2. 永剣の仙術

竹香が片目をあけた。

上に向かって伸びている木々の隙間から、見慣れた白い空が見える。


 谷底に落ちて、少し気を失っていたようだ。何分、何時間経ったのかわからないけれど、手と足から血が流れていて、痛くて仕方がないから、生きているようだ。


 崖の上までなんとかして崖を這い上がらなくてはならないけれど、手から血が吹きでるばかりで、岩の灌木には棘があり、どんなにがんばっても、登れない。

 どうしよう。

 誰か助けて。

 

 秋の夕暮れは早いし、寒い。ここで死にたくはない。でも、生きていても、いいことなんかないような気がする。


 この痛さのせいだけではない。友達もいない、家族からも愛されてはいない。ひとりだけ特別に思っていた人はいたけれど、自分が馬鹿なせいで傷つけてしまった。大切なことを、台無しにしてしまった気がする。


 何でも目の前のことを一生懸命にやっていれば、そのうちにどうにかなるはずと思って生きていたけれど、少しもよくならない。でも、よくならない原因は、この自分にある。今日のことは、どこからどこまでも自分が悪い。


 わたしは馬鹿。

 何もかもが空しくなって大声で泣いていると、何かがふわりと舞い降りた。


 青い服を着た永剣エイケンが長い髪をひらひらさせて、上から飛んで来て、着地したのだ。

 彼は仙師なので、空が飛べる。

 永剣は若い仙師の中では、一番運動能力があり、その飛行距離も長いと言われている。


 彼は山豪大世家の次男、山豪大世家は仙術に長けた一家である。冬氷とは同年で、ふたりは特に仲がよく、研修会にも選ばれている。


「チーチーじゃないか。どうしたんだい。泣き声が聞こえたから、来てみたんだ」

「あっ、ケンケン」

 永剣はケンケンと呼ばれている。


「おまえ、怪我をしていたのか」

「あそこから、落ちてしまったんです」

 竹香は上を指さした。


「悪ガキにでも、突き飛ばされたのかい」

「違います、今日は」

 と竹香が首を振った。


「急いで走っていたら、足を滑らせて落ちてしまったんです」

「どうして走るのさ」

 永剣が竹香の頭を軽く叩いた。


「そうか、そうか」

 この仙師の村で空が飛べないのは幼児と竹香だけなのだった。竹香は半分人間なので、空が飛べないのだ。

  

「ひでぇ。頬から血が出ている」

 えっ、顔からもですか。

 竹香は驚いて頬をさわると、血がべっとりと手についた。急に痛さと恐さが襲ってきて、気を失いそうになった。


 永剣はふところから白い布を出して竹香にわたし、強く抑えるように言った。竹香はそれを頬に当てると、流れた血が口にはいった。生温かい肉のニオイがする。

 竹香が途方に暮れた猫みたいな目で、永剣を見た。


「おれが止血してやるから、心配するな。そっちのほう、わりとうまいんだ」

「知っています。みんな、言っています、すごく上手だって」

 

 永剣は少し笑って、目を閉じて集中し、竹香の頬に指をあてた。仙師は、止血の術も使えるのだ。達人になると、重い病も治せたりする。


 しばらく仙術を続けると、竹香の顔に少し色が戻ってきた。

「あっ、鳥の声が聞こえる」

 竹香が首を回して、あたりを見た。

「さっきから、聞こえていたよ。鳥なんか、いつも鳴いているじゃないか」

 永剣がおもしろそうに笑った。


 頬のあとは、膝にも、腕にも仙術をかけた。

「血がどうやら止まったようだけど、痛みのほうはどうだい」

「もう大丈夫。ケンケン、ありがとう」

「じゃ、暗くなる前に、おまえの家に連れていくから、おれの腕につかまって」

「はい」

   


 竹香は家に灯が必要な時刻になって家に戻ってきたのだが、家で心配している者はいなかった。いつものことだけれど。

 

 父は雨集世家の宗主なので不在である。父は研修会のあとの晩餐会の責任者である。

 この晩餐会は仙師の世界では一大イベントで、誰もが注目をしている。仙師の将来を担うだろう若者たちが、一斉に空を飛んで研修所から晩餐会の会場に向かうのだ。

 その空の行列のことを、この仙界では「パレード」と呼んでいる。

 

 途中からはトップ10のお相手が、美しい晴れ姿で、パレードに加わる。

 雨集世家では、広場の中央に、大きな会場を建設中で、宗主である竹香の父はその総指揮をとっている。

 


