3. パートナー

あの男と出会ってから、頭の中はあの男の事でいっぱいだった。あいつが何者で、どうして俺に微笑んだのか。なぜヘルだと分かったのか。なぜ俺は、あの男に対して異常なほどの喉の渇きを覚えたのか。なぜ。あの妖艶な笑みは、俺の全てを見透かしているようで恐ろしかった。なのにその顔を必死に思い出そうとしても思い出せない。瞳は何色だったろう、眉の形はどうだったろう、鼻は、口は……。ただ舌先に開いていたピアスだけは鮮明に覚えていた。


けれどそれだけの情報であの男について探るのは不可能。舌にピアスを開けた男がこの世にはどれくらいいるのだろうと考えたところで、途方もなくなる。それに今、あの時の男は俺だと言われたところで、顔を思い出せない俺が判断できるはずもなかった。


手詰まりだなと、結論付けてソファの上に横になった。その時、「チー」と愛らしい同居人の声が聞こえ、俺は条件反射のように体をすぐに起こした。さて、世界一可愛い俺の同居人はどこから鳴いているのだろうか。後ろ手に上体を支え、周りを見渡す。「チー」と再び声が聞こえ、声が聞こえた寝室付近を見ると、パチリと目があった。ラフは愛想を振り撒きながら俺の方へ駆け寄ってくる。あぁ、これは至福の時だ。



「よう、ラフ。元気してたか」



つい声色が優しくなる。ラフは俺の掌に乗ると、毛のない尾をひらひらさせて鼻をひくつかせて挨拶をする。元気してたがお前は元気なさそうだなと、心配されている気がして悶えた。健気なラフに堪らない気持ちになる。勝手に想像して勝手に悶え、ラフに愛情丸出しの頬ずりをすると、鬱陶しいな人間と言わんばかりに逃げられる。



「ラフー!」



いなくならないでくれよぉ、と泣きそうになるがここは我慢。あの柔らかな毛並みを触りたい衝動に駆られるが、忍者のように消えるラフの痕跡を辿る事は難しかった。その時、ふと思い出す。



「……ネズミ」



ネズミとコウモリ。そうだ、ネズミとコウモリのピアスとペンダントをしていた。ピンときた。あの男の正体が分かる糸口が掴めるかもしれない。急いで部屋を出た。地下にある資料室に入り、ネズミとコウモリが象徴するのは何か、探ろうと手当たり次第、歴史やバンパイアに関する文献を取り出して机に広げる。何人かの利用者が静かに本を読んでおり、資料管理者が入口でうとうとと船を漕いでいた。


数時間、そこで粘った。だが自分が求める答えはそこにはなく、疲労困憊に根を上げて資料室を出た時、想像以上に時間が経っていた。資料管理者も変わり、利用者は俺以外誰もいなかった。エレベーターに乗り、自室へ戻っていると、途中階で見慣れた騒がしい男が乗ってきた。



「あれれー、偶然! シンじゃーん! 昨日のハント、すっげぇ稼いだらしいじゃん、サードで6匹相手ってマジ?」



「まじ」



めんどくせぇな、と顔に敢えて書いているのだが、こいつはそれを読んだとしても態度は変えない。遠慮しないし、騒ぎまくる。



「やべー! やっぱ、すげぇー! なぁ、今日はシンちゃんの奢りで飲みに行こうよ! 俺、うンまいビール飲みたい」



「俺は飲みたくない」



「えー! つれねぇー!」



うるさいなぁ、と眉間に皺を寄せていると、リクは途端に口を閉ざして、じっと俺の顔を見上げた。何か顔についてるのだろうか。けれど数秒間、何も言わずにまじまじと見られるだけである。



「……何」



いい加減にしろ。痺れを切らしてそう言うと、リクは少し首を傾げて腕を組む。



「何かあった?」



こいつはたまにとてつもなく鋭い。たまーに、だけれど。



「何もない」



そして嘘を吐いても冴えているリクには通用しない。



「俺に隠し事は無駄無駄。嘘は見抜けるから。…で、何。何か、マズイ事でも起きたの?」



「……別にマズイ事、ではない」



これは嘘ではない。マズイかどうかも分かってないのだから。あの男がハンターで同業なら非常にマズいが、きっと違う。あれはきっと人間じゃない。でも、ヘルでもない。かといってバンパイアでも。



「言ってみ。このリク様が答えてしんぜよう」



そうは言われてもなぁと頭を掻く。だが俺ひとりじゃ手詰まりだったのも確かで、俺は少し考えた末に口を開いた。



「ネズミとコウモリが意味するものって何か分かるか」



「ドブと病原菌?」



こいつに聞こうと思った俺が間違いだった。無言で目を細めると、リクはへらへらと笑う。



「えー、ごめんて。そんな顔する?」



呆れて何も言い返さずにいると、チンとまた途中階で止まる。開いたドアの向こうには何やら書類に目を通していたハルさんが立っており、リクは「あ!」と大声を出して俺の腕を引いて、そのフロアに降りた。



「おい、」



自分の部屋にさっさと戻りたい俺は、そのフロアに降ろされて眉間に皺が寄った。俺の横ではリクが早口にハルさんに伝えている。



「ハルさん、ネズミとコウモリ、これ、何を象徴しているか分かりますか」



突然の質問にハルさんは資料から視線をリクへと移して眉を顰める。



「……急に、どうした」



返答するまでに妙な間が空いた。



「シンが急に聞いてきたから。何だか思い詰めてたんで…、何か特別に意味する事ってあるかなーと」



ハルさんの視線が俺に向けられる。



「どういう事だ」



「あ、いえ…別に大した事では。あの、エレベーター行ってしまいましたけど、」



エレベーターを指差すと、リクが「俺と待ち合わせてただけだから問題ない」とにんまりと笑う。俺が口を歪めていると、ハルさんは真剣な目を俺に向け、それから何かを察したようにリクの方を見た。



「先に部屋に行ってなさい」



「え、」



戸惑うリクをよそに、「すぐ部屋に行くから」とハルさんは微笑んだ。リクは一瞬何かを察したように表情を変えたが、すぐにそれを隠すように「はーい」と素直に頷き、奥の部屋へと消えていく。ネズミとコウモリが何か重要な事を意味するのだろうと理解したらしい。だがそれは、ハルさんがリクには隠さなければならないような事で、公には出来ない何かなのだと。リクが部屋へ戻るのを見届けた後、ハルさんはここでは話せないと俺の部屋へ移動する。やけに警戒していた。部屋に入るなり、ハルさんは口を開く。



