11. 人間界に行きたい

 賭けなんて噂に決まっている。

 竹香は悩んでばかりいるはいやだから、冬氷に直接、確かめてみようと思った。わたしを誘ってくれたのは、賭けのためだったのですか、と。おかしいかな。


 竹香は授業が終わった後、年高組の校舎に出かけた。長い廊下を最長組のクラスのほうに向かって、下を向きながら、歩いた。頭は下を向いていても、周りは見える。向うからふたりの男子が何か真剣そうに話しながら、こちらに向かってくるのが見えた。


 キャプテンとケンケン。


 そう思ったとたん、ふたりの姿が見えなくなった。

 

 えっ。


 竹香は考えすぎて幻想を見てしまったのかと思った。

 わたしを見て隠れた?

 あのふたりはいつも堂々としていて、こそこそと隠れるような人たちではない、はず。


 竹香はふたりが消えた工作室のあたりにまで行った。

 ちょっと音が聞こえたと思ったのに、竹香が近づくと、音が止んだ。

 でも、ふたりは、確実に、そこにいる、ような気がした。

  

 竹香はそろりと中に入って行った。


 誰もいない。

 息をひそめるようにして、隠れている、みたいだ。

 わたし、避けられている?


 なぜ? 

 ふたりらしくない。

 なぜ?

 わたしに顔を合わせられないようなことをしたの?


「しっ」

 という声が聞こえた、ように思った。

 確かに聞こえた。


 竹香は一目散に廊下を駆けて、校舎を出て行った。

 「しっ」という声が、何度もよみがえった。

 

 竹香は一日中考えて、翌日の夜、父の書斎に行った。

 灯に照らされた顔には皺が影を作り、父も年を取ったと思った。でも、父は仙師なのだから、長生きするはずである。人間の自分のほうが早く死ぬのだから、父のことを心配するのをやめようと思う。

 

「お父さん、わたし、山を下りて、人間の世界へ行って暮らしたいのです。できますか」

 竹香は思い切って言った。

 

 父は娘の顔を眺めて、頭を撫でた。

「上の学校には進むなと言われたからかい」

「いいえ」

「上の学校に行きたいのなら、行くがいい。母さんがなんと言おうと、行くがいい」

「それも少しはありましたけど、違います」


「なにか、特に、つらいことがあるのかい」

「そうではなくて。ここにいても、わたしには未来が見えません」

「人間界に行ったら、ここよりよい日々が待っていると思うのかい」

「はい。ここでは、わたし、みんなから嫌われてしまいました。誰もわたしを知らないところに行って、はじめからやってみたいです。一生懸命に働いて、友達を作って、普通に、明るく暮らしてみたいです。わたし、幸せになりたいです」


 秋の長い夜みたいな沈黙の後、父がため息を漏らした。

「やっぱりそうか。そうならないことを願っていたのだが。すまない」

「どうして、お父さんが謝るんですか」


「実は父もこのところ、そのことを考えていたのだよ。チーチーはここにいても幸せにはなれないから、そのほうがいいかもしれない」

「お父さんもそう考えてくれていたのですか」


「ただ仙師をやめて、この世界を去ることは簡単ではない。原則としてはできないことなのだ。仙師をやめることは重い罪で、そんなことを申し出た仙師には厳しい罰が与えられる。しかし、チーチーは半分は人間なのだし、仙術も使えないから仙師とは言えない。例外だから、許可が取れるかもしれない。チーチーは口も堅いし」

「ここのことは、一切、誰にも言いません」

「ここを出たら、二度と帰っては来られないのだぞ。それでも、いいのか」

「はい」


「全部、この父が悪かったのだ」

「お父さんのせいではないです」

「いいや。私のせいなのだ」


 ある時、人間界で災難が続いて、光楽皇帝から、助けを求められ、亡霊払いに出かけたことがあった。仙界と人間界との関係が、今ほど断絶してはいなかった時代だった。その時、仙界からは8人の仙師が送られた。


