4. 鍵

「これは君達にとっての初任務となる。実行日は明後日、調査班が戻り次第、ハントに向かってくれ。現時点での報告は、サードが7匹、セカンドが3匹。被害人数は12人、女子供も含まれ、うち4人はバンパイア始末を命じられたハンターだ。賞金はこの金額。詳細はこの書類に記載がある通りだ。質問は?」



昼下がり、ラドと共に俺はリーダーに呼び出されていた。ハントの依頼だが、かなり難しい内容である事はすぐに理解できた。人間のハンター達ではきっと、どうにもならないような依頼である。



「セカンドとサードが同じ建物に住み着いている……」



それもなぜか仲良く。何が起きているのだろうか。



「すでにハンターが4人も食われてる…。これ、セカンドとサードとで共闘し、餌となる人間を共有してる…と捉えて良いのでしょうか」



「あぁ。そうだな。異例の事態だ」



リーダーは参ったと言わんばかりに椅子に深く寄りかかり、背もたれが後ろにキシッと軽い音を立てた。



「前回のハントの時の調査班の報告を覚えているかね」



「えぇ」



「サードとセカンドの両方の調査報告があったろう。実際はそれほど力の差がないと君からの報告があったが、前回ももしかすると共闘だった可能性がある」



「気味が悪いですね…」



「今回はかなり困難な仕事になるだろうが、受けるか」



もう頼みの綱はお前達しかいない、とリーダーが泣きついてくれれば面白いのにと俺は頭の片隅で考えながらリーダーを見下ろす。とは言え、リーダーも俺が断らない事を知っている。書類をデスクに戻し、「はい」と頷いてラドの方を見た。



「受けるけど良いよな?」



「あぁ、もちろん」



ラドはそう愛想良く頷いた。こうして決まったふたりでの初仕事だったが、俺はある事が気になっていた。部屋に戻り、相変わらず俺の部屋に居座るラドにコーヒーを差し出しながら訊ねた。



「お前、同じバンパイアを殺せるのか」



ラドはコーヒーを一口飲むと、「同じ?」と鼻で笑う。



「あいつらは同じじゃないよ、だから安心しな。ちゃんとハントに加勢してあげるから」



「同じじゃないってどういう事だよ。確かに、お前の隷属ではないだろうが…」



「そうじゃなくて。無闇に人を食い殺すバンパイアを同種だとは思ってない。…なーんて、どの口が言ってんだって思うよなぁ」



俺はなぜそう感じたかは分からないが、ラドの言っている事は本当なのだろうと思った。ハルさんが子供の頃にラドが女性を食い殺したのを見たと言っていたのにも関わらず、なぜかラドは無闇に人間を殺さないのだろうと思った。



「…でも本当なんだろ。お前は無闇に人の命を奪うバンパイア連中を仲間だとは思ってない。お前はきっと、そいつらと違うンだろ」



俺はラドの横に腰を下ろし、コーヒーを一口だけ飲んでそれをコーヒーテーブルに置く。ラドは一瞬だけ驚いたように眉を上げると、すぐにいつもの余裕綽々な表情へと戻った。



「へぇ、信じるのか。俺が過去に何をしたか知ってるのに」



「知ってるよ。けど俺が生まれたのはあの大戦争の後だ。事実がどうだったかは知らないが、資料に載っているような事は一通り知ってるつもり。だからお前が人を食い、街を滅ぼした事も知ってる。けど、今のお前が違うと否定するのなら、そうなんだろうなと…思っただけ」



ラドは少し面食らったようだった。



「い、いや、俺はハンターだからバンパイアはきっちり殲滅しなきゃならないとは思ってるけど。お前も、きっちりと罪と向き合って貰わなきゃならないけど。…けど、お前は変な嘘をつかないだろうな、と思っただけだ」



絆されたりはしない。お前は身勝手で俺を依存関係にしやがったし、そもそもお前は悪の根源のような存在だし、お前の事はきっちり始末する、けど…。言い訳が口から次から次へと溢れそうになり、コーヒーで口を噤む。



