十二月童話

無辺春夜

十月童話 ヤギ

 僕には弟がいた。弟、元々頭脳が弱く生まれた弟。僕のただ1人の片割れだったのに、幼い僕は自分を守ることに必死で、普通に話すこともできない君を見下ろすだけだった。

 地獄みたいな地元、腐敗した地域、くもりの団地。僕の友達は君をいじめる。でも弟は何をされても笑っている。君にはわからない、周りが笑っているから面白いことなんだと思っている。犯されても蹴られても殴られてもずっとずっと笑っている弟。

 ある日、それが辛くなった。弟がいじめられてるのが辛いんじゃない。弟を守れない兄が可哀想だった。それで、弟を冬の山に誘った。


 僕は刺した。

 吹雪の中で山小屋は揺れた、ケタケタと笑ってるみたいに。眠った弟は目を閉じたまま血を流した。僕たちを揺らす山小屋はゆりかごみたいだ。微笑んだままの弟。弟、おとうと、許してくれ。こんな兄さんでごめん。僕も死ぬから。

 そう思ったのに、君の小さな吐息が完全に消えた時、僕は開放感でいっぱいになってしまった。僕は自由なんだ。遠くに行ける。僕は新たな人生を始めようと山小屋から飛び出した。外は真っ白な雪に覆われて、さっき脳裏にこびりついた真紅の絹は幻のよう。吹雪く白い粉の中で僕はこの上ない幸せと希望を抱いた。




 夜行列車で来た都市には、いろんな人がいて楽しかった。この街では常々倫理がアップデートされていて、生きていて苦しむことはなかった。少なくとも、僕にとっては。


 ある日、バーで綺麗な女性に出会った。

 僕たちは恋に落ちて、付き合った。

 真っ当で堕落もしていない、大切な恋。

 正しさは生活全てを漂白する。


 ある朝、ベッドから窓を見つめて彼女は言うのだ。

「最近よく見る夢があるの。その夢では私はヤギで、人間の使う言葉がわからないの。私怖いの、何を言われているのかわからないのが。同じヤギたちの言葉はわかるのだけど、その子たちは『人間は俺たちを褒めているんだよ。』と私を宥めてくれるの。でも私にはわかるのよ、人間たちは私を蔑んでるんだって。すごくすごく怖い夢なの。」


 最近、彼女の笑い方が君に似ているのだ。彼女が純白のドレスに身を包み微笑む姿。それはあまりにもあの時僕に微笑んだまま血を流した少年のものに似ている。怖い、怖い!お前、復讐をしにきたのか。よりによって僕の幸せの瞬間に。許して、お願い、今だけは。



「パスポートも更新しなきゃいけないのに、こんな忙しい時に出張?」

「会社も今、大切な時だからさ。」

不安げに僕を見送る彼女を後にして、エンジンをかけた。



 上に登れば登るほど吹雪は酷くなり、視界は悪くなるばかり。それでも山小屋の場所は足が覚えていた。

 扉を開けようとした時に足元に違和感を感じる。ふっと下を見ると、子供のヤギが僕の足をつついている。僕と目が合うと、その子は手招きをするようにどんどん山奥へと進む。

 小さくて汚れのないヤギはどんどん見えなくなっていく。僕は見失わないように追いかけて、まるでかけっこみたいで、たのしい。


 こころが駆け回っている。


 いつのまにか、真っ白い世界にいる。ここはどこ。僕はどこまで来ちゃったの。全部雪に消えちゃったの。山小屋は、ヤギは、君は、どこ。

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十二月童話 無辺春夜 @zazaza524

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