「"そいつ"にはいつ、どこで会った?」



ひくりと頬が攣る。



「なぜ、それが誰かに関する事だと…」



「ネズミとコウモリのピアスとペンダントを身につけた男、そうじゃないか?」



「何で…」



「そいつに何をされた」



俺の質問には答えず、ハルさんの低い声はまるで尋問のように降ってくる。



「別に何もされてません。ただそいつは俺がヘルだと一瞬で見抜いた、それだけです」



そう伝えるとハルさんは深い溜息を付き、腰に手を当てると壁に寄りかかった。



「確定、だろうな…」



ぽつりと独り言のように吐かれたその言葉。それが何を意味するのか分からない俺は、ハルさんの言葉を待つだけだった。何が、確定だと言うのだろう。あの男は一体……。



「その男、まず間違いなくファーストバンパイアのトップ、バンパイアの祖、…クラウドだ」



ぞわりと悪寒が走る。あの、クラウド。まさか、と信じられなかった。伝説上の生き物のように噂される第一のバンパイア。不老不死、力は強大で、俺なんか蟻を踏み潰すように殺せたろうと生唾を飲み込んだ。俺は長い事、クラウドを探していた。その血と肉は最も極上だと耳にしていたからだ。力を得る事もできるかもしれない、なんて噂話もあった。俺はいつかあの男を食らおうと、そう考えていた。でも現実、あの男を目の前にして俺は何ができたか。一歩も足は動かなかった。あいつがその気なら、俺はきっと、むざむざと殺されていた。



「ど、どうしてそう思うんですか。資料室で資料を探しましたが、そんな事どこにも記載ありませんでした」



「昔、一度見たことがある」



ハルさんはそう話始め、眉を顰めた。



「ガキの頃だった。向こうは俺の存在なんて気付いてなかった。その日、街には10匹、いやそれ以上の数のバンパイアが現れていて、家中の窓を閉め切り、板を打ち付け、父は銀の銃弾を込めた猟銃を構えて玄関のドアの前に立っていた。母と姉と俺も部屋の隅で息を潜めていた」



子供の頃にそんな経験をしていたとは…。バンパイアに対してあまり私情を語らないこの人の過去は、俺にとって意外性のあるものだった。ただ仕事としてハンターをやっている類の人間だと思っていたが、恨みがこの人の根本にはあるのかもしれない。



「幸いな事にうちに被害は何もなかった。朝日が昇り始め、安堵と共に俺はひとり屋根裏に走って、部屋の窓から外を見た。外はまさに地獄。野良犬がどこかで吠えていて、道端に血の気のない人が何人も倒れていた。向かいの家の窓は壊され、いつも挨拶してくれる若い女性が見た事のない男の腕に抱えられていて、男の白いシャツはその女性の血で真っ赤に染まっていた。女性の顔は青白く、ぐったりと動かなかった。男の周りは大量の灰が舞っていて顔はよく見えなかったが、そっと女性の首筋に唇を寄せると、その女性の血を啜った。そうして屋内へと入っていく後ろ姿を見て、俺は気付いたんだ。太陽が出てるのに、あのバンパイアはなぜ、生きてるのか、と。その男が身につけていたのがネズミとコウモリのピアスにペンダントだった」



「そん、な…」



太陽の光に当たっても死なないバンパイア。それはひとりしか指さない。



「今まで一度も聞いた事がありませんでした。文献を見てもどこにもそんな情報がなかったのに…」



「情報に制限が掛かっているのは間違いない。だがこの役職に就いて機密資料を目にした事があって、その古い資料の中には記載されていたよ。クラウドの目撃情報の中に、ネズミとコウモリのペンダント、と。だがあいつの目撃事態がこの長い歴史の中で片手に数えられるほどしなかい。信憑性が薄いと判断されたとしてもおかしくはないが…」



「信じ難くはあります。でも…兵器として登録があったバンパイアの情報は当時全て破棄されたと聞きます。全ての目撃情報すら握り潰されていると考えてもおかしくありません…。でも、なぜ制限されている情報を俺に教えてくれたんですか」



そう問うとハルさんは俺を見据える。



「お前はバンパイアを食う生き物だ。人間のハンターはお前の足元にも及ばない。加えて、あのクラウドがわざわざお前の前に姿を現した。だからだよ。だからお前に情報を晒した。お前の前に、ヤツはまた姿を表すかもしれない。お前なら、あいつを殺せるかもしれない」



この世の巨悪。夜の悪魔をこの手で。この世界の秩序がどうのこうのはもう聞き飽きた。人間が作り出し、人間が自ら首を絞め、それを俺達のせいだと責任を押し付ける。それでもこの世界は人間を中心に回っていて、俺もそのクラウドも元は人間で、それでも世界を元に戻す必要があるようで。俺はただバンパイアを食えりゃぁ良かったが、この世界を元に戻す為の一歩を俺が踏むのも悪くはない。


けれど問題はまだまだ山積みだった。



「殺せと言われても、あいつは不老不死だと言われています。あいつには何らかの弱点があるのでしょうか」



ハルさんは口を歪めて少し考えると、冷静に答えた。



「陽の光で灰にならない事は確かだろう。俺も太陽の下にいたあの男を見ているし、お前もそれを目にしている。つまり間違いなく太陽光であいつは死なない。だが不老不死はあり得ない。それが世界の掟だ。どこかにあのクラウドを灰にできる鍵があるはずだ。その鍵さえ手に入れば、クラウドの息の根を止める事ができるはずだが」



「その鍵を俺に見つけろと、そう言う事ですね」



「あぁ、早い話、お前はあのクラウドとの接点を持った唯一のハンターだ。やるべき事は分かってるな?」



「はい」



ハルさんはドアに手を掛けると、「気を付けろよ」そう言い残して部屋を出て行った。静かな部屋でひとりになると今更手が震えた。あのクラウドに会ったという事実に恐怖が振り返した。今になって心臓を握られるような心地だった。恐怖がじりじりと脳を支配していくような、どうしようもない恐怖だ。その時、また俺の不安や恐怖を察知したように「チュー」という鳴き声と共にラフが俺の側へ駆け寄って来る。不思議だった。ラフを見ると恐怖心が薄れるのだから。



