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2024年10月30日 00:53
こんにちは。いつも興味深く読ませていただいております。 今回、おそらく私の参加した自主企画の話ではないかと思いまして、コメントさせていただきます。 私はエンタメと純文学にジャンルの違いこそあれ、優劣の差はないと思っていますが、自分の書く作品の幅を広げられればと思いまして、その自主企画では純文学の路線に挑戦してみた次第です。 結果的に自分の作品は純文学というカテゴリにはあてはまらなかったようです。自主企画主の方も優劣ということではないとおっしゃってくださってましたが、自分の思っていた「純文学」と実際の「純文学」と言われる小説には差があるだということは分かりました。 自分にしか書けない小説というのはどういうものなのか、これからも考えながら書いていきたいと思います。
作者からの返信
いつもお読みいただき、ありがとうございます。あくまでも主役は「参加作」なのですが、そう仰ってくださり大変嬉しく思います。お気づきのとおり、これは「方角企画」の話でございますね。それと平行する形で、当時、フォロワさまが近況ノートにて「私は純文学しか書いてこなかったのに「エンタメ」って言われる機会が多くて複雑だ」といった内容の投稿をされておられた際に書いた文書となっております。まさにその方の作品へのレビューに「エンタメ」の文言を記載してしまいましたからね。また私は「やらかした」のかと。あくまでも私が感じた基準ですと、純文学とは・作品世界や物語そのものよりも、作者の思想や欲望・願望・苦悩といった感情が優先されている。あるいは作者によって、世界の方が捻じ曲げられている。・登場する人物に「登場人物としてのアイデンティティ」が与えられていない。存在するのは立場や境遇といった〝役〟のみであり、「この〝個人〟でなければ絶対に駄目だ」という特別性がない。・物語に目的やオチがない。「あるがままを描くこと」が目的であるために、オチは必要ないどころか邪魔になる。「語ること」自体が物語の目的ともなっている。――といった感じであると捉えておりますね。もちろん、人によってそれぞれの基準や信念などはあるかと存じます。あくまでも私の感覚ですね。また、これらが「駄目」というわけでもありません。また、面白いことに、いくつかの項目に関しては「なろう系」との共通点があると考えております。文章の巧さや硬さといった違いはあれど、作品の本質的な部分においては、同質であると捉えております。作品から得られる知識などに関しても、読み手によって価値は変化しますからね。学術的な知識を求める人もいれば、ゲームのような知識を求める人もおります。あるいはどちらも邪魔であると感じ、ただただ「読みたいだけ」の人もおられるでしょう。本文中でも明言しておりますが、私もどちらが優れているなどと言うつもりはございません。「純文学の書き手は偉いんだから」と平身低頭するつもりもありません。こうして思考を巡らせる中で、自分自身の中に得られたものがあったというだけですね。個人的な好みはあれど、私はすべての物語を愛しております。本企画内にて拝読させていただいた作品も、どれも「その人」にしか書けない物語であると感じました。私も企画を続けながら、私にしか書けない物語を描き続けてまいりたい所存です。この度はコメントいただきまして、ありがとうございます。
こんにちは。いつも興味深く読ませていただいております。
今回、おそらく私の参加した自主企画の話ではないかと思いまして、コメントさせていただきます。
私はエンタメと純文学にジャンルの違いこそあれ、優劣の差はないと思っていますが、自分の書く作品の幅を広げられればと思いまして、その自主企画では純文学の路線に挑戦してみた次第です。
結果的に自分の作品は純文学というカテゴリにはあてはまらなかったようです。自主企画主の方も優劣ということではないとおっしゃってくださってましたが、自分の思っていた「純文学」と実際の「純文学」と言われる小説には差があるだということは分かりました。
自分にしか書けない小説というのはどういうものなのか、これからも考えながら書いていきたいと思います。
作者からの返信
いつもお読みいただき、ありがとうございます。あくまでも主役は「参加作」なのですが、そう仰ってくださり大変嬉しく思います。
お気づきのとおり、これは「方角企画」の話でございますね。それと平行する形で、当時、フォロワさまが近況ノートにて「私は純文学しか書いてこなかったのに「エンタメ」って言われる機会が多くて複雑だ」といった内容の投稿をされておられた際に書いた文書となっております。
まさにその方の作品へのレビューに「エンタメ」の文言を記載してしまいましたからね。また私は「やらかした」のかと。
あくまでも私が感じた基準ですと、純文学とは
・作品世界や物語そのものよりも、作者の思想や欲望・願望・苦悩といった感情が優先されている。あるいは作者によって、世界の方が捻じ曲げられている。
・登場する人物に「登場人物としてのアイデンティティ」が与えられていない。存在するのは立場や境遇といった〝役〟のみであり、「この〝個人〟でなければ絶対に駄目だ」という特別性がない。
・物語に目的やオチがない。「あるがままを描くこと」が目的であるために、オチは必要ないどころか邪魔になる。「語ること」自体が物語の目的ともなっている。
――といった感じであると捉えておりますね。もちろん、人によってそれぞれの基準や信念などはあるかと存じます。あくまでも私の感覚ですね。また、これらが「駄目」というわけでもありません。
また、面白いことに、いくつかの項目に関しては「なろう系」との共通点があると考えております。文章の巧さや硬さといった違いはあれど、作品の本質的な部分においては、同質であると捉えております。
作品から得られる知識などに関しても、読み手によって価値は変化しますからね。学術的な知識を求める人もいれば、ゲームのような知識を求める人もおります。あるいはどちらも邪魔であると感じ、ただただ「読みたいだけ」の人もおられるでしょう。
本文中でも明言しておりますが、私もどちらが優れているなどと言うつもりはございません。「純文学の書き手は偉いんだから」と平身低頭するつもりもありません。こうして思考を巡らせる中で、自分自身の中に得られたものがあったというだけですね。個人的な好みはあれど、私はすべての物語を愛しております。本企画内にて拝読させていただいた作品も、どれも「その人」にしか書けない物語であると感じました。
私も企画を続けながら、私にしか書けない物語を描き続けてまいりたい所存です。
この度はコメントいただきまして、ありがとうございます。