1. 黒きハンター
カーテンの隙間から覗くギラギラと差し込む太陽の光で目が覚めた。朝日の眩しさについ目を細め、その明るさが鬱陶しくて眉間に皺が寄った。時刻は午前11時少し過ぎ。二度寝するにはあまりにも目が冴えてしまった。毎日毎日、同じような日々を繰り返し、あぁ、今日も仕事の依頼が入るのだろうなと、当たり前のように身支度をする。
洗面台で歯を磨き、ポリポリと脇腹を搔く。2日前に負った切り傷が、ようやく瘡蓋となり、若干の痒みを伴っていた。だいたい1週間くらいで瘡蓋になるかと思いますが、瘡蓋になって痒みが出ても掻かないで下さいね、悪化したり、痕が残るかもしれませんので、と手当をしてくれた医務室の男に言われたが、無視をするように今こうして爪を立てている。きっと悪化も痕も残らないだろうから。
寝ていた時のままボクサーパンツ一枚でリビングルームのソファに腰を下ろす。何気なくパソコンを開き、膝の上に置いてざっとニュースを確認する。どこの街で変死体が出ただの、バンパイアの目撃情報だの、特定のバンパイアの始末に賞金がいくらだの、どのニュースも血生臭く物騒である。
ただ今日もまた、どのニュースにもバンパイアの祖と呼ばれる、あるバンパイアに関しては書かれていない。ま、そりゃそうか。表の情報に堂々とあのバンパイアに関して書かれる事はないかと思いつつ、いつも必ずニュースは確認していた。あいつの名前が出なくとも、あいつの存在を証明するような、居場所に繋がるような、何か手掛かりのようなものはないかと、そういう事も含めて読むのが日課になっていた。
しばらくニュースを読み漁ったが特段気にするような事もなく、そのままパソコンを閉じる。毎日の同じルーティンに飽き飽きするが、どうしようもない事だとうんと伸びをして、キッチンへと移動した。
時間を持て余すようにコーヒーをゆったりと淹れる。ほろ苦いコーヒーの良い香りが部屋を満たし、さて一口飲もうかというタイミングで、部屋に設置されている電話が騒がしく鳴り響いた。相手は誰か予想がついていた。きっと仕事の依頼だろうが少し面倒な案件なのだろうと、俺は短い溜息を吐き、コーヒーを飲まずにテーブルへ置いて受話器へと手を伸ばす。
「はい」
正直、朝から仕事の話などしたくはないのだが俺に拒否権はない。
「仕事が入った。依頼は君にと思っているが、今夜は空いているな?」
「はい」
「なら…」
声の主はハンター組織のリーダーと呼ばれる男のひとりだった。この電話を鳴らすのはこの男くらいだろうから、仕事の依頼だろうとは分かっていた。分かってはいたが、今夜の依頼、急ぎの依頼を俺に回すという事は、やはり厄介な案件なのだろうと、朝が弱い俺はつい悪態をつきそうになる。俺は欠伸を堪えながら、男の指示を聞いていた。
バンパイアがいつしか当たり前のように人間の脅威になり、そのバンパイアを始末する為のハンターは組織化され、国で最も力を持つハンター組織はこうしてアジトなるものを建てている。俺が住むこの場所がまさにその場所であり、ここのハンターは何があろうとアジトを拠点にする必要があった。外に家を持つ、所帯を持つ、なんてのはハンターとしては夢のまた夢、というより、外に住みたいのならハンターを辞めるという選択肢しかないのだろう。組織の上の連中、現場にでない司令官達なら何処に住もうが何をしようが構わないのだろうが。
不公平だとそれに対しての抗議がたまに上がるが、俺にとってはここが住処であろうが、何の不利性もないからその抗議は赤の他人の喚き事としてしか考えていない。
しかし、そう抗議をしたところで簡単に鎮圧されてしまうのが現状であった。このハンター組織はバンパイアを殺すために集められた殺し屋の集団のようなものだが、上の指示は絶対だった。ハンターになる前はどこぞの殺し屋だっただの、ギャングの幹部だっただの、腕っ節の良い奴らはゴマンといたが、上に楯突けば終いで、たかがハンター組織のリーダーだと舐めてかかった奴らはあっという間に姿を見なくなった。彼らがどうなったかは知りたくもない。
