11. 服従

凛々しい眉を顰め、薄い唇を半開き、頬を高揚させ、静かに呼吸を整える。ラドはどうしたってリアの元に行くつもりだという事は、嫌というほど理解している。だから俺は愛用のナイフを手にしてラドを見下ろしていた。テーブルには食べ終えた食事の食器と、8等分されたニンジンケーキ1ピース、それからラドが淹れた紅茶がまだ湯気をゆらゆらと立てている。


日が暮れ、ラドはケーキと共に紅茶を淹れると言ったのだ。自然な流れだった。だが紅茶に口をつけて、飲むべきではない、と咄嗟に体が判断した。飲んでしまえば終い。ラドはリアの元に行くつもりだと。



「睡眠薬、入れたろう」



だから俺はラドを外へ出さない為に暴力に頼る。床に押し倒し、両手を束ねて頭上で固定する。片手で押さえつけ、片手でナイフを握り、逃げないよう馬乗りになった。



「痛いのが好き、そうなんだろ」



ラドはじっと俺の瞳を見た後、薄い唇を開けて口角を上げる。



「君に押し倒されて、そんな事を言われたら興奮しちゃうじゃない」



「リアがどんな野郎か俺は十分知ってる。何て言われた? 俺には手は出さない、その見返りは何だった? 明日の夜と言ってたよな? 明日の夜だけで、はいお終い、なんて解放されるわけがないと分かってんだろ。あの野郎はお前を都合よくコントロールできる口実が欲しいだけだ。このままだとお前はあの野郎の言いなりだぞ!」



俺は素直に怒りを露わにしているのに、ラドはふっと鼻で笑うだけだった。



「だったら、どうする? 君に何ができる」



どうせ君には何もできやしない。俺を止める事も、あいつを止める事も。そうラドは言いたいのだろう。だから俺はナイフを手にしていた。銀が含まれているナイフはバンパイアにはよく効く。通常であれば致命傷になるほどだが、この男にはどこまで通用するのだろう。


大きく勢いをつけて振り下ろしたナイフは、



「……っ」



ラドの掌を貫き、床に深く突き刺さる。血は出ていない。ただ手に残る骨を砕いた感触とラドの痛みを飲み込んだ声にならない声を聞いた。手荒い方法だ。俺がここまでするとは思っていなかったのだろう。ラドは痛みに浅く呼吸を繰り返した後、少し落ち着きを取り戻して俺を睨みつけた。初めて見る顔だった。この男から余裕を奪ったんだ、そんな顔にもなるかな。



「こうしなきゃお前、リアの元に行くだろ。行かないでくれと頼んでも、お前は嘘で塗り固めて消え、鎖で繋げればコウモリに姿を変えて抜け出す。だからこの方法が一番手っ取り早い。そのナイフ、お前にも効いてるようで良かったよ」



ラドの短い呼吸の間隔に伴って上下する胸に片手を置き、空いたもう片方の手でその頬に触れる。まじまじと見下ろすと、ラドは一度目を閉じて、それから溜息を漏らす。



「勘違いしてんなよ、シン」



ぐっと見開かれたその瞳を、俺は見下ろした。



「…あ?」



「俺がリアの元に行くのは俺が望んだ事だって言ってんだろ」



「まだそんな事を言って…」



「痛いのが好き。それ、本当だから」



怪訝な顔をした俺を睨みつけるように見上げるラドの表情にまた余裕が戻っていた。ゆるゆると口角は上がり、白い歯を見せる。



「お前が相手してくれンのなら良いんだよ? それで。どうする? ヘルに愛情はないんだよな? 恋愛感情なんて理解できないだろう。あぁ、それとも、愛情なんて持った事がないからそもそも不能なのか」



煽るだけ煽るこいつの気が知れない。何を考えているのか本当に分からない。俺を苛立たせて、暴力を振るわせて何がしたい。けれどそう質問したら、快楽の為だけだと答えそうで腹が立つ。



「俺が君に求めてる事、君はきっと俺に与えられない。だから俺はこのままで良い。君の側で君を守り続けて、それだけで…」



話を勝手に進めて纏めて、自分の居場所を制限するな。苛立ちに身を任せ、俺はその唇に噛み付き、歯列をなぞって舌を這わせた。溢れる唾液を飲み下し、舌を重ねては漏れる吐息を感じた。無理矢理に犯してる気分だった。これは吸血なんかじゃない。俺がお前に今している事、それが何を意味するのか分かってんだろ。



「…ん、……っ、シン、」



唇を離すと透明な糸がいやらしく繋がっていた。俺はラドの動揺する瞳を見下ろし、再び何かを言いかけた唇を塞ぐように口付ける。甘い快楽がふわふわと頭を支配する。ラドの舌が自分の舌に絡み付き、ピアスを撫でるように舌に触れた。



「吸血はしない。したら、俺が今している事が無駄になるから」



「……良くないな。本当に良くない」



ラドは息も絶え絶えに困ったように眉を下げた。



「何が良い、悪いを語る資格がお前にあるのかよ」



唇の端にキスを落としてそう呟き、そのまま首筋を甘噛みした。もちろん、このまま噛みつきたかった。目の前にご馳走がぶら下がっているのだから、そのまま食らいつきたいのが本音だ。だが、それは出来ないと自制する。こいつにはしっかりと分からせなければ。お前がリアの元に行く事が、何を意味してるのか。俺がどう思ってるのか。俺をこんな風に変えたのはお前だ。だから全てはお前の責任だ。



