10. 神様の首輪

一度目が覚めてしまい、隣にラドの姿がない事に不安を感じて二度寝なんて出来なかった。元々はこんなに繊細に気にするような体質ではなかったがラドのせいだ。少しずつ、少しずつ、自分が変わっていくのを感じては苛立ちを感じた。変わりたくはないのに、変わざるを得ない。変わったら変わったで、ラドとの距離はどうなるのだろう。考えたところで答えは出ないのだろうが、考えては嫌になった。


分厚い本をひらりとめくりながら時間が経つのを待っている。かれこれ数時間は起きていた。2、3時間の睡眠だったのに、体は怠さも眠さもない。不安で眠れないとか何なんだよ。本を読む事にも飽きて、ベッドから下りた時、ふと冷たい風が頬を撫でる。風が吹いてきた窓を見る。ラドは何事もなかったように目の前で姿を変えると、「起きてたのか?」と驚いたように俺を見た。お前の事が心配すぎて二度寝ができなかったなんて、死んでも言わない。



「たまたま今起きただけ。…どこ行ってたよ」



「ちょっとね、野暮用。さて、俺は風呂に入ってくる。風呂入ったら寝るから、先、寝てて良いよ」



「風呂? こんな時間に?」



「そ、風呂。体冷えてしまってね」



ラドは逃げるようにバスルームへと姿を消した。シャワーではなく湯を溜めているらしい。どうして、今…? 今までなかった事に俺は違和感を覚え、しばらく様子を見ていた。バスルームが静かになり、そこにラドがいるかどうかも不安になる。シャワーを出す音、湯を張る音、鼻歌、何か音があって良いはずだ。


先に寝てて良いよ、と言われたがやはり眠れるわけがない。ベッドから降り、そっとバスルームに近付いて聞き耳を立てた。やはり、音がしない。開けるのはさすがによした方が良いだろうかと躊躇ったが、万が一という事もある。倒れている可能性だってある。こいつは死なないとしても、血を分けたり、介抱したり、少しは楽にする事くらいはできるだろう。俺はそうドアノブに手をかけて脱衣所に一歩踏み込み、バスルームを覗く。ガラス張りのバスルームのドアは、広い室内が丸見えだった。真っ白な猫足のバスタブ、湯は出さず、もこもこの泡風呂にラドは肩まで浸かっていた。横はシャワースペースになっており、使用した形跡はない。入ってすぐ風呂を溜め、ずっとこうしてるのか…。嫌な予感がした。それが的中しなければと願うが、願いはそう叶うものではない。ドアを開けて一歩中に入る。



「覗きだけじゃ飽き足らなかったか?」



ラドの揶揄うような言葉は、何かを隠そうとしている証拠だ。ラドは濡れた手で髪を後ろに撫で付け、無理に笑おうと口角を上げるがそんな余力はないらしい。俺はバスタブの蓋に腰を下ろし、ラドの顔をじっと見下ろす。気まずそうに視線は逸らされた。だから顎に指を引っ掛け、強引に俺を見ろと顔を向けさせる。しまった、という感情は、はっきりと顔に出ていた。



「お前、リアと会ってたろ」



「……どうして?」



「今までずっとそうだったのか。姿を消した時は、あの男の所に行ってたのか」



「……」



「なぁ、気になってた。あのビデオ、誰がお前に渡した? エヴァが今になってお前の前に姿を現し、ビデオだけを手渡したとは思えない。だとするなら、エヴァはリアと一緒に行動してんじゃねぇの。で、リアがお前にビデオを渡し、過去を突きつけた。お前は何か取引の為に、あの男の所を訪れる。そうなんだろ」



その取引が何かはビルの言葉で分かってはいた。ただ、目を瞑っていたかった。そうであってほしくない、と。でももしそうなら、俺はしっかりと向き合う必要がある。俺が向き合わなかったからこいつはきっと何も言わずにひとりで抱え込んだ。もし、俺が今ここで、何も言わなかったらこいつはこれからも変わらないつもりだろう。



