二章
13. 中柿おじさん
竹香が首都についた時は、ひとりになった不安というより解き放たれたという思いが強く、両手を広げて思いっきり深呼吸をした。
やるぞー、という気持ちがあふれてきた。
わたしはここで生きる。ここで思い切り生きているんだー!
ここでは、誰も空を飛んではいない。通りを歩いているのは、みんな、仙術を使えない人間ばかり。ここでは、なんでもできそうな気がした。
なんか、どきどきしてきた。でも、それはうれしいどきどき。
大通りを曲がって小路にはいると、古い長屋があり、空部屋があると書いてあった。カンが、この家がよいと伝えている。
その家の玄関で、叫んでみた。
「ごめんください。あのう、部屋を貸してほしいのですが」
家主の部屋には誰もいなかったが、横からのこのこと浮浪者のようなおじさんが出てきた。
「いいよ。ずうっと空いているから、誰かがはいってくれたら、家主も喜ぶさ」
「はい」
「じゃ、案内してあげよう」
その部屋は狭いしきれいとは言えないが、簡単に貸してくれると言ってくれたし、家賃が安いので、まずは今夜、眠る場所が見つかったのはよかった。
竹香はまずはそこに落ち着いて、仕事を探すことにした。仕事が見つかったら、もっとよい部屋を見つければよい。
その中年の色の黒い痩せたおじさんは
「これ、どういう名前の魚ですか」
「フナだよ」
山には沼がなかったから、竹香はマスは知っていても、フナを知らない。
「うまいか」
「おいしくはないけど、……」
フナは泥の臭いがしておいしくはなかったけど、無理やりに食べたら、空腹は満たされた。
「正直だな。どんな魚が好きなのか」
「マスが好きです」
「やっぱりな。マスはうまいよな」
中柿おじさんは、もとは人力車を引いていたのだが、車輪が壊れたのに修理費がないから、朝早く釣りをして、それを売ってあるいていた。ところが川に釣り竿を持っていかれたので、今は木の枝を棹にして釣っているから、流れのないところにいる魚しか獲れないのだという。
翌日は、イモを持ってきてくれた。それは畑の横に落ちていたのだという。
「うまいか」
「はい。おいしいです。うちで食べていたのより、おいしいです」
イモの形悪かったいが、味はよかったから、3つ食べた。
中柿おじさんはとてもよくしてくれるから、竹香は父からもらったお金の中から、車の修理代と棹代を出してあげた。
彼はいやいやと辞退したが、竹香が無理にお金を渡したら、ハアハア言ってひっくり返って喜んで、くるくる回った。まるで、犬だ。
おじさんは古い台所用品をくれたり、チーチーを人力車に乗せて、町を案内したり、魚釣りに連れて行ってくれた。魚を釣るというのは初めてだし、何もかも珍しいことばかりで、時間が飛ぶように過ぎていった。
「楽しいな」
「これが楽しいのかい」
「はい」
「チーチーや、これまでどんな暮らしをしていんだい」
と中柿おじさんが驚いた。
竹香はナツメとナッツの入った蒸かし餅をつくり、若柿おじさんが魚を売りに行く時に一緒に出かけて、売り歩いた。ナツメ餅は昔、家にいた料理のおばあさんが教えてくれた。水に長い時間つけておいて、ていねいに何度も蒸して作るのがコツで、竹香の得意な料理である。
竹香は中柿おじさんの服の穴を直すだけではなく、仕立て直しをしたり、髪を切ってあげたりしたので、彼は見違えるほどすっきりした。
中柿おじさんは時々ものを間違えて言ったり、下手なギャグを言うのだが、竹香には受けて、よく笑った。
今日も「愚の
「チーチーの笑顔はいいねぇ。気持ちが明るくなる」
と中柿おじさんが褒めた。
えっ。
竹香は口を抑えて、人間界に来てからは、自分がよく笑っていることに気がついた。
「チーチーの笑顔は本当にいいなぁ。こっちまで、つられて笑ってしまう」
「気持ち悪くないですか」
「なんで、そんなことを言うんだい。チーチーの笑顔を見ていると、やる気が出てくるよ」
「そうですか」
竹香は泣きたくなった、うれしすぎて。
ひどいことを言われても我慢できるけれど、優しいことを言われたら心が緩む。
竹香はまだ何も知らない子供の頃は、何かにつけよく笑っていたことを思い出した。
でも、学校にはいり、義母が父と何かで揉めていらいらしていた日だったか、義母が竹香の笑顔を見て、とても不愉快そうな表情をした。
「口をあけて笑うのは下種な人間がすること。あんたのその笑い顔を見ていると、胸くそ悪い。気持ちが悪い」
そのあたりから笑わなくなったし、おもしろいこともなくなった。
中柿おじさんはその時、ナマズを焼いていたのだが、素手でひっくり返そうとして、「くそー、あちち」と言った時、竹香はまたはははと笑った。
人間界に来てよかった。ここでは、好きなだけ笑っていいんだ。竹香は急いでたらいに水を運んで来た。やけどはすぐに冷やすのがいいのだ。
「チーチーはやさしい子だねぇ。こんな親切な女の子は見たことがない」
「わたしはやさしくなんかないですよ」
「やさしい。おれが保証するさ」
「わたし、おじさんのように、やさしい人になりたいと思っているんです」
「チーチーはそれで充分にやさしいよ。前は優しくなかったのかい」
「あんまりやさしくなかった気がします」
「何かあったのかい」
「何があったのとか、よくわかりません。ちゃんと学校へも行かせてもらっていたし、食べ物もあったし」
「学校に行っていたのかい」
「はい」
「チーチーは上流階級じゃないか」
「わたし、上流階級ですか」
考えてみたら、仙師の世界では、そうだったのかもれしない。だから、父は引き取って育てようとしてくれたのだろう。
「上流階級に、拾ったイモを食わせてしまったなぁ」
と中柿おじさんが額を叩いたので、竹香がまた笑った。
「わたし、子供の頃はもっと張り切った子供で、みんなに親切にしたいと思っていたんです。でも、変わっちゃったみたい。どうしてなんだろう」
「迷惑がられたり、無視されてきたんじゃないのかい」
「無視?」
「無視はこたえるよな。生きていたくなくなるさ」
「おじさんも、そうだったんですか」
「そんなことも、あったな」
「チーチーの村はどこだい」
「遠いところです。カイドウ村のその向う」
「故郷は懐かしいかい」
「いいえ。もう帰ることはないです」
「誰も、親切にしてはくれかったのかい」
「いました……、ああ、いませんでした。お父さんだけ」
「父さんだけか」
「はい。わたし、誰も信じられなくなっていたんです。でも、おじさんを見ていたら、人を信じられる気がしてきました」
「よっぽど、ひどいことをされたんだな。かわいそうに」
「いいえ、わたしが悪いんです」
「そんなことないぞ。必要もないのに自分を卑下するのは、いかんぞ。逃げてはいかん」
中柿おじさんが哲学者みたいな顔で言った。
「はいっ」
竹香は敬礼をして、爽やかに笑った。笑うと、心が青空みたいになった。今日の都の空と同じ色。
わたし、卑屈になるのはやめる。誰から何と言われても、平気、な人になるように自分を訓練しようと空を見上げた。
人の口は止められないけど、わたしの心は、自分が守る。人間の生命は短いのだからね、時間を大切に生きるんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます