18. 夜の悪魔の願い事

体の痛みは何もなかった。再び目を覚ました時、若干の喉の渇きだけを感じたが、それ以外の異常は何もなかった。白い天井、白い壁、薄い青色のカーテン、消毒の匂い、外の騒がしさに耳を傾けながら医務室にいるのだと理解した。



「よ、おかえり」



医務室の重鎮が何やらカルテを持って来た。パイプ椅子へ座ると俺を見ながら、片眉を上げる。



「3日も寝てたぞ」



「そんなに経ってたのか……」



「少しダメージが大きかったのかなー。で、お前。ヘルだったんだって?」



そうかと否定する事のできない俺はダニーから視線を逸らすと、ダニーは更に追い討ちを掛ける。



「更にまさかのクラウド君は本物のクラウドだったとは」



「……俺の処分は確定したのか。だったら手錠で繋いでいた方が良いんじゃねぇの」



そう低い声で伝えるとダニーはケタケタと笑う。何に対して笑ってんだ。笑い事では全くないのだけど。



「警戒するなよ、別にお前をどうこうしようなんて誰も思わないよ。それにゼルリーダーがお前の事は握り潰すって決めたらしいよ。後で来ると思うから、直接話は聞けば良い」



「だったらなんでこんなに騒がしいんだよ」



「ほら、マスター、噛まれたろ。正直、お前どうこう構ってられる状態じゃない。状況はネークさんから聞いたし、生きる為にクラウド君がその命を助けた事、俺個人としてはマジで感謝してるんだけどさ、ほら、いないと美味い酒飲めなくなるし、…いいハンター失くしたくないし。ネークさんだって恋人を失くしたくないだろ。でも…、マスターは殺してほしいって暴れちまって、それで医療班総出よ。鎮静剤打って、ヤバい時はもう手足縛って、拘束してた」



「そう、か……」



「俺はね、バンパイアにも良いやつ悪いやつがいると思ってる。誰もが皆、人間を食い殺すわけじゃない。だから生きる為ならバンパイアになるって選択肢は咎められないと思うんだ」



「お前みたいに考えられるやつは、ここにはほとんどいないよ。バンパイアに対して嫌悪するやつがほとんど。バンパイアに誰かを、何かを、奪われた人達が多いから…」



「けど、お前はバンパイアに対して嫌悪はもう抱いてないだろ」



「俺は食事さえできれば良かったから…」



「じゃぁ、クラウド君と過ごしたこの期間はただの捕食者と獲物って関係だけだったか?」



「それは、違う、けど…」



「じゃぁ素直に嫌悪はもうありません、むしろクラウドに対しては好意を持ってます、ってハッキリ言ってしまえよ。俺は言えるよ?」



誰がそんな事を言えるか。反逆罪で首が飛びそうな事を言うなと俺は溜息を吐きながら、少しだけ怠い体を起こした。枕を背もたれに敷いて、クッション代わりに寄りかかる。



「お前はどうしてそこまでバンパイアに好意を持つんだよ」



「ふふ、…まぁ、お前になら良いか」



ダニーはそう言うとへらっと笑った。



「俺ね、エリックって言うバンパイアと付き合ってンの。…いや、付き合ってるって言ってるのは俺だけ? 関係がある、って言った方が良いのかな」



ギョッとした。エリック、きっとラドの城で案内をしてくれたあのバンパイアの事を言ってるんだろうと思ったから。



「そんな顔にもなるよなー。これ、内緒な。今から10年くらい前かな。俺、そいつに命救われててさ、そっから所謂ペットって言われるような存在で、エリックに血を与えてたのよ。いつの間にか俺にとってあいつは大きな存在になっててさ、だから、俺にとっては恋人! …みたいなね」



「………お前がかなりバンパイアに理解を持ってたのは、そういう事だったのかよ」



「そうそう、否定できるわけないよ。だって俺はエリックを知ってる。人間に害を与える事はしないし、むしろ一定の距離を保って、恐怖を払拭したいと考えてる。…それに俺はきっと、他のやつらと比べてバンパイアを多く見て、知ってるってのもあるかな。教科書や資料に載ってるバンパイアが全てじゃないって事は子供の頃から分かってたからね。俺ね、歳の離れた姉貴がいるんだよ。でその姉貴がね、世界の平和は一方的にバンパイアやヘルを嫌悪して迫害し殲滅を望む事じゃない、っていつも言ってたから」



姉の考えは一般論では絶対にない。だがそれは、確かに俺達ヘルにとっても、きっとバンパイアにとっても賛同して実現できれば、と思うだけの夢物語。俺達だって元は人間だったのだから、そう願うのは当然だろうと思うが、人間は力を持った俺達の存在を消し去りたいのが本音だろう。



「俺さ、姉貴ってすげぇなっていつも思うんだ。俺の家族って、実は政治一家でさ。…これもオフレコで頼む。親父がガルシューノ、…首相でね」



「あ!?」



現首相の名前が出て来て俺は文字通り目玉が飛び出るほど驚いた。本当に少し飛び出たと思う。バンパイアの殲滅を望むこの国のトップ、その子供がバンパイアと付き合っているとは特大ニュースだろうし、首相を失脚させるには十分すぎるネタである。