「へぇー。やっぱり君は良い男だ。惚れ直すなぁ」



でもラドはそう口角を上げた。



「……惚れてたのかよ」



「惚れてたよー? 言ってなかったかな。君に惚れたからここにいるんじゃない」



こいつは相変わらず何を考えているのかわからない。冗談なのだろうが、よくそんな言葉を言える。一体どういうつもりなのだろう。



「そういうのは惚れたヤツに言ってやれよ。キザで軽い男だよな、お前って」



「だから俺は君に惚れてるって言ってるじゃない。好きよ、君の事」



そうウィンクを決められ、だからそう気持ちの悪い事をするなと言ってやるが、ラドは揶揄いに成功したガキのようにキャッキャッと楽しそうに笑っている。呆れて半ば無視を決め込んでいると、部屋のチャイムが鳴った。誰だろうかと考える隙もなく、ドンドンとドアが叩かれ、「シーン!」と聞き慣れた声が聞こえてくる。



「お友達?」



ラドは首を傾げながら、愛用の眼鏡を手にしてそそくさと着用した。



「ではない。俺の事をヘルだって知ってるハンターのひとり。ちょっと、行ってくる」



「ふふ、茶菓子でも出しておこうか」



「そういうンじゃねぇよ」



鍵を開けてドアを開ける。そこにはリクとハルさんが揃って立っていた。ふたりして来るとは何用だ。碌な事が起こらない気がする。



「…お疲れ様です。何か用ですか」



怪訝な顔をしていると、リクは背伸びしたりしゃがんだり、部屋の中を覗こうと何故か鼻の下を伸ばしながら試行錯誤している。



「パートナーをつけたって?」



ハルさんがそう半信半疑に訊ねた。もう、耳に入っているのかと俺は頭を掻く。



「えぇ、リーダー命令で」



「断らなかったのか」



「断われるわけないでしょう」



「そうなるとお前、動きにくいんじゃ…」



「あ! こ、こんにちは! 俺、リクって言います!」



ハルさんが言ってる途中で、リクはどうやらラドを見つけてしまったらしい。玄関から大声でそう挨拶をかましている。ラドは「初めまして」といつものように愛想を振りまきながら、リビングルームから玄関にいた俺の横に立ち、簡単な自己紹介を済ませた。



「へぇ、名前をクラウドと言うのか」



ハルさんは勘の鋭い人で、しかも子供の頃にラドを見ている。女性の血を飲むラドの姿を。何かマズイ事にならなきゃ良いが…。しかしラドはテンプレートのように、用意していたであろう答えを動揺ひとつなく答える。



「はい、ファーストバンパイアのクラウドと同じ名前です。スペルも一緒。隙があれば、あなたも取って食うかもしれません」



あのクラウドだと知っている俺からすれば、この男の発言は宣戦布告しているようでひやりとするが、何も知らないふたりにとっては他愛もない挨拶で、リクはケタケタと笑った。



「やっぱりソレ、よく言われるんすか!」



「必ず言われます」



「ですよねー! 言い慣れてる感じしたっすねー! あ、紹介遅れました、俺はリクって言います。こっちがハルさん。第2グループのリーダーです」



ハルさんは「どうも」と微笑み、ラドはふたりに愛想良く笑顔で応えている。



「へへ、でもよ、面白くて優しいパートナーで良かったな、シン!」



すっげぇ男前だしな、と付け加えて肘で小突かれ、俺はうるせぇなと顔を顰める。そんな事はどうでも良いんだよ。



「あ、でもそうなると、シンは今後ハントしにくくなる?」



リクはそう口を歪め、眉を顰め、小首を傾げる。



「おい、」



そうハルさんはリクに対して焦ったように声を掛けるが、「大丈夫です」と俺はラドを顎で指した。



「俺がヘルだって事、こいつ知ってますから」



「…へぇ。そう、なのか」



驚いた表情のハルさんと、あわや口を滑らせるところだったと口を噤むリクに、ラドは「えぇ」と柔らかく微笑んで頷いた。



「あなた方がここで唯一、シンがヘルである事を知っている、という事ですね。でしたら大丈夫です。俺は口が硬いので、ご安心を」



「そういう事です。…で、用件は以上ですか? そうなら、忙しいンで…」



お引き取りを、と言う前にリクは目を輝かせて俺に向かって口を開く。



「良かったな、シン! ヘルだって分かっても支えてくれるパートナーで! お前って何でもかんでもひとりで出来るからって、すげぇたくさん抱えるけど、これで分け合える存在ができたって事だろ! 良かったな!」



この素直で騒がしいヤツは、心底嬉しそうな屈託のない笑みを浮かべる。だから俺もついつられてしまった。ふっと表情が緩み、「あぁ」と頷くと、リクは自分の事のように喜んでいる。けれどこの新しいパートナーは、誰もがその命を狙い、この世から排除すべきだと考える夜の悪魔。半ば無理矢理に俺に依存をさせるような傲慢で身勝手な男なのだが…、リクはもちろんそんな事は知らないし、口が裂けても言えない。


