含め、ゴッドに勝てる算段がつかない。拳だけを握り無力を噛み締めるだけだった。



「ところで、僕を呼び出しておいたラディーはどこなの?」



「………もうすぐ現れるだろ。お前の首を取る為にな」



ビルは放り投げられたエヴァの体を支える。



「あ、そう? 一緒じゃないんだ?」



挑発するような、愚かだと笑うようなリアの言葉は俺に向けられている。もう俺とラドは、人生を共にする事はないのだと。だから言っただろ、と、愛してるのは僕だけだ、と言っているのだろう。でもお前のそれは愛なんかじゃない。リアの瞳は俺をじっと見ていて離れなかった。けれど俺ももう覚悟の上。リアから目を離さなかった。リアはそれが気に食わなかった。ラドを殺す為の長刀を抜くと、嫌な笑みを浮かべたのが見えた。瞬間、リアが目の前にいた。その長刀は勢いよく振り翳され、避けきれないと目を閉じる。



「……っと危ない。今、シンを殺されると困るんだ。だからお前の相手は俺が受け立とう」



「ラディー」



ラドのハイキックはその長刀を吹き飛ばし、リアの手の骨を砕いた。リアはラドを睨みつけると、地面を蹴り上げ、ラドの頬を狙って殴りかかる。リアにとって骨折なんてあってないようなものだった。振りかぶった拳を上手く避けたが、そこに小さな隙が生まれた。リアは体勢を直すと、回し蹴りを食らわせ、それは見事にラドの脇腹に入った。ラドはぐっと顔を顰めるが、痛みに呻いている場合ではなかった。畳み掛けるようにもう一発、拳がその顎を狙って横から飛んでくる。ラドは咄嗟にガードをするが、その威力に体ごと吹っ飛び、近くの壁に背中を打ちつける。立ち上がると同時に、額から血が流れ、リアはふっと鼻で笑った。



「ラディー、分かってるよね? 僕達は互いに不老不死。僕を殺す事は不可能だ。でも君の場合は誰も愛していなければ、の話。なぁ、グラムスはどこ?」



「さぁな、…教えるかよ」



ペッと血を吐くと、今度はラドが仕掛けた。リアの頬を殴ろうと脇を締め、体を割り込ませてストレートを食らわせる。が、リアはただ少し体勢を崩しただけだった。しかしそれでもラドにとっては十分な隙だった。ナイフをベルトから抜き、逆手に持つと、その首を狙った。仕留めに行ったのだ。だがリアはそれを躱して、「危ないなぁ」と呑気に呟くだけ。リアは首をパキッと鳴らすと、その息の根を止めようとナイフを取り出す。睨み合い、ナイフを構える。



「長い年月でこうして真っ向からぶつかったのはいつぶりだろうな? けどいい加減、決着をつけようか」



地面を蹴り、ナイフを構えて互いに首を狙っていた。リアの刃先はラドの頬に一筋の傷を作った。ラドの振り下ろしたナイフはガードしたリアの腕を深く切りつけ、血が溢れ出ていた。だがすぐに体勢を変えたリアは、ラドが少し油断していたのを見切っていた。鋭いナイフの刃は脇腹を数回刺す。ラドは血を吐き出し、床に血溜まりができた。



「可哀想に。血が足りなくなったら、戦えなくなるだろ? もっと楽しませてよ。僕の血をあげるから、まだ気を失わないでよ」



リアはそうラドの耳元で囁いた。



「誰が………テメェの血なんざ、反吐が出る」



ラドはそう吐き捨てながらもゆるりと口角を上げた。ぐっと自ら体をリアに近付け、ナイフを深く刺し込んだ。眉間に皺を寄せて痛みに震えるが、そのせいでリアはラドに手首を掴まれ、動きを制御される。



「なぁ、神様、…ちょっと暴れすぎた、だろ? 死ぬのはお前だ、リアルロント・ウェルバ」



そのラドの言葉に、リアの表情がガラリと変わる。目を充血させ、ラドに食ってかかろうとした時だった。ラドはリアの唇に唇を寄せた。噛み付くようなそれはキスと呼ぶにはあまりにも乱暴で、攻撃的だった。ラドが唇を離すと、リアの喉仏はごくりと何かを飲み込み上下する。



