15. 正体

それは突然だった。銃声と共にあのバンパイアの王が、不死身だと言われた男が散った。唐突に突きつけられたあまりにも冷たい現実に、頭も体も受け入れられず、状況が飲み込めない。



「あーあ、これでまた花束作れそう」



黒いバラの花びらが床一面に散らばっていた。血の匂いはするのに、どこにも血は見当たらない。血なんてものはどこにもなくて、そこにあるのは黒いバラの花びらとラドの着ていた衣服とあの銃だけ。エヴァはその銃を手にすると、袖口で銃を拭き、再びベルトに挿した。リアは花びらを蹴散らすと、にやりといやらしく口角を上げた。



「可哀想に。ヘルに感情は不要なのにね? ラディーは君に何て酷い事をしてのだろうか。さぁ、シン。顔を上げて。君は僕が愛してあげるから、それ以外は何も見なければ良いんだよ」



自分を見ろと顎に掛けられる指に誘導されるがまま、俺はリアの瞳を見た。リアが嬉しそうに笑えば笑うほど、徐々に冷たい現実が思考を蝕んだ。受け入れたくないと拒否をしたい。現実逃避できれば、とれほど楽なのだろう。感情がなければ、どれほど楽なのだろう。息ができないほど苦しい。震えが止まらない。まるでこれは悪夢。そう、これは悪夢で、きっとラドが大丈夫だと抱き締めてくれる。だとするなら、どうしたらこの悪夢から醒める事ができるのだろう。



「おかえり」



自分がもっと強ければ、俺に絡みつく、このイカれ野郎を殺すのに。ひとりじゃ結局、何も出来なかった。犠牲を出しただけだった。守られてばかりだった。自分は何も守れないのだ。結局、自分は何も出来ないのだ。リアは優しく微笑むと俺の腰に手を回し、首筋に顔を埋めた。



「君は僕のもの」



深々と突き刺さる牙に痛みを確かに感じているはずだった。なのに感覚が麻痺してしまったように、痛みすら感じなかった。リアは血を啜るとその傷は敢えて塞がず、ダラダラと流れる真っ赤な血を眺めた。



「こんなに美しい血を持ってるのは君しかいないよ。僕はもう二度と君を手離したりはしない。邪魔が入ったならまた消してあげる。君を愛してるのは僕だけだからね」



その時、ふと何かが壊れた。怒涛に感情の波が押し寄せ、防波堤が決壊するように一気に流れ込んでくる。それはあまりにも早く、あまりにも多くのものが輻輳しすぎた。俺を愛してるだと? ふざけるな。愛なんてのはこんな酷いもんじゃない。 ラドが与えてくれたものは、どれも温かくて美しくて尊かった。俺は溢れる血を止血しようとズキンと痛み出したその痕に手を寄せ、ぐっと力を込め、睨むようにリアを見上げる。



「あんたのそれは愛なんかじゃない」



傷を塞ごうと寄せた指と指の間から血が溢れて止まらない。リアはそれを眺めながら、舌舐めずりをする。



「へぇ」



「あいつが与える全てが温かかった。あいつの側にいたいと思った。愛なんてのはお前が俺に押し付けるような一方的で加虐的なものじゃない」



「へぇ、そう。あいつが与える全てが温かった、か」



リアは口角を上げ、目尻を下げ、優しく笑っている。瞬間、リアの拳が振り上げられた事だけは分かった。だが身構えて受身の体勢を取るよりも速く、その拳は頬を砕く。倒れた拍子に壁に頭を強く打ち付けたらしい。脳を揺さぶられ、起き上がる事はおろか口を開く事もままならない。視界はぼやけてリアとエヴァの位置も掴めず、身を守る事も、抵抗する事もできない。力の入らない腕でなんとか起きあがろうとするが、手をついてもまたそのまま地面に突っ伏してしまう。


こんなクソ野郎、殴って、ナイフをその心臓に突き立てて、喚き散らしても許さない。じっくりと、ゆっくりと殺してやりたい。ラドを殺した、こいつを。なのに、できない…。リアを殴る事すら出来ない。そんな自分が不甲斐なく、悔しくて、苛立ちと怒りに目頭が熱くなる。



「あいつが与えるものが温かい、か。あいつは自分が生み出したのに、自分の都合で殺そうとする、そういう冷酷なやつだよ。温かさなんて微塵もない。偽善なんだよ。全て偽りなんだ」