「ネズミとコウモリだってさ。あのクラウドがもしまた俺の前に現れたら、俺には何ができるのだろうか。あの男の弱点なんて探れるのだろうか」



「チー」



俺を見上げて鼻をひくつかせ、弱音吐くな、と言われている気がした。いや、ただ食べ物が欲しいだけかもしれないが。



「そうよなぁ、弱音吐いてる場合じゃないよな。悪かった」



再びあのクラウドが姿を現した時、俺はあいつの鍵を見つけられるほど、そして戦えるほどの力を備えている必要がある。ここで立ち止まっている場合ではない。恐怖に押し潰されている場合ではない。あの血を啜りたいと思ったろう。あの肉を食いたいと思ったろう。ヘルとして、バンパイアのトップを食らう。だからこそ、今ここで立ち止まるわけにはいかない。


そう願った矢先だった。自分を鍛えるつもりで多少無理をするような訓練を開始し、余った時間にハントの依頼を片付ける。そんな生活をして5日が過ぎようとしていた。ベッドから起き上がろうとすると、ぐらりと視界が歪んだ。ひどい眩暈と寒気にどうしたものかとベッドに沈んだ体を起こせずにいた。目眩が治るまでベッドに突っ伏し、しばらくしてゆっくりと上体を起こす。風邪だろうか、まさか、ヘルが風邪を引くなんて聞いた事がない。だとしたら何が原因だ。血、だろうか。血が足りないのかもしれない。確かにあれ以来まともに食事を摂っていなかった。参ったな……。はぁ、と熱のこもる息を吐く。どうやらかなり熱が上がっているらしい。今日はハント依頼が入ったとしても断るしかないだろう。今まで断った事がなかったが、依頼を断るしかなさそうだった。


さて、問題は言い訳だ。何と言うべきか。体調不良となると、医務室に連れて行かれるのでは無いだろうか。それは厄介だ。だとするならハントに行った方が良い。第一にハントに行けば食事にありつける。いやいや、でもなぁ。この調子じゃぁどんなに弱いバンパイア相手でも重傷を負わされる可能性が出てくる。


どうしたものかと悩み頭を抱えていると、電話の受信音が響く。あぁ、何と答えよう。



「はい」



頭を悩ませていたが、その悩みはリーダーの最初の一言で払拭される。



「ハントの依頼ではない。今、部屋に来れるか」



何事かと眉間に皺が寄る。依頼以外での呼び出しなんて今までになかった、よな…。途端に不安になった。



「は、はい。今、伺います」



急いで身なりを整え、部屋を飛び出してエレベーターに乗り込む。妙な胸騒ぎがした。ハルさんがリーダーに何かを漏らしたのだろうか、それとも何か問題が発生したろうか。分からないが嫌な予感というのは的中してしまう。


いつもの黒いドアをノックして部屋へ入るが、一歩踏み入れて違和感を覚えた。シャルが礼儀正しくリーダーの横に直立している事、リーダーの表情がやけに硬い事、そしてそれはこの部屋にいるもう一人の男の存在が関係しているのだとすぐに分かった。



「失礼します。……あの、」



「座りなさい」



俺は指示されたソファに座る事を躊躇った。座るよう指示されたそのソファには、ひとりの男が座っていたからだ。黒髪を軽く後ろに撫でつけ、如何にも高級そうな黒スーツを着こなし、黒縁眼鏡をかけ、長い足を持て余すように組んでいる。甘い感じの整った顔立ちで俺を見上げると、愛想良く口角を上げた。この人物は一体誰なのかと俺は頭には無数のハテナが飛んでいる。依頼人、だろうか。まさか同じハンターだろうか。



「リーダー、こちらは…?」



恐る恐るそう訊ねると、リーダーは「我々と同じハンターだ」とデスクの上の書類を俺の方に向けた。



「かなり能力が高い。実績は素晴らしいものだ」



「は、はぁ」



困惑しながらも書類を手にして、再度男の方を見る。男は相変わらず甘く柔らかい笑みを浮かべていた。けれどなぜ俺が呼び出されたのだろう。リーダーは俺を見上げると、俺の疑問に対する恐ろしい回答を口にする。



「お前のパートナーになってもらおうと思ってね」



「パートナー!?」



凍りついた。ふざけるなと、熱で浮かされた頭はリーダーに対して悪態をつきそうになって必死に言葉を飲み込む。パートナーなんかつけられてしまえば、食事はできなくなってしまう。それに常に人間と行動を共にするなんて考えられない。ヘルである事を隠してハントをしなければならない、というが大前提であり、全てがかなり不便になり、自分の命をも危険に晒し兼ねない。



「今まではパートナーが足を引っ張るだろうからつけていなかったが、最近は君の疲労も目に見えるからね。彼なら心配いらない。君の足を引っ張るようなことはないだろう。同等の能力、いやそれ以上かもしれない」



クラウドと再会した時の為にと必死に訓練を重ねていた事が、ここにきて足を引っ張るとは。疲れが目に見えるという理由でパートナーをつけられるなんて堪ったものじゃない。俺は動揺していた。俺にとってはパートナーの能力云々なんてどうでも良い事なのだ。リーダーにも過去に何度かパートナーを打診されていたが断り続け、もう何年もパートナーの話はなかったのに。


だがリーダーは俺がヘルだとは知らない。ここで俺は、ヘルだから人間が横にいては困るのだと、騒ぎ立ててすべてをぶち壊す想像をしていた。ずっと微笑を浮かべるこのハンターを追い出す事が出来れば、どれほど楽か。



「あの、待って下さい」



「賞金は今までと変わらない。悪い話ではないだろう」



クラクラと目眩がした。体調は最悪である。ひとまず俺は男の隣に座り、はぁと怠さに息を吐く。



「宜しく」



男は俺に手を差し出した。その手を見ながら違和感を覚える。ハンターだと言うのに、やたらと綺麗な手をしている。傷ひとつない。バンパイアと戦ったことなんてなさそうな手だ。人間のハンターならばまず、有り得ない。何者なんだ、こいつ。