「シン、俺は…君にさえ心臓を貫かれなければ死なないんだよ。だから何だって出来る。だから、……だ、から…」



舌を這わせ、その厚い胸にも甘く唇を寄せて愛撫する。ラドの息が徐々に上がっていくのは見なくても分かった。ごくんと生唾を飲む音が聞こえて、ラドの表情を見ようと視線を上げる。



「良くないんだよ、シン…」



「何が」



「愛がないのに誰かを抱くのは、良くない」



ふざけた事を吐かすな。殴ってやろうか。俺は腹が立っていた。誘ったくせに、乗ったら急に怖気付きやがって。ラドにとってみれば俺が乗った事が心底驚愕だったのかもしれない。ヘルだと、どうせ自分には情を持たないと、何をしたとしても対処できると、鷹を括ったのだろう。



「誰、じゃなく、お前だろ。俺がお前を抱くんだろ」



そうしっかりと直接言葉に出すと、眉根がぐっと寄せられる。



「………シン、」



踏ん切りのつかない顔は見ていてイライラする。お前は俺とどうなりたいんだ。何を望んでるんだ。ただ俺を守ることが出来れば良い、なんてふざけた事を吐かしやがって。そう思って口をついた言葉は、「お前の責任だ」それだけだった。



「……え?」



聞き返されて、冷静になろうと頭を回転させる。



「だから言ったろ。お前の責任だ。愛情なんて厄介なもの一生要らなかった。他の感情を徐々に思い出し、人間に溶け込んでいっても、愛情だけは分からないままで良いと思ってた。愛情なんて待つだけ厄介。自分の足を引っ張るだろうって思っていたからだ。なのに、お前のせいだろ。こんな厄介な感情に苛まれて苦しいのは、お前のせいだ。……だからもう覚悟しろよ。誘ったの、お前だろうが」



真っ黒なその瞳を見つめたままそう言い切ると、ラドの唇が微かに動く。何かを言おうとしてはやめて、もう一度何かを言おうとしてはまたやめてしまう。深く息を吸って、深く吐き、ラドは表情を緩めた。



「分かった。……そうだよな。つい怖かったのかもしれない。君はいっときの感情に流されてしまっているだけなんだろうって思ったから。でも、そうじゃないのなら、俺だって君が欲しいよ。だからシン、食ってくれないか」



「だからそれは…」



「分かってる。そうなると君にとってこの行為は食事になってしまう。けど、…けど、君に食われる事が何よりの快楽だから」



ドッと心臓が鷲掴みにされて、握り潰されたようだった。呼吸の方法が分からなくなってしまうほど、その言葉の破壊力に俺の頬は熱くなる。心臓が煩い。あまりにも脈が速くなるから、自分の体が心配になった。



「…ん、…っふふ」



首筋に噛み付いて甘い血を啜ると、ラドは愛おしそうに俺の頭を撫でていた。口の中が甘ったるい。



「たくさん食えよ。………しばらくお預けだ」



その時、気が付いた。甘い、だけじゃない。仄かに苦い。



「ラド、……お前、」



即座に吸血をやめて口を離すがもう遅い。ラドは眉を顰めると俺を見上げてぽつりと呟いた。



「ごめんな」



瞬間、ふっと目の前がぐるぐると回りだし気分が悪くなる。少しずつその目眩は酷さを増した。自分の体を支えていられなくなり、俺はそのまま横に倒れ込んだ。毒だ。だからラドは俺に血を飲ませたんだ。甘い言葉を掛けてまで血を飲ませたんだ。


苛立ちも憤りも、ふつふつと湧いてくるがそれを言葉にも行動にも表す事なんて出来ない。視界がどんどんと暗くなり、意識を保とうと、瞼を開けていようと必死に抵抗するが無意味だった。


クソ野郎……。ぎりっと奥歯を噛み締めようと力を入れたつもりが、もう何も力は入らなかった。カラン…とナイフが床に落ちる音がした。軽いキスを額に落とされた。ひゅぅと風が吹くと、何かが羽ばたいて出て行ったのが分かった。


………

……


酷い頭痛と共に目を覚ます。気分は優れず、自分にほとほと嫌気をさしながら上体を起こす。くそ。やられた。床に転がるナイフには血が付き、簡単に擦っても取れないほど乾燥している。俺は怠い体を無理矢理に立たせ、開けっぱなしの窓を閉めた。


何が守ってやる、だ。誰が頼んだ。ふざけんな。相手があのリアだとしても、俺はお前を何としてでも返すよ。何としてでも。


熱いシャワーを浴び、コーヒーを飲んでぼうっとする頭を叩き起こす。血がこびり付いたナイフを専用の液体に付け、綺麗に拭き取ってベルトに挟む。よし。外に出ると、昨日の大雨が去って晴天だった。太陽がギラギラと地面を焼いている。こんなに明るい時間にあいつを訪れるのは初めてだが起きているだろうかと、俺は車を飛ばし、ある情報屋のところへ急いだ。アジトからは車で20分程度の距離にある小さな街。割と栄えているが夜の街のイメージが強いその街は、昼間は閑散としており、出歩く人は少なかった。至る所に設置されているネオンのサインボードはもちろん今は消灯されている。


その街の外れにある一軒家。かなり古い白木の小さな家である。カバードポーチには自転車が一台置いてある。ジリリリと言う騒がしいチャイムを押し、返答を待った。が、応答がない。やはりまだ寝てる? いや、でもジェインは起きてるだろ。もう一度、ジリリリリとチャイムを鳴らす。



「…はいはーい!」



少しの間会っていなかった、つもりだったが時間の流れはとても早いようで驚いた。声はきっとジェインと呼ばれる少年の声だろうが、めっきり大人になっている。最後に会ったのはいつだったろう。もう3年、まだ3年なはずだが。