それでもリクが良かったなと微笑むから俺もこれで良かったのだろうと少しだけ思ってしまうのだ。あの時、俺から悪夢も痛みもあっという間に取り除き、大丈夫と俺を支えたのはその悪魔だから。こいつは不意に心の隙間に入り込んでいた。


でも俺は、この感情が何かも知らないのだ。


………

……


誰にも愛されない可哀想なヘル。

だから僕が愛してあげてるのに。

僕を裏切る君が悪いんだよ。

僕は君がどこにいてもすぐに見つけてあげる。

だって、僕はね神様なんだ。

人間やバンパイアなんかよりもうんと偉いんだよ。

だから君は僕に従って生きていれば良いんだよ。

僕に服従しろ………



「……リア、」



やめろ、やめてくれ、そう戯言を吐き、息を乱して目を覚ます。ついうたた寝をしてしまったらしい。ラドがいないと、悪夢は何度でも自分を襲った。逆に不思議とラドが隣にいる時は、どれほど眠っても悪夢は自分を襲わない。


あの日、ラドが俺を抱えるように抱き締めながら、まるで子供をあやすように大丈夫、と言ってくれた日から俺は悪夢を見なくなっていた。だからつい、油断をしていた。溜息を漏らしてテーブルに置いてあったコーヒーを啜る。目覚めの一口、と思っていたがもうそのコーヒーはぬるくなっている。ラドのいない静かな部屋、俺はコーヒーカップの横に銃とナイフを置き、読みかけの書類を手にする。今回のハントの依頼調査書である。文字が多く、眠くなるなと内心文句を述べながら読み進める。


セカンドとサードの隷属が対立せず同じ建物を共有し、しかもハンターを倒す為に共闘までしている。その事に俺は引っかかっていた。まさかとは思うが、もしかすると…。詳しい事が知りたいと書類を読み進めていくが、俺の知りたい情報はどこにもなかった。


なぜ、別の隷属同士が共に…? 前回のハントの時はリーダーも俺も、まさかそんなわけがないと調査書を否定していたが、今回のように否定できないほどきっちり隷属が混ざり合っていると、何か妙な事が水面下で起きているような気がしてならない。嫌な予感がしていた。無闇に人間を食い荒らすバンパイアの増加、隷属が異なるバンパイアの共闘、…俺の予想が外れてしまえば良いのだが。



「…あれ、まだ資料読んでたのか」



部屋へ戻って来たラドはハント用の装備を貰って来たらしく、正装で目の前に現れる。白いシャツにガンホルスターをつけ、ベルトにナイフを挿し、銃もナイフもきっとこいつは抜く事がないのだろうなと、俺はその姿を見ながら思った。



「どうして共闘してんのかなって、気になって…。けど、俺の求める答えは載ってないみたいだ。さて、と。…準備は出来てるみたいだし、行こうか」



「あぁ、行こう」



隣町の教会に向かって落ちていく夕日を背中に車を走らせる。ラドは窓を開け、その黒い髪を風に靡かせている。風がラドを横切る度、甘い香りが鼻をつく。きっと、こいつの匂い。甘すぎるくらいのこいつの匂い。俺はあの日以来、食事を摂っていなかった。だからその匂いは俺にとって少し刺激が強いのだ。匂いに充てられないよう、運転に集中しようとして眉間に皺が寄る。



「…緊張してんのか、怒ってんのか、どっち?」



そんな俺の顔を見て、ラドは困ったように笑っている。そのどちらでもない、と心の中で吐いて俺は溜息を漏らす。依存はしたくなかった。こいつの血だけを欲する体にしたくはなかった。こいつを殺す事に躊躇いの余地を自分に与えたくはなかった。だから俺は腹を空かせ、今日、始末するセカンド連中の血を食おうと決めていた。もし、あいつらの血を食い、それで体が満足するのなら、ラドの言う依存関係ってのはデタラメだった、という落ちで片付く。だが、違ったら…。



「寒いんだ。窓、閉めてくれないか」



「えー、寒い? 俺は暑いくらいなんだけだなぁ」



ラドは文句を垂れながら窓を閉め、呑気に鼻歌を歌いながら流れていく外の景色を眺めていた。風にのって甘い匂いが鼻をつくから窓を閉めさせたが、逆効果だった。俺は鼻をさする。窓を閉めたせいで匂いが充満している。当たり前だよなぁ。そうだよなぁ…。頬が引き攣り、眉間の皺が更に深くなるが、俺はぐっと堪えてアクセルを踏んだ。