そう男を疑い握手に躊躇っていると、騒がしくデスクの上の電話が鳴った。リーダーの電話を取ったのはシャルだった。「はい、はい」と応答すると、少し焦ったようにリーダーに耳打ちする。電話を終えると、シャルはそそくさと部屋を出て、リーダーも席を立つ。



「悪いが、少し席を外す。すぐ戻るが、ふたりでよく話しておくように」



「え、いや、しかし…」



リーダーを止めようと立ち上がるが、リーダーはまるで俺が我儘を言っているかのようにぴしゃりと制した。



「これは命令だよ」



倒れそうだ。リーダーも部屋を出て、パタンと閉じたドアをしばらく眺めるしかなかった。



「座ったら?」



男は呑気なものだった。俺に座るよう促し、俺はそんな男を見下ろしながら考える。この男、何者だ。



「……悪いけど、俺はパートナーをつける気はありません。他をあたってくれませんか」



「あぁ、そうか」



男はふっと笑うと眼鏡を外して突然舌を出す。その舌先には丸いシルバーのピアスが刺さっている。瞬間、何もかもが鮮明に思い出された。あの日、俺の目の前に現れた男の顔を。そうこの男、ハルさんがクラウドだと言っていた男だ。だとするなら、なぜここに。ここはハンターのアジトだぞ。何の為にこんな所に。男は眼鏡を掛け直すと首を傾げる。



「顔色悪いけど、大丈夫?」



「………」



無数のなぜに身動きを取れずにいると、男はすっと立ち上がり俺の方に手を伸ばした。冷たい手が片頬に添えられる。突然触れられてビクッと体が強張る俺を、男は揶揄うように眺めていた。抵抗する手段はあるだろうか。ナイフは持ってきていない。何か武器になるような物が必要だ。何か、武器に…。



「熱がある時は休んだ方がいい。そういう時もパートナーは役に立つと思うよ。特に俺はね。君の体調も治してあげられるから、そんなに怖い顔をしないでくれないか」



誰かに触られる事が嫌なのだと、溜息を吐きながらその手を払い、俺は再びソファに座った。



「なぜ、俺なんです。どうして俺の前に現れたんです。ここはハンターのアジトで、俺もそのひとり。分かってますよね?」



男は少し悩むように口を歪ませると、隣に腰を下ろし、俺の方に体を向けて口を開く。



「君の事を不思議に思ってね。どうして君はバンパイアを殺しているのだろうか、と。食事に困らないこの手段は賢い選択かもしれない、だが危険もかなり大きいだろ。だからさ、君の側で君が何を考えているのか知りたくなった。だから改めて、宜しく」



男の柔らかな視線は俺を逆撫でする。腹が立つ。なんと勝手な理由なのだろうかと、思考は苛立ちで支配される。興味本位で近付いて来たこの男は、俺の事なんて簡単に殺せるほどの力があり、俺からしれみれば爆弾を抱えるようなものなのに、へらへらと俺の側にいようとする。俺にとっては災難でしかないという事を、この男は理解できないのだろうか。何が宜しくだ。ふざけんな。俺がヘルである事を知ってる、というだけでも俺にとってはストレスなのに、どうしてこんな事に…。ぐっと眉間に皺を寄せながら怒りを噛み殺していると男は揶揄うように片眉を上げた。



「君は俺の正体を分かっているだろうから、逃げられないという事くらいは理解してるはずだよ」



勘弁してくれ……。これは悪い夢であってくれ。男の瞳が俺を捉え、俺が睨むように見返すと、男は楽しそうに目尻を下げた。



「さ、握手をしよう」



差し出された手に再び視線を落とす。俺に拒否権はないのだ。今は受け入れるしか…。けれど待てよと、その時俺は気付く。これは飲むべき条件なのではないか。俺にとってはチャンスだ。



「……宜しく」



俺は男の冷たい手を握り返しながら考えていた。こいつはどうやら俺を殺すわけではないらしい。それなら俺にもチャンスがある。鍵を見つけるチャンスが巡ってきたのだ。このバンパイアの祖を灰にする為の何かを掴めるかもしれない。男は握り返された手を見ながら満足そうに笑っている。俺がお前を灰にする方法を考えているとも知らずに。



「改めて、俺はクラウド。宜しくね、シン」



クラウド、やはり噂通りその名が本名か。それよりこいつは今、俺の名前を口にしたよな。



「どうして、俺の名前を…」



「あれ、君はさっき言ってなかったろうか。あのリーダーが言ってたのかな。まぁ、そう怪訝な顔をするなよ。大丈夫だよ、君を取って食ったりはしない」



当たり前だ、と言おうとしてガチャリとドアを開く音がした。俺は反射的に握っていたその手を離し、男と距離を離す。リーダーとシャルが部屋に戻って来た。シャルは疲れ切った様子で、数冊の分厚い本を抱えている。リーダーは「急に席を外して悪かった」と俺とクラウドを交互に見ながら言って席に戻った。



「それで、シン。受け入れたかね」



「受け入れるも何も、決定事項なんでしょう。拒否する事なんて出来ない、そうでしょう?」



呆れた俺の顔を見ながら、リーダーはふふっと鼻で笑う。



「そうだな。少しは打ち解けたか」



「打ち解けたように見えますか」



「どうだろうな。もしかしたら打ち解けたかもしれないだろう」



「意地悪を言いますね…」



「君も良い加減パートナーをつけて、自分の負担を軽減させなさい。休みも取らず、取り憑かれたようにハントをこなしていると身を滅ぼすぞ」



要らない心配だし、要らない忠告だ。



「それに彼は君の足を引っ張るような事はしない。そうだね、クラウド」



クラウド…、そのまま名前を伝えているのかと俺は呑気な男の顔を見ると、男は「えぇ」と頷いた。



「逆に彼が俺の足を引っ張るかもしれません」



幼稚な煽りだったが、今の俺には効果的だった。睨むようにクラウドと一瞬だけ視線を交わすと、クラウドはやたらと楽しそうに口角を上げ、俺はその逆撫でするような笑みに舌打ちをしそうになった。悪態ついたところで何も変わらないのだが、この男、心底いけ好かない。きっと上手くリーダーの懐に入っている事だろうし、もう俺は足掻けないだろう。この男はきっと口が上手く、社交的で、俺とは真逆のタイプの人種なのだろうから。



