16. 護衛
リーダーには俺もクラウドも風邪を引いて体調不良だと伝えた。医務室にも行かず体調不良なのでハントはできません、なんてふざけた話だとブチギレられてもおかしくないよなぁ、と考えていたが、リーダーは案外それをあっさり飲み込み、特に追求もしなかった。
あれから俺はほとんど食事を摂っていなかった。飯も食わず血も飲まない。チェックが忠告してきたように耐え難い苦痛が徐々に自分を襲う気配がしていた。気分が悪くなり、何度か空っぽの胃で嘔吐する。出すものは何もないのに、気持ちが悪くて吐き続けた。1日に3回、ラドには血を与え、共に眠る。体調が良ければ一緒に音楽を聴いたり、映画を観る。いつ戻るのかと問えば、鼻をひくつかせるようになった。でもまだ、目は開かない。
時間だけが過ぎていき、とうとう限界だと感じていた。きっと体が足掻き、疲れ、リアを受け入れてしまうようだった。苦しくなり、シェルフに用意してあった水を飲もうと手に取ろうとするが、力が入らずグラスの水を溢し、その水は勢い良く地面に広がっていく。拭かなければ、そう思うだけで体は言うことを一切聞かなくなった。
酷い目眩だった。目の奥がガンガンと殴られるように痛み、頭全体が割れるように痛い。あまりの痛みに吐きそうになる。気分が悪くなり、俺はそのままベッドから転げ落ちた。あぁ、間に合わなかった。ここからどれほどの地獄が待っているのだろう。いっそのこと、回復したラドが俺の息の根を止めて楽にしてくれないだろうか。酷な事をさせてしまうが、俺にとってはそれが最善だと思った。でもそれはまた、ラドだけが犠牲になるんだなと、あいつが辛い思いをする度に、誰かの重荷が軽くなるんだなと、俺は力の入らない拳を握った。
「……ラド、……」
ごめんな。結局はお前にとって過酷な結末になってしまうようだ。倒したコップの水のせいで体が濡れていく。寒気がしたが、動く事はもうできなかった。ぷつりと意識を手放し、深い暗闇の中へと落ちて行った。
「……シン! おい、しっかりしろ、シン!」
誰かが俺の頬を叩き、深い暗闇の中から引っ張り上げる。痛みから解放されたというのに、またあの痛みに襲われるのだろうか。もう、痛みは要らない。もう一度、深い眠りに落ちていたい。心地の良い眠りに…
「生きてはいる、よな? 飲み込めよ、シン。頼むから、目を覚ましてくれよ」
男の低い声には聞き覚えがあった。どこかふわふわと記憶が曖昧だが…、そう夢の中を彷徨っている俺の口の中に何かが入って来た。どろりと生温かい液体だった。反射的にそれをごくりと飲み込んで数秒。あれ…、と意識がはっきりと鮮明になり、ハッとした。
「良かった……良かった…。間に合った、かな。シン、おかえり…」
目の前にある顔、体、声、…ラドが戻ってる。今にも泣きそうな顔をして俺を見下ろしていた。そんな顔をさせたくはないのに、かなり心配かけてしまったみたいだ。けど、きっと俺の方が心配したんだぞ。文字通り、死ぬほど心配したんだぞ、この野郎。そう思うといてもたってもいられず、気付くとパシッとラドの頬に一発拳を入れていた。もちろんラドはぎょっと驚いている。
「え、…で、出た! 暴力! 怖い、暴力反対!」
わーん、と殴られた頬に手を添えて大袈裟なリアクションを取るラドに俺は無茶するなと叱ってやりたかったのに、怒りは一気に掻っ攫われてしまう。
「ついカッとなって殴ってしまった、すまない」
「常套句も怖い!」
乗ってやるとラドはこれでもかというくらい演技をしてみせる。今の俺の拳なんて赤ん坊の力くらいだろうがと、俺はついに笑ってしまった。
「……冗談言ってんじゃねぇよ。バカラド」
ラドはふふっと笑いながら俺に腕を伸ばし、すっぽりと体を包んだ。俺はラドの全てを嗅ぐように深く息を吸って、深く吐き出した。ラドはここにいる。低い体温に心底安堵してしまう。会いたかった……。どれほどこの瞬間を望んでいた事か、お前に想像できるだろうか。
