7. 厄介な感情

「今回のハントの依頼だが、グラフルス市長のご令嬢の直々の依頼だ。今回は私自身も現場に出るが、メンバーをシャル、そして君達の4人で対応する予定だ。調査員からの報告によれば、最低でもサードが5匹、セカンド3匹、そしてどうやらファーストの連中もいる可能性があるとの報告を受けた。この案件、是非とも君達にと考えているが受けるかね」



「はい。書類はこれですね」



「あぁ。明日の夜決行だ。準備をしておいてくれ」



「分かりました」



頷いた俺に、「ねぇ、」とシャルが首を傾げながら俺を見た。



「最近異常じゃない? バンパイアの派閥が無くなってるよね?」



俺は書類を懐に仕舞いながら、「そうだな」と頷いてラドを見る。ラドは眼鏡をくっと上げながら、「うーん」と唸っている。人前に出る時だけ、変装のように掛けている眼鏡だが、サイズが合っていないのか違和感があるらしく何度か人差し指の関節で軽く上げている。久しぶりに眼鏡姿を見たが雰囲気が大きく変わる。



「確かにバースやチェック、クラウド…彼らの直属の隷属ではない事は確かだと思うんだ。直属なんてきっと未だに力もあるし、簡単に始末できるようなバンパイアじゃない。だとするとはみ出し者、それぞれの隷属からあぶれた者。力もさほどなく、食うに困るやつら。だから徒党を組んで人間を襲う。…僕はそう思ってるけど、シンはどう思う?」



俺が始末してきたやつらが直属なのか否かは分からない。だが確かに徒党を組み、人間を襲っているのは間違いなかった。前回のハントだって、俺を襲ってきたあいつらはセカンドだのサードだの隷属は関係なかった。



「何か変化がバンパイアの世界で起きてる、そう考えるべきだとは思う。けどその正体は分からないし、戦ってみてもその謎は解けなかった。きっと今回も、どこの隷属だとか関係なく、あいつらは団結して俺達に対抗しようとすると思う。手強い相手には変わらない。手練れのあんたでも苦戦すると思う」



「へぇー。そんな事言われると楽しみすぎて眠れなくなるよぉ」



シャルは少し興奮気味だった。こいつは根っからのハンターだし、天職なんだろうなと考えながら再びリーダーを見る。明日午後9時集合、と取り決められ俺とラドは部屋を出る。



「…シャルが言ってた事だけど、最近のバンパイアは確かに変だよな。前に、お前もあいつらは同種ではないと言ってたが、それってシャルが言ってたように隷属からはみ出した者達の集まりだからなのか?」



何か知ってるか、とラドにその疑問をぶつけると、ラドはソファに腰を下ろして眉間に皺を寄せた。



「ゴッドの仕業、そう言ったら君はどうする?」



そうであってほしくないと考えながらも、予期していた事ではあった。それは前回、セカンドとサードが混ざって教会を根城にしていたあのハントの資料を読み漁っていた時に、俺が答えを求めていた事だった。何か手掛かりはないだろうかと。だがあの時は何も見つけられず俺は諦めたが、やはりリアと関係したバンパイア達だったのだ。リアの元にいた頃、あそこにはバンパイアが無数にいた。そしてそこはファーストもセカンドもサードも力は関係が無かった。



「つまり、あいつらはリアの…ゴッドの手下だと?」



「そうそう、君の言うリアの手下。もしそうだと言ったら君はどうする」



「どうもこうも…始末し続けるしかないだろ。その連中によって死人が増えるなら、一刻も早く止める必要がある」



「そうか」



ラドは少し表情を緩めて頷くとポンと隣を叩き、隣へ座るよう促した。俺はラドの隣に腰を下ろすと、ラドは「なら問題ないな」と呟くように言った。



「ゴッドに洗脳されたバンパイアはもう何匹になるか分からない。途方もない数かもしれない。だから俺は君に手を貸す、ハンターとしてゴッドを追い詰める手助けを。それに始末し損ねれば、それこそ問題だ。君の居場所も俺の事も、ゴッドに筒抜けになる可能性があるからな。とはいえ末端のやつらが君や俺の顔を知っているとは思えないけど」