「引っ張りませんよ。何があっても」



嫌々そう呟くと、隣でクラウドはケタケタと豪快に笑った。それはあの日のようだった。美しい顔で豪快に笑い、舌先のピアスが見えていた。


『そう間抜けな顔をするな。あまりボーっとしてるとバレてしまうよ』


思えば、あの瞬間に目を付けられたって事だ。ヘルのバンパイアハンターが、そんなに興味を引く事なのだろうか。まぁ、良い。いずれ、こいつを灰化できる鍵を掴んでやろう。



「そうか、それは良かった」



「そんなに笑う事ですか」



「悪い。あまりにも拗ねたような表情をするものだからさ」



「……したつもりはありませんが」



「そう? ふふ、悪かった」



俺とあのクラウドはリーダーの元で契約書にサインをしてパートナーとしての契約を結ぶ。パートナーがいるという事も俺にとっては大問題だったが、第二の問題はすぐに勃発した。部屋である。ハンターによっては同部屋にする者もいるらしい。シェアハウスのようにキッチンやバスルーム、リビングルームは共同で、個人の部屋を各々設けて生活する。が、俺は勘弁だった。クラウドは無遠慮に「では、一緒に住もう」としれっと言い出し、血の気が引いた。必死になってそれを止め、打開策として部屋は隣部屋となった。めでたし、めでたし。とはならず、隣の部屋に住むはずの男は何故か、



「冷蔵庫何もないんだな? 買い物に行った方が良いよなぁ。あ、リンゴだ。…ふふ、リンゴは大量にあるんだね」



俺の部屋に居座り、冷蔵庫を勝手に開け、キッチンを支配下に置いている。俺はもうキッチンには入れない。なぜって、この男に近付きたくないからだ。自室という安息の地はもうどこにもなく、俺は寝室へと転がり込んだ。ぼふっとベッドにダイブし、どんどん熱が上がっていくのをぼうっと感じていた。



「どう見ても大丈夫じゃなさそうだな」



リビングルームと寝室は壁一枚で、ドアは基本的に開けっぱなしにする癖がある。クラウドはその開けられたドア枠に寄りかかり、腰に手を当てて俺を見下ろしている。リビングルームの電気が男によって遮られ、影となり俺に落ちていた。



「うるさいな、放っておいてくれ…」



「あれ、もしかして君って結構口悪い?」



「……放っておいてくれ、と言ったはずだけど」



苛立ちを顕著に見せてるやつに、なぜウキウキと楽しそうに話しかけられるのだろう。こいつの神経どうなってんだ。クラウドはふっと笑うと、入って良いか、の一言もなく寝室に入ると俺の横に腰を下ろした。近付かれる事に嫌悪を示す俺に対して無配慮で無遠慮で、俺の苛々は増すばかり。勘弁しろよ、とは言わず、クラウドに背中を向けるように体勢を変えた。



「そのまま突っ伏していても熱は下がらないよ」



するりと冷たい手が伸びてくる。額に手を寄せられ、その体温の低さはあまりに気持ちが良く、そのままずっと手を乗せていてほしいと口をついて出そうになる。片方の手は俺の目の前に置かれ、ギッとベッドのスプリングが音を立てた。俺の後ろから俺を覗くように、俺はクラウドの影に重なり、逃げ場をなくして居心地を悪くする。視線だけを動かし、男が俺を見下ろしている事を横目で確認して溜息を漏らす。



「そのうち治るから放っておいてくれ」



「治らないと思うよ。言ったろ? 俺は君のその熱も治すことができるって。俺はその為にここにいるんだから」



その為にここにいる、とはどういう事なのか。向けられる視線を見つめ返すが、クラウドの意図は読めそうにもなかった。



「ただの興味本位で俺に近付いたんじゃないのかよ」



「ん? うん、もちろん興味はあるよ。けど弱ってる君を救いたくてね。君のこの症状は、君が思っている以上に深刻なもの。栄養が足りてないからこうして倒れてしまうんだ。君はもう少し、上質なバンパイアを食うべきだ」



「……上質な?」



「つまり、ね…」



クラウドはシャツの袖を捲って手首を出すと、自らそこへ牙を突き刺した。プツッと牙は皮膚に突き刺さり、血管を裂き、みるみるうちに赤い血が溢れ出る。一筋の真っ赤な血が手首から肘の方へゆっくりと流れていく。肘部分まで捲られたシャツに赤い血が落ちて滲みそうだった。ごくりと喉を鳴らす。その血の匂いはあまりにも甘く、酔ったように頭がふわふわと心地良くなる。あの日と同じだった。食いたいと、貪りたいと動物染みた思考に支配され、咄嗟にぐっと唇を噛んだ。美味そうな血の匂いに充てられるが、何処かでこれは危険だと赤信号が灯る。



「食わないのか」



ん? と手首を差し出される。俺を見下ろす瞳、はらりと後ろへ流していた前髪が頬へと落ちた。捲ったシャツに血が染み込みそうになると、クラウドは煽るように舌先で舐め上げた。舌先の丸いピアスが赤く血に染まる。ごくっと生唾を飲み込む俺を見て、目尻が下がり嬉しそうに微笑んだ。



「目の前に美味い肉がぶら下がり、ご主人様が食べて良いと言ってる。食べないと勝手に我慢してるのは君なのに、そう物欲しそうな顔をするなよ」



呼吸が苦しくなり、体が異常に熱くなる。ぎりりと奥歯を噛み締め我慢していたのに、赤信号だと理解しているのに……



「………んっ、」



その手首を強く握り、そのまま押し倒して自身の血で赤く染まるその唇に噛み付いた。ひどく甘い。舌を這わせ、口内に残る血の味を一滴残さず吸い尽くすように。甘すぎる蜜のような重い甘みは口の中に一瞬にして広がり、同時に下腹部に熱がこもっていく。極上の、とはまさにこの事で、我先に食い尽くしたいと貪る事しか頭にない。舌を絡め、吸い、呼吸を乱したまま握っていた手首へと視線を移す。肩で呼吸をしていたクラウドが、ぽつりと笑った。



「もちろん、いいよ」



この男の承諾がなくともきっと俺は噛み付いていたろう。自制の効かない頭も体ももう自分のものではないようだった。目の前の美味い肉を喰らう、それだけだった。じゅるりとわざと音を立てて手首に食いついた。無我夢中だった。腹を満たすとは、喉を潤すとは、こういう事かと唇を舐めて手首から唇を離した。


腹が満たされれば襲うのは後悔だった。赤信号だと分かっていたのに、この血を口にしてしまえばきっともう後戻りはできないと頭では理解していたはずなのに。途端に我を失ってむしゃぶりつく己の体に腹が立ち、同時に、煽った目の前の男に対して怒りを覚え、ギッときつく男に視線を戻す。どうせ男はヘラヘラと余裕に笑っているのだ、ろう、が……



「え?」



片方の手首は俺は握られたまま、片方の手は胸の前に置かれ、まるで死人のように白目を剥き、なぜか口角だけは悟りを開いたかのように上がっている。ん? あれ? あれれ? ……え?



