第3話 冬の海に抱かれて眠る女

 今日だけはただ純に、瞬き一つせずに君を見つめていたい、そう言われたくて女心に火がつき、鏡に向かって微笑んで見せた。そして、



「ベージュのコートに、ピアスもよし、口紅もよし――」



 女の色気どくを体いっぱいに広げると、加奈は初めてのデートへ向かい、アパートを出た。失恋という傷心の痛みが止み、新しい人生の坂を上りだす一人の女に、気付けばまた舞い戻っていた。



 いつもの駅で、いつもとは違う思いで朝9時発の電車に乗ると、純を喜ばす言葉を用意しようと、頭脳の電子書にアクセスした。そして、



――きっと告るのは純の方から



 そのPVポイントは無数だった。



 電車の中である男を仮に純だとして、短い髪をサラッと手でなびかせて見せると、そのリアクションに加奈は手ごたえを感じた。



 待ち合わせ場所は、あるバス停所前。歩く途中でも、ビルのガラス張りの壁に映る自分のシルエットを確認する念の入れようである。



 加奈は男を海の彼方まで追いかけて最後に沈没する難破船。だが今回は、豪華客船になって世界を旅するセレブになるのだ、とそう願う。



「おはよう、純!」

加奈がバス停へ飛び込んできた。


「よう、ようやく来よったか」

純はブラウンのチノパンに、上は紺のジャケットをまとっていた。


「ごめん、待った?」


「徹夜で待ってたで」

冗談を言ってにこっと微笑む純を見た加奈は胸が、ドキッ、とときめいた。


「それよりさ、今日の動物園の予定を変更して海へ行こうと思うんやけど」


「海? いいわね。天気もいいし」



――バスで四十分。



「うあー、冬の海もいいわねー」


 そこには陽光を浴びて輝く青い海がどこまでも続いていた。そして加奈が揺れる小波に手を伸ばして追い駆けだすと、


「気を付けて、加奈」

 純が言付けしてくるから面白い。


 図に乗った加奈は、ほんのちっぽけな貝殻につまづいて見せると、


「危ないよ、大丈夫!」

 と幾億年分の驚きをする純の顔を見て、


「ふふ、冗談よ」

 もはやご主人様をもてあそぶドッグラン状態だった。加奈は今日は、子犬になって甘えた。



――もう止めときー



「うん、飲み物もってきたよ」

そして保冷バックから缶ビールを取り出して、


「はい、どうぞ」


「おお、ビールとは!」


 加奈は踏み固めて用意した胸の中の道へと、一人の男、純を誘導していく、はずなのだが――。


「ねえ、私たちの地平線はどうなのかな」


 男の無限に広がる胸の大海と、それを絶えず照らす女という太陽が交わるのは、今目を細めれば遥か彼方に見える地平線だ。


「加奈にはどう見えるんや?」


「そうね、形は一直線、色は同じ青。そして、男と女が交わる戦場だわ」


 酔いが回るころには水鳥がぴよぴよと鳴き、加奈と言えば子犬と子猫が混ざる声で男の記憶をなぞる、恋する少女だった。


「けっこう男癖のある奴やな、加奈は――」


「ただ……ただ、寂しい――それだけよ」


 別れたばかりの加奈の瞳から、辛くも酸っぱい蜜を吸い過ぎた水玉が、頬を静かに、一つ、二つ、とこぼれ出した。


「――辛かったんやな」

そう言って純は加奈の涙を、その乾いた分厚い皮の手で拭いてくれた。


「もう一本」


「もうええやろ、最後の一本やで!?」


 酒は飲まれず飲むものよ、そう思う正気なうちは家には帰りたくない。あのアパートには男がわりに、子猫のぬいぐるみが出迎えるだけなのだから。


 1時間後、加奈の記憶は時を止めた。進むのは沖を漂う小舟と、地平線へ向かう日の玉だけ。


「ねえ、純。このまま私とこの世の果てまで堕ちてくれない……」


「――――ええよ」


 その言葉を記憶にする頃には、加奈は自分の心の扉を閉めた、夢の中だった。



――――目覚めると、また加奈は見覚えのある部屋だった。

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