「けど姉貴は親父の政策にいつも反対でさ、平和への舵を取るのがパパの仕事なんじゃないの!って、怒鳴った事あるくらい姉貴ってすごいの。ふふ、カッコいいだろ」



「そ、それは……カッコいい」



そう胸張って言えるダニーもカッコいい。頼りになるし、何より今の俺にとって、かなりの支えになっている。



「けど、お姉さんの言うような世界が作られるなら、平和に一歩近付く気がするよ」



「うんうん、姉貴はいつかやってくれるよ」



ダニーは少し照れくさそうに笑うと、カルテを握り締め、さてと、と立ち上がった。



「まだ目眩が多少あるかもしれない。それと、お前がヘルで、クラウド君の血を飲んでいたのなら、その血を得られなくなった以上、倒れる危険性がある。摂取方法が他にないからね。だから外出はしばらく許可できないけど、この部屋、好きに使って良いから。俺は常に隣のドクタールームにいるし、何かあれば声をかけてくれ」



「分かった。ありがとう」



「いいえー」



にっ、とダニーは白い歯を剥き出して笑うと、手を振って部屋を出た。しばらくしてすぐにリーダーが入って来る。リーダーは特に怪我をしていないようだった。



「君の事は何も見ていないし、聞いていない」



開口一番、その言葉だった。俺は不安な顔でもしていたのかもしれない。



「ありがとうございます…」



「だが今回の事で司令部からひとり来る。今回の件に関して、根掘り葉掘り聞かれる事が予想される」



「そう、ですよね…」



「私はクラウドの素性を公にしない事にした」



「え…?」



「我々の知るクラウドという男はあのバンパイアの祖とは別。ハンターとして共に戦っていたクラウドはあの日、どこかに消えてしまった。大量のバンパイアに怖気付いた、とでもしておこうか」



「でも、それじゃぁリーダーが咎められませんか」



「そんなやつを今回の案件に抜擢した事に対してか? そもそも雇った事にか? 処罰対象にはなるだうが、我々の仲間を救った彼を売りたくはないからな」



俺は唇を噛んだ。この人が意外にも情に熱い人だとは知らなかった。俺の事も、ラドの事もあさっさり切ると思っていたのに。



「ありがとう、ございます…」



「だから君は何を言われてもバンパイアのクラウドは知らないと通しなさい。良いね? そうしないと、いつか彼が戻って来た時の為に居場所がないだろう」



そんな事を言われるとは思わなかった。



「ハルとリクから聞いた。君は何かから追われて、逃げるようにここに来たんだろう」



リアから逃げていたあの日、深い森の中で、ハルさんとリクと出会った。まさかハンターだとは知る由もなかった。あたふたと焦り、血だらけの裸足で走り、ボロ雑巾のような俺を引き止めて、自分達が持っていた飯を分け与えてくれた。調査班との合同捜査をしていたようだが、他の人達を呼ばず、ふたりだけで俺の秘密を共有し、俺を内側に入れた。簡単に出来ることではない。



「だから君達には居場所が必要だ。私はね、悪の根源となるバンパイアを始末してくれるならそれがヘルであろうがバンパイアであろうが構わない」



少し泣きそうになってしまう。ただでさえ精神的に不安定な今、優しい言葉をかけられてしまうと今にも涙が溢れ落ちそうになる。



「私からは以上だ。司令部への報告は既に済ませてあるが、今夜、その司令部のひとりが来る。準備をしておくように」



「は、はい……」



話しが終わったそのタイミングで、少し離れた所からガシャンと何かを倒したような派手な物音が響いた。俺はリーダーと目を見張った。ダニーが言っていた。マスターが殺してほしいと暴れている、と。俺はベッドから転げ落ちるように降り、リーダーも部屋を飛び出る。隣の部屋にいたダニーが焦った顔をして、同じように転がるように飛び出して来た。



「マスターの部屋は!?」



「こ、この先…こっちだ。案内する」



3人でバタバタとコンクリート壁な質素な廊下を走り、端の部屋をダニーが開けた。その手には麻酔薬を用意して持っていた。



「ふざけんなぁぁあ!」



けれどそこで暴れていたのはマスターではなかった。俺達は3人揃って同じように目を大きく見開いた。



「じゃあ、逆だったらどうなんだよ! 俺があんただったら、あんたの目の前で俺が撃たれて瀕死になったら、あんたはクラウドに俺を見殺しにしろって言ってたのかよ! 助けてくれるなら悪魔だろうが何だろうが縋ってたんじゃねぇのかよ!」



部屋のシェルフはひっくり返され、薬やグラスの水がぶち撒けられ見事に四方八方に散乱している。俺達は怒りを顕にして暴れまくる獣をひとまず椅子に座らせる事にした。なぜって、この人、キレると手がつけられないで有名だったから。それに暴れてるとダニーが言っていたマスターはあまりにもその獣が恐ろしかったらしく、ベッドの奥側で身を縮こませていた。