「悪かった。ひとりにして、本当に悪かった…。あの時はあぁするしかないと思ったから。心配かけたな」
「今、安堵に泣きそうな自分に腹が立つよ。…こんな感情がなければ、俺はもっと強くいられたんじゃないかって。……お前のせいだ。言ったろう。責任取ってくれって。二度と、ひとりにすんじゃねぇよ」
その広くて厚い胸に気付けば涙を落としていた。ラドの腕に力が入る。ラドの鼓動を聞いては、俺はまた安心してしまう。
「今はまだ応急処置だけだから、ゆっくり休んで、しっかり治癒しよう。…君が俺に言ってくれていたように」
ラドに抱えられ、俺はベッドへと沈んだ。ラドの血を啜り、安静にする。ラドは横で俺を見下ろし、ゆったりとした手つきで髪を撫でられ、うとうとと寝かしつけられる。目が覚めると怠い体の俺を気遣い、横でラドはしばらく他愛もないくだらない話をしてくれる。流れで俺はある事を聞く。
「なぁ、リアについて聞いて良いか」
あの事を聞く良い機会だと思った。ラドは「あぁ」と頷く。
「リアがあの実験体なんだよな?」
ラドは表情ひとつ変えない。もしかすると、俺がそう聞いてくるだろうと予想していたのかもしれない。
「そうだと思う。あの時の実験体の顔や見た目に関しては全く思い出せないが、エヴァがビデオで言った事は本当なんだと思う。そうなるとゴッドの存在は辻褄が合う。俺を敵視している事も、全て」
「だから最初からあいつはお前を目の敵にしていたんだな…」
「今思えば、そうなんだろうな。あいつは俺の顔を知ってる。だからバンパイアとして仲間を増やしていく俺を、あいつは潰そうと考えたんだと思う」
「そう、か。……リアがそんなような事を言ってたから、もしかしてと思ったんだ。もしそうなら、あいつの恨みは根深いのだろうなと」
「あぁ。だが、研究員としての俺の判断は今も変わらない。あいつをあの時、始末していれば、君が苦しむ事はなかったのだから」
「生み出して殺すのはあまりに惨すぎる、がエヴァの意見だったよな」
「そう。だからぶつかった」
確かに、エヴァの言い分も分かる。だがリアはあまりにも危険で、世界を終焉に向かわせるのはあの男だとしてもエヴァは守る気なのだろうかと、俺は眉間に皺を寄せる。
「……君を巻き込んで悪かった」
そうじゃないのに。お前が悪いわけじゃないのに。ラドは苦虫を噛み潰したように、表情を歪めた。
「俺がお前を巻き込んでしまったんだろ。謝るなよ」
でもラドは少し思うところがあるようで、眉を顰めて困ったように笑う。
「いつかは決着はつけなきゃならないよな」
「リアと戦うのか」
「そうだな。でも、まずはあいつに会いに行かなければならない」
「……また、会いに行くのかよ」
「過去の清算だ。その上であいつが俺と君にこれ以上関わるつもりなら、宣戦布告って事になるだろうな。だが俺ひとりで決定出来るものではないのが実情だ。俺が真っ向から対立を宣言すれば、ゴッドの標的は俺の隷属に向けられる。だからゴッドから実害を受けてないやつらは、現状が良いと、きっと俺との対立で追い込まれる方が危険だと考えるだろうから、そいつらを説得しなければならない」
「そう、か……」
ラドがひとりで片が付く問題ではない、俺にはそこが抜けていたらしい。ラドの自己犠牲が最善だという言葉に首を絞められていたが、ラドにとってみれば守るものがあまりにも多く、そして大きい。俺が今出来ることは何だろう。守られてばかりは嫌だと足掻き、リアと向き合うと決めたのは俺自身だ。
「俺はもう大丈夫だ。だから行って来い。けどこれだけは忘れるな、必ず戻って来い。明日になっても帰らなかったら、どんな手を使ってでもまた俺はお前を探し出してリアの所へ乗り込む。それが嫌なら絶対帰って来い。いいな?」
俺は上体を起こして、そう意を決してラドに伝えると、ラドはふっと柔らかく微笑んだ。
「あぁ、分かった。明日には戻る。きっとこれが最後だ。俺があいつの元へ“話し合い”をしに行くのは」
「次会うときは、殺し合う時、か。分かった」