確かにそうだった。リアの手下、人間を食い殺すバンパイアを殺す事は俺にとってはリスクとなる。リアが俺が今何をして、どこにいるか知られる可能性があるのだから。でもそのリスクは今に始まった事ではないかと、俺はラドに向き直る。



「依頼が入ったハントはきっちり遂行する。それだけだ」



ラドは優しく表情を緩め、「そうだな」と微笑んだ。


グラフルス市、ダウンタウンから車で30分ほどの郊外にある大屋敷は、かつてどこぞの大金持ちが所有していたらしい。数年前から廃墟となったその場所をバンパイア達が根城として、その街の人々を夜な夜な襲う。この屋敷に連れ込まれ、消息を絶った人間は判明しているだけでも5人になると言う。もし今日、俺達がハントに失敗すればまた死者が増えるのだ。食い止めなれければとリーダーはナイフの刃を確認する。屋敷を目の前に、俺はうんと伸びをする。シャルはいつになく楽しそうだった。ラドは風の音を聞くように首を傾け、何かを察知しようと屋敷を上から下まで眺めている。俺とラドにとっては、人間のふりをしながらハントをしなければならない。それが大きな足枷となるが、きっと手分けしてハントする事になるだろうとあまりにも広い屋敷を見ながら考えていた。



「何かあったらこれで連絡を」



ワイヤレスの小型イヤフォンを片耳に嵌め込み、小型のマイクの代わりになるチップを口の端に貼り付ける。腕につけている通信機を一度タップしてマイクも音声を遮断する。ライトを入口に向けた。



「シャルと私は左から、シンとクラウドは右から、良いね」



「はい」



自分の身長の倍の高さはあるであろう大きな重厚なドアをゆっくりと軋ませながら開ける。中へ一歩入り、ライトで照らしながら左右へと分かれる。どこからか吹き荒ぶ風が不気味な獣の遠吠えのように唸っていた。ひとつ、またひとつと部屋を確認する。リーダー達の姿はあっという間に見えなくなった。



「何も気配はしない、よな?」



黒いビロードのカーペットが敷かれる通路を歩き、ライトで部屋を照らしながらそう訊ねるとラドは上を指差す。もちろんライトは構えていないし、銃やナイフだってお飾りだ。



「ほとんどは2階にいる。あとはリーダー達の方に3匹。そいつらはきっとリーダー達でも問題なく始末できる。…気になるのは3階。ちょっと引っ掛かる」



長い廊下はまだ先まで続いてるが、どうやら一階にバンパイアはいないらしい。構えていたナイフを一度ベルトに挿し、ラドを見上げた。ラドはじっと耳を澄ませているようだった。しばらく身動きは取らず、耳を傾け、そして一瞬眉間に皺を寄せる。



「少し厄介なやつがいるかもしれない。不確かだが、もしそいつなら君達は早く出て行った方が良いかもしれない」



「ここにバンパイアを残して出ていけるわけがない。…悪いが、俺は進むよ」



「……そう、だよな」



ラドはそう言うと片眉を上げ、そっと俺の頬に手を寄せて軽く音を立ててキスを落とした。



「ならそいつは俺が足止めをする。君は2階を」



「分かった」



そう別れようとした時だった。反対側から何か大きな本棚か何かが派手に倒れた音がした。ラドと視線を合わせると、「始まったな」とぽつりと呟き、コウモリへと姿を消して瞬く間に闇へと消えて行った。リーダー達がハントをしている間に、俺が残りを始末しなければ。リーダー達と合流してしまえば人間のふりをしなければならず、面倒極まりないからなとその前に片付けてしまいたかった。


来た道を戻り、暗がりの中に階段を見つける。手摺には蜘蛛の巣が張られ、ところどころカビが繁殖し、一段一段と底が抜けないかを気にしながら上がっていく。2階はしんと静まり返っていた。大きな窓から月光が射し、木々が強い風に揺れていた。左右に部屋が3部屋ずつある。1階の騒がしい物音と悲鳴を耳にしながら、ナイフを構えて手前の部屋を開ける。静かなものだった。虫1匹いない。次の部屋も、その次の部屋も。