「落ち着け、ネーク…。君が暴れてどうする」



リーダーが獣のようなネークさんを椅子に無理矢理座らせると、ネークさんはそこでようやく俺達がいる事に気が付いたらしい。



「マスター、大丈夫すかー。どこか痛いとことかあります?」



ダニーは未だに呆然とするマスターに肩を貸し、ベッドに戻している。



「いや、大丈夫だ…」



妙な空気が流れ、ネークさんの苛立ちは組まれた足先に現れている。ぶら、ぶら、とマスターを睨みながら足先を遊ばせていた。もちろん腕は組んでいる。気まずそうにマスターは全員を一通り見た後、俺になら話しかけて良いと思ったのか、「シンは大丈夫なのか」ときたものだ。いや、あなたの方が。



「はい、俺は大丈夫です。マ、マスターは? 喉の渇きとか目眩とか、ありますか…」



「いや、今のところはない、な」



そしてまた沈黙。ダニーは空気に耐えられなくなったのか、鎮火できたと判断したのか、麻酔薬を手にしたまま部屋を出て行った。



「何かあったら言ってくださいねー」



ひらひらと手を振られ、その言葉に対する返事は要らないようだった。リーダーと俺はネークさんの後で目配せして部屋を出た方が良いと判断し、「じゃ、また」とリーダーが部屋を出ようとした時だった。ネークさんはリーダーの足を止める。



「ふたりともいて。俺達ふたりきりだと、多分、進まない」



「いるのはいいが…」



リーダーと俺は入口近くに身を引き、何をどうすれと言うのかと頭を掻いている。しばらくの沈黙の後、マスターが先に口を開いた。



「確かに、お前の言う事は分かる。逆だったら、お前の言うようにクラウド君に生かしてくれときっと言っていたと思う……」



「なら、理解できるよね。俺はあんたに二度と殺してほしいと言ってほしくない」



「…バンパイアになるという事は、もう陽の光を浴びれないんだぞ」



「良いだろ、別に。あんたは地下のバーでマスターやってるし、自室だって地下だし、仕事はハントで夜だ。何が不都合なの」



「いや、そうだが…、しょ、食事は、どうすんだよ…。一生、人間の血を飲まなきゃならない」



「そんなもの、俺の血で良いじゃん。ダメなの?」



「ダメじゃないけど、食い殺してしまったら……それが、怖いんだ」



なるほど、とようやく理解ができた。恐怖の根本はそこみたいだ。確かに考えた事もなかった。誰かの血を口にする時、その人を殺してしまうかもしれないという不安。俺はヘルで、食い殺す為に存在してる。だが、ペットと呼ばれる固定の人間の血を吸うバンパイア達はその不安と戦っているのだろうか。殺してしまうかもしれないと、恐る恐る飲むのだろうか。もしかしたら、自分の手で、愛しているこの人を…と。


ネークさんは少し考えた後、ベルトからナイフを取り出すと、何の躊躇いもなくサクッと左手首を切った。ボタタ…と血が白い床を汚す。その腕をマスターにぐっと突き出すと、無理矢理にでも飲めと言わんばかりに圧を掛けている。怖い。怖すぎる。



「だから…」



「大丈夫。あんたは俺を殺さない。あと勢いで切ったけど、これ結構痛い」



「そ、そりゃそうだろ。自分で深く切ったんだから」



「バンパイアは治癒できるだろ。この程度の傷なら簡単に塞げる。それに俺は、あんたに、食ってほしい。俺はきっと美味いから。…だから断らないでよ」



マスターはごくりと生唾を飲み込むと、その手にそっと触れた。恐る恐る壊れやすい何かに触れるように触れ、傷をじっと眺めた後、もう一度ネークさんを見上げる。



「良いんだな」



「良いよ」



「目眩を一瞬でも感じたら俺を突き飛ばしてくれ。良いな?」



「分かったから、早く。すごく痛い」



マスターはその細い手首に甘くキスをするようだった。白い手首に映える赤。そこに唇を寄せ、甘噛みするように歯を立て舌を這わせ、もう一度角を変えて噛み付いた。なんだかエロい。18禁な何かを見せられている気がしてならない。俺達は一体何を見せられているのかと眉間に皺を寄せて、そっとリーダーを見ると、リーダーは口をぎゅっと固く閉じて目も閉じていた。こっちはこっちでどういう感情なの。じっとリーダーを見ていると、リーダーはぽそっと俺にだけ聞こえる声で呟いた。



「終わったら言ってくれ」



もう18禁だと思ってるような言葉で俺は吹き出しそうになり、限界だとネークさんに声を掛けた。



「ネークさん、俺達はもう行きますから。貧血になる前にやめて下さいよ」



「う、うん。ありがとう」



振り向いたネークさんの頬は真っ赤で、若干目が潤み、右手で口元を覆っている。完全に18禁だなと、見て見ぬふりをして俺は部屋を出た。リーダーは安心したようだった。俺も安心していた。マスターがバンパイアになりたくない理由が何か過去のトラウマだったらと過ぎったからだ。拒絶反応を示すほどバンパイアの存在を嫌悪する人は一定数いる。いや、もしかしたらマスターも何か他に理由があったのかもしれない。だがネークさんはマスターを無理矢理にでも丸め込み、マスターの葛藤する複雑な心をどうにか生きる方に押すことができる。良い関係だなと、俺は淡々とそんな事を考えながら病室に戻った。