ラドは甘く相好を崩すと、俺の体を包むようにまた抱き締めた。大きな体のくせに、やけに小さく感じた。こいつだって何かを怖いと、不安だと感じる事があるのだろう。その時、少しでもその重荷を軽くしてやれるのが俺だったら良い。そう思った。
「戻って来たら好きなだけ食って良い。俺は、お前のもんだから」
ぽつりと呟くように吐き出した言葉に、ラドは体を離して目を見開いた。真っ黒な瞳が俺をじっと見つめ、驚愕と顔に書いてある。
「なんだよ」
「それ、ほぼ告白だけど…」
「今更だな。…覚えてねぇの? 俺、お前を押し倒してんだよ。結局、お前に薬盛られて何もしてないけど、言ったろう、俺はお前を殺せないって」
「そう、だったな……そう、だった」
ラドは何だかとても安心したように見えた。瞳が伏せられ、嬉しそうに口角を上げる。
「ラド、共に生きよう。一緒に一生を生きよう。だから、絶対に戻って来い」
ラドは無理矢理に笑顔を作っているようだった。眉は下がり、今にも泣きそうである。だがそれでも笑おうと口角を上げる。こいつにこんな表情をさせられるのは俺だけだろうかと、俺は優越感に浸ってしまう。ラドの頬に手を寄せ、その薄い唇に甘く噛み付いた。軽い音を立ててキスを交わし、「待ってる」と瞳を見上げた。ラドは深呼吸をすると頷き、「行ってくる」と俺の額にキスを落として窓から姿を消した。1匹のコウモリが夜空に同化して見えなくなるまで、俺はその姿を見ていた。
これで、リアと完全に対立し、あいつも容赦なく殺しに来るのだろう。そうなってしまえば、バンパイア達はどうするのだろう。あのイカれた神様を崇拝し続けるのか、バンパイアの王につくのか。そうベッドの上で考えていた。何も考えない、なんて事はできず、あれこれと考えてしまう。体はまだ若干重いが、痛みは何もない。だからこそじっとしていられなくなりそうで、それを必死に抑える。俺が今出て行けば事はややこしくなるし、悪い方に転んでしまうかもしれない。待ってる、と言った。だから俺は待つ。横になりながら俺は腕を組む。真っ白な天井を眺め、早く明日になって、ラドに触れたい。おかえりと抱き締めてやりたい。早く明日になれ。その時だった。コンッと窓に何かがぶつかったような音がした。俺は何事かと窓を凝視した。真っ黒な空から真っ黒な何かがバタバタと一生懸命に羽ばたいている。窓の鍵は開いてるし、ラドなら勝手に開けるだろうし。チェックやバースも勝手に入ってくる。そもそもここのセキュリティを潜れて、尚且つ、コウモリ。誰だ。怖いなと開ける事に躊躇っていると、コウモリはもう一度トンッと窓を開けるように催促する。俺は恐る恐る近付いて窓を開けると、コウモリは勢いよく中に入ると姿を変えた。
「え、なんでお前がここに…」
それは意外な訪問客だった。
「クラウドに頼まれたんだ。お前の護衛をしてくれと。前金は貰ってる心配するな」
情報屋のジョーカー、Jである。驚いた。見開いた目を閉じる事ができない。
「ご、護衛って…」
「ゴッドと決着をつけるみたいじゃねぇか。ファーストの隷属共に召集が掛かってた。だからこの隙を狙ってゴッドがお前に手を出す可能性がある。お前がゴッドの餌食にならないよう、最低限の事はしたかったんだろ」
「………俺も少しは戦えると思うんだけど」
「阿呆だな。今のお前がどう戦う? お前が万全の時だって、力の差は歴然だって言うのに」
「いや、そうだけど…」
それを言われたら何も言い返せないけど、Jをわざわざ護衛につけてしまうあたり、過保護というか何というか。それだけ警戒しろという事なのだろうが、そこまでしなくても良いような気がすると俺は唇を尖らせる。
だが一応Jは客であり、客をもてなそうかとキッチンで紅茶かコーヒーかと問うと、Jは熱いコーヒーで、とソファに腰を下ろす。あつーいコーヒーを淹れてコーヒーテーブルに置いてやると、Jは美味そうに一口飲んだ。口の中は麻痺してるらしい。全く熱くないようだ。
「クラウドのやつ、自分で心臓を撃ったんだろ」