「何を飲ませたの」



「さぁ? …なんだろうな」



ラドは鼻で笑うと、脇腹に刺さっていたナイフを勢い良く抜いた。ぼたぼたと大量の血が溢れ出る。血で濡れた手で乱れた髪を後ろに撫で付けてリアを見下ろす。リアは唇を拭い、「まぁ、何でもいいけど…」そう拳を作ろうとして、違和感を覚えたらしい。リアの体に力が入っていない。リアは動揺し、そして何かを理解したのだろう。鬼の形相だった。苛立ち、憤怒して叫んだ。



「クラウド、貴様……!」



体を震わせリアはその場に倒れ込んだ。リアは体を仰け反らせ、ジタバタと痙攣しているのだ。俺には一体何が起きたか分からなかった。ラドの方が劣勢に見えていたのに、ラドがリアに何かを飲ませた瞬間だった。



「お前に飲ませたのは血清だ。あんたを殺す最後の手段。体が痺れ、動けなくなる」



「…け、血清だと? ふざ……ふざけるな! 僕の、ぼ、僕の血が、…貴様の手に…あ、あるはずないだろ!」



「まだ分からないのか。あんたが飼い犬だと思っていた犬は犬なんかじゃなかった、それだけだ」



リアはその言葉を聞くとギッときつく、ビルに支えられるエヴァを睨んだ。エヴァは腫れ上がった目で、じっとエヴァを見つめる。



「…エヴァか、エヴァが…う、裏切ったんだ。そ、そうだね? そう…なんだね? エヴァがいなきゃ、僕の血清は作れないよね? …エヴァ! お前が…っ」



リアはひたすら悔しさに叫び、エヴァの名前を叫ぶ。エヴァの顔に笑みはなかった。苦しそうに、悔しそうに、悲しそうに顔を歪めている。エヴァはラドを殺す為に生きていると言っていた。最後の最後にリアを裏切ったようだが、それは、本当に裏切ったのだろうか…。



「これでお別れだ」



ラドはナイフの切っ先をリアの喉に突きつけた。リアはまったく動けず、赤い瞳でラドを映し、最期の呼吸はいつだろうかと考えているだろう。ラドがナイフを振り上げ、リアにトドメを刺そうとしたらその瞬間だった。



「やめてくれ!」



悲鳴に近い声と共に、エヴァがラドを弾き飛ばした。その顔は涙と血でぐちゃぐちゃだった。



「僕は、僕は…やっぱりできない!自分の生み出した子を、殺すだなんて間違ってる!」



エヴァはリアを抱き寄せ、ラドに懇願した。



「もう良いだろ、頼む、もう…」



「エヴァ、お前…」



ラドは怪訝な顔をして立ち上がった。



「やっぱり僕は、彼の側にいたい! 間違ってる、そうかもしれない、けど、僕は彼を見捨てる事が出来ません…」



「こいつは、お前を簡単に殺すぞ。それだけ怪我を負わされたんだ、分かってんだろ」



「それでも…僕はリアを見捨てる事ができません」



「だが…」



その時、外でバタバタバタとヘリコプターが旋回している騒がしい音が聞こえた。その音と共に城の中が明るく照らされる。



「…人間だぞ。どういう事だ。誰だ、ここを教えたのは」



隣でビルが舌打ちをして、窓の外を見る。そこにはハンター達が利用していたヘリコプターが飛んでいる。ラドを殺すつもりなのか? それとも、この戦いを見届けにきたのか。彼らからしたら仲間を殺された復讐の為、なのか。ラドは一瞬、その音に気を取られ、その隙をエヴァは見逃さなかった。エヴァはナイフをラドの喉に突きつけ、睨みつけた。



「…殺させません」



「エヴァ…」



「殺したという事にして下さい。もうどうせ、このまま放っておいても、リアは助からない。だったらもう良いでしょう」



「確証はないだろ。お前がゴッドをそう簡単に裏切るとは思えない。お前がこいつを殺す血清を作った確証はどこにもない、もしかしたら、少し配合を変えて似たものを作ったかもしれないだろ? 俺はこいつを殺さなきゃならないんだ」



「BLACK、…あの本にヒントがあった、そうですね。なら僕の配合は間違いはないと分かっているはずです」



そうか、だからラドはBLACKを手に入れたかったのか。その血清が正しいかどうか見極める為に。リアはもうぴくりとも動かない。本当にこんなに簡単に死んでしまうのか。あのリアが、こんな簡単に…。



