6. ニコラシカ
「ペット…?」
夕飯が終わり、ふたり並んで映画を観ていた。クラウド君と酒飲みたい、一緒に地下バーで酒飲もう! というリクからの誘いにどう返信しようか悩んだまま、映画を観ていた。それは昔流行ったバンパイアと人間の儚い恋物語で、たまたまテレビで放送されているものだった。見始めた頃は冒頭20分程度がすでに過ぎていた。とは言え、ダラダラと流し見するだけだから問題はなく、ハーブティーを飲みながらパソコンを開いてニュースサイトを読みながら、映画を横目に観ていた俺に、「ペットか…」とラドがぽつりと呟いた。だから、どういう意味だとラドを見る。
「俺達のようなバンパイアに血を与える特定の人間の事。バンパイアもその人間からしか血を飲まないと決めたら死ぬ迄、その人間からしか血は飲まない。だから本来、俺達は無闇に人は殺したりしない。…とは言え、ペットをつけないバンパイアももちろんいるが、俺の隷属で、更に直属なら殆どがペットを決めていたと思う。だからこのバンパイアもペットとしてこの女性に近付いたのかなーと」
「ペットって言い方は頂けないけどな。愛玩動物みたいな扱いって事だろ?」
「誰が言い出したかその呼び名に慣れてしまっていたが確かにペットってのは人間からすりゃぁふざけんなと怒りを顕にされても仕方ないよなぁ。うーん、それに代わる言葉が何かあったろうか…」
「今まで文句言われなかったのかよ。もっと良い呼び方ないのかって」
「俺達が直接その人間に対して、そう呼んでいるわけじゃないからな。おーい、ペットこっち来ーい、とか言わないから、その人間は自分がペットなんて呼び方されてるとは知らなかったろうよ」
「ふーん。…でも死ぬ迄その特定の人間の血しか飲まないなんて、ペットというより、婚姻関係を結んだみたいに思えるんだけど。この話だってそういう事だろ? 禁断の関係ってのが主軸にある」
「あー、人間に恋愛感情を抱いて、口説いて、そんで血を飲ませてくれと、その人からしか飲まないと契約したバンパイアももちろんいるな。けれど基本はただ血を飲ませてもらうだけの契約ってのが殆どな気がするよ。人間からすれば、自分の血を与えて“あげてる”、って感覚だろうしなぁ。その人間は快楽を得られる、俺達は腹を満たせる、互いに利点のある事だから食事の時だけ会う、ってのが通常。だからこの映画みたいに、互いの事を色恋含めて好きで吸血するってのは稀だと思うな」
ラドは顎を撫でた。俺は目を細めてラドを見る。
「ふーん。…で、俺はお前のペットになるって事かよ」
「ふふふ、そうだな?」
違うと否定するかと思ったのになと、俺は内心舌打ちしながらニュースサイトへ視線を戻して文句を述べる。
「ペットはなーんか嫌だなぁ」
不満を顔に出すと、ひとしきり笑った後で「嘘だよ」とラドは俺の顔を覗き込む。
「俺達の場合、正確には依存関係だからペットではない。だからそうむくれないでくれ」
俺はラドの言葉を聞いてソファの背に深く寄りかかった。ラドは眉を下げ、相変わらず甘ったれなような綺麗な顔を俺に向けている。けれど、ペットという存在があり、バンパイアが特定の人間に拘っていたのなら、こいつはやはり無闇に人は殺していないはずで、だとするならばハルさんが目撃したあの場面は何だったのだろうかと、疑問がひとつ。日が昇り灰にまみれ、人間の女性を抱えてその首に…。
「今から約30年くらい前なんだけど、お前はその頃すでに人を食い殺したりはしていない。そう、だよな?」
「30年前? 特定の数字だな。確かに、戦争以降は無闇に人は食ってないけど、…噂が立ってた?」
「いや、噂というか、その、ハルさんが、…この前挨拶したメガネの背の高い方、あの人が言ってたんだよ。昔、自分の街がバンパイアに襲われた事があったって。ハルさんはまだ4つかそこらで子供だったし、その記憶が絶対に正しい…とは言えないかもしれないが、陽が昇って灰にまみれていたお前が女性を抱えていて、その血を食ってたって」