自分が生み出した、のに……。もしかして、と俺はエヴァが語っていたビデオの内容を思い出していた。ひやりと背筋が凍る。リアがラドを敵視していたのは、自分がバンパイアになり損ねたからではない。自分を生み出したにも関わらず殺そうとした恨みだ。リアはあの実験体なんだ。だからバンパイアでもなく、ヘルでもない。俺は目を見開いてリアを見上げると、リアはふふっと相好を崩した。



「愛を知らない君は分かってないだけだよ? 君はヘルなんだ、感情はないだろう? だから愛が何か分からず、ラディーに暗示をかけられただけ。可哀想なシン。でももう大丈夫。ラディーは死んだ。もういない」



前髪を鷲掴みにされると無理に顔を上げさせられる。霞む視界が少しずつ鮮明になっていく。トラウマとなって恐れた男の顔が目の前にある。ももう今の俺にとって、こいつはトラウマではない。復讐すべき相手であり、ふつふつと煮えたぎる怒りの対象だ。俺の顔を覗き込む男を俺は睨みつけた。



「ラドは、…死んでない」



あんな銃で死ぬわけがない。バンパイアの王は不老不死。唯一殺せるのは俺だけだ。だから、死んでなんかない。依存させておいて、勝手に死ぬなんて、あって良いはずかないだろ。だからラドは死ぬはずない。俺は腕に力を入れ、拳を握り締めた。



「あいつは、強い。…っ、…俺を置き去りにして、死ぬなんて……、何かの間違い、なんだよ…俺はあいつの血を飲んだ、だから依存関係にあるのに、…あいつが俺を置いて死ぬわけねぇ! 死んでなんかねぇんだよ!」



そう苦しさに言葉をつかえながらも訴える。そんな俺を見て、リアは微笑みを絶やさず、髪を鷲掴んでいた手を離すとそっと優しい手つきで髪を撫で始めた。「そっか」とぽつりと呟いて首を傾ける。



「君は何か勘違いしてるみたいだ。君は死なないよ。ラドが死んだとしても、君は生かされるんだよ?」



リアの長い指が髪に絡められ、口調はいつも通り優しく不気味だ。リアは俺を見下ろすと、にやりと口角を上げる。その笑みは不適で、奇妙で、ぞわりと鳥肌が立った。



「僕が君を依存させてあげる。ラディーじゃない、この僕と。だから君は死ぬ事がないんだよ」



力の入りきらない腕で必死にその体を押し返すが、無駄な抵抗でしかなく、リアの加虐性を駆り立てるだけだった。リアは自分の口に血を含むと、無理矢理に唇を合わせた。首筋から溢れ出る血の代わりに、口内から注がれる血を体は欲した。ぬらりと舌が口内を弄り、少し苦味のある血が口の中を満たす。ごくりと飲み込んでもまだ、その舌はぬらぬらと歯列をなぞって口内を犯した。



「……はな、れろ!」



精一杯の力で押し返し、リアが体を離したと同時にぜぇはぁと呼吸をする。酸素を目一杯吸う俺を見下ろして、リアはぺろりと薄い舌で唇を舐めた。



「無理矢理君を連れて行くのももう飽きちゃった。どうせまた家出するだろうし、繰り返すのもバカバカしい。僕はね、君に求めてもらいたいの。だから君から僕の元に来るようにしてしまえば良い。そうしたら、ずっと一生、僕が君の側にいてあげるから」



ドッと心臓が異常なほど大量の血液を体に送っているようだった。胸をハンマーで殴られたような激しい痛みに、呼吸ができなくなってしまう。はっ、はっ、と犬のように口を開けて呼吸をしようとするが痛みが強すぎて頭がよく回らない。苦しい。ただ、苦しい。痛みにぎゅっと体を縮こませていると、リアがケタケタと笑っているのが視界の端で見えた。



「苦しそうだね。でもそれが過ぎれば大丈夫。君はラディーなしでも生きていける。僕がいれば大丈夫」



どんどんと気が遠くなっていく。痛みが引いていくのと同時に、瞼が重くなっていった。あぁ、意識を保たなければ。意識を…。



「さ、エヴァ。行こう! その銃も改良しないとだよね? 汚れてない?」



「火薬が少し飛び散っていますが、問題ありません。綺麗なものです。さて、行きましょう」



窓を開ける音がした。ひゅぅ、と強い風が部屋に吹き、バラの花びらが宙に舞い上がった。ゆるりゆるりと宙を舞う真っ黒な花びらは、部屋中を満たして綺麗だった。ラド…。その一片に手を伸ばした。けれど掴む事なく、ぷつりと意識を失った。