森の中に佇む教会は、車から降りた瞬間からかなり大量の血の匂いが鼻をつき、その匂いと静かすぎる教会の異質な雰囲気も相まって不気味さを感じた。砂利道を歩き、正面玄関の扉へライトを翳しながら手を伸ばす。強い光は手元を照らし、ドアノブを捻って開くか否かを確認した。派手にガチャガチャと音は鳴るが開かないらしい。窓も割れていない。壁に穴が開いているわけでもない。バンパイア共はどうやって中に入ったのだろうか。一歩後ろに下がり、ライトで上から下までを探すが、これと言って中に入れそうな場所はなかった。



「……ドアを蹴破って中に入るしかない。あいつらが待ち構えている可能性もある。準備はいいな?」



扉を睨みつけながらラドに伝える。



「………」



が、返事がない。



「…おい」



どうした、と後ろを振り向くとさきまで一緒にいたはずのラドの姿は消えていた。あいつ、まさか裏切ったろうか。そうだよな。そうだよ。同じバンパイアを殺すなんて、バンパイアのトップがするはずねぇよな。よーく考えれば分かる事だった。無闇に人を殺すバンパイアとは同種ではないとあいつが否定した事を俺は鵜呑みにした。その結果がコレだ。呆れたなと、俺は肩を落とした。


ひとりで8匹、ネックなのはその中にセカンドの連中がいるという事。気を引き締めて掛かる必要がある。俺は深呼吸をして、ナイフを握った。いつも使っているはずなのに妙に重く感じたのは、戸惑っている証拠だろうか。チッと舌打ちを鳴らし、心の中で悪態をつき、勢いよく扉を蹴破った。土煙と木端が舞い、騒々しい音を立てる。探す手間を省かせたいと静かにその場でバンパイア達が来るのを待っていると、早速後ろに気配を感じた。勢いよくナイフを振り下ろすが、それは空を裂いただけらしい。気を張りすぎたろうか。もう少し肩の力を抜かなければ、いざという時に保たない。ナイフの持ち手を直し、気配がした方向にすかさず切り付ける。何かを切った感触が手に残る。目を見張ると、1匹が脇腹を押さえながら俺と距離を取り、もう2匹がその違和感に後ずさった。



「コイツ、人間じゃない」



「食ったら腹壊す?」



「お前、捕らえて来いよ」



「いやだよ。捕らえたって俺は食わないよ。腹壊しそう」



「確かに。けどまぁ、ひとまず殺してしまおう。どうやら単独のハンターみたいだし、多勢に無勢よ」



脇腹を切られたひとりは傷口を押さえながら、ニヤリと口角を上げた。血がゆるゆると溢れ出ているが、あまり美味そうな匂いではない。食事にはならない、ただの始末作業だなと俺はナイフを構える。


勢いをつけて俺の首を狙ってきたバンパイアの動きは速く、俺は一瞬だけ乱れ、その隙をつくようにもう1匹が蹴りを入れる。両腕でガードを入れるが、相手はサード。力が強く俺は後ろに飛ばされそうになる。腕の痛みを感じる暇もなく、ここぞとばかりに2匹が同時に俺へと手を伸ばすが、舐められたものだなと俺はナイフを逆手へと持ち直した。一瞬だったろう。きっと何が起きたか把握する前に、彼らの体は地面に叩きつけられる。首筋から大量の血を溢れさせ、痙攣している2匹を足元に残りの1匹を探す。後。そう身を翻し、襲おうとしていたその腕を取って投げ飛ばす。土埃が舞い、顔を顰めていたそいつの首に手を伸ばす。



「ぎゃっ」



短い悲鳴を聞きながらナイフの血を拭き取って、その場を後にした。これで3匹。まだ3匹だ。あと、7匹。奥の部屋へ進むが特に気配はなかった。木製の古い中央階段、そこに数滴の血が滲んでいた。2階か。俺は古木の軋む音を立てて階段を上がる。上がりきった瞬間、何かに背後を取られた気がした。速い、と思った瞬間には俺の体は引っ張られるように階段を転げ落ちる。体勢をすぐに立て直してナイフを構えるが、誰もいなかった。


