第二章 八話 『ご都合主義』
不自然は、これ以上なく自然に現れた。
まるで初めからそこにいたかのように。
この
黒く長い爪はゆっくりと影から現れ、その白い全身をはっきりとユグドラシルに見せつける。
黒い爪と白い服。
「こんな設定――俺は知らない!!」
ユグドラシルもアビーも息を吸えずにいる。
目の前のことが理解できない。
覚えのない設定。記憶ないシーン。そして――目に映る白のウエディングドレス。
純白で美しくて――人生の中で最も幸せな日に着るドレス。
幸せを象徴するドレスは、ゆっくりとユグドラシルに近づいていく。
「なんなんだ!」
――ヤバイなにかがヤバイ!
ユグドラシルは叫ぶ。
だが純白は意に介すことなく、まるで機械的に近づいて来る。
近づくにつれ――ようやくそれがはっきり見えた。
ウエディングドレスを着て、機械のように歩く存在。
「く、来るな!」
それは例えるなら――闇。
目も鼻も口も耳もなく、ただ黒い闇。
人の形をした闇が、ウエディングドレスで着飾っている。
いや、それは正確ではない。闇の中にはいくつか白い粒のようなものがいくつか散らばっているように見えた。
覗かれているようにさえ思えてしまう
八尺様のように大きく、黒と白のウエディングドレス。
ユグドラシルは動けずにいた。目の前の不吉――闇へ恐怖。
いま守るべきもの――アビーを庇うよう背に隠した。
闇はゆっくりと近づき――ウエディングドレスの腰がユグドラシルの眼前へ。かばうように座り込むユグドラシルは、ただ純白のドレスを着る闇を見上げる。
闇は腰を曲げた。眼も耳もないのっぺらした顔が、ユグドラシルの鼻先数センチまで近づく。
固まるユグドラシルに、鋭利な爪が近づく。
「はっ?」
突然の出来事に、ユグドラシルは理解が出来なかった。
歪な爪が伸びた小さな手の平でユグドラシルの頬を――
闇の掌。深い冷たさを持った謎に触れる。
「……!」
唾をのむ。
目的も、敵意も。ユグドラシルには理解が出来ないかった。生物にも見えず、設定した物語にも関わりない。
いまこの瞬間――頬を撫でる目の前のウエディングドレスは、まるで親しみを込めるように、愛を込めるように。
この物語へ。
闇は、ユグドラシルの頬を撫で終わると、今度はピンと人差し指を立て、他の指は器用に握った。
一本の爪が、夜空へ突き刺す。
いや、もしかしたら夜空を示したのかもしれない。
「なにを――」
闇がニッコリと笑った――そんな気がした。
その瞬間、歪な爪がアビーへ――剣のごとく勢いよく振り下ろされ――
「ぎゃぁぁぁあああああ!」
ユグドラシルは叫んだ。
咄嗟にアビーを庇うように出した左腕が。
宙へと舞う。
鮮血が吹き出す。
白のドレスが赤い血で染まる。
「いやぁああああ!」
アビーも叫ぶ。
彼女の体からも大量の血が流れてる。
ユグドラシルは悲鳴を上げながら。
立ち上がり。
まだある右手でアビーの手を引く。
けれどアビーはまだ立ち上がれなくて。
無理やり背負う。
強引に走り出す。
どこへ――そんなことを考える暇なく。
「ミレ! どこだ! 助けてくれ!」
森へ叫ぶ。
走る。
後ろを見る暇はない。
闇が追いかけているかは分からない。
走る痛い走る痛い痛い走る。
駆けて駆けて森を走る。
背中でアビーが苦しそうに声を漏らす。
――やばいやばいやばい。
アビーは重症だ。狩人たちにやられた比ではないほどの失血だ。
「リズレット! アビーを治療してくれ!」
叫ぶ。それはさっきのアビーのように。苛立ち不安危険焦り――全てが入り混じって声となる。
色んなことが頭に浮かぶ。
ミレのこと。リズレットのこと。
そして白い闇のこと。
あの爪は、敵意も殺意もないあの歪な爪は――明らかにアビーを狙っていた。
ユグドラシルが手を伸ばしていなければ、アビーの右脳と左脳は別になっていた。
なんの目的で――と一瞬だけ考えたとき、
「……ごめんなさい」
アビーは。細く消えそうな声で。
まるで全てを分かっているかのように謝った。
「私のせいで……みんな不幸になる。お母さんもお父さんもロリアもあなたも……」
痛いのだろう苦しいのだろう悲しいのだろう――アビーは自分を責めた。
「違う! 違う! アビー! 君のせいじゃない! くそ! 誰か助けてくれ! アビー! 死ぬな! 頼む!」
「私ね……一瞬だけ不思議に思ったの」
ユグドラシルは、アキは走り続ける。
「どうして私だけを助けてくれたんだろうって。父でもなく母でもなく、妹のロリアでもなく。どうして私だけなんだろうって。少しだけ思ったの。でもね――」
優しい声。吐息のような声。
「君のせいじゃないんだ! 君の不幸を願ったのは俺だ! 俺のせいなんだ――」
だから謝らないでくれ。
――そう願った時、ユグドラシルは転ぶ。
痛みを感じてバランスを崩す。背負ったアビーが背中から転がる。