仕事を成功させれば一夜で大金が手に入り、そして街の英雄のように崇められ尊敬される。そしてその仕事を割り振りするのは全てリーダーの役割で、仕事を割り振られないという事は能力なしと見なされ追い出される、らしい。が、俺は正直、追い出されたハンターを見た事がないし、人手不足のこの世界で、選んでいる場合ではないだろう。
このアジトと呼ばれる敷地内にはハンターとして契約を結びたい奴らが次から次へと現れ、次から次へと消えていく。彼らはハントを失敗したのか、上に楯突いたのか、能力なしで追い出されたのか、俺には分からない。
「…さて、それで、だ。場所は5番地の廃教会。数はだいたい6匹。サードの連中だという報告があるが、1匹、セカンドも混じっている可能性がある。とはいえ異なる隷属で行動を共にする事はないだろうから、全員がサードだと考えて良いかもしれない。だが、どちらにせよ、いつもよりは数が多い。どうする? この仕事もひとりで受けるか?」
俺は壁に掛けてある黒いシンプルなアナログ時計を一瞬だけ見て、「もちろんです」と頷いた。夜までまだまだ時間がある。6匹相手なら武器を一度新調した方が良いだろうか。ナイフの切れ味を確かめておく必要があるなと、考えながら仕事を受ける。
何がどうあれ、俺にハントを断る理由はなかった。単独でハントをさせてくれる限り、俺は断らないだろう。ふたり一組で行動するのが通常だが、俺はここに来た時から単独でのハントが絶対条件だった。他のハンターとペアを組めない理由はあるのだが、それはこのリーダーですら知らないし、知られてはならない。何があっても、絶対に。
「君には期待しているよ。次期リーダー候補だからね、頑張ってくれたまえ」
「ありがとうございます。では夜に実行します」
「あぁ、頼んだよ。場所の詳細はメールで送っておく」
「分かりました。失礼します」
そう切れた電話を元に戻し、俺はソファへと戻る。淹れたてだったコーヒーは少しぬるくなっている。溜息混じりに携帯を取り出し、メールを確認して、また閉じる。ポンとソファの上に携帯を置き、コーヒーを飲みながら、怠い頭をソファの背に乗せた。
さて、今日はどうしようか。
コーヒーを飲み終えたらシャワーを浴びて、武器の整備をしておこう。バースと呼ばれるサードバンパイアのリーダーの血を引く隷属が6匹。時間はかかるかもしれないが、相手はそれほど脅威ではないだろうな。
バースは図体のやたらデカく、凶暴な怪獣みたいな男だと聞いたことがあった。そいつの隷属だから基本的には力が強い。肉弾戦なら確実にハンターは負けるだろうが、少し罠を張っておけば簡単に引っかかるようなバカな連中である。まぁ、俺は罠を張らずに正面から挑んでもハントは成功するだろうけど。ただそこにセカンドと呼ばれるバンパイア達がいた場合は少し厄介だった。チェックというセカンドのトップの血を引く連中は、サードとは比べ物にならないほど賢く、強い連中が多かった。とはいえ、リーダーも言ってはいたが共闘はない。異なる隷属同士が共に戦う事はまずない。
そんな事を延々と考えながら、コーヒーを飲み終えてシャワーを浴びた。熱めに設定されたシャワーの湯はじっくりと体の芯を温めてくれる。しばらく熱い湯に打たれると、蒸気が逃げ場を無くして室内に充満した。湿度の高いそのバスルームに籠っていると、スチームサウナのように若干の息苦しさを覚えるが、それが心地良かった。熱い湯で体を流すと、身も心も綺麗になった気がするからだった。自分の存在が、少しでも綺麗になっていく。錯覚だと分かっている。錯覚でも良かった。俺は少しでも長年蓄積され、落ちる事のない汚れを落としたいのだ。
ふと鏡を覗く。曇っていた鏡を掌で拭き取る。鏡の向こうを覗いては、あぁ、やっぱりまだあるよなと、溜息が宙を漂った。
俺はソレが気に入らなかった。自分が何者で、何をしなければならないか、自分という存在を嫌でも突き付けられるからだ。
右の首筋から鎖骨にかけて、薄くアザのように体に残る模様のような痕。それは紛れもなく、ヘルであるという証だった。何をどう足掻いたって、自分は人間ではないという証だった。