そして次の部屋。



「………え?」



異様な光景に目を丸くする。あたり一面が灰色なのだ。窓の隙間風から風が吹くと伴って舞い上がる雪のような灰。部屋の隅には行き場をなくしてそれらが山を作っていた。何事かと一歩踏み込むと血の臭いが鼻をついた。手の甲で鼻を抑え、ライトで部屋の奥を照らすが何もない、誰もいない。静かな部屋は妙に肌寒く、時折風がひゅうと肌を撫でる。ナイフを構えたままその部屋を見て回る。その時、ダンッと勢いよくドアが閉まる。驚いてそちらを見たが、誰もいない。



「ヘルはヘル。どんなに腕が良いバンパイアハンターとはいえ、所詮はヘル」



気付くと窓辺に男がひとり、鋭い瞳で俺をじっと見ている。男は頭の先からつま先まで黒に覆われていた。黒髪の短髪、黒い瞳、黒いジャケット、黒いシャツ、黒いネクタイ、黒いトラウザー。褐色の肌、両耳には小さなゴールドのフープピアス、指にはゴツめの指輪を嵌めている。やけに着飾ったバンパイアだと感じた。


俺は一歩、後ろに下がる。こいつはかなり力のあるバンパイアだろうと肌で感じたからだ。ナイフを握る手に力を入れ、体勢を低くしながらまた一歩下がる。後に手を回し、静かに入口のドアに触れ、鍵を掛ける。男は片眉を上げて俺を品定めするように上から下を舐め回すように見ると、ふっと鼻で笑った。



「俺を狩ろうとはしないの?」



俺は静かに頬のマイクに手を伸ばし、一度トンと触れる。ジジっと雑音が入った後で俺はゆっくりと口を開く。



「リーダー、シャル、今すぐ逃げて下さい! 今すぐ、建物から離れて下さい!」



俺はそう伝えてマイクを外して投げ捨てる。ナイフを構えたりまま、地面を蹴り上げ、勢いよく男に振り下ろす。男はひらりと身を翻す。ナイフを逆手に持ち変え、男の首筋を狙って再度振り下ろす。男にとって俺の動きは欠伸が出るほどゆっくりなのだろう。男は余裕そうに微笑むと俺の腕を掴み、いとも簡単に捻り上げた。



「……っ!」



痛みに顔を顰めてナイフを落とすが、俺だって甘く見られては困る。一瞬を見て、そのナイフを蹴り上げ、少し離れた所へ飛ばした。捻られた腕を後ろに回され、俺の口角はゆるりと上がる。力があるからと優位に立っていると思って油断したな。そのまま勢いをつけて後ろへ、男の方へ力任せに押し付ける。ガタン、と男は背中を壁にぶつけると、苦し紛れに姿をコウモリへと変える。やはりかと俺はナイフを拾い上げた。男はコウモリへ姿を変えられる。つまり、ラド、チェック、バース、この3人の誰かの血を色濃く受け継いでいる。隷属の中でも力がある直属のバンパイア、つまりそのま3人から直接血を分け与えられている可能性がある。そしてこの男はきっと最悪な事にラドの直属だろうと、俺はその動きひとつひとつを見て予想する。


