19. 裏切り
事が終わる頃には俺もラドも汗だくだった。互いに肩で呼吸をしながら、心地の良い疲労に頭も体も支配される。抱き合って眠り、起きて一緒に風呂に入り、他愛もない会話をしては笑い合う。早くリアの呪縛から逃れて、ふたりで毎日こんな風に過ごしたい。そうできればどれほど幸せか。そして俺はそれができると思っていた。だって、ラドが楽しそうに笑うのだから。
「お邪魔だった?」
誰かがそう部屋に入って来た時、ラドは半裸だった。体中に噛み跡を残し、俺は紅茶を淹れていた。
「……何のようだ」
ラドは面倒そうに眉間に皺を寄せると、その男はラドの首に手を掛け、力任せにその場に押し倒す。ラドが呆気なく倒された事に驚いたが、更に耳を疑った。ラドはその見知らぬ男を見上げながら、「ゴッド、やめろ」と苦しそうに吐き出したのだから。どういう事か分からない。部屋に入って来た男は見た事のない男で、真っ黒な髪はラドと同じように軽く後に撫で付けていて、ラドを押し倒した事ではらりと前髪が頬に落ちていた。瞳は薄い茶色で、バンパイアになった時の年齢はラドより大分上だろう。体格の良いその男を俺は咄嗟に引き離そうと駆け寄るが、男の力があまりに強い。ラドが苦しそうに足をばたつかせると、そんな男はふっと両手を解いた。そして隙をついて軽く唇にキスを落としたのだ。
「甘いキスを受けた感想は? クラウド」
ラドはどういう事かと眉間に皺を寄せ、しばらく固まった後で理解したらしい。
「………お前、」
そして信じられないと目を大きく見開く。
「グラムス……なぜ…」
その聞いた事のある名前に俺は思考を巡らせる。いつ、どこで聞いた事があったのだろう。
「幻影に騙されるとはお前らしくないな」
「……体力が戻ってないだけだ」
「ほーう、そうか。お前を食いたい者は数多くいるだろうからな。で、本題はここから」
「何だよ」
「招待状だ。俺とお前、ウィルソン、ゴッド、今夜はこの4人で語ろうじゃないか」
グラムス、その名前をどこで…。
「誰が行くかよ」
「お前に拒否権はないだろう」
「……急に何々だよ…。お前、なんで生きてんの」
そうだ、グラムス。前に言っていたラドが初めてバンパイアにした男。死んだと、言っていたはずだが。
「さぁ、なぜだろうな」
グラムスはふっと笑うとラドの上から退き、ラドに手を差し出す。ラドは眉間に皺を寄せながらその手を握ると、グラムスに引っ張られながら立ち上がった。
「なら、今までどこで何してたんだよ」
ラドはそうグラムスに問う。
「お前に教える義理はないだろう? そんな事より、今夜だ。ゴッドの部屋に来いよ。絶対だ」
グラムスはそう言うとラドの額にキスを落として部屋を出て行った。嵐のような男だった。呆気に取られてしまうが、今のいけ好かない男について聞かなければと口を開く。
「ラド、今のって…」
「グラムス・ベック、前に話した事があったろう。あれがそのグラムス。俺がバンパイアにした初めての直属だ」
やはりそうかと、俺は口を歪める。突然来てラドを押し倒すとは、とんだ挨拶だ。腹が立つ。
「面倒な事にはなったが、チャンスではある。ゴッドの部屋に必ず鍵はあるから、部屋に入る良い理由になるだろう」
「そうだな、分かった」
グラムスに対しては強い苛立ちがあったが、それとは別に妙に何かが引っかかった。だがその正体は分からない。何に引っ掛かっているかも分からないが、何か妙な雰囲気を感じていた。
そしてその夜、招待された俺達はリアの部屋に出向いた。何か恐ろしい事が待っているのではないかと身構えていたが、意外にもただ酒を飲んでいるだけだった。基本的にはリアとグラムスが談笑をして、ラドはその会話に入らず、俺は視線だけを動かし、部屋の中を隅から隅まで確認するように部屋数や物の位置などを確認していた。いくつも部屋があり、留守を狙わない限りは侵入できそうにもない。
「ね、それにしてもウィルソン」
リアが俺の顔を覗き込む。
「君はね、シンに似てるね。どうしてそう思うのかなー? 雰囲気かな?」
ラドがぴくりと動いた。俺はリアと視線を合わせたまま、「シン、というのは?」と首を傾げる。
「あ、シンってのはね、ラディーのペットだったヘルなの。けど、ラディーに殺されちゃった。怖いよねー?」
リアは若干酔っているようだった。だがそれでも俺に疑いの目を向けている気がしてならない。
「そう、でしたか」
表情を崩さず答えると、リアは俺の頬に突然キスを落とすとまたふふっと笑う。
「僕、ヘルって大好き。そのシンってのは呆気なくラディーに殺されたけど、君はその二の舞にならないようにね?」
「分かりました」
リアはしばらく俺の瞳を見つめた後、すっと視線を逸らしてグラムスにまた話し掛ける。なんとか正体はバレていないらしい。心臓が今になって恐怖を噛み締めるように脈を速めた。ワイングラスを手に取るが、その手が震えている事に気付き、すぐに一口だけ飲んでテーブルに戻した。ラドと視線が合う。大丈夫かと問われているようだった。俺は一度瞬きをしてみせ、大丈夫だとアイコンタクトをする。
グラムスが隣で明日は共に街にでようとリアに誘いを掛け、リアはいいね! と賛同している。どうやら俺の動揺や恐怖はリアにはバレていない。そして明日はどうやらこの部屋は空くらしい。俺にとって吉。リアがいないのであれば、俺のやる事はひとつだと動揺する心を落ち着かせた。
翌晩、俺はリアの鍵のかかっていない部屋に忍び込んだ。部屋をひとつひとつ空けていく。だがどの部屋にも鍵らしいものはない。金庫もないし、鍵を隠せるような何かも。手詰まりだ。俺は頭を掻き、時間との勝負だと、Jに電話を掛けた。