………

……

治験募集のポスターを見た。身寄りもなく、孤児院を出されてから日雇いで食い繋いでいた俺は、そのポスターを食い入るように見ていた。学のない俺に、一発逆転の発想は1ミリもなく、日々泣けなしの金で食い繋いでいただけだった。


この国はバケモノを使って戦争に勝った。国が潤ったように見えたが貧困の格差が大きくなる一方で、その煽りを受けた貧困層で生まれ育った俺は抜け出す方法を見出せないまま、その治験募集への参加を決めた。道中、どこか遠くで人の悲鳴が聞こえていた。人間を食うバケモノも、俺のような人間は食わないらしい。


治験参加者は1ヶ月間の拘束だった。研究所から外には出られないが、たった1ヶ月で500もの大金が手に入るらしい。条件として成人している事、健康である事、外部との連絡を遮断できる事、それのみだった。やらない手はなかった。どうせ行く宛もないのだから。


指定された研究所に行くと白衣をきた優しい青年に面接をされる。名前、住所、年齢、職業、身分証明、そして家族の有無。家族はいないと答えた。自分を心配するような人はいないと。青年は笑顔で答えた。治験参加を認めます、おめでとうございます。書類には合格のスタンプが押されていた。なんだかとても嬉しかった。これで自分の人生をやり直せる、そう思ったから。


だがそのその治験こそが地獄の始まり。参加していた8割が死んだ。残り2割は生き残った。最終的に配合した薬が効いたらしい。最初に面接をした青年が言っていた。これでヘルを大量に生み出せる! そう半ば興奮していた。俺は運良く生き残ったが、人間ではなくなっていた。そう気付いたのは3週間が過ぎた頃。捕らえられたバンパイアを見て、脈が速くなり、喉の渇きを覚え、気付けば食い殺していた。最高だ!と白衣の青年は喜んでいた。そうして1ヶ月後、生き残ったやつらはバンパイアが棲家にしていた森に放たれたが、その時、感情はなくなっていた。無我夢中でバンパイアを食い殺した。


そうしたある日、ヘルである男ふたりと出会った。あの恐ろしい研究所の生き残りだと、話をしては仲が深まった。面白いものだった。感情はないと言われていたし、バンパイアを殺しても何とも思わなかったが、生き残りと話すと嬉しいや楽しいという感情はふつふつと戻ってくるようだった。とはいえ、人間だった頃の感情にはまだ遠いのだろう。嬉しいも楽しいも、なんとなく、そんな気がする、という程度なのだから。


森にいるバンパイアも少なくなり、狩りが難しくなってきた事を踏まえて、俺達は3人で共同で狩りをする事にした。森の中にあった山小屋に、バンパイア達が身を潜めていると言われていた。


だがそいつらはどこかの隷属で、下手をしたらバース、チェック、クラウドの直属かもしれないと噂があった。かなり手強く、ヘルが何人も殺されているから近づかない方が良いと他のヘルが言っていたらしい。その山小屋を俺達は目の前にしたのだ。偶然、見つけたその小屋に、久しぶりの食事があると考えれば飛びつかないヘルはいなかったろう。ましてやこちらは3人。勝てるだろうと踏んだ。久しく血を口にしておらず、飢えていた。喉が渇き、腹が減っていた。だが山小屋を開けると、そこはもぬけの殻。誰もいなかった。


代わりに後ろから悲鳴が聞こえた。ハッと後ろを振り返ると、先程まで話していたヘルのひとりが血を流して倒れていた。もうひとりのヘルと顔を見合わせて逃げようと決意した時にはもう遅かった。もうひとりは突然現れた体格の良いバンパイアに捕まり、気付けば5匹のバンパイアが俺達を囲んでいた。



『お前達が噂のヘル? 俺達を食うバケモノだよな?』



感情はないはずだった。だがその状況下で、恐ろしいと感じた。もうひとりも死にたくないと泣いて喚いている。恐怖心は本能なのか、消せない感情なのか。自分にもまだ感情が残っていると、久しぶりに実感した。恐ろしい状況下にも関わらず、感情があって良かったと安堵していた。