「……おい、」



肩を揺するも白目のままで黒目は戻らない。



「おい、え、死んだ?」



まさか夜の悪魔討伐成功だろうか。こんなに早く? 訓練とか弱点を見極めるとか無駄だった?



「…おーい。死んだの? 簡単すぎない?」



ひとまずこの世の終わりを楽しんだ顔をしているクラウドの上から体を退け、その頬をペチペチと音を立てて叩いてみる。それでも意識を飛ばしているから、ムニムニと頬を揉むように掴んで弄っていると、ハッとしたように男の黒目が戻ってくる。そして何事も無かったかのように余裕な笑みを浮かべた。



「ふふ、美味かったろう?」



「気ィ失ってたけど大丈夫かよ」



「ふふふ、そんなはずはないな」



「しばらく白目剥いてたぞ」



「このクラウドが白目を剥くわけないだろ」



「何、お前の弱点って吸血されると気を失うのに煽らずにはいられない厄介な体質って事なの?」



「……いや、違うけど」



男は冷静に否定をすると上体を起こし、少し真顔になると、やっぱり考えて可笑しかったのかクスクスと肩を揺らして笑い出した。



「何笑ってんの…」



気味が悪いと眉間に皺を寄せると、クラウドは笑いながら答えた。



「いや、君に気を失うくらい食われるとはなぁと思ってね。感慨深いなと思っただけ。で、体調は良くなったろ。顔色は随分と良さそうだけど」



「…まぁ。お前は悪そうだけどな」



俺は座り直し胡座をかく。男は片眉を上げると顎を撫でながら、「うーん」と唸っている。



「そうねぇ、確かにね。一気に血を抜き取られたらそりゃぁねぇ」



「けど死にはしないのなら問題ないだろ。放っておけば治るんだろ」



「えー…そんな事を言う? 誰のせいでこんな瀕死の状態になっていると思ってるんだ」



呆れた。お前がそう仕向けたくせに。さんざん煽ったからだろう。自業自得だ。



「悪いけど、血が欲しいのなら外で勝手にやってくれ。それで正体がバレようが俺は知らないよ」



「君、思った以上に可愛くない」



「思った以上って…」



「パートナーがこんなに可哀想な状況なのにひとりで外に出ろって、そんな悲しい事を言う子なのか、君は」



「大袈裟すぎんだろ。第一、俺はお前の血なんて飲みたくなかった」



「へぇ、ヘルはどいつもこいつも俺の血肉を食らいたいと思う者ばかりだと思っていたけど。君はどうして?」



どうして。どうして………?


明確な理由は分からない。確かにあれだけこいつの血肉を貪ってやろうと思っていたはずなのに、いざあの甘すぎる血の匂いを嗅いだ途端、怖気付くように飲むべきではないと判断していた。その理由が何か、なんて分からない。ただ本能的に危険だと感じていた。


クラウドは「ん?」と片眉を上げ、俺の返答を急かす。



「危険だと、飲むべきじゃなと、そう判断したから。正直分からない。なぜそう判断したのか…。けどあの甘すぎる血の匂いは何だか妙な心地がした。気付いたら牙を剥いて、お前で腹を満たそうと必死になってて…」



「何その言い方。えっち」



ぽっと顔を赤らめるこの男の考えている事は到底分かりそうにもないし、ぽっとしないでほしい。



「………お前の思考回路って本当に気持ち悪いな」



「君は本当に口が悪いんだよなぁ。いくら俺でも傷つくよ」



傷ついてろよ、勝手に。とは言わなかった。はぁ、と露骨な溜息を吐くと、クラウドはクスッとまた笑って俺の方に手を伸ばす。



「で、言いそびれたけど、ヘルの血って美味いらしい」



その一言に俺は目を見開いた。一気に鳥肌が立ち、サーっと血の気が引くのが分かった。



「…き、聞いた事ねぇよ、そんなの」



「デタラメだと思う?」



「デタラメじゃなきゃおかしい。俺は、いや…ヘルは、お前達バンパイアを食う為に生み出されたんだぞ。その俺達がバンパイアにとって美味い血肉を持つンじゃ意味ないだろ」



そう早口で訴えると、クラウドは「そりゃそうだ」とケタケタと笑い出した。



「だからバンパイアはヘルを食わない。食えないと思ってるから。もしかしたら君達ヘルの血にはバンパイアを殺す何かが仕掛けられていて、血を口にした途端灰になるかもしれない。そう思ってるやつだって結構いる。だから俺みたいに何があろうと死なないバンパイアじゃないと試せない」



冷たい手は俺の頬を鷲掴みにした。逃げ場を失った俺は、ただ目を大きく見開くだけ。やばい、殺される…。ナイフ、ナイフ…そう武器を探すが、すでに武器棚に仕舞っていて手に届く範囲にはない。何か武器になりそうなものを、と目でキョロキョロと四方八方部屋の隅までを探してしまう。そんな武器になりそうな物なんてないと分かっているのに。



「だから少し血を返してよ。そうすりゃぁ俺も満足だから」



顔を近づけられて食われると身構えた。それは死を意味していると頭でも体でも理解していたからだ。恐怖にぐっと目を固く閉じると、ぷつりと何かが左手に刺さった。手の甲側、親指と人差し指の間、付け根の柔らかな肉の部分に何かが深く刺さっている。けれど痛みは皆無だった。痛みどころか、なぜか心地良さすら感じる。その部分がじんわりと温かくなり、ゆるゆると強張る体が解れていく。


