The Crack of Black Night
Rin
プロローグ BLACK BOOK
その匂いはあまりにも甘すぎた。蜜のような重く舌にまとわりつく甘さだった。何度も何度も口にしたあの頃が懐かしかった。また再び味わえるなら、俺はきっと何でもしてしまうだろうと思った。それは文字通り何でも。
来る日も来る日も、その日を待ち侘びていた。今か、今かと長い時間をじっと待ち続けた。
「待った甲斐があった」
「……っ、ん、…ふふ、そうだな、」
その甘い匂いはあまりにも強すぎた。男の上唇に親指を押し付け、上へ軽く押し上げると、興奮したように牙が剥き出しになっていた。頬を紅潮させ、黒い瞳が涙で潤んでいる。その尖った牙に親指の腹を押し当てると、ぷつりと皮膚が破れて赤い血が溢れる。ゆるゆるとその血は流れ、男は咄嗟に舌でその血を舐め上げた。舌のざらついた生温かい感触に背中が粟立つ。舌先に開いている丸いシルバーピアスが赤く血に染まる。男はこくっと血を飲み込むと、その傷を塞ぐように舌で再び舐めて、チュッと軽く音を立ててそこにキスを落とした。
男の熱っぽい瞳を見下ろした。何も変わっていなかった。その艶やかで癖毛のようなウェービーな黒髪も、凛々しい黒い眉も、甘い印象を与える垂れ下がった目尻も、高い鼻も、薄い唇も。何もかも、あの日と変わっていなかった。
「………相変わらず甘いな」
そう呟いた男の白い首筋を見て喉が鳴る。ごくりと生唾を飲み込むと、男は可笑しそうにケタケタと笑った。
「君は据え膳って言葉、知ってるか?」
男の揶揄うような熱を帯びた瞳も、煽るような言葉も全てが懐かしかった。
「お前は相変わらず気を失う癖に煽らないと気が済まない性分なのか」
男はにやりと笑うと上体を起こして、そっと俺の頬に手を寄せる。
「……かもしれないな」
食むような甘い口付けに心臓は握り潰されるようだった。ただただ、頭も体もまだその夢のような現実を信じられないようだった。あのクラウドがここにいる。その現実が。
「おかえり、ラド」
あまりにも強くて甘い匂いに充てられ、くらくらと、その首筋に埋もれ、ゆらゆらと。男と別れてからのひとりで過ごした途方もない時間を思い返していた。
………
……
…
星のない暗く不気味な夜。血のような赤黒い月が大きく空に輝いていた。薄い雲がするりとその不気味な月を切り裂いて、風に流れて消えてゆく。
それは何か不吉な事が起きる前兆か。
街外れにある錆びれた研究所は、少し小高い丘に位置しており、その不気味な空を特等席で眺める事ができた。コンクリート剥き出しのその建物は、外からは見えないよう周りは大木で囲まれ、まるで森の中にあるような造りである。その研究所で日夜何を研究しているのか、街の者は知らなかった。
ひとりの青年が一冊の漆黒色の革表紙本を片手に、血相を変えて研究所内を走っていた。
「ゼルス博士!」
博士の部屋のドアを勢いよく開けると、そう大声で呼び掛けながらズカズカと室内へ入って行く。真っ青な顔をした白衣の青年は、書斎兼資料室と化している博士の部屋で、本に埋もれる博士を見つけた。博士は大量の本をデスクに積み上げ、うちの一冊を開いて読んでいた。年季の入った焦茶色の革椅子がギィと軋んだ音を鳴らして、博士は青年の方へ体を向ける。青年はぜぇ、はぁ、と肩で息をしながら博士に一冊の漆黒の本を差し出した。
「ベンジャミン、走るなと何度言ったら分かるんだ。……で、なんだね、この本は」
博士は読んでいた古い本をぱたりと閉じる。青年のあまりの焦りように手元の本から目を離し、差し出された本に視線を移した。
「これです! やはり、存在していたんです!」
漆黒の色をしたその本のタイトルはその表紙の色、 "BLACK"。タイトルの下に著者の名前が記されていた。ラド・ディラーと。博士はその名前を指でなぞると口を一文字に閉じ、少しの沈黙を生んだ。数秒の沈黙だったが、青年は博士のその沈黙に何かを感じ取ったが、何かを言う前に博士は口を開いた。
「遠い昔のファンタジー、いやSF作品の一種だろう」