「やっぱりお前の耳にも入ってたんだ」
「そりゃぁな。で、黒いネズミが現れた、と」
「お前も知ってたのかよ…」
「隷属は誰でも知ってるよ。それで、そのネズミに見覚えはあったんだろ?」
「見覚えも何もラフだったよ。お前に話した事あったろ、真っ黒なネズミの話。そのネズミだった。お前、知ってて何も言わなかったんだな」
「言えるわけないだろ。それに、言ったところで信じないだろうしな? けど今なら言ってやっても良いぜ? 無償でな」
「……なんであいつはずっと俺の側にいたのか、それが分からない。俺が落ち込んだり、ストレスを抱えると、あいつは必ず顔を出して、たまに添い寝して、…あのラフがラドなら、相当長い期間、俺を見てたって事になるだろ?」
Jは腕を組むと一度口を一文字に閉じ、少し考えた後に口を開いた。
「そうだな。お前がゴッドの元から消えた後、ゴッドはかなり焦ってた。お前はお気に入りの犬だったらしいからな。従順で力も弱く反抗もしない。そんな犬がある日突然、逃げ出した。何日も探したそうだが行方が全く掴めなかったらしい。そりゃそうだ、お前はこんな所にいやがったんだからな? で、ゴッドは誰に捜索を依頼したか、って事になるが、これで分かったろ」
まさか、それがラド……。俺は眉根を寄せてJを見る。もちろん、Jは嘘などついていないようだった。
「だとするなら、ラドは俺がどこで何をしているか知った上でリアには報告しなかったって事だよな?」
「そう、報告しなかった。長い間、隠し通してた。幸いな事に隠し通せていた。ゴッドの興味を散らして、お前の存在を遠ざけていた。けど、ゴッドからすれば怒り心頭に発する、だ。クラウドは早い段階でお前の居場所を突き止めていたにも関わらず報告せず、あろうかとかネズミとなって接触までしちまった。どうして接触までしちまったのかは俺には分からないが、粗方、お前に情でも移って知りたくなった、とかそんな事だろうよ。そして接しているうちに、気がかりな出来事が起きている事に気付いた」
「なん、だよ…」
怪訝な顔をしてそう質問すると、Jは首を怠そうに傾けた。
「…あいつがお前の前に初めて人の形として姿を現した時、お前はハントの帰りだった、そうだな?」
「そうだけど…」
「そのバンパイア達がゴッドの手下連中だったとしたら?」
「…つまり、俺がゴッドの手下というか信者というか、ゴッドを知るバンパイア達と接触するようになった。だからラドは常に俺の側にいれるよう手筈を整えた、そういう事なの、か?」
Jは「あぁ」と頷いた。
「久しくペットをつけてなかったあのクラウドが、お前を見ているうちに自分だったら助けられると思ってしまったのかもしれない。そうして近くにいるうちに、死場所にしちまった。お前にとったら勘弁してくれ、って感じだったろうが、……俺からすれば、とうとう来たんだなと、少し覚悟もしてる。あいつはお前の側が良いと、お前の為ならと、決めちまったんだろうな、と」
とうとう来た、という言葉に俺の眉間には更に皺が寄った。
「ど、どういう事だよ」
けどJは少し黙った後、いや、と首を振る。
「なんでもない。ただ、お前の許可なくして依存させたのは、一刻も早くゴッドの呪いを解いてやりたかったのかなと思ってさ」
「やたらラドの肩持つな」
「そうか? 一応は直属だって自覚、あんのかね。まぁ、いい。そんな事より、お前はこれからどうするんだ」
Jはコーヒーをまた一口飲む。
「どうもこうもないよ」
俺は話が長くなるだろうなと、ソファに腰を下ろして足を組んだ。
「俺がリアの元から逃げた、これがリアを焚き付けてしまった、だろ? だから何もかもをラドに任せるわけにも行かない。俺も戦う。俺もリアとは正面切ってやり合うつもりだ」
Jは一呼吸おいてマグカップをテーブルに戻すと、腕を組み、足を組み直し、俺を鋭い目でじっと見つめる。
「クラウドはきっとお前がゴッドとやり合う事に賛成はしないぞ。俺の話、聞いてたろ」
「いや、けど…」