「珍しいお客様だ! 今、開けるねー」



そう言ってジェインはガチャガチャと厳重な施錠を外し、ドアを開けると俺を招いた。かなり大人っぽくなった少年は俺が知っている少年ではない。髪も瞳も同じダークブラウンで、前は短髪だったが今はお洒落にパーマをかけ、重く眉下まである長い前髪はパーマが取れたらかなり長そうだ。後ろは涼しく刈り上げ、両耳にゴールドの小さいピアスなんか開けているし、右腕の内側に小さなワンポイントタトゥーが入っていて、デザインはコウモリで、多分彫ったのはこいつの同居人というか、親代わりのやつだろうと思った。


なんだかとても垢抜けたなと、背が高くなり骨格も大人になってきた少年、いや青年見ながら感慨深くジロジロと見てしまう。



「ささ、入って入って」



ジェインは俺を中に入れるとすぐに施錠を済ませた。



「ご無沙汰すぎじゃない?」



ジェインは奥の部屋へと案内しながらそう愛想の良い顔で笑った。



「必要がなければ来ないだろ」



「遊びに来たって良いのにー」



「友達じゃないんだ、それはないだろ」



「え! ひどい、俺は友達だと思ってた!」



大袈裟に驚いて見せるジェインの後ろをついて地下へと降りていく。彼らにとっての居住スペースはこの地下であり、上の居住スペースはほぼ手はつけられていない。陽の光が一切届かない地下、ジェインは階段を降り、分厚い鉄のドアの前で虹彩認証を済ませてロックを解除する。中は以前来た時と何も変わっていなかった。広いリビングルーム兼ビジネススペース、キッチン、奥のマスタールーム、バスルーム、手洗、ジェインの趣味部屋がある。



「で、Jはいる? 緊急なんだ」



通称、情報屋のジョーカーと呼ばれる男が俺の目的である。長い付き合いの為、俺やジェインは彼をJと呼んでいた。このジェインという青年はJに昔拾われ、育てられた人間の子供で血の繋がりはない。



「シンが来るって事は一大事って事よね。うんうん、少し待ってて! 起こしてくる」



「悪いな」



俺は客用に用意されているであろうシングルソファに腰を下ろし、奥のマスタールームへ走って行くジェインを見届けた。マスタールームのドアが開き、真っ暗な部屋の中に彼は入って行って、パタンとドアが閉まる。5分ほどして、Jだけが姿を現した。ジェインは? なんて野暮な事は聞かず、俺は本題に入ろうとJを見上げて口を開く。



「リアの行方を知りたい」



腹を少し満たしたであろうJは無精髭にボサボサの髪を掻いている。白いヨレたTシャツからは見えないが、体中にタトゥーが入っており、彫師としても有名だった。眠そうに欠伸をして面倒くさそうだが、俺の一言でJはぴたりと足を止めて眉を顰めた。



「知ってどうするつもりだ」



「ラドを、…クラウドを連れ戻したい。お前、どうせ知ってんだろ。あいつが俺のパートナーだってのも、そして今、どこに行ったのかも」



そう伝えると、Jはそのままキッチンへと足を運び、アイスコーヒーを冷蔵庫から取り出して俺の前にあるウッドテーブルに置く。



「知ってたとして、連れ戻したいなんてどういうつもりだ。自分が何を言ってるのか分かってんのか」



「分かってる。お前には居場所だけを教えてもらえりゃぁそれで良い。あとは自分でどうにかする」



「どうにかするって、具体的にはどうするつもりだ」



「リアは俺を殺さない。だから俺がリアと直接話しをする」



「お前な、クラウドが何故あいつの元へ自ら食われに行ってるか分かってんだろ。そんな事、クラウドが許すはずないだろ」



「許す許さないの話なら、あいつが俺に嘘をついてリアの元へ行った瞬間から俺は許してない。だとしたらあいこ、リアの元へ行ってあいつを連れ戻して、ドロー」



「…クラウドとお前の関係、ある程度は耳に入ってる。その上で言わせてもらう。クラウドは長い間、ペットはつけてなかった、なのに突然ハンターに潜り込んでお前に接触して依存関係まで結んだ。それが何を意味するか分かってるのか」



ラドをあいつと呼ぶJが、なぜそこまでラドの肩を持つのか俺には分からない。だがここでJを説き伏せないと前には進めなかった。



「リアから守りたかった、そう勝手な事を吐かしそうだな」



「勝手な事って…、お前なぁ、」



「俺は人間の世界で生き抜く為に、感情を取り戻そうと必死だった。けど愛情は不要だった。誰かを愛する事できっと弱くなると分かっていて、それならば孤独に生きていたかった。なのにあいつが勝手に俺の世界に入って来て、守りたいと勝手な事を吐かしやがった。頼んでもいないのにあいつは自ら食われて、それで俺が救われたと思っていやがる。腹立つんだよ、…勝手な事ばかりされて、腹が立つ」



Jの眉がひくりと動く。Jはきっと、俺の知らないアレコレを知っていて、だからラドに肩入れするのだろう。でも俺はそのアレコレを知らないし、知ったとしても、俺はラドをリアの元から解放したいと思うのだろう。



「なぁ、J。ラドについて何を知ってんの。Jは俺の知らない何かを知ってんだろ?」



「…クラウドとゴッドの関係について深くは知らない」



Jの眉間に皺が寄り、溜息が宙を漂った。 



「ただあいつは、ゴッドがお前にとってのトラウマだという事に耐えきれなくなった」



何度か、ラドの前で俺は悪夢に魘されている。その度にラドは俺を抱き締めて安心させようと側にいた。確かに心底安心できたし、その悪夢を見たくないがためにラドの側で眠るようになった。ラドはその悪夢の原因がリアだと知っていた。でもあいつ、いつから俺の悪夢の原因がリアだと気付いていたのだろう。