「へぇ。俺の姿を見るなんて不幸な少年だなぁ。うーん、でもきっとそれは誤解だよ。俺がその女性を食ったわけではない」
「だよな? お前の話を聞いて、なんとなくそう思ったんだけどさ。けど、ならなんで首筋に牙なんて立ててたのかなとか思って」
「多分、蘇生させたかったのかな…。人間を無闇に殺すようなバンパイアに殺されたその人を、再び」
なるほどと納得したのと同時に、やるせなさを感じた。ラドは淡々と話してくれるが、こいつはきっととても長い時間を夜の悪魔として生きていて、多くの事を勘違いされている気がした。
「仲間にすれば生き返る、と思ったって事だよな?」
「人間としては死ぬ事になるが、バンパイアとしては生きられる。朝日はもう浴びる事ができないが、それでも無闇に奪われた命、バンパイアとしてでも生き返せないかと…、たぶんそう思ったのかな」
「ならハルさんに誤解を解かないと」
「いいよ、そんな必要ない。だって結果としては救えてないのだから。それに救えていたとしても、それが正解かは分からない。だから、」
それでも真実ってのは伝える必要があるだろ。俺はパソコンを閉じた。
「…なぁ、ラド。酒、飲みに行かない?」
「え?」
「ここの地下にバーがあるんだ。良い酒を作ってくれる。…飲みに行こうぜ」
テレビを消す。ラドは少しだけ驚いたようだったが、頷いて、共に部屋を出た。地下2階の一角、『ニコラシカ』。そこのマスターはつい先日まで第3グループのリーダーだった男で、噂によると若かった頃はゼルリーダーの元パートナーだったと聞く。本人達に直接聞いた事がないから噂でしかないけれど、このマスターも相当腕の良いハンターなのは確かで、今でこそリーダーの座を別の者に譲ったが、こうして大好きなカクテルを作りながら、たまに現リーダーのハントを手伝っている。最前線から退いてしまった事を勿体無いと思ったのは俺だけではないが文句は言えない。
カランと聞き慣れたドアベルを鳴らして店内に入る。薄明かりの中、年季の入った蓄音機からジャズが流れている。カウンターには既に眠そうなリクがいて、その隣にはハルさんが座っており、マスターはグラスの曇りを丁寧に拭いていた。リーダーとパートナーだったという噂があるくらいだから同世代なのだろうが、リーダーよりは随分と若く見える。いや、リーダーが老けているだけか。多分40代、下手したら30代という事もあるだろうマスターは、顎髭を生やしたワイルドな男前である。だが見た目と裏腹、口調も物腰も柔らかく、マスターとお喋りしたい、という理由だけで通うハンターが多かった。
「いらっしゃい。…へぇ、彼がシンのパートナーか」
入るとマスターが手を止めた。席に座りながら、俺はラドを紹介する。
「はい。クラウドです、ラド、こちらここのマスターでロクさん」
ラドを紹介するとマスターはグラスを置いて優しく微笑んだ。
「ようこそ、ニコラシカへ」
「ありがとうございます。良い酒が飲めると伺いました。さっそく、一杯注文しても?」
「もちろん」
「では、ニコラシカを」
「へぇ、ニコラシカを頼んでくれる客は初めてだな」
マスターが目を開いて驚いているが、俺も驚いた。ここのバーの名前であるニコラシカ、俺はてっきりマスターの恋人とか想いを寄せる人とか、誰かの名前だとばかり思っていたからだ。今まで変に口に出さなくて良かったと思っていると、隣からハルさんが割って入った。
「俺はてっきりマスターの元彼の名前かと思ってた」
「あー、アハハハ、違う違う。確かに人の名前だもんなぁ、勘違いさせてすまない。けど、元彼の名前じゃないよ。ニコラシカ、俺の好きなカクテルなんだ。……って、だから今まで誰もこれを頼まなかったのかな」
「そうだろ。ニコラシカってカクテル、初めて知ったもの」
「そうか。それは失礼」
マスターは恥ずかしそうに肩を少し震わせて笑っていた。ならば俺もそれが良いのだが。
「…で、すみません、シンは? いつもの?」