「エヴァ、」



「なんですか」



「今、何時だ?」



「は?」



「…グラムス、今何時?」



その時、どこにいたのかコウモリがふらりとラドのすぐ後ろで姿を変えた。グラムスは懐中時計を懐から取り出し、「3時まで、あと、5分」



「あと5分か。時間がないな」



ラドは眉間に皺を寄せた。何があるというのだろうか。そう考えていた俺の視線はばちりとラドに合わさってしまう。ラドは俺を見つめたまま、低い声で一言だけ吐いた。



「逃げろ」



「ど、どういう事だよ…」



いつだって、こいつは勝手だ。それは今に始まった事じゃないが逃げろとだけ言って何も教えてはくれない。



「…クラウド、もう2分だ。俺は消えるぞ」



「あぁ、ありがとう。あとは宜しく頼んだぞ」



ラドがそう微笑むと、グラムスはコウモリへと姿を変えて城を出て行った。



「エヴァ、お前も…」



ラドが言っている途中でドンッと爆発音が地響きのような轟音と共に、足元がぐらっと大きく揺れる。



「この城を、丸ごと爆発させる気だ…」



ビルは一歩後退り、エリックさんは俺の腕を掴んだ。俺は行けないと、エリックさんに訴えるために振り向くと、ドンッと再び爆発音ともに足元が揺れる。今度の爆発は前のより大きく、天井の一部が崩れ落ちてくる。



「…シン!」



そうエリックさんに腕を引っ張られ尻餅をつく。今、数秒前まで自分がいたその場所に天井の一部の塊が落ちていた。ここは危険だ、一刻も早く逃げるべきだ。分かってるのに、俺はラドのその手を取りたかった。またドンッと爆発。今度は建物自体が大きく揺れて、シャンデリアが落ちる。



「…危ない!」



エヴァは再びリアのもとへ駆け寄り、倒れて来た大理石の柱は俺たちとエヴァの間に大きな溝を作った。建物はグラグラと不安定にぐらつき崩壊寸前だった。その光景にラドはふっと鼻で笑うと、その場に立ち上がり、俺を見つめた。



「ここはもう危険だ。作戦変更、俺の代わりにエヴァが死んでくれるそうだから、君たちは人間にエヴァの灰とゴッドの灰を持って、それをゴッドとクラウドのだと言ってくれ。頼んだぞ」 



こいつ、今て言いやがった?



「ラド、…お前、」



「俺を死んだ事にしてくれないと、面倒だからさ。だからあとは頼んだぞ、シン。君の言う事なら人間共も聞くだろうからさ」



俺は、怒りを隠しきれなかった。こいつは、もう、俺の知ってるクラウドじゃない。俺が愛したあいつじゃない。こんなやつ、俺は、知らない。こんな非情な男のせいで世界は滅茶苦茶になった。そうだ…。こいつはもともと残虐極まりない悪魔だった。止めなければ。こいつを、一刻も早く止めなければ。



「クラウド!」



「じゃぁな、シン」



ラドはひゅっと姿をコウモリへと変え、割れた窓から外へと出て行った。その間にもこの城は崩れ落ちそうで、俺はリアを抱き締めるエヴァを横目に、ラドの後ろ姿を見ていた。



「エヴァ! こっちへ来い!」



叫ぶビルの声、崩れる天井、揺れる足元。



「僕はもう放っておいて下さい。これで、いいんです。これで…。リアと共に死ぬのは本望です」



「クラウドはまだ死んでない。良いのか、あんたはその為に生きてるって俺に言ったろ!」



俺はエヴァに手を伸ばした。柱が作った溝はゆっくりと亀裂を作り、今にも足元が崩れそうだ。エヴァは優しく笑うと、一筋の涙を流した。



「あなたはBLACK LOVERを持っています。だから大丈夫。僕の願いは叶う。……だから、ここでさようならだ」



エヴァの笑顔が脳裏にこびりつく。いやだ、目の前にいるのに、なぜ、……なぜ、助けられない。



「…ったく、ここはもう保たねぇぞ」



「シン、外へ出ましょう! こっちへ」



エリックさんは俺の腕を掴むと強引に外へと引き摺るように出した瞬間だった、城の至るところで爆発音を響かせ、城は跡形もなく崩れて行く。空にはヘリコプターが大きな音を鳴らしてまだ旋回していた。光がこちらを照らす。俺はラドの姿を探し、空を見上げる。漆黒の闇のような深い空と、大きな赤く丸い月。1匹のコウモリが森の奥へと羽ばたいていくのが見えた。まるで俺を道案内しているようだった。俺はそのコウモリに釣られるようにその後を追う。深い深い森の奥。遠くでヘリコプターの音が微かに聞こえる森の端は、小高い丘になっていて月がやけに近くに感じた。



