016 初めての絶望 【The Turning of Destiny】
コフルルルル……
熊にしてはやたら静かな呼吸音。
ハンターベアと名が付くだけあって、獲物に気取られぬよう息を殺しているのだろうか。
その熊は今、一心不乱にバリボリと獲物の骨ごと噛み砕き貪っている。
盗賊風の男を。
辺りには血液、肉片、骨片だけでなく、布や金属が散らばっている。
男が身につけていた服と鎧だ。
ご丁寧に食べられないものは引き千切って捨てたのだ。
わたしは焦っていた。
凄惨な場面を見てしまったせいもあるだろうが、この熊にどう対処すべきか見当がつかなかったからだ。
死んだふり? 熊って舌を引っ張ると大人しくなるんだっけ?
熊はタマネギが苦手って聞いたことあるけど……
役に立ちそうもない前世の知識ばかりが頭をよぎる。
ならばとゲーム知識を総動員してみるが、【DGO】の熊型モンスターにすらこれほどヤバいのはいなかった。
迂闊だった。強敵の情報も調べずに相対するなんて怠慢もいいところだ。
生前ならパーティメンバーのサヤッチに思い切り叱られたと思う。
彼女はあらゆる情報を重要視していたから。
そして何よりもこのハンターベアには付け入る隙が無い。
食事中の現在も、決してわたしから目を離そうとはしないのだ。まるで一挙手一投足を見逃すまいとするように。
既に犠牲となった彼らが前菜、そしてわたしがお楽しみのメインディッシュとでも思っているのだろう。
武具店のおばさんは言っていた。
ハンターベアは子供の肉が大好きだと。
故にわたしは焦る。あいつの狙いは最初からわたしなのだ。
先に邪魔者を片付けただけなのだ。
男が襲われる寸前までミニマップに現れなかった敵を示す赤いマーカー。
それはつまり、この熊の高い隠密性を物語っている。
言うなればハイディングやクローキングのスキルと同等以上だろう。
そして、盗賊が身に付けていた金属製の胸当てを噛み切るあの咬合力。
あれは危険すぎる。わたしの防御力でも貫通してしまうのは明らかだ。
現に大の大人である盗賊の男たちが成す術もなく、瞬く間に食われてしまった。
盗賊は気配察知に優れた連中だと言うのに。
たった数秒で食い散らかされ、肉塊と骨になり果てた、かつては人間だったもの。
むせかえるような血臭と、すぐそばにある死の気配で、まざまざと突きつけられた。
これは現実であって、ゲームではないのだと。
死んでしまえばそれきりで、リスポーンなど出来ないのだと。
転生者だ、チートだ、これがあれば何でもできる! などと調子に乗っていた自分が馬鹿みたいに思えた。
やばいやばいやばい。
わたしが戦った騎士やドン兄弟なんかより、よっぽど怖い。
武具店のおばさんも絶対に戦うなって言ってたけど、今ならわかる。
こんなの……無理だ。
逃げなきゃ、逃げなきゃ。
急激に湧き上がる恐怖心と焦燥感がわたしを衝き動かす。
この場であの熊が去るのを待つと言う選択肢がわたしの中から霧散した。
一旦撤退しよう。
何故かそう決めてしまった。決めつけてしまった。
もはや冷静な判断力など失っていた。
ジリ……
たった半歩。たった半歩退いただけなのに────
フシィィィ!
「くっ!」
ハンターベアは隙を見逃さず、長い腕をわたしに伸ばし、その鋭い爪が右腕を掠めた。
速い。
バッと血液が飛散する。
痛みで気が逸れた時、既にハンターベアの巨体は視界から消えていた。
ミニマップにも反応が無い。
しまった。
絶対に目を逸らすべきじゃなかったのに。
どこ? どこ!?
ガサリ
「ぎっ!」
背後で聞こえた音に反応できたのはきっとまぐれだ。
わたしは腿の裏を引っ掻かれたが、咄嗟に振るった大剣は熊のどこかに命中し手傷を負わせたと思う。
しかし致命傷を与えたとは到底考えられない。
一瞬だけ光ったマーカーは既に消失している。
野生の虎でもこれほどではないだろう。訓練された猟犬でもこれほどではないだろう。
この熊は本物のハンターなのだ。人間を狩るために生まれた完璧で冷徹な捕食者なのだ。
ハンターベアの持つあの俊敏さと隠密性を前にして、無事に逃げおおせるのは不可能だ。
逃走は諦めて討伐、ないしは撃退するしかない。
瀬戸際に来てようやくわたしの良い部分が出た。
絶望と逃走のみに彩られたポンコツな脳みそがやっと回転をし始めたのだ。
そうだよ。
わたしはどんな強敵相手でも前へ前へ出続けてきたじゃない。
考えろ。考えろ。
必ずなにか手はあるはず。
とは言え普通の正攻法で戦ったのではそれも難しい。
ならば正攻法以外……つまり搦め手だ。
ハンターベアとて獣であるのは違いない。
だったら────
ガサッ
「そこ!」
ゴォォオオオ
今度は物音のした方向へ右手を向け、火炎を放った。
が、手応えはない。
嘘でしょ、あいつは魔法を避けるの!?