頭を軽く打ったせいか軽く眩暈がした。今ここで倒れるわけにはいかないと唇を噛み締め、辺りを見渡す。ひゅう、と何かが首筋を掠めた気がした。咄嗟に後ろに下がる。風が吹いただけか。だが再び何かの気配を背後に感じ、俺はナイフを振り下ろす。しかしそのナイフの持つ手は大きな手に握られて捻られる。大理石の床に甲高い音を立ててナイフは叩きつけられ、俺はもう一本のナイフへと手を伸ばして切りかかる。


空を切ったと同時に相手の顔がはっきりと見えた。顔に大きな傷があり、青い瞳が印象的だ。そいつは獲物を見るように鋭い視線で俺を見ていた。もう1匹のバンパイアは俺が落としたナイフを手に取り、そこに付着していた血を指で擦り取って眉間に皺を寄せている。その後ろには3匹。いつでも襲いかかる準備は出来ていると身構えていた。


5匹が相手。うち、何匹がセカンドだろう。確実に1匹はそうだった。たぶん、青い目のバンパイア。俺を階段から突き落としたバンパイアもきっとそいつだろうと、俺は踏んでいた。


ナイフを構え、膠着状態の中、ごくりと生唾を飲み込む。互いに睨み合い、最初に動いたのは青い目だった。タンと地面を蹴り、雄叫びをあげるそいつは拳を振るった。ひらりと上手く躱して下に入り込み、その喉元を狙う。ナイフの切先を勢い良く突き立てたが、そこには誰もおらず、もう1匹がその隙をついてナイフを翳した。そのナイフは俺が落としたそれである。瞬時に後ろへ下がって躱すが、こいつらを始末するために研いでいた鋭い刃先が頬を掠め、一筋の血が流れた。相手はそれでも押し込むようにナイフを何度も何度も振り回す。まるで仇だと言わんばかりだった。


距離を取りたいがそんな隙すら与えないと言った猛攻だった。2匹同時に躱すのは、いくらヘルでも骨が折れる。ましてやきっと、青い目はセカンドだ。俺は咄嗟に銃を抜き取り、状況を変えようと銃口を向ける。骨に響くような破裂音が3発。ぴたりと猛攻していた2匹の足が止まる。発砲は全て後ろで身構えていた3匹を狙ったものだった。



「……の野郎ッ」



青い目の地を這うような低い声。銃弾は後ろにいた3匹のうち2匹には当たっていたが、致命傷にもならない程度である。ただ動きを抑える事は出来そうだった。1匹には腹に1発、1匹には肩に1発、そしてもう1発は当たらず壁に被弾したようだ。


けれどそのお陰で猛攻していた2匹の集中力が切れたのか、怒りに動きを制御できないのか、俺を殺そうと牙を剥くがその動きは先程のものとはまるで違った。動きに隙がある。隙を見せれば奪われる。簡単な事だ。


ひゅっとナイフが赤く染まる。青い目は現実を飲み込めずにいた。俺の目をじっと見つめ、ずるりと体から力が抜けていくのを感じている。その隙を狙ったもう1匹がナイフを翳すが、それは読めていた。ナイフは深々と青い目の体に突き刺さっているから、瞬時に銃へと手を伸ばして発砲する。銀の銃弾が更に2発、そのバンパイアの頭と胸を撃ち抜いた。同時にナイフを引く。青い目のバンパイアはその場に力無く倒れ、切り裂かれた首筋から止めどなく血が流れていく。


その血を見下ろしながら、もう1匹が握っていたナイフを取り返す。ナイフについた血を拭き取りながら、そうか、と唇を噛んだ。こいつらの血を見たところで、嗅いだところで、食欲が湧かない。いや、飲みたくないと体は拒否を示す。つまりはセカンドの血ですら俺の体は受け付けないらしい。


なかなか厄介な事になった。俺はもうラドの血しか飲めない。デタラメなんかじゃなかった。あまりにも酷な現実だ。俺を依存させたラドはどこかへ消え、二度と戻っては来ないかもしれないのだから。だから、何としてでもあいつには依存したくはないのだが…。


今考えても仕方のない事だった。まずは目の前の仕事を片付けなければならないと、残りの3匹をじっと見つめる。苛立ちを押し殺し、冷静に動こうとナイフを握り直す。2匹にはすでに被弾しており、動きがかなり鈍かった。被弾しなかった1匹が俺と目が合うと牙を剥き出し、獲物を見つけたと地面を蹴る。先程の2匹とは明らかに劣っていた。だとするなら、今や血を流して倒れているあの2匹がどちらともセカンドだったのだろうか。そう考え事をしながら向かってくるバンパイアを伸し、残りの2匹にもナイフを向ける。返り血が顔にも服にも掛かり、嫌気がさして溜息が漏れた。