男は再び俺の前で姿を変えると、舌打ちを鳴らし、俺の目を睨むように見つめた。



「腹立つなぁ」



男は目を細めると、一瞬にして姿を消す。本当に一瞬だった。集中していたのに見極める事ができなかった。気付けば一発頬を殴られ、灰を舞い上げて、俺の体は壁に強く打ち付けられる。あまりの痛みに呼吸が出来なかった。ぐっと苦しさに膝をつくと、男の手がすかさず伸びてくる。真正面から首を片手で掴まれ、そのまま勢いよく地面に叩きつけられた。口の中いっぱいに血の味が広がり、咽せて血を吐き出す。男はそれを見て目を輝かせていた。霞む視界の中、必死になってもがいた。馬乗りになる男の手を首から外させようと、必死になって掴んだ。男の手はぴくりとも動かない。苦しい。息が出来ない。蹴り上げる足はただ空を虚しく蹴り上げ、灰に足を取られて滑るだけ。酸素が脳に届かない。ギリッと奥歯を噛み締めるが、無意味な抵抗は体力を消耗するだけだった。首の骨を折られるのではないかと思うほど、首を絞める力は強くなった。もう限界だと、痺れる指先が語っていた。するりと片手に力が入らなくなり、意識を飛ばした。


誰かが呑気に鼻歌を歌っている。生きているのか死んだのか、ここが何処なのか。状況を把握するのに数十秒。場所は変わってなどない。隙間風が獣のように吠え、ガタガタと風で窓が騒がしく唸り、鼻をつく血の臭いと灰まみれの部屋。鼻歌を歌っているのは先程の男だった。男は俺の隣で怠そうに足を伸ばして座り、呑気に鼻歌をずっと歌っている。俺は動こうと身を捩って気がつく。手足を縛られている。身動きが取れない…。



「あれ、もう起きた? まだ寝てて良いのに。クラウド様はお楽しみ中だから、もう少し寝てろよ」



お楽しみ中…? ぼうっとする頭で今出来る事を考えるが、動かない体と鈍い頭は全く使い物にならない。男は俺の顔を見下ろすと、顔に掛かっていた髪を横へと流した。



「まだもう少し時間は掛かるだろうし、何か楽しいお喋りでもしてようか」



「ふ、さげんな……」



「あれ、声帯潰れた? 声、全然出てないじゃない」



「……っ」



男は俺を見下ろすと、「自己紹介がまだだったな」と余裕な顔で笑っている。



「俺はビル。元はお前と同じヘルで、今はこの通り日陰を生きるバンパイア。クラウド様の直属の隷属。お前にはさ、色々聞きたかったんだよ。なーんでハンターなんかやってんの、とか、なんでクラウド様と一緒にいるの、とか。まだ時間はある。だから、ひとつひとつ教えてよ」



何ひとつ答える義理はないと睨み付けると、ビルは少し苛立ちを顔に出した。だがそれはすぐに隠され、怪しく口角が上がっていく。



「ま、答えたくないなら答えたいと思わせる必要があるわけだね。ならひとつ教えてやろうか。ゴッド、…あぁ、お前はリアと呼んでるよな? リアとクラウド様の関係。知りたいだろ?」



俺の眉間に皺が寄ったのを見て、分かりやすいなぁとビルは肩を震わせる。



「あのふたりは絶対服従の関係にあるわけよ。そう聞くとお前の頭じゃぁ、この世界の巨悪とされるクラウド様がリアを服従させていると思うのかな? だとしたらおめでたい頭だよなぁ。クラウド様はリアには勝てない。リアはこの世界の神。そんな神にクラウド様は絶対服従せざるを得ない」



「そんなわけ、ねぇだろうが……」



不死身とされるバンパイアの王より力を持つ? ふざけんな。俺は否定したかった。そんなわけがないと。でも、ラドの言葉が過ぎる。俺と同等な強大な力を待つ存在。どこかではある考えが過っている。本当は同等ではないのかもしれない。リアは本当にラドよりも力を持った生き物なのかもしれない。



「あのクラウド様が、リアをお前に近付けないよう必死。本当、笑っちまうほど必死。あの人は、あーやって過ちを何度も繰り返すんだろうなぁー。学習しないのか、できないのか。想像してみろよ。あのバンパイアの王と呼ばれる男がさ、リアに何をされるか」



ラドが、リアに、食われる。そんなわけがない、そんな事があってはいけない。同等だと言うなら、抵抗くらいは出来るんだろ。けれど抵抗もできずに食われるのは、弱味を握られたから。俺は奥歯を噛み締めた。この世界はクラウドだけが巨悪の根源だと喚いてる。あいつだけを目の敵にしてきた。あいつを消せばこの世界は平和への大きな一歩を踏み出すと、不死身のバンパイアの王の首さえ取ってしまえば全ては元に戻ると信じられてきたというのに。それが覆されるというのだろうか。