まさか……フェイント!?
「がふっ!」
背後に大きな衝撃。
殴られたのか体当たりされたのかも見当がつかぬまま、わたしの小さな身体は木の葉のように吹き飛んだ。
身を捻り、頭を打つのだけは避けたが、背中から地に落ちて息が詰まった。
近くにあった大木に背を預け、呼吸の回復に努める。
芽生えかけた希望は、再び絶望にへし折られた。
なんて熊なの……剣も駄目、魔法も駄目……どうすればいいのよこんなの!
次はどこから攻撃されるのかわからない。
フェイントをかけるような知能と素早さ、そして隠密性を持つ巨熊。
あいつはモンスターと言うより魔獣とでも言うべきだ。
左? それとも右? 裏をかいて樹上から来る可能性もある。
嫌な考えばかりが頭を巡った。
わたしもあの男たちのように頭から喰われてしまうのか。
せっかく転生し、ようやく国元から脱出して新しい生活を始めた矢先なのに。
キャルロッテと面白おかしく生きると誓ったばかりなのに。
わたしはまだ9歳。やりたいこともたくさんある。
楽しいことも辛いことも色々経験して大人になり、良い人生だったねと笑いながら年老いて死んでいく。
そんな風に漠然と考えていたのに。
恋らしい恋もしていないのに。
本気で生きてやると思っていたのに。
自然と涙が溢れた。
恐怖と、悔しさと、他にも様々な感情が綯い交ぜになって。
それでもわたしはガタつく膝を叱咤しながら大剣を構える。
死にたくない気持ちのほうが勝ったのだ。
「出てきなさいよ! 卑怯者!」
自分でも無意味だとわかる行動。
だが叫ばずにはいられなかった。
己を鼓舞する意味でも。
無論返事などあるわけがない。
そしてわたしは、完全に失敗したと悟る。
自身の声は、ハンターベアが動く音をも掻き消してしまっていたのだ。
「ぎああぁぁぁああ!!」
凄まじい激痛が右肩を襲った。
喉を震わせる絶叫。
わたしの肩口にガップリと咬みついたハンターベア。
ベキボキと骨の折れる感触と音。
「あああああっっ!!」
右腕の腱や筋肉がブチブチと千切れるのを感じながら、わたしは左手を繰り出した。
熊の喉笛に深々と突き刺さる大剣。
グオォォオオオオ
ハンターベアは吠えながら頭を激しく振った。
ブチンと言う、いっそ小気味良い音と共にハンターベアの口腔に消え失せるわたしの右腕。手甲のついた手首だけが地面に落ちて転がった。
わたしの肩口からはびゅうびゅうと勢いよく血が噴き出す。
それでもわたしは剣を離さなかった。
脳に集まる魔力を左手に込め、最後の力を振り絞って炎に変える。
大剣の切っ先から噴出した火炎は、ハンターベアの上半身を焼き尽くした。
ガアアアァァァ……
断末魔と黒煙を上げて倒れゆくハンターベア。
同時にわたしの身体も草むらへ投げ出された。
心臓が鼓動するたびに傷口から流れ出る血液が雑草を朱に染め上げていく。
息をすれば胸が痛み、咳をすれば吐血した。
どうやら傷は肺のあたりまで達していたようだ。
気絶しそうになるたび、あまりの激痛に覚醒を強要された。
だが、大量の失血はわたしの意識を無理矢理刈り取ろうとする。
段々と視界が霞んでいった。
もう右肩の痛みすら消え失せかけている。
この感覚は既に経験していた。
そっか……わたしはまた死んじゃうんだ……
前世と、キャルロッテの時と、そして今……三回も死を味わうなんて……
……ごめんね、キャルロッテ……誓いを果たせなかったよ……
……ごめんね、ネメシアーナ……せっかく転生させてもらったのにね……こんな結果で本当にごめんなさい……
…………もっと、上手く、やれると、思っ、たんだ、けどなぁ……
悔恨と謝罪の念は尽きないが、その想いすらも闇に溶けていく。
わたしはとめどなく涙の溢れる瞳を、静かに閉じた。
傍らに立ち、大鎌を振りかざす死神の気配を感じながら。
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