博士の態度は明らかにおかしい。何かに動揺していると青年は感じた。博士はその本の事を隠そうとして、あえて知らないふりをしているのだと。
自分も博士も生まれるもっと前、ある予言書が書かれたと言われていた。その予言書は真っ暗な未来を予言する内容で、そして今の現状を的確に予言していると噂されていた。その本はオカルト好きな一部人間だけが信じるような、噂話の種にしかならない存在だった。
その本は、この世に存在してはならなかった。
噂にすぎない予言の書。しかしそれはたった今、ひとりの青年によって、噂ではないと証明されようとしていた。
「博士はこの本の事を否定してきましたが、俺が見つけました! 噂なんかじゃなかったンすよ。この本が書かれたのはずっと昔…。バンパイアが生み出される以前に書かれたものです。少なくとも、あいつらがこの世に蔓延る10年、いやもっと前のものでしょう。ですからこの本は、正真正銘の予言の書。俺はそう断言します」
「予言、か」
博士はぽつりと呟くようにそう吐くと、ひらりとその本を一枚捲った。カビの臭い、今にも破れてしまいそうな薄い古紙の感触、馴染むインクの色。
青年は訝しげに博士の顔色を伺う。何を考えているのだろうかと、眉間に皺が寄った。博士はまた一枚と捲り、何かを語る様子は皆無だった。しかし博士はきっと何かを隠しているのだろうと、青年は踏んでいた。
何もないのであれば、この本を否定し続けた理由が分からない。
「博士、今俺達が住んでいるこの世界と同じことが書かれているんですよ。全てが同じです。バンパイアの存在も、それを倒すためのハンターも、そして人間が造り出したバンパイアをエサにするヘルという生き物も。全て、ここに書かれた通り進んでいる。人類は文明に頼りすぎて、世界を滅ぼそうとしてる。今のこの世界の事が記されているんです」
落ち着いて博士に淡々と言葉を並べる。博士は大きな溜息を吐くと、椅子に深く寄り掛かって青年の顔を見上げた。
「この世には数多くのSF作品があった。未来を想像することで夢を見ていたのだろう。しかしハッピーエンドが全てではない。あえて悲劇的な結末にして、ディストピアを描き、こうなるぞと恐怖心を抱かせる。そういう作品も好まれてた、という事にすぎない。この本の内容にはたまたま今の世界との類似点がある、それだけの事でないのかね。科学者である君が噂話を鵜呑みにして、この一種のSF、ファンタジー作品を予言の書だなんて信じるべきじゃない。偶然でしかないのだよ」
博士は鼻で笑った。青年はその態度に何故信じてくれないのかと、否定ばかりするのかと、きちんと向き合ってほしいのにと強く願い唇を噛み締める。
しかし、博士は気付いていた。もうどうにかできる事態ではないのだと。既にどうにもできないのだと。全てが手遅れなのだと。今更、予言書が出てきたところでこの世界は変わらない。人類はゆっくりと終焉に向かうだけなのだ。
「博士、…俺はこの本が予言書だと信じたいんです。ここに書かれている事が本当なら、この世界を変えられる! そうでしょう? み、見て下さい、ここ」
青年は本に手を伸ばし、パラパラとページを捲り、あるページを開くと博士にそこを見るよう本を博士に向ける。ページの端はカビで既に何が書かれているのかよく分からないが、大まかな事は理解できる。
「この章、"造られた悪魔"は今と同じ状況が書かれています。まったく同じです」
「どう、同じだと言うのかね」
博士の冷たい目を見下ろして、青年はゆっくりと語りだす。
「バンパイアと呼ばれる生き物はある国が造り出した最強の武器であること。一番目に造り出したバンパイア、つまりバンパイアの祖は不老不死であり、ひとつ、ふたつと国を滅ぼした。彼は陽の光に当たっても死ぬ事はない。ある国を、この世界の支配国のトップに君臨させたそのバンパイアは、英雄ではなく、もはや人類を終わらせる第一歩になった、そう書いてあったんです。現実、この国はバンパイアを武器にして戦争に勝った。しかしバンパイアをコントロールする事ができなくなり、今、彼らは人間を滅ぼそうとしている。ここまで同じなら偶然では片付けられません」