「さてね、なんの事だか。腹が減ってるのなら、もう少し待ってよ。風呂上がったら良いよ、好きなだけ食われてやるから…」



「俺が気付かないとでも思った?」



「え?」



「甘ったるい匂い、このバスルームに充満してる」



「…へぇ。初めて知った。ヘルにとって俺たちは甘いのか」



「お前は特に」



ラドの視線はふと下される。詰められ、どう答えようかと迷っているのか、俺に全てを話す覚悟を決めているのか。



「……」



「怪我、してるだろ。それもそう簡単に治癒できないほどの大怪我」



ラドはぴくりと反応した。何も答えないという事は、冗談めかして嘘で固めるのも限界だと観念したのかもしれない。俺は湯の中に片手を滑り込ませ、その体に触れながら顔を近付けた。体が異常なほど冷たかった。湯は熱いくらいなのに、ちっとも体温は上がっていない。ラドの胸が規則正しく上下する。その瞳を睨むように見つめながら、胸に触れ、脇腹に触れる。



「……っ」



まだ治癒できていないのだろう、脇腹から下腹部にかけて抉られたような傷がある。表面が少しだけ治りかけてはいるが、回復にはまだまだ程遠いらしい。



「どうして食わせろって言わないんだよ」



「……ふふ、放っておけば治るから」



ラドは片眉を上げて、俺を見上げた。きっと急に食おうとすれば俺に訳を聞かれるのが嫌だったから、という理由もあるのだろうがそれは言われなかった。



「へぇ、そう。その割には苦しそうだけど」



「そう? 眠そう、の間違いじゃないのか。確かに少し眠いから」



食ったら俺が死ぬとでも思っているのだろうか。俺はラドの目の前で手首に噛み付いた。血はぼたたと牙を刺した穴から溢れて風呂を赤く染める。ラドの喉がごくりと上下した。



「食えよ。食って早く治せ。治したら話、聞かせてもらう」



手首から流れる血は止まる気配がない。ラドはぐっと顔を顰めると、諦めたように手首を掴み、舌を這わせて噛みついた。もう観念しろ。ラドの柔らかな髪を撫でながらその顔色を伺う。顔色はみるみるうちに戻り、こいつの甘い匂いが薄れていく。俺の血なんかで治癒が早まるなら、もっと頼ってほしい。ラドは唇を離すと、俺の瞳を見上げた。



「話す事は何もないよ。リアとは複雑な関係って前に伝えたろ? あいつとの付き合いは随分と長くて、互いに気持ちの良い事が好き、それだけだ」



ラドはそう言うとまた余裕に笑みを溢して湯船から上がる。



「こんな風に傷を負わされて、笑ってんじゃねぇよ」



決して何があったか、なぜ戦わずに食われ続けるのか、ラドは言うつもりがないらしい。やはり原因は俺だから、なのだろうと唇を噛み締める。ラドは濡れた体のまま脱衣所に出るとバスローブを羽織り、リビングルームへと戻った。



「君にはちょっと刺激の強い話をしようか」



ラドはそう言ってソファに腰を下ろす。



「…何」



「血を啜り肉を食う。流れで互いの欲も満たす。俺があいつに股開いてンのはさ、好きでやってる事よ。俺が苦しんでるって思ってるなら、そうじゃない。君の目に俺がどう映ってるかは分からないけど、俺は昔から快楽主義者で傲慢だよ。だからあいつとは長い時間、永遠の命を弄んでる。君は深く考えすぎているかもしれないが、君が考えるような事は何もない」



「好きで、……好きで、あの野郎に食われてるって言うのか」



「そうよ? 上手いんだ、あいつ」



ラドが喉の奥で笑っている。それが本音なのか建前なのか、俺にはこいつが何を考えているのか分からなかった。ただ俺は、憤りを感じていた。俺には何も言わないと決めた男にはきっと何を言っても無駄なのかもしれない。それは俺が、俺のせいなんだろ、と詰め寄ったところで何も変わらない。 


昼過ぎ、外は夕方頃から雨が降るらしくどんよりと重く暗い雲が空を支配している。ラドは相変わらずで、何ひとつ変わらない。飄々と妖艶で甘ったるい。



「…で、ニンジンケーキ、作ろうか」



「だからニンジンは買わないって言ってるだろ」



「俺ね、ニンジンケーキ作るの上手いよ」



「なんだよ、その顔に似合わない特技。スイーツ作れるのは尊敬に値するけどさ」



「ほらほらー。な? ニンジンケーキ、作ってやるよ」



「だからニンジンは嫌だって言ってんの」



「克服したんじゃないのか?」



「してない。お前が作ると食わなきゃならないから嫌なんだよ」



「へぇー」



「へぇー、じゃない。買わないからな。その大量のニンジン」



街のマーケットは雨が降りそうな曇り空だが、人でごった返していた。新鮮な野菜や近郊の牧場から直送で配達されるミルク、それからソイミルクにアーモンドミルクなんかも今日はあるようだ。いつもは売ってないものが今日は多いらしい。だから人が多いらしい。養蜂場のおっちゃんが買え買えとしつこい蜂蜜屋の前を通り過ぎる。