いつもの美味いマティーニも良いのだが、
「あ、いや、俺もニコラシカ飲んでみたいです。どんなカクテルかも知りませんけど」
「ご飯は食べて来た?」
「…ご飯?」
なぜ? と、質問の意図を汲めない俺に、ラドが横からぽつりと口を出す。
「食後の後の強い一杯。…君、強い酒は好きだった?」
「まぁ、酒は弱くはないけど。そんなに強いの?」
訝しげな顔をすると、ラドはくっと喉の奥で笑った。
「なら大丈夫か。マスター、俺達は食後なので問題ありません」
俺がマスターに返答する前にラドが代わりに返事をしてしまう。マスターは分かったよと頷いて、ふたり分のニコラシカとやらを作る。ハルさんもリクも黙ってじっとその工程を見ていた。洒落たシェリーグラスのような小さなグラスに注がれたブランデー、上に添えられらスライスレモンと三角形に形を整えられた白砂糖。見た事もないカクテルだった。
「はい、どうぞ」
目の前に差し出されたそれを受け取り、ラドの方を見る。何これ、どうやって飲むの、という助けを求めた視線にラドは気付き、砂糖が上に乗ったスライスレモンを手に取るとそのまま口の中に放り込む。何度かそれを噛むと、グラスの縁に唇を付け、一気にブランデーを口に含むと飲み干した。
へぇ。美味そう。
俺も真似してスライスレモンを口に入れると、「え、苦くねぇの」とリクが隣で茶々を入れる。ラドが食った時はそんな事言わなかったくせに。けれどレモンの皮の独特な苦さはあまり感じない。くっとグラスのブランデーを口に含むと、酔いが一気に回る気がした。
なるほど、これは効く。俺はグラスをトンとカウンターに戻し、チェイサーを用意してくれていたマスターに感謝の念を込めて見つめながら水を飲むと、マスターはケタケタと白い歯を見せて笑った。
「ダメだった?」
「いえ、ただ、一気に飲むもんじゃないなと思いました」
口を歪めると、隣ほラドは片眉を上げたまま俺を見つめてふふっと笑った。
「覚悟のいる一杯だな? 酔ったら介抱してあげるから、たーんと酔ってしまえば良いよ」
まるで他人事で、楽しそうに次のカクテルを頼んでいる。
「シン達がもー少し早く来てたら、俺もソレ頼みたかったのになぁ。ちょっともう大分、酔ってるからなぁ」
リクは呂律がもう若干回っていない。俺の肩に腕を回し、その後ろにハルさんが見えたが、ハルさんは頬肘をつきながら、マスターお得意のマティーニを嗜んでいる。俺も知らないものに手は出さずにマティーニ飲んでおけば良かった、とは言わず、再び水を口にする。しばらくしてリクが突っ伏して眠ったタイミングで、俺はぽつりとハルさんにあの事を伝えようと何かの水割りの氷を溶かしながら首を傾ける。
「ハルさん、子供の頃見たあの話について、俺の見解聞いてもらって良いですか」
「あの話?」
「そう、あの話」
「…見解って何。誰がどう見たって何も変わらないだろうよ。考察するような場面でもない」
「けど俺、思ったんです」
ラドには背中を向けていたから表情は見えない。もしかしたら話すべきじゃないと、止めようとしているかもしれない。でも俺はきっちり伝えたかった。誤解だ、と。クラウドはもう人を襲ったりはしない、と。
「もしかするとあの時、クラウドだと思われるそのバンパイアはその女性を助けたかっただけ。灰が舞ってたんですよね? だとしたら、もしかするとクラウド自身が人を襲ったバンパイア連中を太陽光の下まで引き摺り出し始末した。そして食われた女性の蘇生を試みる為に首筋に噛み付いた、その現場を目撃した。…どうです? こういう解釈もできませんか」
ハルさんの眉間には深い溝が出来る。少し考えているようで、グラスに残っていたマティーニを飲み干すと、次の一杯を頼んで俺を見る。
「あのクラウドが人を救うようなバンパイアなら、世界はもっと平和だろうが」
「俺達が知らないだけで、クラウドは人を…」