そうして時間は経ち、夜、リーダーの部屋に呼び出される。クラウドの件だ。部屋に入るとシャルはいなかった。リーダーとハルさんは既にいた。そのふたりがいるのならネークさんもいるかと思ったが、ネークさんはきっとそれどころではないなのかもしれない。ソファに腰を下ろし、司令官が来るのを待っていた。緊張は不思議となかった。自分の首が飛ぶ可能性だってあるのに、俺は間違った事はしていないとどこかで考えているからだろか。


コンコンとノックの音に全員が立ち上がり、その人を招いた。司令部のひとりだからどんなイカつい男だろうかと思った。だが入って来たその人に俺は意外だなと正直感じた。



「ご無沙汰しておりました、マリアンヌ司令官」



リーダーはそう挨拶すると、その人はにっこりと口角を上げる。真紅の口紅が目を引く。同じ色のハイヒールに黒スーツ、黒いシャツがここまで似合う女性がいるとは。真っ黒な一文字眉、褐色の肌、薄い茶色の瞳、雰囲気のある綺麗な人だった。華奢だが背は高い。



「ご無沙汰しておりました、ゼル、ハル、それから初めまして、シン」



司令官からはどこか機械的な印象を受けた。ソファに腰を下ろすと「早速ですが」と持って来たらしい報告書のコピーを取り出す。



「シン、あなたに伺いたい事があります」



「はい」



尋問開始だと、俺は身構える。



「まず報告書に相違ありませんか」



「ありません」



報告書を見せられ、そこから淡々と尋問が始まった。


司令官の疑問はゴッドと呼ばれる“第4の生命” 、セカンドのチェック、サードのバースがいたにも関わらず、ハンターの被害が少ない事、そして怪我人も死者も出なかった事から、ハンター達を守ってくれた存在がいたのではないか、という事だった。この人はきっと、クラウドの存在を疑っているのだろうと俺は上手く逃げる方法を話しながら考えている。そして怪我人がいないという点を俺は否定する。マスターが噛まれてバンパイアになってしまった事を改めて強調した。身勝手なバンパイアがマスターに噛みついたと主張したかったから、という理由だが、なぜか彼女はその点があるからこそ疑っていると、俺の嘘を見抜くような鋭い眼光を向ける。なぜ、そこまで疑えるのか、勘が良いだけなのか、かなり厄介な人だと俺は内心舌打ちをした。彼女の言う真実を片っ端から違うと否定しまくった。リーダーが補足するように否定を強調したが、何か確信めいたものを持っている彼女の意思は揺るがない。彼女は否定し続ける俺に痺れを切らすと、一度何かを考えたように尋問をやめ、長い足を組み直し、ゆっくりと口を開く。



「あなた方がクラウドを庇いたい、なぜならあなた方には彼を庇うほどの理由があるから。あなた方にとってクラウドは恩人だという一面がある、だから司令官である私には一切真実を明かせない」



「ですから…」



否定をしかけた俺を、彼女はぴしゃりと制した。



「腹を割って話しましょう。今日、私がここに来たのは司令官としてではありません」



司令官としてではない…? ならば、なぜ。俺の眉間に皺が寄った。



「騙していた事は謝ります。ですが、その方が話してもらえると思いました。私は、シン、あなたにはどうしても分かってもらう必要があるのです。クラウドが今、どのような存在だとしても、かつて行った行為は決して許されるものではない、と」



「………分かってます」



でも…、そう口をついて否定する言葉が零れ落ちそうになった。それを必死に我慢すると、彼女は懐から手紙を取り出した。



「私はこの手紙をある方から昨日受け取り、あの報告書を読み返し、あなた達がクラウドに守られたのだと結論付けました」



読めない。どういう事かと、テーブルに置かれる手紙に視線を下す。



「あなた方が守りたいそのクラウドは、過去に大きな殺戮を行っています。その時、彼が操り人形だったとしても無実にはなりません。そして今、どれだけあなた達ハンターを守ったとしてもその過去は変わらない。我々ハンターは何があっても、彼を始末する必要があります。人間は罪を犯しました。だからこそ、それを償う為にこの世界の悪を消し去るチャンスを逃す事ができません」



「チャンス……って、どういう事なんですか」



「手紙、読んでみて下さい」



俺は渡された真っ白な封筒を開ける。中に入っていた1枚の便箋には、びっしりと達筆な文字が並んでいる。俺はそこに書かれている内容をゆっくりと目で追って理解しようとした。だが、その内容があまりにも衝撃的で、俺の頭は理解をしたくないと拒絶する。理解をしてしまえば、俺は実行せざるを得なくなるから。



「……シン、何が書いてあったんだ」



リーダーが俺の方を見る。俺は震える手で手紙を握り締め、瞳を伏せた。苦しい。胸が締め付けられて、首を絞められいるように言葉が出ない。俺はゆっくり深呼吸をしてリーダーとハルさんを見る。



「手紙はクラウドからです…。一部のバンパイアが神様だと信じるゴッドという生き物は、クラウドと同等の力があり、バンパイアを生み出した時に生じた歪みのような存在だと説明されています。そしてそのゴッドを殺せるのは自分しかいないと。ゴッドを始末する事が明言され、その後には………自分の始末を、と。自分とゴッドの命との対価は、今後のバンパイアの生存について書かれています」