博士はそこまで聞いて、表情を変えずにはいられなかった。本の存在を否定したいと、心の底から強く思った。ぐっと表情を苦痛に歪めた博士に、青年は畳み掛けるように博士に詰め寄る。
「バンパイアを造った国は圧倒的な軍事力で世界のトップに君臨し、その後は大量の武器としてバンパイアを売りさばき、国の頂点を確固たるものとした。バンパイアを生み出した当初、バンパイアに心などなかった。それは人間の言いなりになるよう、変えのきくロボットとして生み出したからです。バンパイアの生みの親である、エリック・ワード博士は子供の頃からダークファンタジーが好きな人だったと言います。バンパイアが好きで、バンパイアを造り出したと言われています。夜に敵国を襲う人の形をした何か。人ならざる者。博士の言いなりになるバンパイアは敵国を貪った。敵を殲滅したバンパイアは英雄なのだろうか。…酷い事に一番目に造られたバンパイアは博士に牙を剥き、博士は無残な姿で発見される」
青年はそう早口に書かれている文章を読み上げた。博士は椅子をくるりと回し、聞くことを拒否するように青年に背中を向けて窓の外を見る。赤い月がゆらりと暗闇に浮かんでいた。
「研究所の壁には、"どうして俺達を造ったんだ" 、そう血で書いてあったそうです。一番目のバンパイアは姿を消し、他のバンパイアはハンターによって始末されたと言います。しかし二番目、三番目のバンパイアの死体は突然消え、行方知れずとなった。どこかでバンパイアは数を増やし、人類を滅ぼす。そう書いてあった、と。これは偶然ではありません」
青年が話し終えると、博士は深く溜息を吐き、椅子から立ち上がると窓に手を掛けた。ひゅぅと肌寒い風が部屋を満たす。博士は何も返事はせず、眉間に深い溝を作った。
この国はバンパイアと呼ばれる兵器のお陰で今の位置がある。この世界で最も力を持つ国にしたのは、負け戦と呼ばれた戦争に勝つ事が出来たのは。バンパイアはこの世界に必要な兵器でこそあれ、咎められるものではない。そう狂った言い訳をよく口にしていたのは、バンパイアを造りだした博士の曽祖父であった。曽祖父は一番目のバンパイアに殺された。
青年は知らなかった。博士がバンパイアを生み出したあの研究者の血縁者である事も、その研究者が本の通り殺されている事も。
博士の曽祖父の死以降、変死体が数多く見つかっていた。国はいくつも隠蔽を繰り返した。しかし隠し切れなくなるほど変死体が各地で報告されるようになるのには、そう時間が掛からなかった。その変死体に共通しているのは、吸血痕が残されている事だった。
人々はバンパイアの仕業だと噂した。
「この作者だが、今はどうしてる?」
博士は空を眺めながらそう青年に尋ねた。ある事に気付いたからだった。地獄のような未来を予言し当てる人物は、その未来を創り出せる者。だとするなら、
「亡くなったはずなんすけど…」
青年は怪訝に表情を強張らせ、首を傾けた。博士は「はず?」と聞き返して青年の方へと向き直る。
「墓はありました。エパロードの奥地に、その人の墓は確かに。ですが遺体はありませんでした。骨も、身に付けていたであろう衣類や金品も、何もかも、ありませんでした」
博士はあぁ、終焉に拍車が掛かったかと、予感が的中してしまった事に絶望した。青年はその事にはまだ気付いていない様子だった。青年は「あの、作者の墓が何か…」と不安と恐怖とが混ざったように恐る恐る質問をしたその瞬間、開けた窓から再び冷たい風がはらりと書類の束を捲り、窓を閉めようかとそう思っていた時だった。
「やぁ」
ふたりは蛇に睨まれたように身動きが一切とれなくなった。足がすくみ、逃げる事も出来ない。体を動かせば、それが自分を標的に選び、呆気なく命を奪うだろう事が容易に想像出来たからだった。
息を飲み、ただ目の前のそれを見つめる。