『J、教えてほしいことがある』
『あぁ、どうした』
ラドが求めている鍵の在処を知りたいと伝えると、Jは部屋の特徴を聞き、俺は細かく説明した。そうして寝室の説明でJはくぐもった声で詳しく、と詳細を知りたがった。寝室は確かに他の部屋に比べて異質だった。ベッド、本棚、椅子、窓の外は庭と森、天井には天使の絵。壁は真っ白。床は大理石。
『天井画を詳しく説明してくれ』
首が疲れるが、上を向く。天井を眺めながら説明した。天使が悪魔を殺している。何やら物語のような天井画だと伝えた。奇妙な天井画で、奥に人の抜け殻のようなものが描かれ、その抜け殻を天使が抱きしめ、涙をしている絵もあり、真ん中には悪魔が逃げる姿もある。そしてベッドの真上で、天使が悪魔を殺す絵になる。けれど、続きがあるみたいだった。矢を向ける天使と、逃げようとする悪魔。天井画の物語は本棚の近くになると、悪魔は蛇へと姿を変えていた。天使に追われた蛇は、いばらの森へと入っていく。それで天井画は終わり。この部屋の天井画は、入口からS字を描くように話しが作られているようだった。天井画には続きがあるのだろうか。
『いばらの森にバラはあったか?』
「バラ…」
俺は再度、天井を見上げて歩く。先程立ち止まって見上げた、いばらの森の天井画部分に戻り、バラの花を見つける。
「バラは描かれてる」
『何色だ』
「赤と黒。蛇が入る前のバラは赤くて、蛇が入った後のバラは黒くなってる」
そのいばらをよく眺めると、確かにバラが咲いていた。よく見なければ分からないほど小さなバラがちらほらと咲いている。蛇が入る前のバラは赤く、入っていくと黒く変わっていた。
『"BLACK" か』
「"BLACK" って、あの本のことか?」
『あぁ、その部屋の天井画は、"BLACK" の始まりの話だろう。その部屋に鍵はない。…天井画が描かれているのは、その部屋だけか?』
「えっと……いや、他にも天井画が描かれている部屋はあると思うけど、今探す」
『天井画が物語の通りなら鍵の在り方を示してるはずなんだ。探しながらで良い。冒頭を教えてやるから頭に入れろ』
「わ、分かった」
俺は隣の部屋へ移動しながらJの話を聞く。
『Black それは闇の色。Black それは行方の色。Black それはこれから起こる全ての出来事の色。…世界が真っ暗だと哀れな人間は気付かない。自らの過ちを棚にあげ、自ら黒を創り出す。そこが黒だったと気付くのは、白を落とされたとき。光が射したとき、はじめて闇だったと気付くのだ。これは神のイタズラ、悪魔にも嫌われし運命。世界はこうして滅びていく。人間が、人間を。住みやすい世界にしようと、都合のいいように。……そうはじまり、プロローグに繋がる。プロローグは天使と悪魔の話しだ。つまり、そこの天井の話し』
「天使が悪魔を殺す話し、ってことか?」
『あぁ、だがその天井画は本のプロローグの途中から描かれている。本来は、神様の話が冒頭にあるんだ。神様は悪魔を創って、光を創り忘れ、光を創ろうとするが、創れば創るほど自ら闇を創り出していた。悪魔はその闇の中で大きくなってしまった。悪魔は自分の力に溺れ、自分を神々を抜け殻に変えていった。ここが天井画には描かれていやいらしい。その続きは天井画の通りで、悪魔はとうとう自分を創り出した神様の怒りに触れ、神様は天使を放ち、天使は悪魔を次々と殺したんだ。しかし1匹の悪魔は蛇へと姿を変え、いばらの森へと消えた。いばらは悪魔の蛇の皮膚を切り裂き、その血でバラは黒へと色を変えた。ここまでがその部屋の天井画だ。で、話しの続きが、その1匹の蛇と、ひとりの天使と、身勝手な神々の話し』
「そこに鍵があるのか?」
『あぁ、きっとな』
部屋を見て回るが、マスタールームにあるバスルームにも天井画はないし、彫刻が置いてある美術用の部屋も違う、書斎も違うし、オーディオルームらしい広い部屋も違う。再度リビングに出て、念の為に天井を見るがこれもハズレ。ダイニングはどうか。
「…違う、か」
『きっと、水に関係する部屋だ』
「寝室のバスルームにはなかった。なぁ、話しの続き聞かせてよ。何かヒントになるかもしれない」
『分かった。だが少し長いぞ』
「あぁ、大丈夫。俺は部屋を探しながら聞いてるから」
そう伝えるとJはカタカタとキーボードで何かを打ち込んだ後、咳払いをしてから話を始めた。
『蛇は天使に見つかるまいと、いばらの森で暮らした。けれどそこには不思議な怪物がいて、蛇を殺しては生き返らせていた。蛇は無限に繰り返される痛みは神々を怒らせた罰だと自分に言い聞かせて耐えていた。しかしある日、いばらの森にひとりの天使が訪れた。蛇は驚いた。自分を捕まえに来たのだと思ったからだ。しかし天使は蛇を見ても矢を向けることはなく、むしろ傷だらけの蛇を手当した。気付かれなかったと安心していた蛇に天使は言った。
" 神様は天使は無能だとしてこの地へ追いやった。その時に、多くの天使が死んだ。生き残った仲間は僅かだけ。けれど、このいばらの森には天使を助けてくれる神様がいるって聞いた。いばらの森の神様を知ってるかい? 知っていたら教えてほしい"
しかし蛇はそのような神様は知らなかった。
"知らない"
そう答えると、天使は分かった、ありがとう、と頷いて森の奥へ消えた。それから数日後、怪物があの天使と一緒にいるところを見た。その時蛇は気付いた。あの天使は怪物がいばらの森の神様だと思っているのだと。だから急いで警告しに行こうとしたが、天使は蛇の目の前で怪物に食われてしまった。蛇は恐る恐る怪物に訊ねた。
"俺の時のように、生き返らせるんだろ?"