『森の中って安全なんだけどよぉ、娯楽がないんだよなぁ』



もうひとりを捕まえていたバンパイアが怪しく笑った。



『その連れと殺し合いしてくれよ。生き残ったら見逃してやるよ』



その言葉は恐ろしかった。自分の命を誰かに握られている事に対する恐怖。殺さなければ、殺される。それでも苦楽を共にしてきたはずの同じヘル。同族を殺す事は許されないと、研究所のやつらは何度も何度も繰り返し言っていたが、もうひとりのヘルにとっては今が大事なのだ。雄叫びと共に刃を向けられる。振り下ろされるナイフをかわすのが精一杯だった。周りのバンパイアが楽しそうに笑っているのを横目で見ながら、俺はやめてくれと、目を覚ませと説得しようとしたが無駄だった。振り下ろした鋭い刃が腕を掠めた。血が流れ、隙をついて再度刃が振り下ろされる。弱肉強食の世界だった。感情なんてなくて良い、弱ければ殺される。俺は弱いから殺される。それだけなんだと覚悟した。


その時、パンっと鋭い破裂音が響いた。バサバサと一斉に鳥が夜空に舞い上がる。気付けば目の前にいたヘルが、どさりと顔面から地面に突っ伏すように倒れ込んだ。頭からはダラダラと血が流れていた。何者かがそいつの脳天を撃ち抜いたのだ。銃を握っていた男はその場に銃をポイっと捨てた。



『やっぱ飛び道具って楽だよねぇ。遠距離でも効果抜群! 自分の力を使わなくても楽に始末できるから有難い』



青年の瞳は赤かった。白銀の髪、眉も睫毛も同じ色だった。だからその赤はよく映えた。バンパイアは自分達の邪魔をされたとその青年に飛びかかった。多勢に無勢だ。青年は殺され、俺もバンパイア達に殺される、そう思っていた。だが現実は違った。あっという間の出来事だった。その青年はたったひとりであれほどのバンパイアを一掃した。返り血で頭の先からつま先まで真っ赤に濡らし、1匹のバンパイアをずるずると引き摺ると、俺を見下ろしてそのバンパイアを差し出した。



『あげる。君はバンパイアを食べるんだよね?』



警戒する事もなく、俺はむしゃぶりついていた。久々の血を貪り、美味い美味いと腹を満たす。青年はにこやかに俺を見ていた。



『ねぇ、僕と一緒に行かない? 僕と来れば君は食事に困らない。こんな人里離れた森でバンパイアを探し続ける必要はないよ。僕とおいでよ。でね、僕の友達になってくれると嬉しいな』


 

青年は無邪気に笑う。この青年もまたバンパイアなのだろうと思ったが、その力の差は歴然で、俺がその青年を食おうなどとは思わなかった。それにこうして俺なんかに手を差し伸べ、共に行こうと居場所をくれるらしい。友達だなんて、久しく聞いていない言葉だった。気付けば俺の頬は緩んでいた。俺は血のついた手を服で拭い、手を差し出した。



『俺で良いのなら……』



『うん、僕は君が良い! 僕の名前はリア。君は?』



『シン』



『シン! 宜しくね!』


………

……

意識がぼんやりと戻っていく。思い出したくもない過去を見ていた。リアが俺に近付き、俺に手を差し伸べたあの日の事を。俺があいつにさえ出会っていなければ、いや、あの時あいつについて行かなければ、こんな事にはなっていなかった。



「…で、ナディースが言うんだよ。バース様がさっき食べてた! ってよ! ガハハハ」



「お前は昔からそういうところあるよ。勝手に人の物を食べちゃうの、やめてくれないかな」



「いやいや、俺だってね、名前が書いてあるものは食わないよ! 名前が書いてないなら誰のものでもない、って事じゃねぇか」



「なんだ、その屁理屈。アホらし。お前と一緒にいると何もかもに名前を書かなきゃならないのか。俺、そんなの嫌なんだけど」



「いや、まぁ、それは、だな」



意識がようやくハッキリしてきて、ふと気付く。ここはどこだ。誰の話し声だ。目の前の天井、壁、シェルフ、窓、…俺の部屋だ。寝室のいつものベッドに寝かされている。じゃぁ、この声は? 俺はゆっくり上半身を起こした。だが体を起こすとぐらりと視界が歪み、再びベッドへと戻される。