「自分を犠牲にすれば良い。不死身の男が思いつく最善の策だろ。お前さえ目を瞑っていりゃぁ平和に過ぎるんだぞ。お前はゴッドに食われなくて良い、ゴッドはあのクラウドを食える、クラウドは自分のペットを守れる。お前がクラウドを救おうだなんて傲慢に考えなければ、平和なもんだろうが」



「俺に嘘を吐き続け、あのバケモノに食い物にされ、それは永遠と繰り返される。今、俺が行かなければ、リアは…ゴッドはこれからもずっとラドを俺から引き離して食い続ける。あいつは俺を人質にされて、いつまでたっても抵抗はできない。反旗を翻すなら、早い方が良い」



「………」



Jは口を噤み、俺をじっと見つめた。俺は意を決してここにいる。Jだけが頼みの綱なのだ。



「俺は人間じゃない。リアは俺の首に首輪をもう一度嵌めたい。だから交渉の余地はあると思う。だから、頼む、J。俺にラドを救わせてくれ」



「お前が行く事は、クラウドの意思を無視して打ち壊す事だとしてもか」



「俺の事を無視した俺の為の意思だろ。打ち壊した方が良い。………なぁ、頼むよ、お前しかいないんだ。教えてくれ。今、リアがどこにいるのか。ラドがどこにいるのか」



Jはしばらく口を閉ざした。頭を掻くと、胸ポケットから紙タバコを取り出す。ジュッとライターで火を点けると、葉の焼ける独特な匂いが鼻を抜ける。Jは煙を肺深くに入れると、ふぅーと天井に吹き付ける。



「陽が沈んだらここへ来い。金は500、いつもの口座に振り込んでおけ」



俺は感極まってついJに抱き付きたくなった。あぁ、良かった。一歩、前進だ。アジトへ戻り、送金を済ませて夜を待つ。陽が沈むと俺はすぐに彼らの元を訪れた。夜食を作っていたらしいエプロン姿のジェインに出迎えられて地下に入る。



「お前には今からこいつになってもらう」



「……え?」



Jは眼鏡をテーブルに置くと、数枚の書類を俺に手渡した。パソコンに張り付くといくらバンパイアでも目が疲れるらしい。朝と服装は何ひとつ変わらず、ダルダルなTシャツ姿だが、長い黒髪を高い位置で丸め、縁無しの眼鏡をかけていた。



「名前はロガロ・ブルーシェ。バンパイアの方が忍び込みやすいから、バンパイアって事にしてある。で、この男の名前で今日開かれるパーティーに参加できるよう手配した。お前は知ってるだろうが、貴族を集めて行われるお楽しみパーティーが今日開かれる。そこに潜って、クラウドを見つけ出せ。それからお前がなるロガロという男の情報はそこに記載してる通り。特殊メイクはこっちでする」



「待て待て」



「なんだ」



「俺は場所さえ知る事ができれば…」



「正面突破する、か? ゴッドに交渉なんて無駄だと分かってんだろ。クラウドの場所を教えてくれと頼んで、あいつが教えると思ってんのか。ふたり揃って食われて終い。クラウドの犠牲も無駄になる。だったらバレずに奪い返せ」



「いや、まぁ、そうだけど……。でもこんな事しちまったら、お前にとばっちりが行く可能性だって…」



「お前の正面突破案よりはないから安心しろ」



「……」



腕を組み、口を曲げて悩んでいると、Jはせっつくように俺のケツを叩く。



「覚悟を決めろ。乗るのか乗らないのか」



「乗る」



それしか方法はないんだろ。Jはふっと笑うとジェインに指示を出し、ジェインは自分の趣味部屋に俺を案内した。昔はゲームやマンガ本で埋め尽くされていたのに、今は作業部屋と化していた。大きな鏡のついた化粧台や大量のメイク道具は特殊メイク用、壁際にあるパソコンと2台のモニターは情報収集用だろう。反対側の壁に沿って置いてあるテーブルには物騒にも銃やナイフなど、武器が禍々しく置いてある。



「そこの椅子に座ってー」



背もたれのついたパイプ椅子の下にはビニールシートが敷かれている。俺は何をされるのかと少し不安になりつつ、腰を下ろしてジェインを見上げる。



「さてと、やりますか!」



変身、とはまさにこの事だと思った。メイクを終えた俺は別人だった。背格好は変わらないが、髪の色も目の色も変わり、顔の形も眉も鼻も唇も全てが変わった。派手な金髪に白いタキシード。声も変える為、小さなパッチのようなものを喉に貼り付けると、声はうんとハスキーに低くなった。へぇ。すごいなと、俺はすっかり感心していたが、まだそれだけではないらしい。



「ガダルフの丘に迎えが来ることになってる。ゴッドの手下で、お前をパーティー開場まで連れて行く役目だ。そいつはもちろんバンパイアでゴッドの信者。そいつに万が一、お前に不審な点があると疑われて探られたら一巻の終わり。だから、念には念を、これを打つ」



差し出されたのは一本の注射器だった。中にはドロリとした粘質な赤黒い液体が入っている。なるほどと俺は顎を撫でる。何年か前に禁止された方法だった。一時的にバンパイアの血を体内に入れ、バンパイアに成りすまして集団の中に入り込む。ハンターに情報を渡す為にハンター組織の調査班が行い、問題となった方法だった。少量だから24時間も経たないうちに人間に戻るのが8割、2割は順応できずそのまま体を蝕まれる。というのは人間の話で、俺にとってはきっとほとんど無害だろう。受け取った注射器の中身をゆらりと揺らし、腕を捲った。