さっさと帰りたいが、あと2匹。顔を拭いながら先来た道を辿るように、階段を上った。誰かが俺を突き落とす事もなく、2階へと上りきり、部屋がいくつか分かれている事に気が付いた。だが、バンパイアの気配もしない。隠れているわけではないのか。もうすでに逃げた後か。先ほどの騒ぎで逃げられた、と考えるのが妥当か。


そうひとり考えながら、ひとつ、またひとつとドアを開けていく。長い間使われていなかったのだろうか、ドアはかなり錆びつき軋んでいた。ライトで中を照らし、ここにもいない、と次々へと部屋を進んでいく。部屋の中へ入るが、隠れる事ができそうな場所はなく、いくらバンパイアといえどだだっ広く死角のない部屋に身を潜めるのは無理がある。となると、やはり逃げられたか。


最後の部屋のドアノブに手を掛け、ナイフを一応構える。気配がない。血の匂いもしない。だから、ここにもきっといない。そういった長年の経験が気の緩みを生んだ。


古い木材の床には赤い絨毯が敷かれていた。湿気のせいか、カビが生え、きっとこの部屋も使われていなかったのだろう。窓は閉め切られ、部屋の隅には銀食器やら十字架、聖歌隊の古びた衣装が乱雑に剥き出しで置かれている。一歩、また一歩とライトを照らしながら中へと進む。窓の向こうから月の明かりが差し込んでいた。木々が風でゆらゆらと揺れている。


まぁ、いないか。そう、ライトを下ろそうと気を緩めた瞬間、バタンと心臓が跳ね上がるような音を立ててドアが閉まった。突然の音に心拍数が上がっていく。びっくりした、と一息ついている暇はなく、俺は片手のナイフを強く握り、体勢を低くして身構え、閉まったドアの方に体の向きを変えて窓を背中に一歩、また一歩とゆっくり後ずさる。暗闇の中、ライトを向けて目を凝らす。窓は閉め切られ、風のせいでドアが閉まったわけではない。勝手に閉まる事のないドアを睨みつけた。誰かがここにいる、そう証明されたのだから。



「へぇ、ヘルのバンパイアハンターなんて珍しい。そりゃぁ、下級のやつらなんて一溜まりもないよなぁ?」



「……っ!」



何ひとつ気配は感じなかった。背後を取られ、太くて筋肉質な腕が喉を絞め上げる。相手は俺より遥かに背が高く、俺は首を絞められたまま、足が若干浮きそうになり必死に足掻いた。片手でその腕を外そうと爪を立て、ナイフを握っていた片手をそいつに突き刺そうと振り翳す。しかしナイフを握る手を掴まれ、俺は焦りを感じた。空気を吸おうとひたすらに口を開け、この状況から脱そうと手足をばたつかせる。


 

「けど、ひとりってのはなぁー。舐めすぎじゃねぇの? …あー、でも舐めてたからこうして殺されそうになってんのか。アハハハ。ざまぁねーなぁ、ヘルのハンターさんよ」



息が、出来ない。息が……。男は後ろで大笑いしながら、俺が息絶えるのを静かに待っていた。視界に靄がかかり始め、脳に酸素が届いていないと体が危険信号を出す。苦しい……、離してくれと、足掻けば足掻くほど喉が絞まる。その時、ひゅっと一瞬、意識が飛びそうになって、突然体が地面に落ちていく。同時に後ろにいた男の腕は外れ、訳も分からず目一杯空気を吸い込んだ。肺に脳に、一刻も早くと空気を送り込む。



「…っ、くそが」



上体を起こして喉を抑えながら肩で息をする。ぜぇはぁと荒い呼吸をしながら俺の首を絞めていた男を探すと、男は少し離れた窓の近くにいた。鋭い眼光を向け、眉間に深い皺を寄せて牙を剥き出している。男は背も高く、骨格も俺の二回りはでかいのではないだろうか。かなりの大男であった。あの腕に絞め上げられていたと思うとゾッとする。男は褐色の肌を露わにしていた。露出している肌の部分には無数の傷跡が見えていた。苛立ちを隠さず、ライトブラウンの短い髪をガシガシと掻き毟って睨みつける。その視線は俺を通り越し、俺の後ろを見ていた。俺はゆっくりと後ろへと視線を向ける。