もう二度と、人間には戻れないという証だ。
『君は人間ではないから』
もし自分がヘルではなかったら、ある赤い目をした男にに怯える必要もなかった。あいつを思い出す度に体が強張った。熱いシャワーを浴びているのに、背筋が寒くなり悪寒が走る。あいつが触れたところ全てが痛み出す。もう傷は何年も前に癒えたはずなのに…。
俺は鏡から目を逸らす。見たくない現実は見ないようにしたいのだが…。鏡を覗いたのは自分自身なのに後悔する。後悔しているのも束の間、グルルと腹の虫が鳴き、現実を直視しなければならない。
ヘルの腹を満たすのは、餌であるバンパイアのみ。最後にハントの依頼が入り、食事ができたのは3日前だった。ヘルという生き物は、人間が一刻も早く排除したいバンパイアなしでは生きられない。あの悪魔共を食う悪魔、毒を持って毒を制する、とはまさにこの事。人間が生み出した第二の悪魔は、自分達の餌を食い尽くした後は生きる術を無くし餓死するだろう。そうして世界は人間のみがまたこの世界に残る、それが人間の計画とやらだった。
ヘルもバンパイアも元は人間だと言うのに、悪魔に身を売り悪魔となった者はもう、勝手に殺し合って消えてくれ、それが人間共の言い分なのだろう。
シャワーのハンドルをキュッと捻り、熱い湯を止める。浴室から出ようとドアを開けると、脱衣所へ蒸気がぶわっと逃げ出した。真っ白なタオルを手に取り、ガシガシと頭と体を拭いて腰に巻く。
冷蔵庫から冷えた水を一本取り出しながら、ふと思う。バースの隷属、サードバンパイアと呼ばれる連中は行動が目立つからハントの対象になりやすい。だからだろう、あいつらはよく目にする。それにチェックと呼ばれる二番目のバンパイアと呼ばれる男の隷属、セカンドの連中も稀にだが目にする事はある。しかしファーストの連中ってのは未だに目にした事がない。この世に存在しているのかすら疑問だった。
ファーストと出交わした、ってハンター達の会話でも、ハントの依頼でも聞いた事がなかった。連中は厄介な事に賢い。ハンターの目の前に現れるほど間抜けではないと言われてしまえば、それまでではあるが。百歩譲ってファーストというあのバンパイアの血を分けた連中が存在している事はあるとしよう。
だが、やはりあのバンパイア、第一のバンパイア、バンパイアの王呼ばれるあの男は、もはやこの世に存在していないのではないか…。そう思うほど、このバンパイアの消息に関して情報は一切なかった。もはや伝説上の生き物、ドラゴンとか何かそういう類いの生き物のようである。
バンパイアの王、バンパイアの祖と呼ばれる強大な力の持ち主が、この長い時間、どこに姿を眩ませているのか。食事をしないわけにはいかないだろうが、街ひとつふたつと食ったバンパイアが人を生かす程度にしか吸血しない、…わけがないよなと俺は顎を撫でる。力があるのなら、比例して食事も必要なのではないのだろうか。どうだろう。…不老不死と馬鹿げた話があるが、それは血を飲まなくとも生きていけるという事なのだろうか。
俺はソファの上で腕を組み、うーんと首を傾ける。
あのバンパイアの姿は誰も見た事がないと言われている。だからこそ、今ではもう伝説上の生き物扱いなのだが、あの男が存在していた事は確かだった。この国を強大な国にした大悪魔なのだから。この世でもっとも恐ろしい存在とされているそのバンパイア、名前はクラウドと呼ばれている。
あの男が襲う街は一夜で滅び、噂によれば、金髪の美青年だとか、エキゾチックな黒髪のワイルドな男だとか、はたまた見た事もないような美女だとか、可愛い少年だとか、あのバンパイアに関して根も歯もない噂が飛び交っている。
俺自身、あの男と名前で判断して決めつけているが、断定できる事ではなかった。誰が言い出したか分からないクラウドという名前、もしかすると本当の名前はキャサリンかもしれないし、ジョンかもしれない。