「やぁ、シン」



目の前でラドはコウモリからいつもの姿へ変えた。甘い顔で微笑み、俺は問答無用でBLACK LOCER を構えた。



「…挨拶もなし?」



こいつはもう、俺の知ってるクラウドじゃない。なぜ、こうなった…。全部、全部、グラムスのせいだよな? お前、洗脳されてんだって言って、それは簡単に解ける事なのか。



「ハンターを殺したってのは本当なのか?」



俺がそう聞くと、ラドはにやりと笑みを浮かべて「あぁ」と頷いた。



「君の居場所を奪う事になったけど、仕方ない事なんだ。理解してくれ」



「ハンターが邪魔だから? バンパイアを生き残らせる為に? なぁ、ラド。前のお前に戻ってくれよ。お前はグラムスに洗脳されてるだけなんだよ!」



「洗脳? ふ、ふふ……俺に洗脳は通用しないよ。俺が自分の理想の為にハンターを殺したまでだ」



「それを、本気で、…本気で言ってんのか」



悔しかった。なぜ、こうなってしまったのか。苛立ちに手が震えた。



「本気だよ。俺は間違ってた。君と一緒に過ごした時間は楽しかったが、どこかで違うと感じていたんだ。だからグラムスと再会して気付かされた。あぁ、この世界は間違えているのだと。なぜ、俺達バンパイアが力のない人間共に命を握られなければならない? おかしいだろ。だから理想の為にまずはハンターを殺した。この手で、ひとり、ひとり」



「………ふざけんな、…ふざけんな!」



俺の声は不甲斐なさと強い怒りで震え、ラドを睨みつける。銃の安全装置を外し、狙いを定める。だが、手の震えで標準が合わない。



「皆殺し。楯つく者は皆殺しさ。…そう、怖い顔すんなよ」



俺はついに耐えきれなくなった。震える手で一発。もちろん当たらない。やはり心臓をぶち抜くのは容易ではない。



「バンパイアハンターってのも、俺から見ればただの人間。一捻りで死んでしまう。…君も同じだ、シン」



瞬間、隙をつかれて脇腹を蹴られ、俺はその強い衝撃に膝をついて苦しさに咳き込んだ。ただでさえ貧血だというのに、ラドの攻撃をもろに食らって、目の前がぐらぐらと歪んでいく。脇腹を押さえ、痛みに顔を顰めながらラドを見上げた。ラドはどこか困ったように笑っていたが少し乱れた髪を後ろに撫で付けると、にやりと口角を上げる。


こいつを止めないと。俺がこいつを止めないと。俺は呼吸を整えて銃を構えた。エヴァが俺に託したこの銃には何か効果があるはずで、だから俺は、撃たなければならない。弾はある。一発でも撃ち込めば、こいつの足を止める事くらいはできるはずだ。



「良い度胸だな」



「お前を殺せない事くらい分かってる…でも、俺は、お前に目を醒ましてほしいんだよ」



「目を醒ます、ね。へぇ、そう」



ラドは俺と距離を詰めると撃てないくせにと揶揄うように、煽るように俺を見下ろす。胸元が肌蹴たシャツから、首筋が見える。喉の渇きは一気に増し、ごくりと生唾を飲み込んだ。集中しろ。これだけ近い距離だ。撃つなら今だ。喉の渇きに理性を忘れそうになるが、今は、ラドを追い詰めなければならない。でもこいつの血は…。俺は渇きを忘れようとした。威嚇のように一発撃ち込む。もちろん、銃は空を撃っただけ。その拍子に、腕が後ろから俺の首へと巻きついた。ぐっとラドの方へ体を寄せられ、ぴったりと体が密着する。



「そう、焦るなよ」



俺はその腕から解かれようと、瞬時にベルトに挟んでいたナイフを取り出し、後ろに突き刺した。サクッと肉を切り裂き、隙ができた瞬間に俺はラドとまた向かい合う。案の定、ラドの腰に一筋の傷をつけることができた。真っ赤な血はゆるりと流れ、ラドはその傷を抑えながら俺を目を見据える。けれどそれが良くなかった。