「あれ、いつの間にか起きてる」



俺に気付いたのか、リビングルームでゲラゲラと笑っていた大男がのそっと寝室に入って来た。後ろからも見た事のある顔が面倒そうに入ってくる。



「ゴッドに血を分けられたンだろ。体が随分と抵抗してるらしい。無理に体を起こすと、また気を失うからやめておけ」



つらつらと俺に言ってくるのは、あのチェック。そしてその横にいる大男はあのバース。なぜ。その二文字が頭を支配する。



「……どうして、ここに」



重い体を再びベッドに横たえながらふたりを見上げると、バースが頭を掻きながら横に腰を下ろした。



「ゴッドが動いたって報告が入ったんだ。まさかなと急いで来てみたら、お前は倒れてるし、黒い花びらは散ってるし、かなり大変だったんだなって。だからお前が安定するまではちょっと様子を見させてもらおうかなと思ってさ」


 

「な、なんであなた方が俺の…?」



「俺達は別にお前の敵じゃない。ただ自分達を守る為ならクラウドのペットだろうが殺す、ってだけだ。だから俺達がここに来たのはお前の為というより、クラウドの為。そして俺達バンパイアの為」



どんどん訳が分からなくなっていく。まず何から聞けば良いのだろうかと悩んでいるとバースが俺を見下ろして口を開いた。



「この前の事は悪かったよ。けど、ハンターでヘルのお前をペットにしたんだ、こっちとしてはあいつが殺されると思った。お前さえいなけりゃぁ、問題は解決かと思ったんだけど、あいつ、そうなるのも覚悟の上だ、みたいな事を言いやがってさ。自分の死場所を見つけたみたいで、すげぇ腹立ったんだけど、それくらいお前の側にいたいって思ってんだなって……思ったから。俺はもうお前の命は狙わない。安心しろ」



「はぁ」



「反応薄いな」



「……いや、頭がパンクしそうなんだけど。ついこの前、俺を殺そうとしたバンパイアのトップふたりが急に部屋に現れて、俺を看病してるとか、意味が…」



「看病らしい事はしてないから安心しろ。打撲を治癒しただけだから」



「十分訳が分からない理由だよ。説明してほしい。ラドの為、って何?」



「ひとつ聞くけど、お前はあいつをどう思ってんの」



「どう、って……言われても」



「大前提としてまずお前はヘルで尚且つハンターだ。バンパイアを食う為の生き物だ。クラウドが依存関係にしたせいで、あいつをすぐには殺せなかった。だがどの道お前はあいつを殺すつもりだった。違うか? 極上の生き血を啜る為に生かしているだけで、お前はあいつを…」



そう思われても仕方のない事ではあった。でも殺さないからこそ葛藤があり、俺は首を横に振った。



「違う。……違う。けど俺だって分からない。…でも、ひとつハッキリしてる事は、俺はあいつを殺せない。それは依存関係だからという事じゃない。俺があいつの側に、いたい、から…」



絞り出した言葉にチェックは「そう」とぽつりと呟くと、首を少しだけ傾けて俺を見た。



「なら今から言う事をお前には受け止めてほしい」



どういう事だろうかと眉間に皺を寄せると、チェックは俺の隣を顎で指した。指されたそこにはラドが使っていた枕があり、その上に何かがいる。一瞬何か分からなかった。毛の生えた黒くて丸い掌サイズの何か。



「……ラフ!」



それは紛れもなくラフだった。ラドが来てから来なくなってしまった俺の唯一の友達であり癒しだ。あまりにも驚いてしまい、咄嗟に叫んでしまう。やはりド級の可愛さですぐに手を伸ばし、その綺麗な毛並みを撫でた。目眩なんて吹っ飛んでしまう可愛さだ。



「ラフ、じゃなくてラド、だろ。お前はあいつの事をそう呼んでンだろ」



…は? 本当に、は? である。一瞬、目が点になるという事を体験した。訳が分からないすぎて目が点になり、思考が止まる。何を言ってんだ。チェックは片眉を上げた。



「バンパイアの一部のやつはコウモリに姿を変えられる、ってのは分かってるよな? クラウドの場合は、コウモリとネズミに姿を変えられる。…知らなかったのか」



首を左右に振ると、チェックとバースは顔を見合わせて眉を顰めた。バースは腕を組み、チェックは頭を掻く。



「そうか、知らなかったのか…」



「ラフが、ラドって…本当なのか」



「本当」



「……ネズミと、コウモリ…」



だから俺が初めてあいつを見た時、あいつはネズミとコウモリのペンダントとピアスをしていたのか。あいつを象徴する動物、つまり、あいつが姿を変える事のできる動物。ラフが、そうだったとは思いもしなかった。