いや、案外クラウドは本当の名前かもしれないが、何ひとつとして確かなものはないのだ。夜の悪魔は謎が多く、クラウドの隷属は幸いな事に、他のサードやセカンドと比べると数がうんと少ない。ファーストの連中は非情で、人間に対して強く敵対心を抱いているらしく、おまけに賢い事で有名だった。人間を殺す事に飽きたから今はほとんど姿が見られないのだと、ハンター達は噂をしていた。夜の悪魔だのバンパイアの祖だの、恐れられる男の血を引く隷属達もまた相当手強いのだろう。
セカンドのチェック、サードのバースの隷属とは違う生き物と考え方が良いのだろうが、そんな別格なバンパイアを、ハンター達はこぞって倒そうと躍起になっていた。
そりゃそうだ。ファースト連中を始末したというだけできっとかなりの箔がつき、国からは栄誉ある事だと表彰されるかもしれないのだから。そのファーストの親玉、あのクラウドを倒せば、それはきっとこの世は自分のモノ同然になるだろう。この世でもっとも恐ろしい悪魔を倒す。まさにそれはこの世紀末に現れた救世主。
けれど現実はそう甘くない。クラウドに関しての情報が皆無なのは、あの男と出交わす事が死を意味しているからだろう。
食われておしまい。酷いな、哀れだよなぁ。
でも、俺はあの男の存在を追いかけていた。この世界にまだ存在しているかも分からないバンパイアの祖と呼ばれる男を。それはこの世界を救いたいとか、ヒーローになりたいとか、そんな理由じゃない。第一、人間様世界に戻る事が俺にとって利点のある事ではないのだから。元に戻そうだなんて思わない。
ただ、クラウドという男はヘルである俺にとって、最高の獲物、というだけである。力のある者ほど良い血の持ち主、良い肉の持ち主。あれはどんな味がするのだろう。想像しては腹の虫を鳴かせ、あーあと嫌になって冷蔵庫を引っ掻き回す。
料理なんてしないからどんなに引っ掻き回した所で食べ物はほとんどない。牛肉は昨日既に食っちまったし、冷蔵庫にあるのは調味料くらいだった。
買い物行くのもなぁと考えながら、キッチン横に置いてあったリンゴを手に取ってそのまま齧り付く。シャクシャクと音を立て、甘いリンゴの果汁をくっと飲む。少しは腹の足しにはなるが、満たされない。それはきっと、肉を食おうが飯を食おうが満たされない。
今日こそは食わないとな。
そう考えながら食べ終えたリンゴの芯をゴミ箱へと捨て、着替えを済ませる。窓の外を眺めると、外は相変わらず嫌になるほど晴天だった。
悪魔もこの陽の下にさえ引き摺り出せれば呆気なく散るのだが、そこまで引き摺り出すのに手こずるもので。今日の6匹も、蘇生出来ないよう急所を突いて、陽の光に当たるよう外に放っておいて灰にする。それが最善だろう。
棚を開け、武器を一通り出して調整する。ナイフは念入りに研いで、紙一枚でその切れ味を確かめる。銃の手入れも済ませ、ふぅと一息ついた時だった。使っていない物置用の収納部屋からカリカリカリと爪でドアを引っ掻く音がした。ようやくお出ましかと、俺はそちらに視線を移した。ドアは閉め切ってはおらず、少し押せば開くようにしていた。それはこの小さな同居人の為に、である。同居人はほんの僅かな小さな隙間を縫って収納部屋からリビングルームに入ってくると、クンクンと鼻を上げて何かを嗅ぎつけ、そそくさと俺の方に駆け寄った。
「よぉ、ラフ。最近は見なかったなぁ。どこ行ってたんだよ」
「チュー」
鼻をひくつかせながら出てきた一匹のネズミが俺の同居人である。ドブネズミ、ぎゃぁ汚い、バイ菌、だなんて言わないでほしい。このネズミはネズミでも本当に変わったネズミなのだ。まず種類の分からない柄のネズミで、とは言ってもネズミに詳しいわけではないから資料室の本で探した限り、になるのだが。見た事がない、黒い艶々した黒毛に腹は灰色、どう見ても誰かが飼っている、そう思うほど毛並みも良くとても人懐こい。収納部屋にネズミが入れるほどの穴なんてないのに、いつもどこからどう侵入して来るのか、柔軟な体で隙間を縫って俺の前に現れる。
「元気してたか? 腹、減ってないか?」