闇に同化しそうなくらい真っ黒な髪、同じ色の瞳、高い鼻、薄い唇。髪は首筋にかかるくらいまでの長さで、ウェーブがかかっていた。つり上がった眉と対象的な少し下がった目尻。博士や青年より遥かに背が高く、体格が良い。薄い唇が怪しく上がり、瞳が弧を描く。それは喉の奥でククッと詰まるように笑うと、「懐かしい話をしているね」、そう楽しそうに呟き、その正体を晒した。
微笑むその男は墓場から姿を消し、博士の曽祖父を殺した男。
名前を「クラウド…」それは、「ファーストバンパイアだ……」。バンパイアのトップに立つ男。バンパイアの祖。バンパイアの王とも呼ばれるこの男は、いくつもの国を食い、人類を終焉に導くとされる悪魔。この世でもっとも恐ろしい、人間が作り出した不老不死の兵器。
「よくご存知で。なんてね、あんたは俺の事をよーく知ってるよな?」
怪しい笑みを浮かべていたそのバンパイアは、そう甘く微笑み、首を傾けると煽るように博士を見下ろした。博士は咄嗟にデスクにあった銀のナイフを手に取った、が、呆気のないものだった。
風でデスクの上の本がパラパラと捲られ、気付けば青年の視界に博士もそのバンパイアもいなかった。ガタンとデスクの下で何かが動く。恐る恐るそちらへと視線を向けた。投げ出された博士の腕だけが青年からは見えた。デスクで陰になり、その体の大半は見えなかったが、掌がみるみるうちに白くなり、ゆるゆると何処からか真っ赤な血が床を濡らす。博士の上に馬乗りになっていた男は博士が息絶えた事を確認すると、何事もなかったようにデスクの後ろから姿を現した。
青年はあまりの恐怖に腰を抜かし、震える手を握り締めた。博士を無残にも殺し、部屋を血の海にしたその男は、青年に近付くと美しい笑みを浮かべた。骨ばった細い指で青年の頬をなぞり、くっと顎に指を引っ掛ける。首筋を露わにするよう誘導すると、そっと耳元で囁いた。
「怖がるな、一瞬だ」
青年は恐ろしくなった。死ぬ事の恐怖に発狂しそうになった。しかし声は出ず、何故か抵抗もできない。
「君はあの男のようにはしない。ただ生きて返すわけにもいかない。悪いね、少しの辛抱だから」
そのバンパイアは優しい口調でそう耳元で囁くと、青年の白い首筋にそっと唇を這わせた。青年は恐怖にその綺麗な琥珀色の瞳を大きく見開いた。青年が恐怖に震えたのも束の間、噛まれた事は理解できたが痛みは皆無だった。むしろ、体の内側がじんと温かくなるようで、全身の緊張や強張りがあっという間に消え去った。青年は深く息を吸い、深く吐き、静かに目を閉じた。吐く息が熱い。体の芯が熱い。
「さ、もうお休み」
自分を食らった男は悪魔とは思えないほど優しい笑顔を青年に向けていた。瞬間、ふっと青年は意識を手放し、男は青年の体を支えるとゆっくりと床へと寝かせた。そのバンパイアは最後に黒いバラを博士の胸元に置くと、デスクの上にあった真っ黒で重厚な本と共に窓から身を投げた。
コウモリが一匹、闇夜に混じり、赤い月へ向かうようにして姿を消した。
この世は取り返しのつかない悪魔を生み出した。人々に恐怖を与える夜の悪魔。政府は自分達が作りだした兵器を恐れ、ハンターを生み出した。
優れた能力を持つハンター。彼らは人並み外れた能力で次々とバンパイアを始末した。訓練されたハンターは人間でありながら超人的であった。元警官、元軍人、元殺し屋。ハンターに選ばれた人間達の肩書は幅広かったが、そんなものはあっという間に関係がなくなった。
バンパイアを目の前にして躊躇すれば、餌になるだけだった。しかし現実、ハンターだけでは限界があった。
ハンターが生み出された数年後、政府は新たな兵器を生み出した。罪に罪を重ねた事に気付かない人間は、もうひとつの悪魔を生み出したのだ。
それは、バンパイアを餌にする悪魔。
悪魔を食う悪魔。ヘルと呼ばれた。
彼らが世に蔓延った後、バンパイアの数は激減したと言う。それでもバンパイアは絶滅などしなかった。今日もどこかで血の抜かれた変死体が転がっている。
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