俺はハンターとしてクラウドを追って来た。どれだけ非道な男かを知っているつもりだった。敵国の人間を食い、街をひとつふたつと落とした。女も子供も皆殺しだった。許されて良いはずがない。


でも、今、俺の側にいるクラウドは、ラドは、人ひとり殺せない、助けたいと手を伸ばし、それでも過去の出来事を背負い、俺に殺される事を望んだ。今のあいつは悪魔なんかじゃない。リア、あの野郎こそが悪魔なのに。



「あれ、そんなにブチギレる? 暴れたって無駄よ。手足のそれ、外せないだろ。お前がクラウド様から血を与えられ、直属だったならこんな拘束具、外せるだろうにざぁんねん。ヘルは所詮ヘルだよなぁ」



「ラドを、あいつを、どこに…! あいつを…」



「へぇー。クラウド様にそれなりに情は移ってンだ。ヘルのくせになぁ」



「答え、ろ……」



肺に激痛が走る。咽せて咳き込むと、ビルはまたニタニタと楽しそうに笑った。



「ヘルのくせに、クラウド様に情を移すなんて最高に滑稽だよなぁ? なぁ、もう食っちまった? アハハハ、それとも、まだ何もしちゃいない?」



なぜ、ここまで憤るのか自分でも不思議で理解が出来ない。それ以上ラドを侮辱するなと、高笑いする目の前の男の顔面を殴り付けたい。何度も、何度も。その鼻をへし折ってやりたい。さんざん痛めつけてから太陽の下に放り出してやりたい。そう酷い苛立ちに手を震わせるが、ビルはそれを分かっていた。そう憤る俺が何も出来ず、手も足も出ず、もがいている姿を見て、心底楽しんでいるのだ。ビルは俺の前髪を掴むと、無理矢理に体を起こさせ、にやりと不敵に笑った。



「知りたい事、教えてやるよ。今頃、リア様はクラウド様をぐちゃぐちゃにしてる。あの肉を食い、血を啜り、何度も上げられる悲鳴におっ勃てては全てを食いつくす」



「…っざけんな! ふざけんな、もう、やめろ…」



「信じられないなら本人に聞いてみると良い。リア様との情事はどうでした? って。気持ち良かったですか? って。ふふ、ふははは、足掻け足掻け、何もできねぇくせに」



ビルはそう言うと何か音を聞くように、一瞬横目で窓の外を確認して耳を澄ませる。ふっと笑うと、「時間だな」と呟いて俺を押し倒した。首筋が露わになるよう無理矢理に頭を押さえつけられる。向けられる牙に汗を握った。目を見開き、やめろと、やめてくれと、身を捩るが結果は変わらない。



「……っ、」



鋭い牙は肉を裂き、深くを貪る。心地良さも快楽も得られない。身が凍るような酷い激痛が全身を支配した。呼吸の感覚が狭くなり、脂汗が滲んだ。その時だった、何かがビルを弾き飛ばしたようだった。舞い上がる灰の中、体勢を崩したビルがペッと血を吐き出し、俺の後ろを睨み付けた。



「……ビル、自分が何をしたか分かってるだろうな」



ビルを簡単に弾き飛ばした男は俺を抱きながら、牽制するようにビルを睨み付けている。呼吸が苦しい。空気を食おうと口を開け、男の腕の中で苦しさから解放されようと身を捩るが、きっともう指先一本動いていない。真っ赤な血がドクドクと溢れ出ていくのだけは分かった。



「ちょっと時間使いすぎちゃいましたね。俺はあなたとやり合うはありませんよ。んじゃ、俺はこれで失礼します。…じゃぁ、また」



ビルはコウモリへと姿を変え、窓から逃げるように闇へと消えた。ラドは俺の首に手を寄せ、眉間に皺を寄せる。



「…厄介だな」



は、は、と短く息をする。視界がぼやけ、徐々に痛みが遠のき、息苦しさだけが残る。意識が朦朧として何が何だか分からなくなっていく中で、ラドは苦しそうに奥歯を噛み締め、俺の首筋に噛み付いた。そこで意識を手放した。ラドからは血の匂いがしていた。白いシャツの腹部が赤く染まっていた。


それは俺の血、じゃねぇよな……?