しかし怪物は、天使を生き返らせてはくれなかった。蛇はその日からずっとあの天使のことを考えていた。ある日、怪物は言った。
"いばらの森から逃げたネズミがいる。食い殺してこい"
蛇は久しぶりに森を抜け、ネズミを探した。しばらく進むと、大きな池があった。喉が渇いた蛇が水を飲んでると、隣にネズミが呑気にやってきて水を飲む。蛇はネズミを食い殺そうと襲いかかると、ネズミはあわてて姿を変えた。それは怪物が食ったはずのあの天使だった。天使は蛇に言った。
"いばらの森に神様なんていなかった。これから僕を追いやった神様のところへ戻るところなんだ"
蛇は天使に言った。
"神様はお前ら天使を殺す気だ、戻らない方がいい"
天使は蛇に言った。
"逃がした悪魔を殺せば戻れるんだ。けれどその悪魔がどこにもいないんだ"
蛇はドキッとした。逃がした悪魔とは自分のことだからだ。けれど蛇はその天使と一緒にいたかった。だから提案をした。
"その悪魔なら100日後、ここに来る。必ず来る。その時に殺せばいい。だから、それまで一緒にここにいよう"
天使は蛇と池のまわりに住むことにした。天使と蛇はとても仲良くなった。蛇はいばらの森へ帰ることはなかった。70日が経過した日。天使がひとりでいると、神様がやってきた。なぜ戻ってこないのか、と尋ねと、天使は悪魔がここに来るのを待っています、と答える。すると神様は言った。
"神々の世界に、悪魔が増え、神々と天使を食い殺している。ここに来る悪魔は、もっとも邪悪な悪魔だ。そいつを早く殺して来い"
そう言われた天使は答えた。
"けれど、まだ来ません。あと30日待たなければなりません。そうすればやって来ます"
神様は静かに言った。
"お前が毎日一緒にいる蛇は悪魔だ。もっとも邪悪で強力な悪魔だ。そいつを始末すればいいのだ。その悪魔はお前を殺す。仲間を殺された恨みだ。そして、その悪魔は今も神々の世界で神々を食い、力をつけている。あの悪魔を殺せるのはお前だけだ"
天使は驚いた。神様が姿を消すと、天使は泣いた。その涙は池を湖へと変え、海へと変えた。蛇が帰ってくると、池はなくなり海になっており、心底驚いた。何があったのか、と尋ねても天使は答えなかった。天使は悲しかった。自分がこの蛇を殺さなければならないことに。 けれど殺したくなかった。神々や仲間が殺されているのに、蛇だけは殺したくなかった。何も言わない天使に蛇は言った。
"もういい。俺はお前とは合わないと思っていたんだ。俺には新しい仲間が出来た。そいつとこれから遠くへ行くんだ"
天使はショックだった。他に仲間がいて、自分の前から消えてしまうことが。そして蛇は言った。
"騙して悪かったが、俺は悪魔だ。仲間をつれて、神々の世界に復讐しに行く。その前にお前を殺す"
そして蛇は悪魔へと姿を変えた。天使は驚いた。優しかった蛇は悪魔へと変わり、自分に襲いかかって来たからだ。天使は無我夢中で矢を握り、悪魔の心臓目がけて突き刺した。悪魔の動きは止まり、海へと落ちた。海は悪魔の血で黒く染まった。しかし、突然海が光りだし、目の前に綺麗な海の色の石が目の前に現れた。天使がそれを手に取ると、その石は温かった。そしてどこからか、声が聞こえた。
"天使よ、あなたのおかげで世界の悪は消滅しました。世界は平和となりました。あの悪魔のついた最後の嘘を許しなさい。天使よ、誇りと共に生きなさい"
天使は全てを理解した。あの悪魔がわざと自分に襲いかかってきた事も、自分を捨てた事も、平和の世界を実現させるためであったと。…ざっとそんな話だ。これでプロローグが終わる。とはいえ、この話は俺が昔調べて、色んな文献やら噂話の類から引っ張って纏めた物だ。どこまで正確かは分からないがな』
「いや、その内容で合ってると思う」
それはきっと、本当に"BLACK" にある話しのようだ。目の前には、大きな大理石で出来た風呂場がある。それはまるで海のような美しい青い大理石だった。天井には涙する天使が風呂の中央を見ていて、その視線の先には蛇が描かれていた。
『と言う事は、あったのか?』
「あった。蛇だ。大きな大理石の風呂の中に蛇が描かれている」
光を反射してキラキラと輝く浴槽は、あまりにも荘厳な雰囲気で、美しく、この世のものではないようだった。壁にはバラの蔦が一面に広がっているのも、赤いバラがちらほらと咲いているのも、この空間が異空間な雰囲気を醸し出している。
『その部屋にあることは間違いないな』
俺はまわりを見渡した。何か見当たらないだろうかと壁に沿って歩くと、バラの蔓で気付かなかったが、壁にも何か絵が描かれていた。タイルで描かれたその絵はモザイク画だが、何が描かれているかはすぐに分かった。血を流す悪魔と天使、その横には神様を食う怪物が描かれてる。なんだこれ。話しと違う。蔓を剥がし、壁に描かれていた悪魔に触れた。その瞬間、ゴゴゴゴ…と低い、石が擦れて動くような音が部屋中に響いた。音の方へ振り向くと、天井の天使が描かれていた部分から階段が現れ、それは風呂の中の蛇へ架けられた。
『どうした、何の音だ』
「天井から階段が現れた。真っ白な階段」
その階段を一段一段上って行く。
『気をつけろよ』
「あぁ、分かってる」