激痛の先、足へ視線を送ると――両足が無かった。
太ももから下がなくなっていた。
血だまりが広がっていく。
ユグドラシルの後ろに、花嫁は立っていた。
ウエディングドレスの闇。ドレスは赤く染まり、鋭利な爪には真っ赤な血が垂れている。
「助けてほしい時に助けてもらえた。それで幸せだった」
転がったアビーの両足もまた、膝から下がなくなっていた。闇の爪がユグドラシルの太ももと一緒に切り裂いたからだ。
けれどアビーは叫ぶことなく、痛がることなく。
「そんなこと言うなよ! 諦めるなよ! 頼む……頼むよ……」
ウエディングドレスは動けぬユグドラシルを意に介さず、静かにゆっくりとアビーへ近づいていく。
「こっちだ! 襲って来いよ化け物! 俺はラスボスだ! お前なんかに殺されない! アビーもそうだ! もう彼女はもう救った! 物語に抗ったんだ!」
ユグドラシルは叫ぶ――でもその声は。白い闇にもアビーにも届かなくて。
「俺が悪かったから……俺がこんな世界を作ったのを謝るから……頼む頼む頼む頼む!! アビーだけはどうか頼むよ! アビーは、彼女は俺の妹なんだ。俺の妹、一姫優香をモチーフに作ったキャラクターなんだよ……頭を撫でられるのが好きで、『大丈夫』ってのが口癖で、いつも病室で笑ってた」
安易な発想で、ユグドラシルはアビーを作った。
キャラクターを作るのが苦手だったアキは、身近な人間をモチーフにした。物語を書いている時に、イメージしやすかったから。
「クソ! なんなんだよこの世界は! 俺の作った世界じゃないのかよ! 誰だよ俺の世界を邪魔するやつは! 俺はただ……俺はただ救いたかっただけだ! 誰にも悲しまないでほしかっただけだ! なのになんで――なんで邪魔をするんだお前は!」
けれどイメージはいつの間にか確立されていって、いつの間にか一人のキャラクターへと昇華されていった。
最初は、感動的な物語を作りたかった。
死んだ家族の生き写しが、幸せに生きてる世界を作りたかった。
漫画の中だけでも、笑ってる姿を見たかった。
けれど――それでは面白くないと言われ。
――妹を殺す物語をつくっていくことに気付かず。
「ねぇ、名前も知らないあなた。必死になって戦ってくれたあなた。ひとつお願いがあるの」
黒のウエディングドレスは、アビーの前に立つ。
腰をまげ、覗き込むようにアビーの顔を見る。
けれどアビーは怯えずに、ただただユグドラシルに語り掛ける。
「私の代わりに、妹を――ロリアを助けて」
ウエディングドレスの黒い闇のようなのっぺらぼうの顔に、横線が一本走った。
線は段々と濃くなっていき、そこから口が現れる。
「頼むやめてくれ――!」
まるで光も反射しそうな美しく並ぶ白い歯が。
「お願いね」
にっこりと、幸せそうな顔を。闇が。
「――ぁあ」
バクンと、彼女の全身を、一口で
「――ぁぁああああああああああああああああああああ!」
ユグドラシルは泣き叫ぶ。
喉が裂けてしまうくらい。
「……殺してやる」
この世界で――ユグドラシルは初めて殺意を持った。出来るだけ色んな人を殺さないよう配慮した。悪人もいたけれど、多少のことには目を瞑った。
スキャットを殴った登場人物A。
殺されても仕方のない狩人。
悪者は多少の痛い目にあってもらう、そんなつもりだった。狩人たちもある程度痛めつけた後リズレッドに治してもらおうと考えていたけれど――それが甘い考えなのも重々理解していた。
アキの作ったこの残酷な世界には合わぬ価値観だと――一番よく知っている。
けれど覚悟がなかったのだ。人を殺す覚悟が。誰かに恨まれる覚悟が。命を奪うことの重みを、物語の重みを理解したからこそ、アキにはそれが出来なかった。
明確な殺意を、殺す覚悟を。
ユグドラシルはこの日この場所で確かに抱いた。
「お前は必ず殺す……!」
ゆっくりと、最初に切られた左腕が治り始める。
足のない体を無理やり起こそうとして、もう一度地面に倒れる。
闇はくるりと
正面まで近づいた後、腰をぐりっと折り曲げ、起き上がろうとするユグドラシルの顔を覗き込む。
なにもないのっぺらぼうの闇。
ところどころに粒のようなものが見え――闇の顔に再びひとつの線が現れる。
真っ白な歯と赤い歯茎が見え――
「たズゲテェ」
と言った。
「――!」
まるでそれは――アビーのような声で。
『たずげテェ。ワワ、ワタしアビー。タずげてぇたズゲテェダズゲデェ』
嬉しそうに。楽しそうに。幸せそうに。
『怖いヨォ暗いヨォ一人はイヤァいやぁ……ろりアァロリアァ』
そして化け物は大きな口を天に向け、
『アハハハハハハハハハハハハハハ? わ、ワタシアビー! 助けテェ! 助けテェ!』
化け物が真似したアビーの声は森に反響する。
闇のドレス――
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