救ってきた、と言おうとして、「ハルさんの言う通り」とラドにぴしゃりと制された。何で、とラドを見ると、ラドは俺の言いたい事も全て察知したように見下ろすと、頭をポンと撫で、「酒、飲みすぎたんじゃないの」と笑っている。冷静になれ、と言われたのだ。そこでハッとする。クラウドが人を救ってきた、なんて言い出せば、どこでそんな情報を手に入れたのかとハルさんから妙な疑いを掛けられる事になる。そうなれば、俺は自分の首を絞めただけになってしまうのだ。クラウドはあなたが思うようなバンパイアではない、そう伝えたいだけなのだが…。上手くいかないらしい。
「けーど、実際あのクラウド含め、セカンドのチェックにサードのバース、戦後の目撃はぜーんぜんない。だからこそもういないのではと伝説化までされてしまう。トップ連中が人間を無闇矢鱈に噛み殺していると否定はできないけど、肯定もできない。あの殺戮は確かに極悪非道だが、さて、兵器として生み出され兵器に善悪を問う事が出来るのか、否か。ね? そういう事よね」
そういつの間にか話に入って来た男にハルさんはギョッと驚いた様子だった。俺ももちろん驚いた。
「ネークさん…、お久しぶりです」
ネークさんと俺が呼んでいるのは第三グループの現リーダーで、マスターからその座を託された若くて優秀なハンターである。アンニュイな見た目と裏腹、なかなか手口が惨ったらしくて、マスターの部下だというのにこうも違うのかと首を傾げた事が何度もあった。雪のように白い肌に長い首、頸に何か花のワンラインタトゥーを入れ、頸を涼しく刈り上げた金髪に緑のような青のような瞳が印象的で、中世的でしなやかではあるが、脱ぐと案外筋肉質で笑ってしまう。男らしいすぎる肉体と顔がこうも合わない事ってあるんだなぁと。いかにもな王子様容姿がムキムキってのは、なかなか面白い。
「おかえり、ネーク。今、帰りか?」
「今帰りよー。疲れた疲れた。…で、酔っ払いのシンのパートナーってのが彼?」
ネークさんはそう言いながらカウンターの内側へ移動して、手を洗いながら首を傾げている。
「クラウドです」
「俺はネーク。第三グループのリーダー。で、あのクラウドと同じ名前だ? なになに、だからシンは感情移入してハルに突っかかってんの?」
「え? いや、突っかかったつもりはありませんけど」
「こいつに昔の話をしたんですよ。俺がガキの頃にクラウドを見たって話。俺の向かいに住んでた若い女を食ってたって、そしたらこう解釈できないか、ってね。考察持って来たんですよ。あのクラウドが人助けだなんて、俺はしないの思いますけど」
「まあ、それも一理。結局答えは出ないよね? 真実は当事者しか分からないから。…で、ハンターのクラウド君はどう思う? バンパイアの祖と呼ばれる夜の悪魔が人を助ける、なんて事あると思う?」
ネークさんは片眉を上げ、俺はネークさんを見てラドへ視線を移した。ラドはウィスキーのロックを飲んでいた。カランと氷が溶けて軽い音を立てる。
「人を助けようが、助けまいが、あのクラウドは力を持ちすぎた、故に始末されるべきだという考えは揺るがないかと」
その言葉に俺はカウンターの下で拳を握る。ここでクラウドを擁護しろとまでは言わないが、そんな言い方するなよ。お前、人を無闇に殺してたわけじゃないだろ。むしろ助けてたんだろ。ハンターの誤解を、なぜ、解こうとしないんだよ。
……なぜ、破滅を選ぶんだ。
「ま、それはそうなんだけどー。あ、てか俺、腹減っちゃったー。ロク、何か作ってよ」
ラドには俺の考えている事なんて分かっていた。握る拳にそっと冷たい手を寄せると、割り込むように指を滑らせる。眉を顰めてラドを睨むように見つめると、ラドは何がそんなに楽しいのか、上機嫌に口角を上げ、頬肘をついて俺を見つめ返すと、するりと指と指の間に割って自分の指を入れて掌を重ねた。
俺の熱を、少しずつ、奪っていくようだった。
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