階段を上り、天井裏へと進むと、そこは壁も天井も床も全てが真っ黒な小部屋だった。部屋の明かりをつけ、奥に進むと、さらにドアがある。そのドアを開けると、今度は眩しいくらいの白い部屋だった。正面にドアがあるもののドアノブがなく、押しても引いても開かない。どうしたら良いものかと周りを見渡すが何もない。ここまできて諦めるわけにはいかない。確かラドが言ってた。バンパイアだから開けられないと。体温や血液で感知されてしまうのであれば、感知される何かをしなければ開かない。俺はそのドアに両掌をつけて静かに待った。これで感知してくれないだろうか。けれど真っ白なドアはびくともしない。ダメか…と肩を落として手を離そうとした時だった、突然指先に鋭い痛みが走った。
「…痛っ」
『どうした』
咄嗟に両手を壁から離して指先を見ると、ナイフで切ったような小さな切り傷が出来ている。壁はみるみるうちに赤く染まり、何か幾何学的な模様が描かれて同時にドアが開いた。目の前には小さな白い箱が現れる。箱の中を覗いてこれが鍵かと、俺は恐る恐る手に取った。
「血が、ドアを開けたらしい」
『血、か。なるほどな。…で、鍵はあったか?』
「あぁ、想像していた鍵とだいぶ違うけど、たぶん…これだと思う」
それは親指サイズの石だった。海の色で、光の当たり具合で何色もの青に輝いている。中心に近付くにつれて、深い海の色のような黒色だった。掌で握ると、不思議とそれは温かい。
『見つけたなら、早くそこを出た方がいいぞ。いつゴッドが戻って来るか分からない』
「そうだな。分かった」
俺はすぐにその部屋を出た。鍵を持ってラドの部屋に戻ると、部屋にはグラムスがいた。何やらふたりで談笑していたらしい。グラムスは俺の存在なんか目に入っていないのだろう、「我々の世界を作ろうと」とラドを口説いているようだった。ラドは俺に視線を向け、少し待ってくれと訴える。
「なぁ、クラウド。お前の事をずっと考えていた。バンパイアは虐げられるべきじゃないし、ハンターやヘルの存在が邪魔だと俺は思う。だから協力して欲しいことがある。今こそお前の力が必要なんだ」
グラムスはそうラドの手を握った。ラドは眉間に皺を寄せるが、その手を払う事はなかった。まさか、流されたりはしないよな。そう俺は顔を顰めながらラドを見つめるが、ラドはそれから俺の方に視線を一切向けなかった。ラドの様子が変わったのはその日からで、鍵をラドに渡しても、ラドは素っ気なく、俺は違和感を覚えた。それはとてもあからさまで、触れようとしても、ラドはまるで俺を避けるようだった。
なぜ。考えても答えの出ない疑問に苛まれ、ひとり部屋のシングルソファに腰を下ろして、ラドを眺めていた。
「俺はね天使になりたかった」
ラドに鍵を渡した後、ラドはそうぽつりと呟いた。
「でも俺は悪魔にしかなれなかった。神々を抜け殻にして逃げた罰だろうな」
ラドは俺と距離を空けるようになった。窓際で本を読むラドを俺はただじっと見ている。昨日もそう、そして今日もまた。
部屋にリーデイさんが肩で息をしながら入って来た。焦った顔で俺の手を掴むと、「ゴッドに正体がバレました、逃げましょう」と急かした。なぜ、今になってバレたのか。グラムスという男が来てから全てがおかしい。
「君はここを出た方が良い」
ラドはまるで俺を厄介払いするように、城から出て行けと圧を掛けるようだった。俺に対する心配はなく、ただ出て行けと言うだけで、俺はラドの態度の変わりように混乱しつつも、グラムスに対する苛立ちを覚え、言いたい事、聞きたい事が山のようにあって、少しでも問い詰めたいと口を開く。
「けど…」
足を止める俺に、ラドは低い声で諭した。
「けど、じゃない。早く行け。ゴッドに捕まってしまえば終いだぞ」
「お前はここにいるのかよ。お前も行こう。逃げよう、ラド」
「俺がここにいるのはやるべき事をやるためだと言ったろ。ほら。早くしろ」
もう何かを聞ける状態ではなかった。腹が立った。
「グラムスがいるからか? お前、グラムスとかいうやつが来てから変だぞ! 何々だよ。どうしたんだよ、ラド!」
ラドはふっと笑うと部屋の窓を開けた。
「君をここに呼んだのは鍵の為。ほら、早く行ったほうが良い」
窓から逃げろと背中を押される。もう俺には留まるという選択肢はないようだ。ラドは俺と距離を作りたいように見えて、心臓がバクバクと不安と混乱で鳴り続ける。こんなはずじゃない。どうしてこうなるんだよ。リーデイさんは俺を抱えると外に出て、「このまま真っ直ぐ走って下さい」そう告げて城へと戻った。森の中をひたすらに歩きながら考えた。やはり、全てがおかしい。例え鍵がなくなった事をリアが気付いたとしても、俺の正体に気付くだろうか。怪しむべきはラドであって、ラドの監査役であるヘルに疑いの目を向けるだろうか。百歩譲って疑いの目を向けたとして、ウィルソンがシンだとなぜ見破れたのだろうか。誰かが告げ口をしたのだろうか。いや、リアはウィルソンとシンが似ていると口にしていたし、何か確信を作るような事を俺がしてしまっただけなのか。分からない。だがひとまず、今は逃げるしか選択肢はなく、俺は来た道を辿って隠れるように逃げた。しかしそこはリアの庭だ。逃げ切れるわけがなかった。