「もし俺を殺せば俺の血は一生飲めなくなり、君も死ぬことになる。良いのか?」



君は撃てない、そう顔に書いてあった。どうせ死なないのだろうと、俺はラドを睨みつけた。



「…変わってしまったお前はリアと同じだ。だから俺は撃てる。お前は撃たないと鷹を括ってるのかもしれないが、俺はお前を撃つよ」



「そうか。なら最後に食わなきゃな」



くくっと喉で笑うと、ラドは血で濡れた手をその白い首筋へ寄せ、ぬらぬらと血で濡らした。あの日と同じだ。俺がこいつの血を初めて口にして依存関係になってしまったあの日と同じ。ラドは楽しそうに目を細め、薄い唇の口角を少し上げて俺を誘った。ふぅーっと息を吐き、ラドの真っ黒で妖艶な瞳を見た。耐えろ。耐えろ。耐えろ。こいつは俺は知ってるラドじゃない。



「離れろ。…この銃はエヴァに託された。撃ち込めばお前の体でも何か作用するだろうよ」



「なら、狙うのは心臓だ」



ラドはそう言って、片眉を上げてにやりと笑う。手を伸ばし俺の襟を掴み、自分の方へと引き寄せた。ラドの背中はトンッと大木に当たる。自ら逃げ場をなくすようだった。怪訝な顔をした俺を見下ろすと、そのまま柔らかく笑う。ラドの影に飲まれ、甘い香りを嗅いだ。



「……ん…っ、」



舌が重なり合う。唇を甘噛みし、また口内を弄り、口蓋を舌で撫で、互いの唾液を混ぜては飲み下す。あまりにも近くでラドの甘い血の匂いを嗅ぎ、頭がぼうっと思考が鈍った。俺は銃口をラドの心臓に押し付け、呼吸を整えた。



「…そんなに、吸血を我慢することないだろ?」



ラドはそう言って眉を顰める。俺は引き金に指をかけ、必死に冷静になろうと呼吸を整える。



「最後くらい食え。お前に死なれちゃ困るから」



ラドのその表情はとても切なくて、大怪我を隠して俺に笑っている時のような、弱々しい笑顔だった。どうして今、そんな顔をするんだ。どうして、そんな言葉をかけるんだ。手がまた小さく震えだした。ラドに一発撃ち込む事に対する恐怖からか、血に飢えた挙句の渇きからか、銃を握る手の震えは止まらなかった。



「またも据え膳だな」



ラドはそう言うと自分の手首に噛み付き、かなり深くまで血管を切った。血が溢れ、それに唇を寄せると口に含めて俺の腰に手を回すと強く抱いた。顔を背ける事も出来たのに、もう抗えなかった。欲しかった。俺はこいつが欲しかった。



「……ふ、っ…ん、」



甘く漏れる嬌声を聞きながら、口内を犯すように移された甘い血で喉を潤す。そのまま首筋へと噛みつき、腹を満たす。ラドの短く吐かれる吐息を聞く。あぁ、やっぱりダメだ。どうしたって、殺せない。こうなってしまうから吸血なんかしたくなかったのに。こいつを止められるのは俺だけなのに。こいつは俺の居場所を奪ったのに。ハンター達を殺したのに。こうして心臓に標準を合わせてるのに、引き金を引けない…。



「シン、一滴残さず全部飲んでくれ」



髪を撫でられ、ふと違和感を覚えて唇を離す。



「…全てを食い、俺という存在を消してくれ」



そんな言葉はまるで自分が死を望んでるようじゃないか。お前は、他人を犠牲にしてまで生きたいんじゃないのかよ。エヴァとリアの灰を持って自分は死んだ事にって言ったのはお前だろう。



「ラド、お前、…やっぱり何か隠して…」



ラドは俺の目を見つめると、また弱い笑みを浮かべた。



「もう、逃げられないな」



その言葉にざわっと鳥肌が立った。心臓がバクバクと騒がしい。あぁ、そういう事だったんだと、俺は全てを理解してしまった。ラドは銃口を突きつける俺の手に自分の手を重ね、共に引き金に指をかけている。