飯の支度には欠かせない場所ではあるが、ラドを連れて来ると碌なことがない。俺がニンジン嫌いを良い事に揶揄って楽しんでいるのだ。案の定、押しに負ける俺は結局ニンジンケーキ用の大量のニンジンを買うはめになり、肩を落としながら停めていた車の元へとふたり並んで歩いていた。夕方からの雨予報だったはずだが、今にも降り出しそうな冷たい風が吹き始め、車に乗るまでは降り出すなよと心の中で祈っている。



「フレッシュミルクはあるし、砂糖もある、あと買わなきゃならないものあったろうか」



ラドがうーんと首を傾げ、宙を眺めながら眉を顰めていた。家にある食材やら調味料を思い出しているらしい。その時、ぽつり、……ぽつり。あ、やばい。降り出したかと俺は空を見上げる。太陽は完全に雲に隠れ、ラドにとってみれば過ごしやすい環境になったろうが、雨粒が顔に落ちてきて、ラドと視線を合わせた。



「やべ、走ろう」



びしょ濡れになるのは勘弁だ。買い込んだ食材を抱え、少し離れた路地裏に停めていた車まで一直線に走る。車が見えたと同時に、ラドが俺の手首を掴んで足を止めた。重苦しい雨が途切れることなくザァザァと降りしきり、目を凝らしてようやく分かった。誰か、車の前にいる。ひらひらとこちらに手を振っていた。周りに人はいない。降り続ける大粒の雨。その誰かは深くフードを被っており、何かを抱えている。


ラドの舌打ちが聞こえる。「…くそが」、そう低い声で悪態をつき、俺の眉間に皺が寄った。そいつは一歩、一歩と近付いてくる。どうやら抱えているのは花束らしい。花は全て真っ黒なバラの花のようだった。フードを被ったそいつは、にやりと口角を上げる。不敵に笑う口元だけが見えた。けれど、口元だけで十分だった。その正体が分かると、俺の体は途端に緊張し、全身に恐怖が纏わりつく。



「ゴッド、どういうつもりだ」



ラドが俺の前に立つと、睨むように男を見つめた。ラドですら表情を濁す相手、余裕を失くすような相手だったのだ。俺を長い間檻に閉じ込め、地獄のような日々を送らせたあの男である。リアは呆れたように笑い出すと、「僕の犬」と俺を指差した。



「彼に挨拶したくてさ。お前が逃げ出したからこうして僕が直接挨拶に来てやったんじゃない。花束まで持ってサ」



リアの赤い瞳はじっと俺を見つめ、俺に真っ黒なバラ花束を突き出す。ラドの目は怒りに満ちているが、その怒りの理由はやはりこいつから俺を守ろうとする事なのだろう。なぜって、リアが俺を見つけてしまった、それだけなら「どういうつもりだ」という言葉には繋がらないし、怒りよりも驚きが勝るだろうから。何にせよ、今の俺にとってリアと出会う事は想定外だし、避けたい事に変わりはない。そう考えながらベルトへと手を伸ばし、ナイフに手を掛けた。



「受け取ってくれないの?」



小首を傾げるリアを睨みつけると、リアはクスッと困ったように眉を下げて花束を抱え直した。



「君の為に集めたんだけどなぁ」



「逃げ出したわけじゃない」



俺を見ていたリアに、ラドは噛みつくように言葉を搾り出す。リアの視線は俺からラドへと移った。



「忘れ物を取りに戻っただけだ」



「……へぇ、そっか! なら、戻って来るつもりだったのか!」



リアは不気味なほど口角をあげるとラドの方に手を伸ばし、その首に巻き付くように体を寄せた。



「それは勘違いしてごめんね。てっきりまた逃げたのかと思った。お前はやっぱり最高だから、お前を欲しがるやつが多くて困ってたんだ。明日の夜。僕に恥をかかせないでくれよ」