「シン、みーつけた」
何時間走ったろう。後ろから声がしたと感じた瞬間だった。身構える暇もなかった。背中にトンと何かをぶつけられたような感覚だった。
「え……」
痛みもなく一瞬だった。咽せて血を吐いた。気付くと、切先を赤く染めた長刀の先が右胸から突き出ていた。リアはそれを後ろから勢い良く抜くと、ふらりと横に体はそのまま倒れ込んでいく。
「バカだな、シン。だから言ったろう」
リアは倒れた俺の頬に手を寄せると、そう顔を覗き込む。痛みに呻く唇にチュッと軽く音を立てて唇を重ねると、動けない俺の右手を掴み、ずるずると城へ引き摺られる。
「君を愛してるのは僕だけ。本当に愛してるのは僕だけ。だからラディーには君が死んだと伝えるね。ラディーにとって君はもう用済みだから、あいつは君が死んだ事に対して何も思わないだろうなぁ。あいつは昔から非情なやつなんだよ。自分が愛した者に対しては甘いやつだけど、興味がなくなった途端、身勝手に捨ててしまう。ね? 君はあいつに誑かされていただけなんだよ」
息をするだけでも苦しい。口からは血が溢れ、ぐらぐらと目の前が歪んでいく。
「でも、もう大丈夫だよ。君が僕を騙していた事は咎めない。僕の側にまた置いてあげるね。あ、そうだ。ラディーはグラムスに殺させようね? もうあいつは要らないものね。ラディーは昔からグラムスに心酔していたから、恋焦がれて拗らせて、ふふ、グラムスなんかを愛してしまえば終いなのに、まーた性懲りも無く愛してしまったのかなぁ。アハハ、あいつにはお似合いな滑稽な最期を送りそう!」
そうか、やはり、そうなんだ。ラドの心はもう俺から離れ、グラムスのものなんだ。だから俺が邪魔になったのか。俺の正体をリアに告げたのはグラムスだと思っていたが、ラドだったりするだろうか。ずるずると引き摺られる体は木の枝や砂利で切り傷や擦り傷を作り、血が流れているがもう痛みはなかった。自分の通った場所が道標の様に赤く線を引いていた。背中と胸からだらだらと血が溢れている。視界が歪んで嗚咽する。頬が濡れ、雫が頬を伝って顎から落ちた。
「…さ、僕達のお城に戻って来たよ!」
ぷつりと意識を手離した。
再び目を覚ました時、あれからどれほどの時間が経過していたかは分からない程、途方もない時間が経過しているように感じた。体が軋むように痛み、息を吸えば、吐けば、同時に体中にズキンと激しい痛みが走る。顔を顰めた。天井が遠い。四方八方がコンクリートでカビ臭い。殺風景な薄暗い場所だった。あぁ、ここに戻って来てしまった…。体の痛みを我慢しながら上体を起こすと、横で揺れるロッキングチェアが見えた。それを見上げると、そこに座っていたエヴァが俺を見下ろした。
「ようやく起きました?」
「……」
無言で視線を逸らすと、エヴァはふふっと笑う。
「死んでも良かったと思ってます? まぁ、そう思うのも無理はないですよね。1週間もここで眠っていて、ラドは助けにも来ない。つまり、あなたはラドに捨てられたんですからね。ヘルに愛情を与えておいて、あっさり捨てる。本当に夜の悪魔という異名がよく似合う」
ぐっと拳を握ろうと思ったが、力は入らない。訳の分からない感情がぐるぐると渦巻いて、悲しいし、辛いし、苦しいのに涙は出なくて、胸がぐっと締め付けられるように痛みを感じるだけだった。
「今、ラドが何をしてるか分かりますか?」
エヴァは俺を見下ろすと、にやりと口角を上げる。
「ハンターやヘルを次から次へと殺しています。グラムスと共にね。ハンターだった君の居場所はもうありません」
「………っ」
そんなわけがない、嘘だと言いたかった。でも声が掠れて出ない。それ以上に否定する事ができないのは、グラムスがラドに与える影響が分からないからだった。もしかしたら、ラドは本当にヘルやハンターを殺しているのかもしれない。
「僕はね、ラドを始末する為だけに生きているようなものです。彼がさっさと滅びるのが待ち遠しい。グラムスという男が戻って来た事で、それは簡単に進みそうですけど。あの男はどうせ最後にはラドが邪魔になって殺すはずですから」
「……グラムス、……グラムスは、何者なんだ…」
「大方聞いてるでしょう? 僕が知っているのは、ラドが感情を取り戻すきっかけになった人物だという事くらいです。心を動かされたラドはリアをも裏切り、姿を消し、人間だったグラムスが何者かに襲われ、瀕死になって、ラドは助けてしまった。人間として生きて死ぬ事を求めていたグラムスを、身勝手にバンパイアに変えてね。しばらくは共に過ごしていたようですが、ある日、グラムスはハンターに殺された、そう言われてましたが事実は違ったようです。彼はただラドと距離を置きたかっただけかもしれませんね」
ね、滑稽でしょう、とエヴァは続けた。
「グラムスは何を考えているのか分かりません。ふたりで世界を作ろうなんて、ラドに甘い言葉を掛けて、ラドを取り込んで本当に人間に対して反旗を翻すつもりでしょうかね。所詮、僕達は人間には勝てやしないのに」