ラフと名付けたこの黒ネズミは、まるで俺の気持ちが読めるように、俺が不安定な時には必ず顔を出してくれるのだ。タイミングよく出てきては癒しをくれる。
犬みたいなこのラフは、俺の横に落ち着くと、コロンと横になる。俺は人差し指でそのモフモフなお腹を撫でながら、何かラフに食べ物を、と部屋中をざっと見渡した。どう見渡してもキッチンのカゴに入っているリンゴくらい。仕方なしに、「ここにいろよ」とラフをソファに座らせ、俺はリンゴを小さく切ってその一片をラフに与える。ラフはまるで礼をするように、「チー」とひと鳴きするとその小さなリンゴの欠片を小さな口に放り込んだ。
「俺はいつまでハンターやってるんだろうね」
「チュー」
ラフは鼻をヒクヒクさせ、まだリンゴを寄越せと俺の手に鼻を押し付ける。欠片を手渡し、礼を言われながら、ラフの食事シーンを見下ろしては癒される。
あー可愛い。本当に可愛い。こんな血生臭い世界での俺のオアシス。俺のラフ、可愛いすぎるだろ。これはきっと特別なネズミで神様が俺に、毎日頑張ってるからご褒美だよーと寄越してくれたのだろう。はぁー可愛いくて溜息出る。
俺がそんな風にこのラフに癒されている事を、ラフ本人は1ミリも気にしていないし、気付いていないし、ひたすらにリンゴはまだあるんだろ、寄越せよ、と鼻でおねだりをする。おねだりをされてしまえば、俺はイチコロなわけで、またリンゴの欠片を渡した、その瞬間だった。
「シンーッ! シンシンシーン!」
バカでかい声で、バカが来た。ドンドンドンとドアを何度も叩き、チリリーンとチャイムも鳴らす。その音にラフは驚いたようで、リンゴを口に入れたまま収納部屋へと逃げて姿を隠してしまう。あぁ、クソ。俺とラフの貴重な時間を…。派手に舌打ちを鳴らし、重い腰を上げて玄関扉を開ける。
「何」
「リク様のお出ましよぉー! って、あれ? いやー、何、何? 相変わらず暗いなぁー。すげー根暗オーラ。昨日非番だよな? どこも出歩いてないの?」
「おい、勝手に人の部屋入らないでくれないか」
リクというこの騒がしさしかない男は遠慮もない。鍵を開けただけなのに、靴を脱ぎ、ズカズカと部屋の中へと入って来る。手には何か紙袋を握り締めていた。
「えー良いじゃんよ。俺達の仲じゃんよ。どーせ夜まで暇だろ?」
「暇じゃない」
この騒がしいバカは俺の事をヘルだと知っているハンターのひとりである。だからこそ、いくら騒がしくうるさいやつだからといって、邪険に出来ないというか、簡単にお別れができる関係ではないのだ。
「えー! してたろー! どーせひとりじゃん。な、飯、一緒に食おうぜ!」
そんなやや鬱陶しいこのリクという男は、おしゃべり大好きで騒がしさしかないが、気さくで愛嬌の塊のような男でもあるからか、誰からも好かれていた。今もこうして眉間に皺を寄せる俺を見ながら、テーブルにハムとチーズとブレッドを紙袋から取り出して広げている。
まぁ、丁度腹も減っていたし、買いに行くのも面倒だったし、良いタイミングといえば良いタイミングだった。ラフとの時間を邪魔したのは許せないがな。
「勝手だな。……で、何飲むよ」
「シン特製コーヒーミルクが良いです!」
片頬に手を寄せ、「お願いしまぁす」と語尾にハートマークを付けるような言い方に軽く苛立ちを覚え、舌打ちを鳴らす。「やん、怖い」舌打ちが聞こえると、リクはそう口を尖らせた。
騒がしく鬱陶しいなと誰もが思うはずなんだ。でもコミュニケーションの取り方が上手いのか、この男は誰からも好かれる愛され体質だった。歯に衣着せぬ態度が受け入れられやすい、という事なのだろうか。
いつぞやの誰かが言っていた。リクは永遠と可愛い少年みたいだよな、と。誰が言っていたかは覚えていないが、少年は分かるとしても、可愛いは全く賛同出来なかった。
可愛い子ぶってはいるが見た目はその性格に反して何ひとつ可愛くはない。アッシュグレーの短髪に、小鼻にシルバーの小さなフープピアスが刺さり、右眉にも開いており、右の耳には所狭しとピアスがぎっしり刺さっている。真っ黒で丸い目は童顔な印象を与えるが、その派手な面だけは可愛いとは掛け離れてるだろうと俺は未だ解せない。