「クラウドは自ら心臓を撃ったんだろ?」



「あぁ。ラドを殺せる銃だって聞いてた。だから俺、怖くて…」



「あいつが死ぬ事に対して怖いと思うんだな?」



チェックはくすっと笑うと、バースの横、俺の足元に腰を下ろした。



「ヘルが誰かを愛するってのは、長い事生きてきたが聞いた事がないな」



これを愛だの恋だの言われても、まだまだ分からない。でも、ラドがリアの元へ行こうと俺に睡眠薬を盛った日、俺はどうしようもない感情に苛まれた。自分は捕食する側なんだと、突きつけられているみたいに抑えが効かなくなった。深く、繋がりたいと、全てを食い尽くしたいと思った。それを愛だの恋だのと言えるのだろうか。あまりにも勝手で加虐的ではないだろうか…。だから俺にはまだ分からなかった。自分の抱く感情が愛なのか、否か。



「俺にもまだ分からない。これが愛情なのか否か。どういう感情だったろうと思い出そうとしても、こればかりは思い出せない。人間だった頃も愛だの恋だのを経験してきてないから、なんだと思う…」



「へぇ、そう。そういう珍しいタイプのヘルが、クラウドを殺せないと苦しんでるのか。へぇー」



チェックはわざとらしく頷いた。



「そ、そんな事より、ラフ…いや、ラドの事を教えてくれないか。こいつは戻るんだよな?」



「それが今、お前にとっては大きな問題だよな」



俺はこくりと頷いた。



「まず戻るか戻らないか、で言えば戻る」



ラドにまた会える、という喜悦は顔に出ていたらしいが、チェックはその表情を見て、困ったように眉を顰めた。



「けど、喜ぶにはまだ早い。この真っ黒ネズミだけど、この状態で殺してしまえば本当に死ぬ可能性がある。ただ試した事がないから分からない。だからこいつが自力で人の形に戻れるまではしっかり看ていてほしい」



「分かった」



「で、問題なのはその期間だ」



「長い、のか…?」



「分からない。ゴッドに血を分けられたのであればお前には時間がない。完全にゴッドに依存してしまえば、ラドの血を飲んでも体が受け付けない可能性の方が高い。一刻も早くクラウドの血を口にしたいのは分かってるが、クラウドがどの程度で戻れるかは分からない」



依存関係を無理矢理に結んでしまえば俺はリアの元に戻るしか方法はなくなる。あいつにとってはそれが目的だったのだろうか。ラドを殺すのはただ邪魔が入らないようにするためだけであって、リアの目的は俺を自ら自分の元へ戻らせる事。だとしたら、その為だけにラドに銃を撃たせた。いや、リアは銃で殺せないと分かっていたのだろうか。分からない。



「ラドは今、一生懸命戻ろうとしてんだよな? けど、心臓に傷をつけてしまった今、それは容易な事じゃない。時間はどうしたってかかる。それはどうしようもできない事、なんだよな…」



「あぁ、お前はただ待つ事しか出来ない。だがこの事実を知らず、お前があっさりとゴッドの元へ戻ってしまったら、クラウドが随分と長い事、お前の側にいて思い続けていたというのに、浮かばれないなと思った。まして、お前もまたあいつを想っているのなら尚更だ」



「俺はリアの元には戻らない。何があっても、あの野郎の元には二度と戻らない。それは血を摂取出来ずに、干からびて死ぬことになったとしても、それは変わらない。だから安心してほしい。俺はいつまでもラドの復活を待つから」



だがチェックの表情は喜々する表情ではなかった。



「そう言ってくれるのは、嬉しい半分、正直複雑だ。確かにクラウドにとってみればお前をゴッドの元に行かせるのは最も避けたい事、だが、血を摂取せずそのまま我慢をするというのはいずれ死を招く。血が飲めず死ぬというのは想像以上に過酷な死だ。分かってるだろうが、ヘルだってバンパイア同様、体はうんと丈夫だ。ほとんどの傷や怪我は自己治癒力で治る。老化だって人間に比べてみればうんと遅い。簡単に死ねるもんじゃない。きっと苦しんで苦しんでもがいて死ぬ事になる。そんなことクラウドは望まない。そうなるくらいなら、ゴッドの元だろうが生きていた方がマシだと思うんじゃないのか」