そう早口で語るとラドの肩に頬を寄せ、まるで別れを惜しむ恋人のような抱擁をしながら、じっと赤い瞳で俺を見下ろした。俺と視線が合うとニタリと笑う。



「逃げ出したらどうなるか、お前はしっかり理解してるよなぁ? 頭でも、体でも、十分に」



やはりな。ある仮説はもう仮説ではなく、立証されたような気がした。この男はいつの時代も誰とでも、やはり悪魔でしかない。俺はナイフを強く握り締め、苛立ちに身を任せた。この男に対する恐怖心は克服できないと思ったが、ラドを食い物にされる憤りはそれを上回り、そして牙を剥いた。



「おーっと、怖い」



けれど圧倒的な力の差は歴然で、そんな事は分かりきっていた。それでも立ち向かおうとしたのは、一刻も早くラドからこいつを離したいから。リアは俺のナイフをいとも簡単にかわすと、両手を上げ、ヘラヘラと余裕に表情を緩めている。



「君の怒った目、大好き。早く僕の元に戻っておいでよ。君を愛しているのはこの僕だけなんだよ? 何度も何度も何度も言ったじゃないか。君を愛してるのは…」



「ゴッド、用が済んだなら失せろ」



甘く囁くリアにラドは表情を強張らせる。片手で俺を制し、リアに脅しではないと睨みつけるようだった。リアはふっと笑って花束を床に置く。



「そう怖い顔しないでよ。シン、この花は君にだよ? 大切に飾ってあげてね。君の手元にあるBLACK LOVER、エヴァが作った最高の銃に描かれているあの花は、この花だから」



ひくっと目の下が痙攣する。リアの余裕な笑みは俺をただただ逆撫でしていく。



「それじゃぁ、また会おう。ラディー、待ってるよ」



瞬間、ふわりとリアの姿が消えた。まるで俺たちは幻影でも見ていたかのようにリアの姿は消え、黒いバラの花束だけが床に置かれている。ラドは何も言わずにその花束を拾い上げると、近くにあるゴミ箱へと捨てて何事もなかったように俺に微笑んだ。でも俺の内側はまだふつふつと怒りが残る。



「さ、帰ろう。ニンジンケーキ、作らなければ」



俺はナイフをベルトに仕舞い、ラドを睨みつけたまま拳を振り上げた。どうせ躱される。そう分かってはいても一発、その頬を殴ってやりたかった。こいつはきっと俺をリアから守る為に自分を犠牲にしたし、これからも何の躊躇いもなくしてしまう。誰がそんな事を頼んだって言うんだよ。



「………っ、え?」



だから殴った。いや、殴れた。頬にめり込んだ手の感触が分かる。じんわりと拳が痛んで、俺は訳が分からなかった。なんで、躱さねぇの…。自分のした事は殴られるに値するから、そう思ってんのかよ。



「え」



けれどラドはそう瞬きを何度もして、頬に手を寄せると状況を理解していないようだった。



「殴られてンじゃねぇよ」



「え、理不尽な事を言うね。ニンジンケーキ、そんなに嫌…?」



「そっちなわけないだろうが。お前、リアから俺を守る為に何か取引したろう。そのせいでお前には首輪が嵌められた。そうなんだろうが。あんなイカれた野郎との情事が気持ち良い? んなわけねぇだろ。俺に隠す為に必死になって、あれもこれもと背負い込んで。俺はそんなの望んでねぇよ!」



雨足は強くなっていく一方だった。ラドは頬を撫でながら、瞳を伏せ、その大きな体でそっと俺を包むように抱きしめた。



「…っ、おい、離せよ」



体を捩って逃れようとする俺の耳元で、ラドは囁いた。



「だって俺、何をされたって死なないから。自分の体を取引の道具に使えるのなら使うだろう。それで君を守れるのなら俺はいくらでも使うよ。だって痛い事、結構好きだから」



悔しくなった。ギリギリと奥歯を噛み締め、拳を握る。こいつはそうあっけらかんとまたリアの元へ戻るつもりだ。そう思うとどうにかしてでもこいつを止めなければ、そう怒りで支配される。そんなふつふつと煮立つ思考の中で考える。怒りの中で思い付く事はとても暴力的だった。暴力では何も解決しないと分かってはいるのに、俺はきっと暴力に頼ってしまうのだろう。


だってお前、痛いのが好きなんだろ。


俺は甘く微笑むラドの顔を見上げながら、ラドをあの男の元へ行かせない為の計画を立てた。

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