こいつは、わざと、俺に殺されるように仕向けたんだ。ずっとずっと、こうするつもりだったんだ。こいつが人間もバンパイアもヘルも共に生きる世の中を唱った時から、ハンターに手紙を送りつけたあの日から、こいつの計画は全て始まっていたんだ。俺を突き放したのも、グラムスをわざと迎え入れたのも、俺をリアの元へ送ったのも、ハンター達を殺したのも、全てはこのためだ。俺が俺の意思で銃を握り、銃口をこいつの胸に突きつけるために、こいつは、俺を突き放したんだ。


そんなのありかよ。勘弁してくれよ。なぁ、ラド。俺は嫌だよ。嫌だ…



「やめてくれ、ラド………。手を、手を離してくれ」



手が震える。声も震える。こいつは俺が殺せない事を分かっていた。だから殺されるよう、入念に、計画を実行した。



「ラド、頼むから…」



身動きが取れなかった。ラドが指一本にほんの少し力を加えるだけで銃は撃たれてしまうのだから。俺は怖かった。愛する人を俺は自ら殺そうとしているのだから、今にも吐き出しそうなくらいの恐怖だった。どうしてこうなるんだ。俺はただ、お前と共に生きたかっただけなのに。どうして、それができないんだ。どうして、俺がお前の息の根を止めなければならないんだ。どうして…。そう苦しさに息が出来ない。振り絞って言葉を紡いで、ようやく溢れる言葉は頼むと懇願するしか出来ない。ラドの表情は腹が立つほど穏やかで、俺は唇を噛み締めた。もう分かっていた。こいつには何を言ってももう無駄なのだと。



「シン、君に出会えたのは俺にとって想定外だったし、幸せだった。良い人生だった」



「や、やめてくれ、そんなこと、…頼むよ、思い直してくれよ。俺はただ、お前と共に…」



「この世はうんと平和になる」



バンパイアの王が、夜の悪魔が、なぜそんなに平和を望むんだよ、



「ずっと、君を愛してるよ」



甘い言葉は儚く宙を舞った。そして食むように甘く唇を重ね、否応無しに引き金は引かれた。パンっと骨に響く音が静かな森の外れに響き渡る。


俺はまた、ひとりになった。



「ラド…」



ラドの真っ黒なバラの花びらが宙を舞い、衣服だけが地面に落ちて残った。悔しさも苦しさももう、どこかへ消えていくようだった。ラドと共に感情が消えていくようだった。上空ではヘリコプターが飛びまわり、朝日がてらてらと昇り始めている。俺はラドのバラを抱き締め、その場に埋もれた。ヘリコプターはどこかへと消え、静かな朝を俺は迎えた。俺がバンパイアならこの陽によって灰となって消えてしまうのに。そうなりたい。それでいい。ラドのいないこの世界ならいる意味などない。このままラドのバラに埋もれて死んでしまいたい。


なぁ、ラド。お前、本当はどこかで生きてんだろ? ネズミへと姿を変えて、また、俺の前に現れてくれんだろ?



「シーン! おい! 大丈夫かー!」



その時、遠くから聞き覚えのある声がした。何人か、複数の人がこちらへ走ってくる。けれど俺は体を起こすことも返事を返すこともできなかった。もう、何もかもが限界だった。



「おい、シン! しっかりしろ!」



リクは顔を顰めて俺を抱き寄せた。俺の居場所はなくなってはなかった。ラドは俺を追い込み、殺意を引き出しただけだ。考えれば分かる事だったのかもしれない。ニュースやラジオじゃぁ、ハンターが殺された事なんて一切報道されてなかったじゃないか。



「すべてはしっかりと見届けさせてもらいました」



司令官が部下を引き連れてぞろぞろと俺の前に現れた。この人の元に、ラドは手紙を送りつけ、悪を滅ぼすと宣言した。その日からだろう。あいつがこの世界を変えようと動き出した。天使になりたかった悪魔は所詮悪魔だと言うのに。リアを始末して、自分も殺される。悪魔は悪魔らしく生きろよ。


お前がどうして平和なんか望むんだよ。



「私はあなたを心から尊敬します。きっと、この世界はクラウドが望んだように平等になる。だから、シン、生きて。生きて下さい。クラウドが望んだ世界をその目で見て下さい」



この世界で俺はどう生きるべきなのだろうか。


なぁ、ラド。俺は早く、お前の所に行きたいよ。

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