簡単には死ねない。それは本当にそうだった。ヘルになったばかりだった頃、バンパイアが根城にしていた森に放たれ、バンパイアの数も底をつき食事に困ったあの時、耐えられないほどの喉の渇きと空腹を味わった。何もない胃で嘔吐を繰り返し、酷い眩暈と頭痛に、何度も死んだ方がマシなんじゃないかと思ったが、死ぬ事はなかった。痛みと苦しさで寝る事さえもままならないのに、丈夫なヘルの体はその心臓を止める事はなかった。あの苦しみを経験する事になる。だが、覚悟は揺るがない。リアの元からラドを救い出す時、何があってももう二度と戻らないと俺自身が決めた事だから。


俺はチェックとバースを交互に見て、意思は固いと口を開く。



「リアの元へ自ら行くくらいなら死んだ方がマシだ。そう決めたから」



「そうか、意思は固いんだ」

 


「あぁ」



頷くとバースはようやく嬉しそうに口角を上げ、「良かった」とぽつりと呟いた。



「クラウドはさ、お前の事となると頭が真っ白になるところがある。自分の心臓を撃ってしまえばどうなるか分かっていただろう。けどそれしか道がないと思うと、突き進んでしまう。自分さえ犠牲になれば全て解決するって、あいつはずっと思ってるから。それは昔から、だから、お前がこうなっちまったのはあいつの責任だが、その事は許してほしい…」



バースはぐっと拳を握っていた。



「ラドはバカだ。大バカだ。あいつが戻って来たらそう言って一発殴ってやるから良いよ」



ふっと笑うとバースはつられるように弱々しく口角を上げる。



「で、気になってたんだけど、ラドは…その、リアと因縁があるから狙われてるのか? 何か知ってるなら教えてほしい」



あの時、リアはラドに対して明らかな怒りを持っていた。エヴァがビデオで言っていたあの実験体であるならば、エヴァがリアと行動を共にしているのも理解できるが真相は分からない。バースは首を傾げると「俺達が分かる範囲の事にはなるが、」と前置きをする。



「ゴッドは昔からクラウドに異常なほど執着していた。俺達が感情を得て、バンパイアはバンパイアとして生きる場所を作ろうとしていた時代だったと思う。突然あいつが現れたんだ。見た目からしてもまだ十代だろう? だからあの時はなぜ、って俺達は頭悩ましてさ。俺達も人間だった時の記憶は無いから、あの研究所がどうだったかとか、誰がいたとか、全然覚えてないんだ。だから必死になって当時の資料を探った。当時の実験は十代の子供でも参加できたのかどうなのかって。でも真相は闇。最後まで分からなかった。んで、今に至るってわけよ」



バースは何者なんだか、と腕を組んで付け足した。だがやはり、あの実験体であることは濃厚だった。



「俺達の前に現れた時から、あいつはクラウドだけを敵視していた」



チェックはそう付け足す。



「だからクラウドもなぜ自分が、って困惑していた。しかも、戦争の兵器として国に使われなかったバンパイアがいるとは思えなかったから、余計に訳が分からなかった。そして俺達3人がオリジナルタイプだったはずなんだが、あいつはどの隷属でもないんだ。俺達の頭にはハテナマークが飛んでたね」