「ほらよ」
「サンキュ!」
シロップドバドバ、ミルク8割、コーヒー2割のリク曰く俺特製のミルクコーヒーを差し出すと、リクは満面の笑みを浮かべた。くっと一口飲み、俺はブラックコーヒーを片手にパンを齧る。
「なぁ、ちょっと聞いてくんない?」
「なに」
他のグループの失敗話や、上司のグチを話しに来たのかと思ったら、どうやらそうではないのかもしれない。リクの表情が若干暗くなる。
「俺さ…」
「あぁ」
実はバンパイアに噛まれてバンパイアになっちまった、とか最悪な報告だったりするだろうか。やめてくれ、勘弁してくれ。よりによってこんな身近なやつがバンパイアになってしまったら俺はどうすれば良いだろうか。殺せるのだろうか……。馬鹿でとてつもなく騒がしくて騒がしいだけの男だったが、一応俺がヘルだと知ってもこうして気に掛けてくれてるようなヤツだ。俺は自らの手で、こいつを…
「俺、昨日、ハルさんとヤっちったー!」
俺はついコーヒーを吹き出しそうになり、急いで飲み込んだ。ためにためてそんな事かよと、イラっとしたのは言うまでもなかったが、まさかの言葉であった。そうか。ある意味、バンパイアになった、という事よりも深刻かもしれない。
「マ、マジ…?」
「うん。ヤバイよな? ヤバイよね? どうしよう、どうしよう、どうしよう……」
こいつがどうしようと焦るハルさんという男は、誰が見てもハンサムな類の男で、無口でクールだがびっくりするほど誰とでも寝るような貞操観念の低い男だ。いつも俺に嫌味ばかり言う嫌なやつという側面もある。で、どうしよう、と焦る最大の理由はハルさんの貞操観念が低いとかハンサムだとかはどうでも良くて、この人がこのハンター組織の第二グループのリーダーであるという事が大きいのだ。
俺とリクは第一グループと呼ばれるグループに所属していた。他のグループとの交流は禁止されているわけではないが、暗黙の了解、第一と第二は長年ライバルのように敵対している節がある。
そんなグループのリーダーとヤった、だと?
何、手を出されたのか。出したのか。いや、想像もしたくないが。これは厄介な事になりそうだな…。というか、待て。待て待て。あまりにもスムーズに言い出されたけど、その前に、だろ。
「お前って男には恋愛感情抱かないって言ってなかったか? 付き合うなら典型的な可愛い女の子、ってついこの前言ってたろ」
こいつは大の女好きだったはずだ。そんな重要な事を思い出して俺は鳩に豆鉄砲だ。リクはブレッドを齧ると、うーんと唸る。
「それがさぁ、もう、恋に落ちるってこういう事かって思うくらいには好きになっちゃったのよ。なんつーかなぁ、年上の大人の魅力に当てられた? イケメンな上に色っぽいじゃん、あの人。パッと見、インテリぽくてさ、いつも眼鏡越しに何考えてるのか分からないし、口を開けば結構棘のある事言うし、いやー苦手な類いだったんだけどぉ…」
べらべらべら。呆気に取られて話が入ってこない。あのハルさんとこいつか。世も末か。他にバレたらどうすんだよ。いや、でもシリアスな関係ではない、という事なのだろうか。ハルさんにとっては遊びのうち? いや、だとしたら何してくれてんだよ。リクに手を出すのは悪手だろ。そうやって士気を下げるつもりだろうか。…それだ。あのハルさんがこっちのグループのやつに手を出すのは、きっと何か狙いがあるだろ。
「好きだって何度も何度も言って押しまくったらさ、ハルさん困ったように、分かったから、って。あんたと付き合いたいって、正直に言ったらさ、」
いつの間にそんな関係に発展してたんだよ、お前達。俺がひとりで血みどろにハントしている間に、なぁに恋愛楽しんでんだよ。お前だってトップクラスのハンターだろ。うつつ抜かしてる場合じゃねぇだろ。
「今のままの関係じゃダメなのか、ってハルさんを困らしちゃってさ。人目盗んで会うだけで、話してるうちに俺ばっか好きになって、ヤりてぇーなーって、そりゃぁ俺は男の子ですから思うわけですけど、言えるわけないじゃん? 相手、第二グループのリーダーだし。でもさぁ、昨日さぁ、ハルさんに部屋呼ばれてさぁ…ムフフフ」