それはラドの遺書のようなものだった。リーダーは一度俺を見て、その手紙に視線を落とす。ハルさんはゆっくりと手紙を俺の手から受け取ると、さっと速読して、眉間に深い皺を寄せる。俺は拳を握った。リーダーは手紙を読みながら、文章を口に出す。



「シン・アッカレードが唯一バンパイアの祖と呼ばれるクラウドを殺せる存在である。自分がゴッドを始末した後、彼は自分を殺す。その時、世界には強大な悪がふたつ消える。人間が長い時間願っていた事を実現する代わりに、バンパイアやヘルの現状を変えてほしい。バンパイアは無闇に人から血を貰わない。ペットや人工血液を利用し、人間を殺さない。加えて、バンパイアはヘルと依存関係を結ぶ事もできる。人間に対する脅威は低くなる。ゴッドを始末したとしても、今いるその信者が生きている限り、世界を支配しようと動く事が予想される。だからバンパイアとヘルと人間との共存を求める。かつて自分達で生み出したバンパイアという兵器と人間が簡単に手を組まないのは分かってる。だから自分の命と引き換えにこの政策を実現してほしい。自分の命に代えて、この世界を変えたい。………クラウド・ディラー」



ハルさんは俺を見ながら椅子の背もたれに寄りかかり、ぽつりと吐いた。



「酷だな」



「私は世界の平和の為にこれを実現する必要があると思っています。クラウドが自らの命に代え、そしてゴッドという第4の生き物を始末するのなら、代わりに、私はこの国を変える。私にはそれが出来ます。でもその一歩には、シン、あなたの力が必要です」



淡々と語られる言葉は俺にはナイフのように感じた。バンパイアとヘルの地位が変わる。人間と同等に扱われる。それを平和への一歩と言うのなら、俺はその一歩を踏み出したい。だが、それにはラドを殺す事が大前提で、俺にはそれがあまりにも酷く、到底飲み込めない。ラドが死場所を探していた事には気付いていた。俺に殺すよう誘導しようとしていた事も。だからこそ、俺は殺せないと口に出した。なのに、どうして。信じられなかった。信じたくなかった。



「……クラウドがこの手紙を書いたと俺には信じられません」



絞り出すように吐き出された言葉に、司令官は「エリックというバンパイアを知っていますか」とエリックさんの名前を出した。俺はもう否定できないのだろうと思った。



「彼から受け取りました。信憑性はあります」



「誰なんです、そのエリックって」



「クラウドの右腕のようなファーストバンパイアです」



「なんでそんなやつと、あんたが……」



ハルさんは訝しげな顔をして彼女を見る。



「ちょっとしたツテです」



彼女の顔を見て思う。



「司令官、……弟がいますか」



どうしてエリックさんの名前が出たか、全てが繋がった。だとするなら、この手紙はきっと紛れもなくラドのものだと。



「えぇ」



頷く彼女に、ハルさんは片眉を上げる。



「ダニーだろ? なに、あいつとこの件と関係あるのかよ」



「さぁ? けど、これで俺の中ではハッキリしました。この手紙はクラウドのものです」



この世界はあまりにも残酷だ。俺は今すぐ、一刻も早くラドに会って、一発殴ってやりたい気分だった。バカな事ばかり言うなと。自分ばかり犠牲にするなと。俺はお前なしじゃ生きていけないと。お前を殺すことなんて絶対しないと。愛しているんだ、と今度こそ。司令官の尋問後、そう思っていた俺はダニーに話を聞こうと医務室に向かった。それを分かっていたように、医務室の部屋には、ダニーとエリックさんが待っていた。



「シン、ごめんな。何も知らないふりして……」



ダニーは申し訳なさそうに言うが、別にこいつに対して怒るだの悲しむだの、思う事はない。お前は何も悪くない、そう言ってエリックさんを見上げる。



「クラウド様が呼んでいます。会いに行きますか」



「はい」



「では支度を。ジョーカーの元へ行きます」



「分かりました」



エリックさんは今、俺が何をしたいかを分かっていた。俺にラドの願いを叶えろと説得するわけでもなく、ラドの考えを直すように言うわけでもない。俺達はJの元へ向かった。エリックさんから予め知らされていたJとジェインは、俺をリアの城にいるラドの元へ送り込む為の準備をしていた。また特殊メイクで見た目を変え、ヘルの信者のひとりになりすます事になった。リアの城は、俺にとっては檻。過去に逃げ出した場所。その場所へ自らまた足を踏み入れる事になるとは…。俺はあの場所を何度も何度も夢に見てはうなされ、痛みに目を覚ましていた。まさにトラウマの元凶。俺は覚悟を決めて、Jの言う内通者と合流した。



「ウィルソン・トラーレストです」



「ウィルソン。…今回はそういうお名前ですか。申し遅れましたが、僕はリーデイ・ハモンド」



「あなたがJの内通者だったんですね」



「ファーストの二重スパイみたいなものでしょうか」



その内通者は古城で会ったあの赤毛、つまりリアと完全に対立したあの戦いでバースの手下を殺したあの赤毛だ。俺は内通者だとしても、それが許せなかった。高級車に乗せられ、かなり遠くまで走った。その道のりは微かに覚えていた。ひとりで行けと言われても、思い出せるような簡単な道のりではないが、ところどころ覚えていた。牧歌的な田舎町を通った事、それから森を通り、大きな街に出て、また山を超えて谷を超えて、そうして辿り着いた、緑で生い茂る山の中に建つ真っ白な城。心臓がバクバクバクと忙しなく脈を速めて息を整えていると、リーデイさんが俺を見ずにぽつりと溢す。