「エヴァってバンパイアを知ってるか?」



「エヴァ…? あー、なんか最近ゴッドと一緒にいる大人しそうなやつ? そいつが?」



ふたりは何も知らないようだった。だから俺は首を横に振る。



「いや、知らないなら良いんだ。ラドと何か関係あるのかなと思っただけで…」



バースは嫉妬かよ! と膝で俺をつついた後、クラウドは色男だから、と笑う。そういう事ではないのだが、と思ったが説明が面倒で俺は目を細めただけである。



「とは言え、あいつと何かあると言えば…誰だっけ? ほら、いたろ。黒髪の凛々しい顔した、顔に傷ある、…軍隊の中佐だった男」



「グラムス、とか言ったか。…でももうかなり前に死んだはずだぞ」



「あーそうだった…」



「グラムス……?」



眉間に皺を寄せた俺にバースはチェックを見て、言っていいのか、と目で訴えているようだった。



「ここまで言って聞かなかった事に、とは言えないだろ。別に今何があるってわけじゃない。良いんじゃないのか」



「ま、そうか」



頷くとバースは再び俺を見る。



「クラウドが一番最初にバンパイアに変えた、つまり直接噛んでバンパイアに変えた人間がグラムスって言う、なんかすげぇ正義感の強い男でさ。そいつがクラウドに感情を与えたらしい。クラウドが兵器ではなく、バンパイアの王として人間の無駄な殺生を嫌うようになったキッカケを作った男がそのグラムスって言うやつなんだ。人を無闇に噛むな、食うな、殺すなってな具合に。けど、そのグラムスもかなり前に死んだって聞いたんだけど。そいつ以外であいつと何かあるってのは、俺達には分からないかも。…あいつはわりと秘密主義と言うか、ゴッドのせいで大切なものは隠したがるから」



「そう、か」



グラムス、か。ラドの口からはまだ一度も聞いた事のない名前だが、もう既に死んでいるのなら特別警戒しなくても良いのだろう。そう考え、俺は口を歪めながら少し考えていた。やはり、警戒すべきはエヴァとリア。このふたりだ。

 


「ひとまず、さ、」



俺が深刻な顔をしていたからか、バースは気まずそうに話を変えてぎこちなく笑った。



「クラウドは生きてる。こうしてお前の隣ですやすや寝てる、というか気を失ってるけど、食事は与えてやってほしいんだ。口に血を数滴垂らしてくれるだけで良い。そうすりゃぁきっと回復が早くなるはずだから」



「分かった」



頷いてラドの綺麗な毛並みをもう一度撫でた。小さな体で、必死に呼吸をしていた。腹部が呼吸に合わせて上下し、時々、何もできなさそうな小さな手足がぴくりと動く。狂おしいほど愛おしい。



「……え、シン、ネズミ撫でながらすげぇニヤニヤしてるけど、どういう感情なの、それ」



「え? あ、いや、…可愛いネズミだなと思っただけ」



ニヤニヤしていたとは気持ち悪いなと、顔を引き締める。チェックはふっと笑うと「齧歯類好きなのか」と立ち上がるが、そうではなくてラフだから可愛いのだと俺はひとり頭の中で言い返す。チェックはバースを引っ張ると、「さてと」と立ち上がった。



「陽も沈んだし、俺達は帰るけどあまり無理に動き回るなよ。仕事もしばらく休め、いいな?」



「分かった。…色々と、助かった。ありがとう」



そう礼を言っただけなのにチェックとバースは顔を見合わせ、あまりにも驚いた顔をするからもう二度と礼なんか言ってやらない。



「ヘルに感謝される日が来るとは…」



「ヘルだって感謝くらいするよ。確かにバンパイアに対してする事はほぼないだろうけど」



「ふふふ、そうだよな? まぁ、それじゃぁ…さ、クラウドのこと宜しくな」



頷くとふたりは優しく口角を上げて窓から飛び去った。


俺は横向きに体勢を変え、ラフがベッドにしている枕を自分の方に寄せた。それを抱くように体を丸め、ラフの体を撫でる。例え俺がリアに依存したとしても、俺はお前といる。約束する。俺はお前のものだから。だから、早く帰って来い。そう念じながら親指に牙を立て、小さな傷から血を絞り出した。それをラフの口元に持っていく。気を失ってるラフに血を与えるなんて、喉を詰まらせて死にはしないかと不安になったが、小さな体はそれを欲しているようだった。数滴の血をこくんと飲み込み、そしてもう要らないと言うように全く飲まなくなり、また腹が呼吸と共に上下する。


この血にはきっとリアの血も混ざっているだろうに。ラドが吐き出したりしないかと心配になったが吐き出す事も拒絶する事もなかった。



「ゆっくり休めよ。俺はここにいるから、大丈夫だ。安心して、しっかり治癒しろよ」



ラドは俺の事を前から知っていた。初めてラフが部屋に現れたのはいつだったろう…。もうかなり経つ。ラドはその時からリアと繋がっていたにも関わらず、俺の事をリアには伝えていなかったという事だ。いや、それとも、その時には俺とリアの関係を知らなかった、というだけなのだろうか。分からない。


胸がぐっと苦しくなる。ラドと話したい、ラドに触れたい、ラドの声を聞きたい。それでも体は少しずつリアの血に蝕まれていて、内側から食われる感覚をゆっくりと感じていた。

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