あれ、俺、殺されない…? 違和感を覚えて恐る恐る目を開けると、クラウドはそこに軽く口付けるように、ゆっくりと血を飲み込んでいた。コクリと喉が上下する。その姿が妙に色っぽい。首に噛みつかれるものだとばかり思っていた俺は呆気に取られながらも、やたら美味そうに血を飲むクラウドの姿を見下した。



「……美味いの?」



「…ふふ、ん」



離したくないと、クラウドの甘い瞳が上目遣いで俺を捉え、そして少しだけ頷く。心臓がドッと鼓動を強く打つが、その理由も分からず妙な感覚を覚えた。



「へ、ヘルは美味いらしいって言い始めたバンパイアってどうなったの?」



何かを口にしなければ気が済まなかった。気まずいのだ。



「……」



「灰になったのかな」



「……」



「だとしたら楽だよなぁ。今後は俺の血を飲ませれば…」



クラウドは唇を手の甲から離すと、呆れたように俺に視線を向けた。



「君って、セックスの最中でもよく喋るタイプだろ」



「どうだろ」



「モテないぞ」



「別にお前に関係ないだろ」



余計なお世話だ。そう苛立ち、握られていた左手を半ば乱暴に引っ込めるとクラウドはふっと鼻で笑った。



「関係ない事はないだろ。こうして俺達は依存関係になったんだから」



「……は?」



こいつは今、何か恐ろしい事を言ったような気がする。誰と、誰が、依存…? 恐ろしくて身動きが取れず、じっとクラウドを見つめる俺に、クラウドはやけに甘ったれたように表情を崩した。



「君は俺の血を飲み、俺は君の血を飲んだ。依存関係。君はもう他のバンパイアの血は飲めないよ」



血の気が引き、頭が真っ白になる。ふつふつと憤りを感じて、この身勝手な男の行動に心底嫌気がさした。



「ふざけんな……」



男の頬を殴ろうと振りかぶった拳は、パシッと音を立て呆気なく男の手の中に収まった。



「痛いのは勘弁してくれるかな」



「…っ、お前はいい。誰か特定のやつの血ィしか飲めないわけじゃないんだろ! けど俺は、…俺は、お前の血だけだと? ふざけんな! お前が死んだら俺も死ぬしかないって事だろうが!」



「御名答。でも俺は不死身だ。安心しな?」



「俺はハンターで、お前を殺す為に…」



最悪だ。お先真っ暗だ。拳を下ろし、何もかもが嫌になった。こいつを灰化させる鍵を見つけようと、だからこうしてパートナーでも良いかと諦めがついていたのに。言葉を失った。



「そんなに俺を殺したい?」



ラドはまた俺の顔を覗き込む。



「個人的な恨み云々じゃない。…お前は生きていてはいけない。不死身のバンパイアなんて強大すぎる力、野放しにできるわけがないだろ」



「生きていてはいけない、本当にそうだなぁ。でも野放しになってもう何年経ったろうか。世間じゃぁ、俺の事を伝説の生き物だと思ってるみたいだ。きっと俺の事は実在しないと思ってる人もいる。それでも君は俺を葬り去りたいと」



「……言ったろ。俺は、ハンターだ」



キツく睨み付けるように言うと、クラウドはゆるりと口角を上げた。



「そうだったね。じゃぁ、安心だ。しばらくの間は共に生きよう。ハンターさん」



何が安心なんだ。無理矢理結ばれた依存関係はあまりにも強力で、こいつを灰にする方法を見つけて実行出来たとしても、もちろんそれは自殺行為。何をしても何があっても、俺はこの男の檻の中。悔しさに奥歯を噛み締める。クラウドは俺と打って変わり、清々しい表情を浮かべている。そうだろうな。こいつを殺そうと企むハンターをひとり、こうして潰せたのだろから。



「なぁ、シン」



「……」



返事するのも苛立ち、視線だけを向けた。クラウドは俺の瞳を覗くと、相変わらず甘い顔をして首を傾ける。



「俺は君のもの。君が望むなら死んであげようか」



「……は?」



突拍子もない言葉に、俺は何を言うべきか分からない。どうせ口からのでまかせ、冗談なのだろうが、それでも俺がクラウドに向き直るには良いセリフだ。



「あぁ、でも俺にもやるべき事がいくつかあるからね。今は殺されるわけにはいかないけれど」



「…お前、不老不死ではない、って事かよ」



「まぁそう、ね。太陽を浴びたくらいじゃぁ死なないな。君には特別にいつか教えてあげよう。俺を灰にする方法を。でも覚えておけよ。俺を殺す時は自分も殺す時、その時は君も道連れだ」



「…分かってるよ」



そうか、不老不死ではないのか。それを知れただけでも、まぁ良いか。いつかこの身勝手な男を灰にする方法があるのなら、俺が実行してやろう。…とは言え、依存関係を解消する方法を知る必要があるけれど。



「あぁそれから、俺の事はラドって呼んでくれないか。親しみと愛を込めて、ラド、と」



親しみも愛も込めたくはない。が、気にはなる。



「どうして?」



ラドは途端に眉を下げて困ったように笑った。



「深い意味はないよ。ただ、昔々、大昔に誰かが俺の事をそう呼んでいた気がしてね。ラドって呼び方、俺は気に入ってるんだ」



「へぇ、…そう。気に入ってんなら、誰が呼んでいたかも覚えておけよ」



「アハハハ、生憎、俺には記憶がない。人間だった時の記憶が何ひとつ。だからきっと、ラドと俺の事を呼んでいたやつとは、俺が人間だった時の付き合いなんだろうな」



不思議だった。名前の呼び方に対してそこまで固執している事に、その理由に、俺は少しだけこの男に興味を抱いた。なぜだろうか。その表情が少し悲しそうだと思ったからだろうか。人間だった時、誰かがこの男の事をラドと呼んでいた。そう呼んでいた相手はお前にとってどういう存在だったのだろう。お前はその相手にまた、ラド、と名前を呼ばれたいと思っているのだろうか。


バンパイアの祖も元は人間。そう、当たり前の事を思い出して少しだけ胸が苦しくなる。別に同情しているわけではないが、何だろう、つきと胸が痛むようだった。これもまた妙な感覚だ。