「あぁ、そうだ。ナディースもジルも元気です」



そう独り言のように言うとさっさと城内へ入る彼の後ろ姿を見ながら、俺は眉根を寄せる。何々だよ。でも、そうか。あの時、この人はふたりを逃していたのだろう。食えないな…。


 

「お話したヘルです。ゴッド様、ウィルソンです。ウィルソン、こちらがゴッド様だ」



「わー! 本物のヘルだ! 今は絶滅危惧種だもんねー? 嬉しいなぁー」



城内にはオペラ会場が設けられていた。それは昔からあって、リアはいつも楽しそうに鑑賞しては暇を弄ぶように横につけていたバンパイアを食い殺す。今、その特別に設置された観覧席で、オペラを見下ろして楽しんでいたリアと握手を交わす。隣にはエヴァがいた。足元には何かの肉片が落ちていて、少し離れた後ろには用心棒のようにビルが椅子に座っており、俺に対して不信感を表していた。



「あ、そうだ! 後で僕の素敵な犬を紹介しよう。君も気に入ると思うよ」



「クラウド、ですか」



落ち着いた声でそう問うと、リアは頷いた。



「正解」



さ、座って。そう隣に誘導され、俺は赤いベルベット生地のシングルソファに腰を下ろした。あまりに近く、鼓動が速くなり、それが聞こえてやしないかと不安になる。



「さぁ、彼の出番はもう直ぐだ! 一幕と二幕の間に彼は出てくるよ」



リアは無邪気な笑顔で舞台を見下ろしている。リーデイさんはビルの隣へ座ると同時に、一幕目が終わり、幕が下がった。拍手喝采の中、男が革靴の高い音を響かせて舞台へ姿を現した。見た瞬間、心臓がぐっと掴まれたように俺の体は硬直した。男は相変わらず艶やかで、その立ち姿を見た人はただ息を呑むようだった。


俺は早く男に言ってやりたかった。素直にお前に頼ってもらえると思った俺がバカだった。お前の望みは己の死。俺はそんなの許さない。俺はぐっと拳を握った。



「一幕はお楽しみ頂けましたでしょうか! こうして紳士淑女諸君とお会いするのもいつぶりでしょう!」



ラドはかっちりと髪を後ろで撫で付け、黒いタキシードを着ていた。上下ともに黒、そしてシャツも真っ黒だった。演技じみた大袈裟な挨拶終盤、両手を広げて見せた。



「…さぁ、 怪しき夜に溶け合い、分かち合い、血肉を食らい、神の僕となりましょう!」



そう挨拶を終えると白い煙につつまれ、姿を消した。観客からは拍手が止まず、リアは隣でにやりと笑ったのを視界の端で捉えた。



「金さえあればバンパイアの王も手に入る。良い世の中だよねぇ」



リアがいやらしい笑みを浮かべながらそう呟き、俺は自分の素性を隠しているにも関わらず耐え切れなくなりそうだった。何のためにこうしてリアの隣にいるのかと自分に問い、ぐっと唇を噛み締めた。その時、ひらりとコウモリが1匹、リアの目の前で姿を変える。



「これで満足か」



ラドはそうリアに対して睨み付けるように吐くと、リアはもちろんと微笑む。



「君の魅力にはみーんな平伏すね。その美しい姿、血、肉、骨、全てを食いたいと誰もが思う。そうでしょ?」



リアはそう言うとラドの目の前に立ち、甘えるように太い首に両腕を絡める。ふっと口角を上げるとその首筋に唇を寄せて牙を刺す。溢れる血がシャツを汚す前に、リアはラドのジャケットを脱がし、シャツのボタンを外して乱暴に噛み付いた。何度も角度を変えて牙を刺しては、ラドが痛みに短く息を吐いては、苦しそうに顔を顰める姿を楽しんでいる。俺はただそれを見てる事しか出来なかった。唇を噛みしめて、じっと。



「あ、そうだ、ラディー。君に新しい監視役をつけようと思ってるんだ」



チュッと音を立ててラドの首筋にキスを落とすと、リアはラドにそう俺を紹介した。



「彼の名前はウィルソン。お前には美人な貴族を与えたが、全く興味のひとつも示さないよね? だから僕は思ったの。やっぱり君はヘルが良いのだろうな、と」



「………俺はもう二度と誰かをペットにしたりはしない」



ラドは服を着直すと、まだ首が痛いのか摩っている。



「君は分かりやすいなぁ。そういうところも大好き。ね、シンの事、まだ引きずってるでしょう?」



「………」



無言は多くを語り、リアはケタケタと満足そうに笑って席に座り直す。横にいる俺を手で指し、「彼、可愛いでしょう」と微笑んだ。



「昔に戻ってくれるんだよね? だったらまた、僕の言う事を聞いてくれないと! ね、まずは彼と握手をしようか」



ラドはリアを睨むように見た後、鼻で笑って俺に手を出した。俺はその瞳を見上げて鼓動が速くなるのを感じた。ようやく会えた、ようやくお前に触れる事ができる、そう俺は心底嬉しくなってしまうのだが、ラドは俺だと気付いていない。