「もう時間切れかよ」



大男はそう低い声で唸った。



「そう怖い顔するな。良い肩慣らしだったよ」



俺の後ろにいたのはラドだった。この大男を俺から弾き飛ばしてくれたらしい。いつの間にか音も立てずに、ラドが俺の後で膝をつき、心配そうに肩に手を回していた。何が何だか分からない。けれど、どうやら大男とラドは敵対しているように見えた。



「お前……」



愕然としているとラドは俺を見下ろし、また柔らかな笑みを浮かべた。



「王子様はいつも遅れて登場するだろ」



俺に対して、自分の事を王子様と言ってしまうこの男にゾッと鳥肌を立てつつ、状況を理解しようと大男を見やる。大男はもう俺なんて見てもいなかった。視線の先はラドだけだ。ギリッと奥歯を噛み締め、牙を剥き出す大男にラドは溜息を吐きながら立ち上がった。



「で、まだ文句があるのかい? 文句があるなら受けて立つけど、どうする?」



きっと大男はラドに敵わない事を知っていた。だから奥歯を噛み締めるだけで、動こうとはしないのだろう。ラドを睨み付けるだけ睨みつけると、ふっと鼻で笑い、全身の力を抜いて「あ、そう。本気なんだ」と呆れたように吐き捨てた。ラドの眉間に一瞬皺が寄る。瞬間、頭の中が真っ白になった。顔に数滴の血飛沫が飛んできた。



「………油断するなよ」



身動きひとつ取れず、その現実を見せつけられる。何者かが、あのクラウドの背後を取り、鋭い剣を背中からその心臓目掛けて貫いたのだ。ポツ、……ポツ、と切先から赤い血が滴となって床に落ちていく。ラドは苦しそうに咳き込み、口の端から血を吐き出した。



「どう? 苦しい? さすがに、死ぬ?」



ラドを刺した男はそう言って口角を上げると、勢い良く剣を引き抜く。血がボタボタとラドの服を濡らし、床を濡らしていく。



「チェック、…死なないと分かってやってんだろ? …ん、っ…、苦しいのは苦しいし、痛いけど」



ラドは軽く身を屈め、傷口を手で押さえながら目を細めてその男を見上げた。男はラドより少し背が低くく、細身で、全体的に青白い。髪はダークブラウンの長髪で、ゆるく後ろで丸めて纏めていた。切れ長の瞳は髪と同じ色、高い鼻を何度か擦り、呆れたように口を開く。



「ま、そうだよな。死んだら驚きだ。そんな事よりお前、ちょっと弱くなったんじゃないのか。俺なんか相手に時間食って、終いには背後取られて」



「俺が弱くなったんじゃなくて、自分が強くなったって思えば良いんじゃないの。その方が平和的だ」



ラドは手の甲で口の血を拭う。チェックと呼ばれた男は大男の側に寄ると片眉を上げる。…ちょっと待て、…チェック?



「お前さ、自分が弱くなった理由、分かってンだろう」



「さてね。分からないね」



「……自分が何をやってるのか分かってンの」



「分かってるよ? 十分に」



「じゃぁ、なぜ、こんな事になってる」



「こんな事? 俺はただ楽しく生きてるだけだ」



そう言うとラドは俺の肩を抱き、その場に立ち上がらせる。支えられるようにして俺が立ち上がると、大男とチェックの眉間に皺が寄った。俺はもしかしてと苦笑いを浮かべた。



「ラド、あいつ、第二バンパイアのチェック…じゃないよな?」



「ん? あ、そうそう。あの細いのがセカンドのトップ、チェック。で、横のゴツいのがサードのトップ、バース」



ラドはそう掌を上にしてチェックとバースとをそれぞれ指す。チェックは「どうも」と無表情で返事をするが、バースは手負の獣のように威嚇し続けている。ハンターとしてはこの状況、気を失いそうである。つまり俺はあの第三バンパイアであるバースに殺されそうになったという事だ。殺されていても何ら不思議はなかったという状況に、今更サーっと血の気が引いていく。知らぬが仏だった。この状況、なんと恐ろしい事か…。



「俺達の顔も知らない、何も知らないようなヘルのバンパイアハンターにそこまで入れ込んでンの? 心底信じ難いな」



そうチェックが呆れているが、先程から話が読めない。入れ込んでる、って何。こいつが、俺に?