目が覚めた時、そこは白い天井に白い壁、カーテンで仕切られ、腕には何本も無数の点滴が入っていた。窓の外は嫌気がさすほどの晴天で、小鳥が楽しそうに空を謳歌している。


どうなったのだろうかと、ぼんやりする頭で考えていた。体を動かそうとしたが、錆びついた古いブリキのロボットのようにキシキシと至る所が軋み、軽い痛みを生じさせる。


溜息混じりに誰かいないのかと、首を動かしていると、勢いよくカーテンが開いてオフブランドの派手な髪色が目に飛び込んだ。髪は肩に触れるくらい長く、無造作に整えられているようだった。髪の色と対照的な真っ黒な眉、南国の移民家系らしく滑らかな褐色の肌、薄い茶色の瞳が俺を見下ろしている。男はダニーと呼ばれる医療班のひとりでいつも医務室に篭っている。という事は、ここはアジトの医務室なのだろう。


ダニーは白衣のポケットからペンライトを取り出すと、何も言わずに瞳孔を検査して何も異常はないと判断したのか、「おかえり」と笑った。



「……ただ、いま…」



声は掠れていた。



「随分と疲れていたようだね。疲労でぶっ倒れるなんてお前らしくない。もう少し休んでいると良いよ」



「……ありがとう」



疲労…? そんなわけがない。あの時、ビルが俺に何かをしたんだ。ラドはだから…、そう気付いて俺は体を起こそうとした。



「おい、まだ動くなよ。あとでゼルリーダーから正式に伝えられると思うけど、お前達はしばらく休暇だ。根詰めすぎ。ほら、寝てろ」



ダニーは俺の肩を軽く押さえるとベッドに押し付けた。この男がいるようじゃ、しばらく勝手に出歩けそうにもないらしい。



「ダニー、ラドは、…クラウドは?」



「クラウド君? どこだろ、さっきまでここにいて報告書を書いてたけど」



「大丈夫、なんですかか…あいつ、怪我してるはずなんですけど」



「え? そうなの? そんな風には見えなかったけど」



いや、でもあの時は明らかに血の匂いがした。甘ったるいあいつの血の匂いが。あいつのシャツは赤く染まっていて俺は怖くなったのを覚えている。間違いない。あいつが負った怪我は、きっとかなり深い。顰めっ面をしていると、ダニーは「ま、見かけたら大丈夫か聞いておくけど、本当に平気そうだったよ」と肩をすくめた。治癒できているなら良いが、そう簡単に治る傷でもないだろう。ダニーが部屋を出て、俺は起きあがろうと半身を起こした。鋭い痛みが体中に走る。くっと眉間に皺を寄せていると部屋がノックされ、「無事で何よりだ」とリーダーが部屋を訪れた。



「…すみません、こんな状態で」



力を抜くと痛みはまた散っていくようで、俺は枕は頭を埋めた。



「いや、体調はどうかね」



「ご覧の通りです。色んな点滴に繋がれて身動きとれませんよ」



「そうだな。まぁ、今は休めるだけ休みなさい。明日にでも自室に戻って良いようだが、君達には1週間の休暇を与えよう。体力回復に努めなさい」



「ありがとうございます…。あの、クラウドを見かけませんでしたか?」



「先程、報告書を提出しに来たが、会っていないのかね。てっきりここに戻ってきているかと思ったが。すれ違いか」



「そう、ですか…」



どこをほっつき歩いているのだろう。まさか、どこかで倒れたりしてないだろうな…。あの状態で俺の血は啜っていないだろうし、かなり体力を失っているのは間違いないだろう。