「お前を守る為に始める戦いだ。お前がいなかったらあいつはきっとゴッドとはやり合わない。今のまま、自分だけを犠牲にして、それで満足してる。だが、ゴッドがいつ、お前を殺そうとするか分からない今、そうも言ってられなくなった。だったらここで決着をつけるべきだと考えたんだろう。そんなあいつに、ゴッドとの戦争に参加する、なんて言っちまったら卒倒するぞ」
「けど、俺だってずっと守られてるわけにはいかない。リアの元から離れた後、ここでハンターとして鍛えて来たつもりだ。俺だって弱くはない…」
「だとしても、相手はバケモノ。クラウドとゴッドの戦争だ、お前がいれば足を引っ張る。理解できるな?」
「………」
俺はずっと守られていろ、という事か。何もせず、呑気に、ラドが苦しめられても助けもせず、知らない顔して守られていろ、と。耐えられるわけがないだろ。拳を握る俺に、Jは口を開いた。
「クラウドが最後につけていたペットの話、お前は知ってるか」
「…最後? エリックさんが前に、ペットの話はしてくれたけど、詳細は知らない」
「なら、話してやるから教訓にしておけ」
「なんだよ…教訓って」
Jは少し緊張気味にまた足を組み直した。
「もう既に知ってる事なら聞き流してくれて良い。クラウドは今でこそある程度の信頼を隷属に対して持っているが、それでも完全には心は開いていない。あいつがペットをつける度に隷属内で反乱が起きていた事が原因でな。自分の隷属達がペットを殺そうとし、ペットを守ろうとするクラウドに痺れを切らしたやつがいた。そりゃそうだろ、自分達のリーダーが殺される可能性があるんだ。その可能性は早いうちに潰した方がいい」
「……まぁ、それは分かる、けど」
「で、お前の前につけていたペットの話だが、もう何年なになるだろうか…20年、いやそれ以上だろうな。いつものようにゴッドに連れられて来た人間の少年がいた。当時で確か、15とかそれくらい、ネオと周りからは呼ばれていた」
「ネオ……」
もちろん聞いた事はない。
「クラウドからすればガキだ。いつも当てがう人間とは系統が全く違う事にクラウドも驚いていたが、突き放せばその人間は失敗だったと、ゴッドがあっさり殺してしまう事も知っていた。だからクラウドは情を移さないようにしつつも側に置いた。いつか勝手に出て行くだろうと踏んでいたが、青年はいつまで経っても静かに側にいた。ゴッドに何を言われていたのか、最初は誘うような言葉もかけていたが尽く断られて、少年は静かにただ部屋の隅で本を読むようになった。そんな少年も時が立ち青年になる。ゴッドはたまに城に来ては、進展がないと呆れて新しくペットを当てがおうとしたが、その少年に言いくるめられて城を去る事が何度かあった。その時少年はゴッドに、自分が大人になればクラウドも自分に情を移す、少年として自分を当てがったのはあなたの采配であり計算の誤りだ、自分にもう少し時間をくれ、と交渉していた。ゴッドが受け入れるしかない算段はあった。なぜなら、その青年はゴッドに、クラウドを殺すよう命じられていたからだ。愛した者しか奪えない命、だからこそ、青年はゴッドにさえも強気で出る事ができた」
俺は話を食い入るように聞いてしまっていた。相槌も打たず、知らない過去の話を黙って聞く。Jは一呼吸つく為にコーヒーを飲むと、再び口を開く。
「で結局、ずるずると邪魔が入る事なくクラウドと青年は共に過ごしていた。長い時間を共にした初めてのペットだったろう。青年が20になる頃、ようやくクラウドは青年に心を開き始めた。自分を裏切るようなやつじゃないと思ったのか、それともゴッドが簡単に殺せる人間じゃないから、と考えたからなのか、少しずつ会話が増えた。クラウドが情を移したのは手に取るように分かったろう。作戦通りだとほくそ笑んだろう。だが、その青年はクラウドに恋愛感情を持つ事はなかった」
「…どうして」
「その青年、隣国の生まれだったんだ」
「つまり、ラドが侵略した国…って事だよな」