「ヘルも人間同様24時間の保有時間だろうか」



「人間よりは遥かに短いだろうよ。陽が出る前に決着をつける」



「分かった」



その注射器をJに返すと、Jは俺の首筋に触れ、血管を見つけたようでそこにぷつりと針を刺した。中の液体がゆっくりと体内を侵食していく想像をしてしまう。針を抜かれて数分だった。息が乱れ、軽い目眩を覚える。ジェインが心配そうに水を運んできたが、きっとすぐに治るだろうと余裕にも思っていた。碌に口も効けないほど、息が乱れていたというのに。ソファに横になり、治るのを待つ。急に体の中に入ってきた侵入者に、ようやく体が慣れたのはそこから約10分程度だった。



「もう大丈夫」



「良かったー」



俺が死ぬんじゃないかとそわそわ俺の側についていたジェインは、安堵に溜息を吐いて微笑んだ。小型の透明ワイヤレスイヤフォンを耳に入れ、Jからの指示が聞こえるように調整し、準備は整った。


ガダルフの丘は肌寒かった。今にも折れてしまいそうな細い三日月が空に浮かんでいる。迎えを待ち、20分が経った頃、黒の高級セダンが迎えに来た。



「ブルーシェ様、お待たせ致しました」



運転手も俺の案内人もバンパイアだろうが、力はそれほどないだろう。きっとコウモリに化ける事もできない。広い後部座席に乗ると、男は俺に場所を知られたくないと黒い布で目を覆った。視覚を奪われて脈が速くなる。不安のせいだろう。外の音にはかなり敏感になった。通り過ぎる車の音や枯れ木や草を踏む音、咳払い、エンジン音、…雨が降ってきたようで静かな車内には窓ガラスに打ち付ける雨の音が響いている。どれくらいの時間が経過したろうか。俺には分からなかった。体感時間だともう随分と長い事、車に揺られている気がした。なかなか到着しないなと、時間が経つに連れて不安になる。案内人がまったく話しかけてこないのも妙に緊張を誘った。俺は疑われているのではないか。こいつは今、俺を品定めするように眺めているのではないか。もしこのままこいつが俺を殺そうと動いた場合、俺には武器がなく、かなり不利である事は確かだ。だとするなら、戦わず逃げる方が得策だろう。まず、目隠しを外し、ドアのロックが解除されているか確認し、ドアを開ける、もしくは窓を割ってさえすれば外には…。そう万が一の事を頭の中でシュミレーションしていると、ガタガタと途端に道が悪くなる。舗装されていない山道を登っているようだった。ここはどこだろうか。ガダルフの丘から結構な距離を走ったろう。とはいえ、もう二度と戻っては来ない場所である。リアはパーティーの場所を毎度変え、どうせ明日にはこのパーティー会場ももぬけの殻になる。カタンと段差を超えると、舗装された道に戻った。いや、これは城の敷地内だろうか。外が若干騒がしい。



「着きました」



俺は目隠しを外した。長時間目隠しをしていた為、目が若干霞んでいた。外の雨は止んでおり、ドレスやタキシード、高級スーツに着飾った人間やバンパイアが城内には入らず外で屯している。コンクリートで舗装された敷地内、車は入口の前で停められ、俺が降りると奥へと入っていく。きっとガレージがあるのだろう。城は小さい古城といったところで、買い手がつかず長年放置されてきたような外壁だった。だが中へ入ると打って変わり、蜘蛛の巣ひとつない。荘厳な装飾に、明るいシャンデリアに出迎えられ、俺は案内人に案内されるまま、城の中を進んだ。


案内人と離れたらすぐにラドを探そう、そう思いながら玄関からずっと、どこら辺に部屋があるのかと見ていたが、部屋数があまりにも多い。これはJに頼るしかなさそうだ…。



「こちらの部屋でお待ち下さい」



案内された部屋にはすでに着飾った人間が3人、バンパイアが2匹いた。人間は貴族だろう。3人とも女性で、煌びやかなドレスを身に纏っている。リアは貴族の人間集めて見せ物をしては自分の欲を満たす。だから、この人達も良い身分で、金と暇を持て余し、刺激を求めてリアの元へ来た、といったところだろう。


それにしてもこの部屋は何なのだろうか。待合室みたいなもの、だろうか。だとするなら、何を待つのだろうか。人間とバンパイアを同じ部屋に入れて何をしようと言うのだろう。女性達はシャンパングラスを片手に談笑しており、バンパイア1匹は俺が入ってきても視線はこちらに向けず、窓の外をじっと眺めていた。赤毛で背の高い男である。もう1匹は金髪で、俺に背中を向けてソファに座り、分厚い本を読んでいた。この2匹は人間がいるにも関わらず、食おうともしないようだ。それぞれ互いに話すわけでもなく、入って来た俺を気にするでもない。


俺は壁にかけてある誰かの肖像画を眺めながら、この部屋を抜けて、どうラドを探そうかと考えていると、早速情報が入った。



『カメラが何台かある。ハッキングしてるがなかなか割れない。もう少しそのまま待ってくれ』



了解。俺はぼうっと肖像画を眺めながら、戦闘になった際の武器になりそうな物を目で探している。



「良い絵ですよね」



その時、誰かが声をかけてきた。絵を見たまま、その男の雰囲気を横目で察すると、心臓が急に心拍数を上げた。いつの間にか俺の隣に肩を並べて絵を見上げてる男は、足音ひとつ立てず、俺に微笑んでいる。