「お会いできて光栄です」 



「そりゃどうも」



ラドの手を握るが、ラドはすぐにその手を離した。ラドはリアがいるこの状況に嫌気をさしたように、その後すぐ部屋を後にした。ラドが部屋を出ると、リアは俺に耳打ちをする。



「ラドを探して、行動を共にして。彼に好かれるようにするんだ、良いね?」



従順なふりをして頷いてその部屋を出た。だがラドがどこへ行ったのか俺には皆目検討もつかない。あいつが行きそうなところ…。ラドの部屋すらも知らない。俺はボックス席の一室を出て、リアから離れた事に対する安堵はしていたが、早くラドと合流しなければという焦りが今度は思考を支配する。早く見つけなければ。早く。しばらくウロウロと人で溢れる城内を歩いていると、リーデイさんが遠くから走ってくるのが見えた。リーデイさんは俺を見つけると、直ぐに声を掛けた。



「クラウド様は地下にいます」



俺とリアの話を聞いていたリーデイさんはそれだけを伝えて去って行く。礼すらできずに行ってしまったが、仕方のない事かもしれない。俺と話してる姿を見られる事は、リーデイさんにとってはあまり良いものではないだろうから。行ってしまったリーデイさんの後姿を見ると、遠くでビルと合流し、肩を並べて歩いて行くのが見えた。何か少し言い争っているようにも見えるが、ここからだと何も聞こえない。


さて、地下を探そう。地下と言われても、俺にはそこが何処かも何かも分からない。ひとまず下りの階段を探そうと30分程度かけてうろつくが地下へ繋がる階段は一切見当たらなかった。どこだよ、とつい口から文句が溢れる。


絵画がずらりと並ぶ部屋に出た。左右に飾られる風景画や肖像画など、高そうな額縁に入れられ飾られている。その奥に気になる場所があった。一枚のドアの前にひとりの屈強そうなドアマンが立っていた。しっかりスーツに身を包み、あたまはスキンヘッド、顎髭、背はきっとラドより高く、プロレスラーみたいな男だ。何人かの派手な若いパンパイアがそのドアマンに声を掛け、中に入って行く。何か合言葉のようなものがあるのだろうか。


ドアマンの前まで行き、素直に「クラウドを探しています」と伝えるとドアマンは特に何も言わずにドアを開けた。リアがドアマンに予め伝えていたのだろうか。ドアの向こうには地下に繋がる螺旋状の石階段があった。下からは何とも楽しげな軽快な音楽が演奏されているらしい。笑い声が聞こえる。階段を降りる。バイオリン、ピアノ、ウッドベースの演奏者が部屋の中心で音楽を奏で、その周りで人間もバンパイアも関係なく酒を片手に踊っていた。


黒髪の黒タキシードはどこだ。室内をひと通り見渡すが人が多すぎて見つけられない。ラドなら目立ちそうだが、と奥へ進む。木製のバーカウンターがあり、バーテンダーの後ろには鏡が設置され、何人かが座って酒を飲んでいる。その鏡には飲んでいる客の顔が俺の位置からよく見えた。俺はそっとひとりの男の元へ、背後から近付いた。男は鏡越しに俺を見ると、リアの使いが来たと溜息を漏らした。振り向くと、あからさまに嫌な顔をする。「あぁ、君か…」そう顔を顰めている。



「あなたの行動を監視するよう言われました」



ラドは俺だと気付いてはおらず、露骨に面倒だという感情を表に出すものだから、俺も不満を顔に出しそうになった。お前が俺を呼び出したくせに。



「…そういえば、あのバーのマスター、命に別状はないそうです。恋人が付きっきりで看ているみたいですよ」



だからふたりにしか分からない事を伝えると、ラドはその言葉でようやく気付いたらしい。片眉を上げ、「へぇ、そうか」と嬉しそうに相好を崩した。その柔らかな顔を見ると今すぐにでも抱き締めたくなる。いや、甘くキスを落としたい。でも分かってる。今は何もできない。



「あなたと行動を共にするよう言われましたので、側に置いて下さい」



「分かったよ」



ラドはグラスの氷をカランと回すと、俺を上目遣いで見上げると片眉を上げる。



「……部屋、戻るけど君も来るだろ?」



「えぇ、もちろん」



ラドはグラスに入っていた琥珀色の酒をくっと飲み干すとカウンターチェアから腰を上げ、その場を離れた。地下を抜けて、しばらく城内を歩く。ラドの後をついて、2階の角にある部屋に入る。そこが自室だと言う。部屋の中は微かに血の匂いがした。部屋のドアを閉じる。後ろでパタンと閉まる音が聞こえたと同時に、ラドは俺に手を伸ばし、ぎゅっと力強くその腕に収めた。鼻先がつんと痛くなる。広い背中に両手を回して、安堵の溜息と共にラドの胸に埋もれた。言いたい事は山程ある。こいつが司令官に渡したあの手紙の内容、俺はお前を殺さないと、バカな事は考えるなと言いたかったのに、抱き締められると言葉が吹っ飛んでしまう。