「……飯、にしようか…、ラド」



敢えて呼んだその名前に、ラドは心の底から嬉しそうに頬を緩めた。



「そうだな、何か食おう」



俺も、きっとこの男も、人間が食べるような飯は食べなくとも生きられるのだろう。けれど今は少し何か温かいものを腹に入れたいと思った。一緒に飯をつつきながらもう少し、この男の事を知りたいと思った。ふたりで食材を買い出しに外へ出る。外出する時だけは黒縁眼鏡を掛け、ふたり分の食材を買い込んだ。ミートパスタにサラダに野菜のスープ。俺の嫌いなニンジンが全てに無遠慮に、大量に入っていた。



「……あのさぁ、シン君。ニンジンを全て俺の皿に移すのやめてくれない?」



「要らないって言ったけど、買うって言ったのはお前だろ。俺の分まで食べてくれるんじゃねぇの」



「少しは食べろよ。ヘルだってバンパイアだってお野菜は大事よー? お肌にも良いですし」



「…………」



スープに入っていた小さな短冊切りのニンジンをフォークで刺し、口に放り込む。もちろん、すぐにスープで流し込むが、ラドはまるで子供を扱うように拍手した。



「おー! エライエライ。美味しいだろ? ニンジンは美味いんだよー」



「嫌いなものは嫌いだけど。食べてあげましたよ」



「うん、ありがとう」



ラドは料理が上手だ。食べ物の好き嫌いは無さそうだった。買い物に行くとやけに目立った。背が高い上に容姿が良いからだろう、女性の熱い視線も慣れていた。あのクラウドだとは誰も知らず、街に溶け込んでいた。こうやってこの男は隠れもせず、周りに溶け込んで長い時間を生きてきたのだろうと、俺は頬杖を付きながらラドを見ている。そうして腹が減れば、ハルさんが見たあの時の光景のように、血を啜り、呆気なく命を奪うのだろうか。



「……何か顔をついてる? それともハンサムすぎて見惚れてる?」



ラドはそう片眉を上げる。俺はその顔をじっと見ながら、「そんなわけないだろ」と吐き捨てるように呟いて席を立った。ラドは何も言わず、ただ俺の背中を見ているだけだった。


眠気に襲われ眠りについたのは朝方だった。ラドを自室へ放り込み、俺はひとりの時間を過ごしていた。武器の整備をしながらニュースを流し見る。それから風呂に入って、ベッドに潜り込む。読みかけの本を開き、1時間ほどで眠りについた。


嫌な夢を見ていた。過去の出来事が、悪夢になって首を絞めている。あいつの部屋から外を眺めた時も、薄く太陽が出ている時間帯だったろうか。



『君、ヘルなんだよ。人間には戻れないんだよ』



どれほど自分が強くなっても、あいつの笑顔だけは脳裏にこびりつき、トラウマのように支配される。もう、離してくれないか。お願いだから。もう、許してくれないか。


もう……



『ヘルはこうして僕の犬になればいい。そう、大人しくね』



あのバケモノから逃げるんだ。逃げて、逃げて、逃げて、身を隠せ。自由になるために、自分を殺せ。



『どうして逃げたの? ヘルは人間より丈夫だから大好き。…ね、痛い? 僕は君のそういう表情を見ている時が一番幸せ。たまらない気分になるんだ。ねぇ、シン、もう逃げたらダメだよ。次は、ないよ?』



「……っ」



急に体がキリキリと痛みだした。記憶が自分を切り刻むようで怖くなった。あいつに支配されるのが怖くなり、俺はぜぇはぁと肩で息をしながら飛び起きた。


白銀の髪、雪のように白い肌、不吉な夜に現れる赤黒い月のような瞳。自分は神様だと楽しそうに語っていたあいつの言葉は、決して嘘じゃなかった。全てを支配しては破壊するような男だった。それほど力のある人物だった。あいつはただのバケモノだ。バンパイアでもなければ、ヘルでもない。そして人間でもない。


あいつは、今、どこにいる……?

俺をまだ、探しているのだろうか。



『ねぇ、僕が怖い?』



思い出すと、はっ、はっ、と呼吸が苦しくなる。手が震え、悪夢がじわじわと俺に近付いて来る。呼吸を整えようと必死になるが、喉が締まり息がし辛くなる。ぐっとシーツを握って自分を落ち着かせようと目を閉じた。これでも苦しいのだ。苦しい、苦しい、苦しい……そう涙が溢れそうになったその瞬間、何かに包まれた。熱を感じた。長い腕が自分の体を包み込み、横から鼓動が聞こえる。一定のリズムを刻み、体温が低いはずの男の体は、こうして抱き締められると温かく感じた。



「ゆっくり呼吸をしろ。そう。…大丈夫、大丈夫。もう怖くない。ゆっくり、ゆっくり、…俺がいるから、大丈夫よ」



体が徐々に落ち着きを取り戻していく。それはまるで催眠術のように、男の声は俺の体から悪夢もトラウマをも取り除くようだった。不思議だ。いつもは必死に堪えて我慢して、それでも30分程度は苦しみが続くのに。



「……な? 大丈夫だったろ」



「ラド、……なんで」



「なんでだろうな」



きゅっと頭を抱かれ、頭の上に顎を乗せられる。まるで親が我が子を可愛さのあまり抱き締めるように、ラドは俺の体をすっぽりと包み、力強く抱き締めた。太い腕のせいで視界は何も見えない。



「……俺のストーカーしてんのか」



「やだ、御名答」



「冗談言ってんじゃねぇぞ」



「え、この子、口悪い。怖い」



「……」



ぐっとその腕を掴んで離すと、ラドは俺の顔を見下ろした。



「まぁ良いじゃない。こうして悪夢を断ち切れたんだ。二度寝したらどう? 隣にいてやるから」



この男を隣に置いて二度寝だと? ふざけるな、と言いたいところだが、俺は口を噤んだ。悪夢はいつもの事だが、こうして誰かに抱きしめられるとその悪夢がふわりと消え去り、あっという間に痛みも苦しみも消える。眠る事が怖くあったが、こうして隣にラドを置くと、その恐怖は不思議なほど消えていくのだ。



「広いベッドで良かったな」



そう言って枕をひとつ手渡すと、ラドは受け取りながら朗らかに笑った。



「俺のベッドの方が広いけどな」



いちいち余計な事を言うところは癪である。

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