ラドがなりたかったという天使は、結局悪魔を殺して、平和を、光をもたらした。誰も悪魔になんかなりたくない。なりたくてなったわけじゃない。悪魔は神々を殺さなければならなかった理由があった、そうかもしれないが、そんな事には触れられていない。神々はいつも正しくて、理由がどうあれ、神々に手を出した者が罰せられる。悪魔はなぜ神々を敵にまわしたのか、理由を聞かれないまま死を選んだ。それはまるでこの世の中で、ラドは今、何をしたいのだろう。ハンターを殺してしまえばまるで神々を殺す悪魔のようなのに。人間を無闇に殺さないと、司令官に手紙を送りつけたあいつは何処へ行ったのだろうか。
今のあいつは俺が知ってるクラウドではないのだろうか。もう、あいつはいないのだろうか…。
「天使になりたかった悪魔は所詮悪魔で、結局は天使に殺されます。それを分かっていながらも無駄な正義を振り翳す」
ギィとロッキングチェアの軋む音がした。エヴァはじっと俺を見下ろすと、ぽつりと吐いた。
「ラドはリアを消しますよ、近いうちに」
眉間に皺を寄せてその顔を見上げると、エヴァは真剣な顔をしていた。笑みは一切なかった。
「ラドはリアを殺し、グラムスがラドを殺す。強大な悪が消え去り、世界は平和に向かう。僕にとってリアは大切な存在です。殺したくはありません。でも、……状況は変わりました」
状況は変わった、という意味が分からない。
「どういう、事です、か…」
エヴァは視線を逸らし、ふっと笑う。
「さぁね。お喋りがすぎました」
何を言いたかったのだろうか。状況が変わった、とは何だろうか。話が読めない。何かエヴァの言う事に矛盾を感じてしまう。ラドはあの話の天使になりたかったのに、今はハンター達を殺してる。グラムスと再会する前のあいつからは想像も出来ない事態が起きている。信じ難いが、ラドが天使になりたかったのはあくまでも過去の話、という事なのだろうか。グラムスの為なら何でもすると言うのだろうか。自分が利用されているだけだと気付かないのだろうか。
俺なら、ラドを止められるだろうか。
その時、奥のドアがガチャリと音を立てて開き、白銀の髪を掻きながら男は欠伸をして部屋へと入って来た。
「目が覚めてるね! 良かった良かった」
俺を見ると、リアはにっこりと微笑んだ。こいつさえ止める事が出来ればそれで良かったのに。リアの手は頬に寄せられ、俺は無言でその手を払うと、リアはふふっと笑う。
「思ったより元気そうだね」
頬に寄せられた手を払うと、リアは「つれないなぁ」と呟きながら、隣に腰を下ろした。
「ねぇ、シン。今の世界をどう思う?」
どういう事かと眉間に皺を寄せると、俺の答えなど待っていないようにリアは口を開く。
「愚かで弱い人間共が中心の世界は終わりを告げるべきだと思わない? 人間って生き物は本当に愚かだろう。平気で人間が人間を殺していたくせにさ、バンパイアが生み出されると、途端に人間は団結して、自分たちが作り出した兵器を壊そうと躍起になって、それで全て無かった事にしようとする。そんなこと許せるかな? 僕や君や、クラウドやグラムス、もちろんエヴァもみんな元は人間。ただ人間より力を持っていて、コントロールされる事を拒否しただけ。なのに力が強大だとして排除される。とはいえ、この世界の結末はもう決まってる。そうだよね?」
リアはそう言うと、エヴァを見上げる。
「ね、エヴァ、どうなの? 教えてよ、話の結末」
エヴァは何も答えず、リアは口を尖らせた。
「本当は全て知ってるくせに、秘密だなんてズルいよなぁ。僕が君をここに置いてる理由も、僕が君を手離さないのも、理由は分かってるよね? 君はラドが書いたあのBLACKを読み、話の結末を知ってるんだろ。僕はラドと違って、人間だった時の記憶はなくしてないよ? だから、僕は知ってるよ。君が僕の事を大切に思ってくれている事を。だから、良い加減、教えてくれないかな。結末を」
そうか、ラドが書いたあのBLACKという本を、エヴァは読んでいるのか…。ラドが取り戻したいと言っていたあの本を。だとするならば、結末ももちろん知っているのだろう。
「僕はあなたを変えようとしてきました。生み出した責任を僕だって感じていました。けれど、どうやら、それはもう無理な話なようですね。あなたを変える事はどうやら出来ない。バンパイアもヘルも人間も食い物にして、あなたは自分をコントロールできない。リア、あなたは、ラドに殺されます」
エヴァはそう淡々と告げてリアを見下ろした。驚いた。エヴァはリアに対してそう面と向かって殺されると言ってしまった事を。何があったと言うのだろうか。
「へぇ、僕は殺されるのかぁ」
だがラドに殺されると伝える事は自殺行為だ。エヴァは悲しそうに笑って、エヴァを見上げる。
「なら、あの本は戯言を並べただけなのか。未来予知の本だと思ってたのに、残念。残念。長い間、本の行方を追っていたけど、全然見つからないんだもの。鍵と呼ばれる妙な石だけを手に入れたけど、宝箱はどこにもない。だから君を側に置いていたのに、もう要らないね。残念だなぁ」
リアはエヴァを見つめたままゆらりと近付く。止めなければと起き上がろうとするが、痛みに体が上手く動かない。でも、動かないと。今、動かないと。エヴァが……。エヴァは覚悟を決めたようにリアを睨み付けていた。リアはその表情に更に腹を立て、手を伸ばした、その時だった。ドンという骨に響くような爆発音と共に、壁が吹き飛ばされた。火薬の匂い、土埃、コンクリートの破片、煙…、何が起きたのかと目を凝らしていると煙の中から手が伸びてきて、誰かに体を支えられ担がれる。