にんまりいやらしくリクの口角は上がり、瞳は弧を描く。
「いや、もういいよ、恋愛云々、俺に話すのは間違えてるだろ」
「えーそう言わないでよぉ。ハルさんってさ、俺の事、本気だと思う?」
「さぁな。俺に聞かれたって分かるわけないだろ」
「冷たーい。シンちゃん、冷たーい」
リクは恋する乙女丸出しで悩みを口に出し、俺はそんなリクを見ながらコーヒーを飲み干す。しかしリクとハルさん、このふたりが関係を持つとは。ハルさんもまた、俺の正体を知っている。この組織で俺の正体を知っているふたりがまさか関係を持つとは。人として好きか嫌いかは別として、ハルさんに対しても一応感謝はしていた。ふたりにとって、俺の存在を隠すことに何の利点もない。なのに俺をこうして匿ってくれている。ただハルさんに限っては優しさで俺の正体を隠しているわけではない。
前にハルさんは言っていた。ヘルでバンパイアハンターなら人間のハンターよりも多くのバンパイアを始末できる、だからだよ、勘違いすんな、と。ま、ごもっともである。バンパイアを食うヘルが一刻も早くバンパイアを食い尽くして、そして一刻も早くヘルも全滅してほしいと願うのが人間の一般論だ。
「あぁーあ、ハルさん今頃仕事だよなぁー。何時頃戻るのかなぁー」
リクはそうハムをむしゃむしゃと食べながらそう思いを馳せている。遠い目をして呟いた時、コンコンとドアがノックされ、俺達は互いに視線を合わせた。
「……誰だろう」
俺の部屋に訪れる人なんてリクくらいだ。リクは眉間に皺を寄せ、俺も検討がつかない訪問者に眉根を寄せて席を立つ。玄関ドアを開けるとそこにいたのは、「あ…」渦中の人だった。
「ここにリク来てないか? あいつの部屋行ってもいなくてさ」
顔の良いインテリヤクザのような男がひとり。冷たい印象を与える銀縁メガネ、黒髪はいつも軽く後ろに流しているが今は少し乱れており、長い前髪がはらりと頬に落ちる。動きやすそうな黒のトラウザーに、白いシャツ。ガンホルスターは装着したまま、腰のベルトには愛用のナイフが二本挿さったまま。ハルさんからは少し血の匂いがした。ハントの帰り、そのまま来たのだろうか。
「リクならリビングにいます」
「そう」
ハルさんは部屋の奥に視線を向けると、「入っても?」と首を傾ける。「えぇ」そう、来客用のスリッパを出して部屋の中へと招く。ハルさんはパンとチーズを頬張るリクを見つけると、ふっと表情を緩めた。この人の嬉しそうな顔、初めて見たかもしれないなと、俺の片眉が反射的に吊り上がる。
「ハルさんっ! え、なんで…」
「仕事が早く片付いて、君の部屋に行ってみたがいなかったから。コレ、言っていた土産だ。早く渡した方が良いかと思ってさ」
へぇ。ハント帰りに土産買って帰るくらい余裕なんだ、この人。この人が直々出張るくらいの案件だろうに、簡単に片して無事帰還ですか。んで、その土産を早くリクに渡したかったと。
「うそ、本当に、俺に?」
リクは立ち上がると、ハルさんのもとへ駆け寄り、土産物らしいワインボトルを受け取った。
「今日だったんスね、イール地方での仕事。ご無事で何よりです」
「うん。ありがとう」
「怪我とかしてない、すよね?」
「してないよ。そこまでヤワじゃないんでね」
「あ、そういうつもりじゃ…」
「分かってる。ふふ、心配ありがとう」
この男、俺には絶対ありがとうなんて言わないし、いつまで経っても刺々しいくせに、リクの前だと表情ゆるみっぱなしじゃねぇの。いつからそんな人間になったよ。そんな事はどうでも良い。俺は溜息まじりにふたりの間に割って入った。
「ストップ、ストップ。勘弁してください、そういう甘ったるい会話は聞きたくありません。ここは俺の部屋です。イチャつくなら自分達の部屋でお願いします」
「あぁ、悪かったね」
インテリヤクザはそう言うと「俺はお暇するよ」とリクに微笑んだ。リクには、微笑んだ。全く、そう目の前で態度を変えられると不思議なもので呆れが勝って腹も立たないな…。
