第零章 一話 『漫画家になりたい』


 高速道路の長いトンネルの蛍光灯は、うとうとと眠るボクの顔を一定間隔で照らしていた。

 

「アキくんは、どんな大人になりたい?」

 

 しずかな車内で運転するお母さんは柔らかい声で聞いてきた。


 「おとな?」

 

 戦隊レッドの人形を持った右手で、ボクは眠たい目をこする。

 

「例えば……そう例えばね、消防団のお父さんみたいに、困ってる人を助ける人になりたい?」

 

 この質問がとても大切なことなんだと気付くまでに、ボクはこれから十年もかかる。

 けれど後部座席に座りながらウトウトする僕は今、どうしてそんな質問をするのか分からなくて、


 「分かんない」

 

 と素直に答えた。

 事実、今のボクには分からない。大人ってなんだろう。どうすれば大人になれるのだろう。

 

「そっか。そうだよねまだ分かんないよね」

 

 母はボクの言葉をしっかり咀嚼して、それから黙った。

 十秒か三十秒か。ボクは窓から外をじっと眺める。何も変わらない長いトンネル。

 ほかに車はいない。静かな駆動音だけが車内に響く。

 冷たいコンクリートとたまにやってくる非常口の緑光を、呆けるように眺める。かわるがわる照らす蛍光灯。

 

「お母さんはね」


 なにかを思いつめる様に、小さな声で語りかける。

 

「お母さんはね。アキくんが今持ってるようなお人形さんのように、お父さんのようにヒーローになってほしくないの」

 

 静かに話す母の言葉の中で、「ヒーロー」という単語だけが浮かんで聞こえた。


 「ヒーロー?」

 

 右手にある戦隊レッド。確かにこの人はヒーローだ。誰かのために、何かを守るために戦い続けるヒーロー。

 ボクがイメージするカッコいい大人だ。

 そして、お父さんも大人でヒーローだった。

 

 「お父さんのように、誰かのために死ぬようなことにはなって欲しくないの」

 

 

 そういえば昨日の夜お葬式で、『あなたのお父さんはヒーローだよ。誇りに思う』と、お父さんより偉い人は言っていたことを思い出した。


 誇りってなんだろう。

 お母さんはそのまま、独り言のようにつぶやき続けた。


「お母さんも、ヒーローっていうのはとってもカッコいいと思う。お父さんもとってもカッコいい人だったから」


 ――そんなところにお母さんは惚れたの。

 けどね――、とお母さんは続ける。

  

「ヒーローはね、ないの」


 ――最初に死ななきゃならないのだと、お母さんは確かに言った。

 

「守る人より後に死んじゃいけない、命をいつもかけなければいかない。それはとっても悲しいことなの。……だから母さんは、アキくんにヒーローになってほしくない。最後の最後まで生きて欲しい。誰かを傷つけても、誰かに傷つけられても、誰よりも長生きして……お母さんより――私より先に死なないでほしい」


 ――先に死なないでほしい。その言葉だけがボクにとって浮いた言葉に聞こえた。それがお母さんの一番の願いで、頼みでもあり、きっと、今思えばとてつもなく重く、優しく、寂しい縋る希望だったのだろう。


  一筋の涙だけが、バックミラー越しに見えた。

 きっとボク以上にお母さんは、お父さんが恋しいのだ。 

 


 「いいよ」

 

 だからボクは、確かに「いいよ」と言った。

 それは不意にでた言葉だった。

 本当は何一つ分かっていなかった。死ぬとかヒーローにならないでほしいとか、お父さんみたいにどうしてなっちゃいけないのか、なに一つかけらも分かっちゃいなかった。

 けれどボクはただ安心してほしかったから。


 「心配しなくても大丈夫だよ」

 

 お母さんが泣かない理由になれるのなら。


 「ありがとうね」

 

 涙を喪服の袖で拭いて、お母さんはバックミラー越しにやさしく微笑んだ。

 お母さんが元気になったと思ったボクは、それが無性に嬉しくて。

 嬉しくて嬉しくて、今まで内緒にしていたことを大発表したくなった。

 

 「それにね」


 と付け加える。


 「どんな大人になりたいかはわからないけど、ボクは夢はあるんだ」


 「夢?? どんな?」

 

 母は息子の重大で唐突な発表を前に、らしくなく驚いている。

 そうでしょうそうでしょう驚くでしょうと、ボクはニコニコしながら右手の赤いヒーロー人形を強く握る。

 そしてシートベルトがパツン伸びるまで体を起こし、できる限り高く上げた。


  「漫画家!!」


 静かな車内に、ボクの大声だけが響く。

 

 漫画家になりたい。

 みんなが泣いて、笑って、何度も読み直して、主人公に勇気をもらうような。

 そんな漫画を描ける人に、ボクはなりたい。


 お母さんはさっき以上にびっくりした顔をしたけれど、すぐに少しだけ頬を緩ませて、


 「ならお母さんはアキくんのファン第一号になるね」

 

 と言って笑った。

 光が見えた気がした。もうすぐ、長いトンネルを抜ける。



 



 あれから十五年が経った。

 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る