「そう。もちろん、時代が違うから、直接その青年が食われそうになったとか家族がとかではないが、それでもクラウドがどれだけ極悪かを聞いて育っていた。だから、そんな男に感情を移すわけがなく、むしろ自分の国を陥れたクラウドを殺そうと近付いたというのが事の真相だ。ゴッドはだからこそ、その青年は他のペットのように成果が無くとも長い年月を野放しにしていたのだろうな。愛されたとしても、愛する事はなく、確実にクラウドを始末する事ができると踏んでいたからだ」
「そんな……。け、けど、クラウドを殺さなかった。そうだろ?」
だってあいつは今でも生きている。という事は、そのペットはやはり…とどちらにせよ最悪の結末じゃないのかと、俺は眉を顰めた。
「まぁ、焦るなよ。最後まで聞け。クラウドは確かに殺されてない。なぜなら青年が殺さなかったから、それは明白だ。青年がクラウドを殺さなかった最大の理由は、クラウドの虚像だった」
「虚像?」
「真相を知ってしまったって事だ。キッカケは、クラウドが青年にぽつりと漏らした事だった。クラウドは、自分が人々を守る存在になるはずだった、と漏らしたからだった」
人々を守る、そう過去のラドは言われ続け、命令されるがまま隣国を食らったのだろうか。あいつは本来、誰かを傷付けたかったわけじゃない。だとするならやるせないなと、胸が痛んだ。
「酔っていたのか、クラウドがそう漏らしたのは最初で最後。青年はその言葉が妙に引っかかり、過去の出来事を調べてしまった。もちろん何を調べてもクラウドが夜の悪魔として人間を食い殺したという史実だけ。過去に関する事はどこにもなかった。だから青年は一か八かある直属のバンパイアに聞いたそうだ。そのバンパイアは悩みながらも青年に伝えた。クラウドはもともとは人間だった事、戦争の兵器として生み出されたクラウドは感情も記憶も奪われていた事、善悪の概念がそもそも無かったという事、青年はそれを聞いてしばらく考えた。クラウドが犯した罪は許されない事だが、善悪のつかなかったクラウドを罰する事はできるのか、と」
ラドが行った行為は到底許されるものではないという事は分かってる。だが問題はラドを罰するべきか、否か。世界はその真実を知ってもラドを始末しようとするのだろうか。許す事はできないのだろうか。俺はじっとJの話を聞く。
「青年の知っているクラウドは人を無闇には殺さないし、何かと不死だからと自分を犠牲にするようなやつだ。そこで合点がいった。そうなると厄介なのは、ゴッドと自分の関係だった。ゴッドが自分を生かしていたのは自分がクラウドなら息の根を止める事ができる可能性を持っていたからだ、もしその可能性がなくなってしまえば殺される。そう思い付いた青年の考えは恐ろいものだったかもしれない」
「な、なに。何だよ、どうなったの」
「ふふ、その青年はある直属のバンパイアを巻き込んで自分を殺させたんだ」
「え? ……は?」
「さっき言ったろう。クラウドについて調べた時に聞いた直属のバンパイアの事。青年はそいつを脅したんだ」
「脅した?」
人間の若い青年が、ラドの直属であるバンパイアを脅す。どういう事かと俺の眉間には深い皺が寄る。
「クラウドの直属に自分を殺せと言われれば、断るのが普通だ。殺せるわけがないだろ。クラウドがその青年を大切にしていたのは目に見えて分かっていたし、不思議なもので、その青年に関しては長い時間を共にしていたから他のバンパイア達も殺そうとはしていなかった。だから尚のこと、その直属のやつも断った。青年はそれを分かっていたからこそ、脅しを掛けた。そいつが青年に過去を教えたから、自分はクラウドを殺せなくなったと。そうすれば自分はゴッドに殺される。ここにいても自分はクラウドに恋愛感情を持つ事はないが、死にたくもない。だから、自分を殺してくれ、そう脅したんだよ」
「………で、殺したのかよ、そいつ。だってそいつにとってもリスクがあるだろ。クラウドにそいつが殺されるかもしれないんだから」