「……そう、ですね」



頭が真っ白になりそうだった。この男の顔を知っている。


エヴァ、だ。



「この古城の前の持ち主の肖像画みたいです。僕、結構この色合いが好きで、つい先程まではあなたのようにじっと眺めていました」



「良い色、ですよね……」



スムーズに会話をしようと自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、難しくなっていくようだった。それでもこんな所で失敗はしたくない。俺はその知っている顔を見ながら、「ロガロといいます」と牽制するように自己紹介すると、エヴァは愛想の良さそうな顔を優しく緩め、「エヴァです」と微笑んだ。



「パーティーは初めてですか」



エヴァはそう首を傾げる。



「はい。…楽しみで眠れませんでしたよ」



「ふふ、分かります。あの、クラウド、ですから」



「お会いした事は?」



「えぇ。随分と昔に」



「そう、でしたか」



何か情報は得られるだろうかと、俺は絵を眺めながら踏み込んだ。



「もうこの城のどこかには、いらっしゃるのでしょうね」



「えぇ。どこか知りたいですか?」



エヴァの鋭い視線が俺を捉え、俺は一瞬動揺した。



「え、あぁ、いえ。…知りたいというのが本音ですが、ここにいる皆さん、同じ気持ちでしょう。順番待ちはさせて頂きます」



「へぇ、謙虚で良い方だ」



エヴァは口角をゆるりと上げると、少しの沈黙の後、絵を眺めながら口を開く。



「あなたはとても人が良さそうだから、良い事を教えてあげましょう。ここにね、もしかするとハンターが来る可能性があるんです」



「え?」



耳を疑った。どういう事なのか。この場所を誰かが突き止め、依頼を入れたのだろうか。いや、まさか。そう眉間に皺を寄せているとエヴァは口を開く。



「とはいえ確定ではないですよ? だから他には伝えていません。変な不安を煽りたくないですから。ただそのハンター、普通のハンターではないんです。厄介な事に、クラウドを殺せる銃を持っている。だからここに来たらとっても厄介だな、と」



まさか……、俺は自分を落ち着かせようと精一杯だった。心臓が煩い。この男、俺の正体に気付いているのだろうか。



「真っ黒なバラが彫られている銃を持っているハンターがもしここに来たら、問答無用で始末して下さい。クラウドを殺されたら全て終いでしょう? あなたも楽しめない。だから、ね? もし、ここにいたら、そいつを食い殺して良いですよ」



絵画を見ながら微笑むその笑顔に背筋が凍るのは、この男の目が一切笑っていないから。冷静に、冷静に。こんなところで躓くわけにはいかない。



「ここの場所はごく一部の者しか知り得ない、だからただのハンターがこの場所を今夜中に見つけ出せるとは思えませんが、…そうですね、もし見かけたら、その時は始末しましょう。あぁ、エヴァさん、それとも捕まえたらあなたに声を掛けましょうか」



エヴァは俺の回答を聞くと俺の目を数秒ほどじっと見た後、ふっと笑みをこぼす。



「そうですね。その時はどうぞ宜しく」



「エヴァ、」



ぴりついた緊張感の中、窓を見ていた赤毛がエヴァの方へ来ると、「ゴッドが呼んでいるようです」と耳打ちする。エヴァは俺の真偽を確かめたかったのだろう。少しの抵抗が表情に現れていたが、リアの命令だ、逆らえるはずもなく、分かりましたと部屋を出て行く。



「彼は今どちらに? クラウドの部屋?」



「いえ、地下の…」



そう揃って出てく瞬間、赤毛は俺の手を取り何かを握らせた。それはとても一瞬で、拒否する時間も与えられないほどだった。エヴァはもちろん気付いていない。パタンと閉まったドアを確認し、その握らされた物を確認する。



『…チッ、カメラになかなか接続できない。これじゃぁ、情報が得られねぇな。このハッキング待ってたら時間切れになりかねない。プラン変更だ。赤毛のバンパイアを探せ。男で背が高い。俺くらいだ。右眉に傷がある。きっと城の中にいるはずだ』



赤毛のバンパイア。右眉に傷、確かにあったかもしれない。きっと彼の事だろうと、掌の中の紙切れを見下ろした。これ、だ。そこには、2階東の角部屋、とだけ書かれていた。赤毛には会った、部屋の情報を手に入れた、とJに伝えたいが人がいる所では話せず、俺はその小さな部屋を出て、Jには応答しないまま、人混みの中へと入って行った。テレパシーが使えれば、と無駄な事を考えながら、人々が屯っている階段を上がって東へと歩いた。濃紺ベルベッドの絨毯が2階の床に敷かれていた。肌触りの良さそうなその絨毯の上を歩いて突き当たりまで進む。何人かの人間とすれ違ったが、記載された部屋周辺には人がひとりもいなかった。


ここで合っているとのだろうか。鍵は掛かっているだろうか。重そうな黒いウッドドアには、ライオンを形取るドアノブが主張激しめに鎮座する。決して趣味が良いとは思えない。そのドアノブに手を伸ばし、ゆっくりと引くと軋む音は一切立たずに開いた。鍵が掛かっていないのはラッキー。だが、不用心ではないだろうか。もしかするとここにいるのはラドではない、とか空き部屋だったりするかだろうかと疑念が沸いたが確かめるには中へ進むしかない。


緊張にごくりと生唾を飲み込んで、ラドを助ける為だと自分を鼓舞して室内へと進んだ。入った瞬間鼻をつく重く甘い香り。独特な香のような香りだ。ムスクにもバニラにも似ているが少し違う。何だろうか、俺は好きな香りじゃない。入るにつれてその匂いは強くなり、俺は鼻を抑えながら中へ入っていく。