 雲集世家からは、爽頼ソウライが代表して行くことになり、1年ほど、人間の世界で生活していた。

「人間界にいた時、親切にしてくれたのがおまえの母さん、桃風とうふうだよ。その時、私は病気になり、桃風が看病してくれたのだ」

「私のお母さんは桃風というのですか」

「そうだよ」

「きれいな名前。仲間の仙師が仙術で治してくれはしなかったの」

「仙術よりも、桃風の治療のほうがやさしくて、よく効いたよ」


「わたしのお母さんは、どんな人だったの」

「とてもやさしい人だった。姿も心も美しくて、とても繊細な女性だった」

「でも、わたしをお父さんに押し付けたのでしょう。捨てたのでしょう。わたしのことが邪魔だったの?」


「いや、それは違う。桃風は自分で育てたいと切望したのだが、育てられなくなってしまったのだ。桃風は必至の思いで、おまえを私に託したのだよ」

「どうして」

「そうしないと、赤ん坊の命があぶなかったからだ」

「わたしの生命があぶない?どういうこと?」


「その頃、仙師と人間の関係が悪化して、憎み合うようになったのだ。チーチーには仙師の血がはいっているから、人間界で生きていくのは危険だった」

「わたしは仙師ではないし、人間でもない。どこに行っても、愛されない。嫌われてしまうのだわ」

「いや、違う。チーチーは愛されていた。母親がどんなに愛していたのか、そのことはわかってほしい。桃風は命がけで、子供の生命を救ったのだから」


「お母さんは、今はどこにいるの」

「わからない。さいごだから、ひとつ訂正しておきたいことがある。私が浮気をしたように言われているらしいが、そういうことはないのだよ。桃風とは本気で付き合っていて、一緒になりたいと考えていたのだ」


「でも、浮気だったのでしよう。その時、お父さんはすでに結婚していて、お姉さんがいたのだもの」

「いや。父が貴花と結婚したのは、チーチーが生まれたあとなのだ。貴星は母さんの連れ子なのだよ」

「そうだったのですか」

 そんなこと、想像もしなかった。


「そのこと、お姉さんは知っているの?」

「知らないだろう。貴花は貴星の本当の父親のことは何も語ろうとしないが、たぶん人間だったと思う」

「そうなの! でも、お姉さんは空を飛べるわ。うまくはないけど」

 竹香は姉が急にかわいそうになった。


「その頃、大惨事が起こり、仙界と人間が断絶したのだよ。貴花は父親がいない子を産んだこともあり、当時、心無い噂に悩まされていた」

「何があったの」

「あることから、戦争が起きてしまったのだ」


 爽頼ソウライは当時の総仙督だった貴花の父親に懇願されて、結婚することになったのだ。そのために、貴花の父親は総仙督を辞し、爽頼は貴花と結婚するこ

とを承諾し、チーチーを仙界で育てることを許してもらったのだ。


「そして、貴花の不祥事も、桃花のことも、すべて忘れることにしたのだ」

「そういうことは、よその世界だけで起ることかと思っていたけど、そばで起っていたなんて、知らなかった。わたしは、何にも知らなかった」

「知らないでいてくれたら、よかったのだけれど」


「お父さんは、わたしを引き取るために、この結婚をしたということですか?」

「そうとも言えるけれど、貴花はそれなりによくやってくれた。父の判断の誤りや力不足で、桃風も、竹香も、貴花も、貴星も、みんな苦しい思いをすることになった。不幸になってしまった。すまないと思っている」


「お父さん、考えてみたら、わたしは不幸ではなかったです。いろんなことを学んで楽しかったですし、あのパレードの飛行、どんな企てがあったのかは別として、あの景色を見られたことは、とても幸せでした」

「企てとは何だい」

「なんでもないです。気にしないでください」

「そうなのか」


「それで、いつ出ていくつもりだい。来年か再来年か」

「今年中に。許可が下りたらすぐに」

「そうか。そんなに早くか」

「はい。はやく行きたいんです。早く新しい生活を始めたいのです」

「そうなのか。では、手続きを始めてみるか」


 父は机の引き出しから何やら書類を取り出した。それに記入するところから、竹香りの転出の手続きが始まるらしい。

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