「そう。だからそいつはかなり迷っただろうよ。けど、青年はそれをも見越してた。クラウドは何があってもその直属を殺せないと踏んで、自分を殺すよう話を持ち掛けたんだ」
「なんでそいつは殺されないって知ってたんだよ」
「クラウドにとっては右腕だった。信用されていた。だからクラウドは何があってもそいつを殺さないと踏んでたんだ」
「…で、そいつ、本当に殺したのかよ」
「あぁ。青年の計画通り、クラウドの目の前で殺させた。その直属のバンパイアも巻き込んで、呆気なく、な」
やっぱり最悪の結末じゃないかよ…そう、無言でいた俺にJは畳み掛ける。
「だから、お前は何があってもそのままクラウドの側にいてやってほしい。あいつがお前を死場所に選んだんだ。ゴッドとあいつの戦いに、お前は絶対に関わるな。分かったな?」
守られてばかりいる自分に嫌気がさす。でも所詮、手も足も出ない事だって分かってた。分かってはいるのに…。お前は関わるな、と言われて、分かりました、と素直には頷けない。ラドにとってはトラウマになりそうな出来事があったという事も理解した。あいつにとってペットという存在がいかに重要で儚いものかという事も。俺さえ強ければ共に戦えたのだろう。もし俺がバンパイアだったら、今よりも力を得たら、あいつは俺に頼るだろうか。
「……俺が弱いから守られるのなら、俺は…」
そう言っている途中でJは全てを理解したらしい。焦ったように割り込んだ。
「やめておけよ、絶対に。実行すんじゃねぇぞ」
「最後まで言ってないだろ」
「だいたい思いつくよ、お前の考えてる事なんか。自分がバンパイアになれば、クラウドの助けになる、そう考えてンだろ」
「いやまぁ、そうだけど。そうしたら、リアの足止めくらいにはなるだろ」
「太陽光一発で灰になるんだぞ。こっち側には絶対に来るなよ。それだけは賛成できないし、クラウドはそんな事、望まねぇよ」
Jは必死になって止めるから、俺はつい尻窄みに言葉を漏らす。
「そうだろうけど…」
「良いから素直に守られろ。分かったな?」
分かった、としか言いようがないじゃないか。俺は頭を掻いて嫌々返事をした。何か良い方法はないのかと、自分に苛立った。俺はそのままベッドに戻って突っ伏し、Jに子供かよと笑われながらもそっぽを向く。そうしているうちにうとうとと、眠ってしまったらしい。誰かの話し声で目が覚めた。
「…よう、ご苦労さん」
「きっちり子守りしてやったよ」
「ふふ、ありがとう。で、説得してくれた? ゴッドとの戦いには参加するな、って」
「したけど効果があるのかないのか、分からねぇな」
ラドがどうやら帰って来たらしい。もうそんな時間なのかと、夢うつつで会話を聞いていた。
「守られるのは嫌だと考えてんだろうなぁ。俺が守りたくて守ってるのに、シンにとったら重荷に感じてしまうのかな」
「バンパイアになったら、って事まで考えてたぞ。だからそれだけはやめろと釘は刺しておいた。でも、きちんと話し合っておけよ、二の舞にならないように」
「そうだな。ありがとう、ネオ」
Jとラドの関係は心地良い。信頼し合っていて、Jがずけずけとラドに物申すような態度だから、ってのもあるのかな。
………って、何て言った? 今、Jの事をラドは何と呼んだ。
一瞬、訳が分からなかった。けれどその呼び名で一気に夢の世界から現実へと引っ張り出される。俺はしばらく固まったままの頭を回転させたが、いやいや、まさかと、急いでベッドから出た。
「ネオって死んだんじゃねぇのかよ!」
かけていた薄手の毛布に足を取られて転びそうになりながらも、ベッドルームからそう半ば叫ぶように言うと、リビングルームにいたふたりが目を丸くする。
「おはよう」
そうラドに言われて、まだ暗いがおはよう、と呑気な言葉は頭の中だけの返事で、口には出していなかった。パクパクと呆気に取られて何か言葉を搾り出そうとすると、Jが片眉を上げてラドを見ていた。
「あんたのせいだぞ」
「いや、ごめん。お前の事をジョーカーとかJとか、その通り名で呼ぶの慣れないから…」