入口部分から部屋全体はまだ見えず、ゆっくりと中へ入ると、部屋の正面には大きな窓があり、カーテンは開けられているが、窓には鍵が掛けられ閉め切られている。入口を背に右手には一枚の古い絵画、広い牧草地で犬と戯れる少年の牧歌的な絵画である。左手にはバスルームがあり、少しだけドアが開いてた。中を一瞬だけ確認するが誰もいない。そのバスルームを過ぎると、ようやく部屋全体が確認できる。窓際には金の刺繍が施されたキングサイズのベッド、白いレースの天蓋カーテン、ベッドの左右にはシェルフが備え付けられ、窓側のシェルフには赤ワインとぶどう、反対側のシェルフには紺色のインペリアルエッグ、そしてベッドの横にはシングルソファがある。


天蓋カーテンの向こうにはぐったりと脱力している人影があった。ゆっくり、ゆっくりと慎重に近付く。横たわる男の右足は鎖で繋がられていた。その鎖は床へと繋がり、外れそうにもない。このベッドの上から身動きが取れない男は、俺に背中を向けて眠っているようだった。俺は男を見下ろながら天蓋カーテンを開け、その顔を覗いた。


ラドで間違いない。だが苦しそうに眉間に皺を寄せて、何かをひたすらに我慢するように目を閉じて呼吸をしている。おい、と俺はラドの肩を揺すった。ラドはまだ目を開けない。もう一度、おい、と強く揺する。ラドは重そうに瞼を上げると、視線だけを俺に向け、そして体勢を仰向けへと変える。伴って鎖も動き、じゃらりと鈍い金属音が鳴る。



「…悪いけど、まだ回復できていません。あと30分くらい時間くれます?」



明らかに顔色が悪かった。リアの趣味だろう白いブラウスの前は肌蹴ているが、目立った傷はないようだった。それでもかなり体力は消耗しているだろうし、血が足りないのは見て分かる。俺は横に腰を下ろして腕を突き出す。無言で突き出された腕に、ラドは目を点にした。ラドは俺だと分かっていないようで、眉間にどんどん皺が寄る。



「誰かが来る前に飲めよ。飲んだら逃げるぞ」



だから俺はそう言葉を掛けるが、今の俺の声は俺じゃない。



「…え? あ、ありがとう。だが…すまない。私は決めた人の血しか飲まないって決めていて…」



俺だと見抜けないあたり、本当に体力がないらしい。



「その決めたやつがここにいるんだけど。ここからさっさと出よう」



ラドはそれでも理解しきれないのか、信じられないのか眉間の皺が更に深くなり、俺の目を疑いの眼差しでじっと見つめている。ここまで気付かれないのも腹が立つ。俺は喉に貼ってある声帯チップを剥がし、「ここまでしても分からない?」そう首を傾げた。ラドの目はぎょっと見開かれる。



「君、なんで…」



「怒るなよ。けど、リアに囚われてしまえば一生檻の中。今解放されても次また、それが永遠と繰り返される。俺はお前がそんな風に苦しむのはご免なんだ。しかもそれが俺のせいなら、尚更ね」



ラドの表情は少し曇った。でも俺はもう引かない。こいつを無理矢理にでも連れ出すと決めたのだ。



「お前にもお前の言い分があるのは分かってるけど、今はもう諦めて俺に助け出されてくれない? ……帰ろう、ラド」



ラドは何か色々と考えているようだった。リアの事、俺の事、このパーティーの事、自分がここで投げ出せばどうなるかを必死に考えているらしい。だが、俺達には時間がない。



「ラド、ここに誰か来てしまえば厄介だ。ひとまず早く血を飲んで回復しろ。それから考えよう。…俺はもう覚悟を決めたから。あいつからいつまでも逃げてられない。リアと向き合うから、だから、一緒に逃げよう」



言い切るとラドの表情は少しだけ明るくなる。



「……カッコいいな」



困ったように眉は下げられ、ふっと優しく笑っている。そのまま上体を起こそうとした時だった、腕に力が入らないのか、体に力が入らないのか、ラドはそのままガクッとベッドに潰れてしまった。



「…先に血ィ飲めよ」



腕を捲って、手首を少しだけ切ってやろうかと牙を剥いた時、ラドはその手を掴み、「その前に、」と窓を見た。その手は異常に熱かった。



「窓、開けてくれ。この香、…媚薬なんだ。体に力が入らない」



へぇ。お前に媚薬が効くなんて。俺にはただ嫌いな甘い匂い、としか思わないから、俺には効かないのだろう。もしかすると、バンパイアにしか効かないのかもしれない。俺は窓の鍵を開けて、外側に窓を開けると、心地の良い夜風が部屋の中に吹き、甘い匂いが外へと流れていく。ベッドの横に備え付けられるシェルフにあるあの卵、あれってもしかすると…。ただの飾りだと思っていたそれは香立であった。よく見ると、上部には穴がいくつも開いており、ゆらりゆらりと煙が出ている。これだ。俺はその香と香入れを洗面台へと持って行き、水で濡らしてそのまま放置した。これで匂いはしないはず。



「どう、少しはマシになった?」



「だいぶ」



ラドは頷くが、まだまだ体は重そうだった。鎖を自ら外せないところを見ると、相当深手の傷を負ったのだろう。その治癒に体力を使う為、何もできない、といった様子だった。


再び腕を差し出す。ラドは素直に腕を掴むと、手首に噛み付いた。美味そうに食うなぁと、俺の頬は緩んでしまう。食事中のラドはそれはそれは美しい。長い睫毛を伏せ、髪を垂らし、頬を紅潮させる。その姿を色っぽい、と感じるのは俺が完全に絆されたからなのか、それとも誰が見てもそう思うのか定かではない。