「…ふふ、それにしても君達は良いパートナーじゃないか? あれだけ単独でのハントに君は拘っていたが、私の目には互いに信頼し合いハントを遂行しているように見えたが」



リーダーはクスッと口元を手で隠して笑った。



「どう、なんでしょう」



「彼が気を失った君を抱えて階段を降りて来た時にそう確信したよ。何があってもパートナーは見殺しにしないと、強い意志を感じたからね」



「何があっても…」



きっとあいつは俺を守ろうとしてしまう。それがあいつの首を絞めている。ビルが示唆した事はきっと嘘ではない。



「あの、リーダー達はあの場から去らなかったのですか。俺、逃げろ…って最後伝えられたと思ったんですけど」



「あぁ、だがこっちもこっちで手こずっていてね。それに敵を倒していたとしても逃げてはなかったよ。早く君に加戦できていたら、…すまなかったね。私の力不足だ」



「あの、……リーダーが謝る事では決してありません。俺は、犠牲が最小限になればと思っただけで」



「そうか」



リーダーは優しく微笑むとポンと肩に手を置いて、「今はゆっくり休みなさい」そう部屋を気を使うように部屋を出て行った。心底意外だった。このリーダーが頭を下げた事が。本当にこの人のせいでは全くないし、もしリーダーとシャルが俺を見つけていたら、そう思うとゾッとする。あのビルという男、問答無用でこのふたりを殺していただろうから。俺は静かになった病室でひとり、欠伸をしては外を眺めた。誰もいなくなると暇で仕方がない。眠くはないし、動こうにも点滴のせいで動けない。いつまでこうする必要があるのかと暇を持て余す。


ダニーに点滴を外してもらうよう訴えるしかないかなぁと考えていると、誰かがドアを開けて中へ入って来た。カーテンを開け、俺を見下ろすと、苦しそうに無理に笑顔を作っている。



「…良かった」



ぽつりと漏れ出した言葉に、それは俺のセリフでもあるのだがとラドを見上げる。ラドはベッドの端に腰を下ろすと、そっと俺の頬に触れる。安堵の表情だった。きっと俺もほっとしているのだろう。良かった、こいつも無事だったと表情が緩んだ。そりゃぁ、無事だろうけど。普通に考えれば、こいつがそこら辺で野垂れ死ぬわけないんだけど。でも、ビルからリアとラドの関係を聞いてしまうと心臓が不安に押し潰されてしまいそうになる。あの話しは本当なのだろうか。本当だとしたら、ラドはやはりリアには抵抗できないのだろうか。



「……ラド、」



そう口を開いた俺に、ラドは悔しそうに表情を歪めた。



「悪かった」



「は?」



「もう少し早くに助けていられりゃぁ…」



「リーダーにもそう謝られた。あのね、俺はそんなヤワじゃないし、それにこんな風に点滴だらけで大袈裟に見えるだけで傷ひとつついてない。過労だって言われた。それもこれも、お前があの時俺を助けたからだろ。…お前が俺を治癒したんだろ? だから謝るな」



上体を起こした。痛みはまだあるが、こいつの落ち込んだ顔は見たくない。ラドは不安そうに俺を寝かせようとするから、その手を払ってラドの目をじっと見つめる。



「ヘルって存在が何の為にいるか知ってるか? お前らバンパイアを食う為に存在してんの。だから俺は弱くない。心配そうな顔、しないでくれ」



「……そう、だな」



ラドは少し驚いた後、ふっと相好を崩すと、またいつものように首を少し傾ける。



「生きていて良かった」



「当たり前だ」



「好きだよ、シン」



そんな風に言葉を囁かれると厄介な感情に苛まれる。こいつは俺がヘルだから、感情がないから、そう甘い言葉を簡単に吐いてしまうのだろうか。こいつにとってはただの挨拶みたいなものだろうか。でも言われ続けると、ふと、思ってしまう。俺がこいつに対する感情もまた、そうなんじゃないのか、と。そんなものあるはずないのに。いや、あって良いはずがないのに。

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