Jは深い溜息を吐くとボサボサの頭を掻き、舌打ちをした後で俺に凄んだ。
「誰にも言うなよ。俺が生きてるって事、ゴッドは知らねぇんだ」
「い、言わないけど……。説明しろよ、死んだんじゃないのか? その直属のやつに殺されたんじゃ…」
「ネオは死んだよ。人間として人生を全うした」
Jはそうぽつりと呟くと、ラドを見上げて首を傾けて何かを考えながら口を開く。
「ペットになる事はできなかったし、ましてやそれ以上の関係になる事もできなかった。互いに恋愛感情なんてなかったし、こいつからすりゃぁ俺はきっといつまでも子供で、親心としての愛情だった。だからあの時、決めたんだ。親孝行はしてぇな、って。…だから、俺がもし殺されたら、こいつは俺を生かそうとするだろうって事も分かってた。自分の血を分け与えて、こっち側に引き込めば俺を生かす事になり、同時に手離す事になる。だから俺はその道を選んだってだけだ」
Jは俺をじっと見つめると、「だからお前は同じ道を歩むなよ」と釘を刺す。
「お前は、クラウドとこうなりたいわけじゃないだろ。違う関係を求めてンだろ。だったら変な事は考えるな」
そうか、そうなのか。俺がラドに求めているのは、親と子じゃない、それはハッキリしている。ラドの手助けを俺だってしたいのにな。でも、そうか、そうなんだ。
「分かった…」
頷くと、Jは心底安心したように肩を撫で下ろす。
「でも、生きてて良かったよ。ラドの側に長い間、側にいたお前がこうして今を生きていて良かった。過去の事を話してくれてありがとう、な。J」
「ふふ、ふふふ」
Jは肩を揺らして笑うとソファから立ち上がった。
「俺が感謝されるなんてなぁ。さて、と。俺はもう行くよ。ジェインに仕事任せて来ちまったし」
「助かったよ、ネ…じゃなくて、ジョーカーさん」
ラドはへらっと笑うと、Jはそれに釣られて頬を緩める。「またな」とだけ言って、暗闇の中に消えて行った。
「俺、全然知らなかった」
そうラドに告げるとラドは「だろうな」と笑う。
「知られちゃマズいし、あいつはあれで良かったんだよ」
それでもやはり、こいつはいつも損ばかりしているような気がした。俺は「そうか」とラドの隣に腰を下ろした。
「…話して来たのか、ゴッドと」
しばらくしてそう切り出すと、ラドは頷いた。
「あぁ。俺が本気だって事も理解したろうよ。これからどうなるかは分からない。けど俺はのやるべき事は決まった。…ゴッドを止める」
「あいつを、止められるのか」
「このままじゃ、止められない。けど、方法がないわけじゃない。だからそれが俺のやるべき事。だから先に言っておくな、シン」
「うん」
「もし俺が今後、あいつの元に戻る事があっても動揺しないでほしい」
「え?」
宣戦布告したんじゃないのか。元に戻るって何だよ。その言葉に今、動揺しそうだ。
「今のままじゃどうしたってあいつは止められない。だから、もし、俺があいつの元に戻る事があっても、それは俺にとっては時間稼ぎ。止めるために費やす為の時間、そう捉えてほしい。だから俺を助けに来たりは絶対にするな」
守られてばかり。頼ることの出来ない相手。俺は溜息を漏らしそうになった。でもラドはそれをまるで察したように、俺の顔を覗いた。
「けど、俺には君の力も必要なんだ。君が必要な時は、俺が君を呼ぶ。その時は頼む、力を貸してほしい」
「………当たり前だろ。そんな事」
ラドはゆっくりと確実に、リアを止める為に動いている。ラドがまたリアの元に戻らない事を祈るが、リアにとってクラウドという存在は苦しめても苦しめても足りない存在。仕掛けてくるに違いない。あいつはJを使ってラドを殺そうと画策したはずだが、同時にラドを殺せるペットを殺していた。Jの話を聞いて、明確に感じた。それが矛盾だった。リアの狙いは何なのだろう。あいつはラドをどうしたいのだろう。答えはいつか、分かるのだろうか。
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