真っ黒な艶やかな髪を撫でると、ラドは俺を上目で見た。伏せられていた瞳に見上げられ、途端に心臓がギュッと握り潰されて脈が速くなる。何も言わずにラドのその瞳を凝視していると、ラドは手首を離してぺろりと薄い唇を舐める。



「ご馳走様。…さて、一緒に逃げてくれるんだろ」



「あぁ、逃げよう」



ラドはそう微笑むと姿をコウモリへの変え、その足枷から抜ける。俺の目の前でまた人の姿に変わると、「行こう」と髪を軽く後ろに撫でつけた。



「待って、階段には人がいる。だから、お前はコウモリのままで、俺が抱えてこの城を…」



「ふふ、俺はこれでもバンパイアのトップよ。この方法が一番手っ取り早い」



ラドはそう言うと心の準備など出来ていない俺を軽々と抱え、そのままふわりと窓から身を投げた。臓器の浮く感覚に目を見開いて、ラドの体にしっかりとしがみつく。これは怖い。俺たちはあっという間にその城を後にした。


………

……


「で、窓から逃げて来たと」



「はい」



「追手は?」



「今のところはないかな」



「もう少し方法は無かったのか。コウモリを抱えて森に逃げれば騒ぎはもう少し抑えられたんじゃねぇのか」



「俺が抱えて抜け出す、ってラドには言ったけど…」



なぜかJに俺が怒られる。こっちは散々、恐怖の空中散歩をさせられたというのに。城から抜け出した俺達はJの家に戻っていた。バンパイアの世界ではきっと異質だろうJに、ラドが直接会った事があるのか否か知らなかったが、Jを見るなり「久しぶり」と、ラドは笑いかけたから初対面ではないらしい。ただJはラドを見ても無愛想な表情はテンプレートで変わらない。


ジェインの部屋でジェインに特殊メイクを外してもらいながら、俺はJに経緯を説明するが、なぜか俺が怒られた。ラドは優雅にソファの上に横になってテレビを見ていて、まるで他人事である。Jは心の底からの深い溜息を吐くと、ソファに寝そべるラドを見下ろして腕を組む。



「あんた、何を考えて窓から逃げた」



問い詰めるJは強面暴力刑事のようだった。怒鳴りつけて殴り出すんじゃないかとひやひやするが、さすがに相手はあのクラウド。手は上げないと思うが、分からない。ジェインに顔の特殊メイクを剥がされながら、俺はリビングにいるふたりをちらりちらりと横目で見ている。



「窓から逃げるか、コウモリを抱えて森へ帰るか、って言われたら窓から逃げるだろ」



「人に紛れて消えた方が誰があんたを奪ったか曖昧にできるだろ。今夜は何人もの人でごった返してた、だろ? 森にも人はいたろうし、車の出入りだってある。人がひとりふたり抜けたくらい、誰も気に留めねぇだろ」



「あの森にもゴッドの目はいくつもあった。逃げられないよ。窓から逃げれば俺がただ逃走しただけで済む。ま、ひとりの青年を抱えてるから、攫って逃走したと思われるだけ。でも森であいつにバレてしまえば、それは逆になる。俺を抱える青年、つまり青年が俺を連れ出したと丸分かりだ。…な? それは避けたいだろ」



そういう事だったのかと、ここまで来てもこいつは俺を守りたいし、俺からリアを遠ざけたいんだなと、俺は唇を噛み締めた。リビングで会話しているふたりの会話に割って入ろうかとも思ったが、俺はぐっと堪える。



「あんたはいつも自分を犠牲にしてるな」



「それが最善だから」



Jは苛立ったのか舌打ちを鳴らすと頭をガシガシと掻き、大きく息を吸って、深く吐く。



「主人の前でそんなデカい溜息つくなよ。一応君は俺の直属だろ」



ラドはそうくっと喉の奥で笑って片眉を上げている。Jはラドから直接隷属にされていたとは知らなかった。



「死ぬ事のないあんたさえ犠牲になればそれで良い。それが一番平和。……毎回毎回、それが本当に最善の策だから反吐が出る」



本当にその通りだった。でも、そんなの間違っている。こいつだけが苦しむなんて、俺は耐えられない。だったら俺にも痛みを分けてくれれば良い。分散させりゃぁ、少しはマシになるだろ。



「ふふ、まぁ、俺は犠牲だとは思ってないけどな。好きでやってるところはあるから」



「あんたの性癖なんて聞きたくねぇなぁ」



「なんだよ、もっと分かち合ってくれても良いんだよー?」



「はあ。……シン、終わったらとっととこいつを連れて帰れよ」



「分かってるよ」



Jはキッチンへ消え、ラドはまた何事もなかったようにテレビへと視線を戻す。ジェインに顔を拭かれ、「はい、もとどーり!」と肩を叩かれた。



「ありがとう」



「いいえー」



とっとと帰れと言われた俺は、呑気にソファに横になっているラドの元へ寄り、その呑気な顔を見下ろした。



「帰ろ」



ラドは俺を見上げると、「帰ったら飯、食べよう」とへらへら笑っている。痛かったろ、苦しかったろ。それを全て快楽だと飲み込んで。お前がとんだマゾヒストだってのは理解したけど、それとこれとは違うよな。俺を人質に取られて食われたくもないのに食われて、誰とでも相手をするのは違う。


茨の道になる。いずれリアと決着を着ける事になる。


その時俺は、お前の為ならこの命、差し出したって構わない。


でもそう言ったらこいつは、また、自分だけを犠牲にしてヘラヘラと笑ってしまう気がした。だから俺はその言葉をきっと言う事はないのだろう。

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