「会いたかった」



溢れるように吐き出された言葉に、俺は何も返さなかった。俺も、と言ってしまえば楽だろう。だが俺はまず、こいつが持つ死への執着が怖くなった。



「こんな所へ呼びつけて悪かった。けど、俺は君に頼み事があって…」



「俺は殺さないよ」



ラドの目をしっかりと正面から見た。体を少し離して、いくらお前の願いでも叶えられない、と断言する。ラドは少し考えると、理由も聞かずにただ「そうか」と一言。感情が溢れそうになる。



「何があっても殺さない。……何もかもに決着がついたらって言ったろ。俺はお前のことを…」



「分かってる」



ラドの目を見上げる。ラドは頷いた。



「ヘルが恋愛感情を持つ事ってあるんだな」



「だからお前はどれだけ酷い事を俺にさせようとしていたか分かってるのか」



「分かってる。…けれどそれしか方法がないんだ。君だって平和を望むだろ? バンパイアも人間も、君達ヘルも、全てが平等な世界になれば君だって素性を隠さなくて良い」



「その為にお前が自分の命を差し出すというのなら、論外だ。俺は殺さない。何があっても、殺せるわけがないだろ」



ラドはまた何かを考えていた。何も返さず、部屋の中を進んで行く。その後をついて歩き、ラドがソファに座った後、俺はその正面に立った。「分かった」そうラドは頷いた。



「…なぁ、シン。代わりにひとつ頼みたい」



「お前を殺す以外なら何でもするよ」



「少し危険な願いなんだが、頼めるのはお前しかいないんだ…」



「何でもするって言ったろ? 何、言ってよ」



ラドは意を決したように口を開く。



「ゴッドの元から鍵を奪って来てほしいんだ」



「鍵?」



「あぁ、あいつの部屋のどこかに鍵は隠されているが、バンパイアには開けられない。だから君に開けて中の物を取って来てほしい」



「何が入ってんだよ」



「BLACK、この世界の未来を予想した本。あれを取り戻したいんだ」



この世界の終末が記されている本、か。「分かった」と俺は頷くと、ラドは眉間に皺を寄せた。



「君にとってゴッドがトラウマなのは分かってる、だから、近付けたくはないんだが、すまない、俺にはそれがどうしても必要で…」



まだそういう事を言うのかと俺は目を細めた。



「言ったろ。俺はリアに立ち向かうって」



「…そう、だよな」



ラドは優しく微笑むと、甘く首を傾けた。



「なら、俺のワガママを通す事にする」



「ワガママ?」



「そう、ワガママ」



口角をゆるりと上げるとソファから立ち上がり、俺の手を引いた。どこへ行くのかと手を引かれるまま部屋の奥に進む。



「覚悟、決めたよ」



「何の…?」



眉間に皺を寄せた俺の頬に手を寄せると、噛みつくように唇を重ねた。少し乱暴で強引なキスだった。歯列を撫でながら、ピアスが開いたその舌で口内を弄る。素直な体は分かりやすいほど簡単に反応した。溢れる唾液を飲み込むとラドはジャケットを脱ぎ捨て、シャツのボタンを外していく。雪崩れるようにベッドへと押し倒され、俺は動揺しながらも体の火照りを感じていた。ラドのあまりにも熱っぽい瞳に見下ろされ、ごくりと生唾を飲み込む。



「本当に良いのかよ。お前、あれだけ言ってたろ。全てに決着がついてからだって。…だとしたら、まだついてないだろ」



「だからワガママを通してる。自分勝手に傲慢に、君が欲しい。……悪いな、俺はもう決めた。お前と共に人生を歩むよ。俺は君を知りたい」



急にそう俺を求めるラドに俺は違和感を感じていた。それでも、共に人生を歩む、と言ってくれた事が嬉しかった。大丈夫、こいつはもう殺せだなんて言わない、そうどこかで安堵したかっただけかもしれない。



「……本当はずっとこうしたかった」



それは俺もだと言う余裕はなくて、言葉で返すより、行動で示したかった。俺はお前に酷く重い熱を抱いている。甘噛みするように唇を重ね、ラドの厚い胸に手を寄せ、その体を押し倒す。首筋へ舌を這わせ、そのまま貪るように食らう。首筋から、胸へ、脇腹へ、下腹部へ、唇を寄せては甘く噛み付き、腹を満たす。殺してくれだなんて、二度と言うなよ。ベッドのスプリングが軋んだ。



「………お前が死んだら俺も死ぬ。忘れるなよ」



ラドの快楽に歪められる顔を見下ろすと、ラドは短く呼吸をしながら何も答えずに苦しそうな瞳を俺に向けるだけだった。なぜ、そうも苦しそうなのかとは聞く事が出来なかった。



「ラド………」



「君の、好きにしてくれ。…君の好きなようにしてほしい」



ラドの苦しそうな瞳の理由は快楽のせいだと思った。いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。何を考えているのか、腹の底が読めず、読む事が怖かった。こうして突然、俺を求める事もやはり何かがおかしい。でも俺は何も聞かず、目を伏せたのはまるで防衛本能なようだった。


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