「終いだ」
そう怒りを顕にしたのはビルだった。ナイフを構え、それはリアに向けられていた。俺を抱えたのはJだった。何がどうなってる。エヴァはゆっくり立ち上がると、ベルトからナイフを取り出し、低く構えるとリアを睨み付けた。
「遅かったですね」
「文句言うなよ」
「へぇ、君達…僕を裏切るんだ?」
リアの右腕であるビルとエヴァが、リアを裏切り、刃を向けている。この現状が飲み込めない。
「ゴッド、世界は光を求めてんだ」
Jの言葉に、リアはピクッと反応した。この状況ですらリアは余裕にもにっこり微笑んだ。
「やぁ、久しぶり、ネオ! 死んだはずのネオじゃないか! 君も生きていたとは、世の中分からないものだなぁ。でもそうか、あー納得しちゃった。だからビル、君は僕の下にいたのか。だって君がネオを刺し殺したんだものね。ラディーの大切なぺットを、ラディーの目の前で」
そうだったのかとビルを見上げると、ビルの動揺が少し見えた。だがJがすぐに口を開く。
「俺が頼んだから。それだけだ」
「へぇー。ネオ、君は酷い事をするよね? ビルをクラウドの元から追い出すような事してさ。」
「クラウドは…いや、クラウド様は何も言わなかった。俺がただあの場所にいられないと思っただけだ。勝手に反発しただけだ、関係ない」
「そう? リーデイを残して城を後にして、僕の下に転がり込んで来て、リーデイをも巻き込んだ。じゃぁ、今のリーデイの状況は君のせいって事になるね!」
「………っ!」
奥歯を噛み締めるビルに、エヴァが「挑発に乗っては負けです」と低い声で訴える。Jはここで争いにしたくないのだろう、ビルのリアの間に入った。
「ゴッド、お前に伝言だ。次の満月の夜、この城で決着をつける。だからここで待ってろ。クラウドからだ。全てが終わる。全てが」
そう言い残すと、Jはポケットから何か丸い黒いものを取り出し、リアへ投げつけた。それはリアの目の前で爆発し、真っ白な煙を吐き出す。部屋中が一気に白煙に包まれ、気付けば俺達は城の外へと出ていた。
………
……
…
ゆっくりと意識を取り戻すと、暖かい部屋で誰かの話し声が聞こえた。聞き耳を立てながら、その温かい布団の中で体勢を変えた。
「けど、これで全てが始まったな。完全にゴッドを怒らせた」
「なぁ、ネオ…いや、悪い、ジョーカー、あのバケモノは、人間にとってもヘルにとっても、そしてバンパイアにとっても恐ろしいって事は分かってる。力をつけすぎたのも。だからクラウド様が本当にあいつを倒せるのか、俺はまだ分からないと思ってる」
「お前は長い間あの男の右腕をやってきた。だろ? そんなお前が言う事だ、クラウドとゴッドは本当に同格なのかもしれないな」
「だとしてももう後には引けませんよ」
「エリック、お前が今クラウドに一番近いだろ? 何か作戦みたいなのは聞いてないのかよ」
「聞いてません。私より、エヴァ…と言いましたか? あなたこそ何かを知ってるのでは? ゴッドを生み出した本人です」
「……僕は何も」
「なんだよ。じゃぁ、クラウド様は正面から戦いを挑む気なのかよ」
「さぁな。手詰まりかもしれねぇな」
J、ビル、エヴァ、エリックさんが当たり前のように会話してるのが違和感だった。俺は上体をゆっくり起こすと、どうやら隣でずっと看病してくれていたらしいジェインも目を覚ました。隣に置いてあった椅子の背もたれに寄りかかり欠伸をする。ここはどうやらJの家、いつもの地下の一室だった。
「あ、シンおはよう。みんなー、シン起きたよー」
血を流しすぎたからだろう、まだどこか目眩と痛みはあった。1週間も経ったと言うのに完治はしていないらしい。エリックさんから血を分けてもらうが、やはりあまり効果はあまりなかった。エリックさんは近いうちクラウドの人工血液もできるだろうけど、と俺を励ますが、俺としては複雑だった。ラドに依存しない体はもう、ラドとの関係はなかったと否定できてしまう気がしたからだ。あいつに感情を告げたのも、あの日、まぐわったのも、あの熱い瞳を見下ろしたのも、全て俺の幻想だった。そう片付いてしまう。それがとても怖かった。とても、苦しかった。皆んなが寝静まった朝方、俺は眠れずにホットミルクを片手にラジオを聴いていた。
『…さぁ! みなさーん、おは…まーす! 本日も…ウォンテッドのお時間…、一緒に…ましょう!』
ジジジ…と接続不安定な雑音が続き、チャンネルを変える。
『…の天気予報のお時間です。…地方では、午後から晴れ…』
ジジ…
『……がなんと、今なら税込…! 今から30分…には、なななんと…がついて、…があるので…』
ジジ…
ハンターが殺されている事が報道されてない。ラドに関しても何も報道がなかった。情報を集めたいが規制されているのだろうか。
「眠れないのか」
その時、奥の部屋で寝ていたビルがのそっと俺の後ろにいて、心臓が跳ね上がった。ただでさえ、こいつには殺され掛けているのだから警戒しないわけがない。
「ま、まぁ…」
「そうか」