「あ、じゃぁ俺も帰るよ。シン、また来るな」
リクはそう言うと飲み終えたグラスを下げ、「他は食って良いよ」と手をひらひらと振っている。
「いや、来なくて良いよ。呼んでないから」
「えー。つれないじゃーん、シンちゃん」
はいはいと呆れていると、ハルさんはリクの横でふっと鼻で笑った。
「自分にはないものは遠ざけておきたい、そう顔に書いてあるな。例えば、色恋なんて最も遠ざけたいか。誰かを愛し、誰かに愛される、自分とは無縁だろうと線引きをする」
反論できなかった。図星だから、だろう。
「幸せそうな何かを見ると辛くなる、そうだろ? 自分には永遠と手に入れる事が出来ないものだから」
嫌な笑みを向けられる。見下したような、哀れんでいるような笑みだった。
「ちょっと、ハルさん」
リクは止めに入ろうとするが、別にどうだって良い。ハルさんが苦手なのは今も昔も変わらない。信用はしているが好きではないし、リクのようにこの男に絆される事もない。
「ヘルは愛情とは無縁な生き物だ。幸せとか愛とか理解ができない生き物だ。愛情に欠け、補おうとしてもその方法も分からない。もっとも素晴らしく、人間にとっては切り離せない感情を知らないとは可哀想な生き物だと同情するよ」
ハルさんは俺の感情を逆撫でし、俺を心底苛立たせる。この人は俺の事が嫌いなのか、それともただただヘルそのものが嫌いなのか。俺の感情は顔に出ていたらしい。眉がひくりと動いたの見て、ハルさんはくすっと笑った。
「なぁ、シン。お前も恋のひとりやふたり、経験しなければ人間には近付けないぞ。ヘルを心底嫌い、バンパイアになる事も嫌い、人間に戻りたいと後悔を繰り返し、人間の世界で身を隠すのなら、愛情を知るんだな」
ま、お前にその方法が分かるのなら、な。そう付け加えられ、俺は何も言い返せなかった。心底苛立つ言葉だが、的を得ていたからこそ腑が煮えくり返るような苛立ちを覚えるのだろう。
ヘルは人間が作り出したバンパイアを一掃するロボットにすぎない。感情なんて必要なかった。ただ、こうして時が経てば感情はひとつ、またひとつと思い出すように自分の一部になっている。怒りや悲しみだってある程度は理解できるようになった。
けれど、愛情は少し特殊だった。何かを愛でる気持ちはラフのお陰か、少しずつ芽生えたが、ハルさんの言う愛情とは違う。いわゆる、それは誰かを愛するという事であり、その人と共に過ごす事で満たされる感情を得る。その人なら為に命を捨てる事も惜しまない強い愛情、なんてのはきっと一生得る事はないだろうと、俺は半ば諦めている。だから面と向かってその感情がなければ人間にはいつまで経ってもなれないと、断言され行き場のない苛立ちに窒息しそうになる。
『君は、ヘルだから。ヘルは、良いね。人間よりうんと強くて壊れない』
ふと背筋が凍る。鳥肌が立ち、恐怖は一瞬にして思考を支配した。あいつの存在はいつまで経っても俺を雁字搦めにしては、喉元に刃を突きつけてくる。大丈夫、ここはバレてない。あいつは追って来てない。あいつだって、俺の存在なんかもう忘れたろう。そう言い聞かせても、カタカタと小さく手は震えた。ダメだな。何年経とうが、あいつは俺の首に手を掛け、いつでも殺せるよと脅しをかけている。
「チー」
その時、気付けばラフがソファの下で俺を見上げていた。いつの間に…。
「ラフ……。おかえり」
その姿に安堵した。手を伸ばすと、ラフはその小さな体を俺の掌に預け、挨拶にと鼻をひくつかせる。その姿に恐怖心は解けて、心は落ち着いた。不思議なものだった。ラフがいると俺は心底心強くなり、安心できるのだ。
「リンゴ、食べる?」
「チュー」
後ろ足だけで立ち、まるでねだるように前足をパタパタと宙を蹴る。その愛らしいモフモフに頬ずりしながら、俺はキッチンへとリンゴを取りに戻った。ラフが側にいれば大丈夫。そう、頬を緩めながら。
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