「俺はもう決めたし、これで良い。だから悪いけど、こいつに危害を加えるつもりなら容赦できない」



「………お前なぁ、」



呆れて物も言えないと言った表情のチェックの横で、バースが苦しそうに眉間に皺を寄せる。



「なぁ、クラウド。あいつがあんたを探してる。こんな事、知られるわけにはいかねぇだろ」



俺はその理由が全く見当もつかなかった。ただこの異様な状況で俺は生かされていて、ラドに守られている、という事だけは明白だった。ラドは俺を守りたい、バースは、きっとチェックも、俺を葬り去りたい。でもなぜ、俺でこいつらは対立している…?



「あいつにはもう戻らないって伝えとけ」



ラドはそう吐き捨てると、すぅと深呼吸をした。胸の傷も、背中の傷もあっという間に塞がっている。



「裏切り、そう捉えられるぞ」



チェックの低い声は静かな室内には恐ろしく高圧的に響いた。ラドはその言葉に反応し、ひくりと眉を動かす。裏切りという言葉には、俺もつい反応してしまう。あの赤い目のバケモノは俺が裏切ったと、俺を地獄に突き落としてやろうと、楽しそうに俺に手を伸ばした。男の言葉が、痛みが脳裏に過ぎる。



「裏切り? 今更じゃないの。俺は守りたいものを守るだけ。それだけよ」



「…そうか。本気か。あいつと敵対しようが意思は変わらないって事だな」



「そうだな」



ふっと見せつけるように笑って見せるラドに、チェックは腰に手を当て、深い溜息を漏らす。



「なら、もういい。バース、行くぞ」



チェックは窓を開けるとバースを見たが、バースはまだ行くわけにはいかないと、曇った表情をラドに向けたままだった。「おい、行くぞ」そうチェックに再び声を掛けられた後、何か苦虫を噛み潰したようにバースは俺を見た。その表情の理由も分からず、聞く間もなく、ふたりはコウモリへと姿を変えて窓から出て行った。



「……おい、ラド、説明しろよ」



開けっ放しの窓から冷たい風が部屋に舞う。ラドはその窓を閉じ、口は閉じたまま何も答えなかった。ラドの背中を見つめ、もう一度、「なぁ、」と声を掛けると、ラドは困ったような笑顔で俺を見た。無理矢理に口角を上げているのが、傍から見ても分かるだろう。いつもの余裕綽々な顔はどこへ行ったのだろうか。ラドは何か意を決したように俺に近付くと、俺のガンホルスターから銃を抜き取り、それを俺に握らせる。何をしたいのかと、されるがままにラドに身に任せていると、カチャリと安全装置が外された。



「おい…」



何をする気だと戸惑う俺をよそに、ラドは銃を握らせた俺の手を包むように握り込み、そしてその銃口を自分の心臓に向ける。



「おい、何して…」



「こういう事。これが俺を灰にする唯一の方法」



「…え?」



「このまま引き金を引けば良い」



「じゅ、銃で……、いや、銀の銃弾で心臓を撃てば灰になる、ってこと、だろ?」



そう握らされる銃の重さに手を震わせると、ラドは「いや、」と首を横に振って、甘く微笑んだ。やはりその笑みはいつもの余裕のある笑みではなく、どこか困っていて、どこか悲しそうである。



「違う。ごめんな、」



甘い香りを嗅いだ。銃口がラドの胸にピッタリと押し付けられ、俺は引き金を引くまいと体を硬直させ緊張していた。だからそれはあまりにも不意だった。



「……っ」



その薄い唇が食むように、熱い吐息がその隙間から漏れ出した。



「こういう事。俺はね、シン。自分が愛した者に心臓を貫かれると灰になる。銃弾でもナイフでも杭でも、何でも。そうある男が言っていた。だから今、この世界で俺を殺せるのは君だけ。だからあいつらは君を始末しようとしたんだ。俺を殺されるとあいつらにとっては不都合もたくさん出て来てしまうだろうから」



唇が離れ、体が離れ、俺の手を包む手が離れる。言葉が出なかった。ただ、鼓膜の向こうでうるさく心臓の音が太鼓のように鳴り響いているだけ。何を返せば良いのかなんて、分かるわけがなかった。だって、俺はヘルなのだから。愛情とやらはとうの昔に何処かへ置いてきた生き物なのだから。


なのに、どうしてだろう。


怖いと思った。この世で最も極悪であるはずの目の前の悪魔を、俺だけが唯一殺せると言うのに、引き金を引く事を、怖い、と思った。俺がこいつを殺せる唯一の鍵だというのに…。

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