そう興味は特別なさそうで、ビルは冷蔵庫から水を取り出す。すぐに部屋へ戻るだろうと思ったが、俺の隣に座り始め、何事かと眉間に皺が寄った。隣に座るのは良いが、何も話さず、気まずくなって俺はラジオを止めてビルの方に体を向けた。
「お前って、本当にリアを裏切ったのか」
「あぁ、そうなるな」
「どうして?」
ビルの目に動揺が見えた。なぜ、今動揺をしたのか聞く前に、ビルは口を開く。
「リーデイがゴッドに殺されかけたんだ」
「………え?」
「あいつがゴッドの下にいたのは俺に城に戻るように説得する為でもあった、いや、それが本来の目的だったんだろうな。けど、それがゴッドにバレて灰にされる寸前だったんだ。……俺は、過去にネオを殺した張本人だ。クラウド様の側にはいられない事は分かってた。その時、言葉巧みに声をかけて来たのがゴッドで、上手いように乗せられて、そこからは更にクラウド様のところに戻れなくなって。それでもリーデイは戻って来いって言い続けてくれた。あいつが死ぬのは到底許せなくてね」
「そう、だったのか……」
そうか、ビルの為にリーデイさんはあんな危険な場所にいたのか。それがリアの耳に入った。仕打ちは酷いものだったろう。
「俺はもうゴッドの元には戻らない。虫の良い話なのは分かってる。だから、クラウド様に殺されたっておかしくはないし、その時は文句は言わず受け入れる。けど、……今はあいつの側にいてやりてぇなと、勝手にも思ってて…」
「リーデイさんは今どこに?」
「ファーストの城で治癒してる。せめてあいつが完治するまでは側にいてやりたい。だから俺はゴッドを裏切った。安心しろ、お前にはもう噛みつかないよ」
「そう、か」
ビルはふっと笑うと立ち上がり、ラジオを手に取った。
「ラジオなんか聴いてたら余計眠れないぞ。さっさとベッドに入って目を瞑っておけ。ここは安全だ、俺が保証してやるからよ」
「一度俺を殺そうとしたバンパイアに言われてもなぁ」
そう目を細めると、ビルはケタケタと笑う。
「確かに。…でももう寝ろ」
ビルはラジオを持ったまま背中を向けて部屋へ戻ろうとするから、俺は「なぁ、」とその足を止める。
「ラドは次の満月に必ず現れるんだよな」
「あぁ」
ビルは深く頷いた。
「あいつとグラムスは昔はそういう、…関係だったんだよな?」
「…そうみたいだな」
ビルは一瞬何かを考えるように視線を逸らすと、溜息をついて俺の横へとまた戻った。
「気になるのか?」
「気にならないわけないだろ。俺が知ってるクラウドってバンパイアは人間を無闇に殺さない。ハンターを殺すだなんて信じられない」
「まぁ、な。でもそれが現実だ」
「グラムスに操られてるだけなんじゃないのか」
「………さぁ、な」
ビルは少しの間を空けるとそう呟いて、唇を噛み締める。ラドが変わってしまった事はこいつにとっても苦痛なのだろう。
「クラウド様はハンターを殺して、ヘルも殺して、変わっちまった。…それだけは確かだ。クラウド様は元々は平和を望んでたはずなんだけどな。それを叶えてやる事はもう出来ないのかもしれねぇな」
いや、平和を叶えられないなんて事はない。要はあいつを止める事が出来れば、その目を醒ます事が出来れば、元のあいつに戻ってもらえれば良いのだろう。俺は深呼吸をした。こいつだってリアを裏切った、エヴァもだ。覚悟を決めての行動だろう。俺も覚悟を決めたかった。その覚悟はラドと対立する事であっても、覚悟を決めて、あいつの目を醒まさせる必要があった。
「俺も覚悟を決めた。あいつを止めたい。あいつと対立する事になっても、あいつの目を醒まさせたい」
「………そうだな」
ビルの表情が一瞬だけ曇ったのが見えた。勘違いだろうで片付いてしまうほど、一瞬だった。
「クラウド様を止められるのはお前だけだろうからな」
そうビルは俺の肩に手を置き、部屋へと戻って行った。翌日、エヴァが俺に銃を差し出した。それはあの漆黒の銃、BLACK LOVERだった。
「改良しました」
「これ…」
「ビルから聞きました。あなたはラドを止めたいと考えている、と。今のラドを止められるとすれば、この銃くらいかと思います。グラムスに動かされているあいつを止めて下さい。致命傷を与える事くらいは出来るかと思います」
「分かった」
エヴァとも色々あった。俺と、というよりラドと、だが。そのエヴァが今、俺に銃を託す。自分で決着をつける事はせず、俺にその銃を託した理由を聞きたかったが、聞きそびれてしまった。後で聞いておこうと思っていた。自分で決着をつけなくていいのか、と。だが、そう考えながらエヴァの姿を探したが、エヴァはそのまま姿を消していた。誰もエヴァの行方を知らないと言う。まさか裏切ったのかとエリックさんが怒りを顕にしていたが、今更裏切ったとしても何ができるのか、とビルが口にする。確かにそうだった。満月はもう明日だ。今更だ。リアの元に戻ったとしても、どうにも出来ない。むしろそれはただの自殺行為だ。戻るとは考えにくい。
だからラドとリアの最終決戦を見たくはなかったのだろうとJが結論付け、俺もそれに納得だった。だが真実は分からない。ただ分かる事は、エヴァもまた、覚悟を決めて行動している、という事だった。
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