 竹香は家にはいる前に、井戸の水を汲んで顔を洗った。どうやら、血が止まったようである。さすが、永剣は仙師の研修会に選ばれただけのことはある。


 ここでは10歳までが年少組、14歳までが年中組、その上が年高組の学校に行く。

 竹香は年中組だが、年少組でも、すでに簡単な仙術、たとえば蝋燭の火を消したりするくらいならできるが、竹香はできない。簡単な仙術でもできないのは、クラスでは竹香だけである。だから「半ニンゲン」と馬鹿にされて、友達になってはくれる子がいない。

 それだけが原因ではないだろうけれど、竹香を嫌うのがクラスの流れになってしまっている。



 今夜は家中にはいつもよりも多くの灯がつけられていて、使用人たちはみんな、忙しそうである。研修会のトップ10人が発表されたことを知って、姉の貴星キセイが来週の晩餐会のための衣装選びを始めたのである。大広間に、衣装、布靴、アクセサリーを並べてさせている。

 貴星はふたつ年上だが、姉と言っても母親が違う。


「チーチーは晩餐会に招待されたの?」

 貴星が振り返った。


「お姉さん、年中組はだめだって言ってましたよね」

「そんなこと、言ってない。あんたのところに、誰か来たって聞いたけど」

「いいえ」


 貴星はおかしそうに笑った。

「どっちにしても、そんな顔じゃ、行けないわよ。どこで怪我したの?」

「山道で転んで」

「そっ。気をつけることね」


「これを見てごらん」

 貴星が1枚の紙をわたした。トップ10の名前が書かれていて、冬氷と永剣の名前もある。

「もうご招待は始まっていて、この子なんか、もう申し込んだって」

 紙には、流砲ルホウという名前のところには×印がついている。彼はもうご招待に出かけたのだという。


「流砲が誰を誘ったと思う? 水翠スイスイよ。スイスイのどこがいいってわけ? 彼は私に気があったはずなのに、どんな趣味しているのかっていう話よね」

 貴星はいつも機嫌が悪いタイプだ。本人は気がついていないようだが、眉をしかめて話す癖があるので、そういうふうに見えるのかもしれない。


「それでスイスイは行くって?」

「もちろんでしょ。晩餐会のご招待を断るアホなんか、いるはずない」

「そうですよね」

 そうなのだ、晩餐会の招待を断る女子なんかどこにもいない。馬鹿なのは、わたしだけ。わたしったら、いつも肝心なところで、人がしないような間違いをしでかす。


「チーチー、あんたは赤い珊瑚の髪飾りをもっているでしょ。あれ、貸してくれない? 晩餐会に、つけていきたいから」

 と貴星が髪の毛を指差した。


「お姉さんはもっといいのをたくさん持っているでしょ」

「あれがいいの。あんたが使うというのなら、話は別だけど。招待されそう?」

「……」

「でしょ。髪飾り、貸しなさい。お菓子と違うから、借りたって、減るもんじゃないでしょ」

「じゃ、後で、持ってきます」

 その髪飾りは実の母親がくれたものだと父親が言っていた。母の唯一の形見なので貸したくはないのだが……。



 竹香は、父親の爽頼ソウライが人間界で浮気をして生まれた子だと貴星の母の貴花キカが言っていた。

 竹香を産んだ母は都で芸妓をしていた人間だったから、竹香には仙人と人間の血が半分ずつはいっている。


「あなたが生まれて間もなく、人間界では育てられないからって、あなたの母親は赤ん坊をお父さんに押し付けたのよ。だから、私が育てたのよ」

 と義母が「母に感謝する日」に言ったことがある。

「ありがとうございます」

「だったら、肩を揉んでくださいな」

 

 竹香はそんな不義の子なので、義母が竹香の存在をおもしろく思うはずはないが、ここまで育ててはくれた。服とか、持ち物とかでは、姉との扱いの差には大きなものはあるけれど、それは当然のことだと思うから、竹香は気にしないようにしている。

 かわいがられはしなかったが、虐げられもしなかった。学校には行かせてもらっているから、それでいい。ありがたいと思っている。


「流砲なんか、どうでもいい。私の第一希望は冬氷。二番目が永剣」

 と貴星が侍女たちに言っている。


「お嬢さんのことですから、きっとお招きがありますよ。両方からあったら、どうするのですか」

 侍女たちが調子を合わせる。

「まぁ。そんなことがあるはずないでしょ」

 そう言いながらも、貴星はまんざらでもない顔である。

 

 竹香はいつも思うのだが、義姉のこの自信はどこからくるのだろうかと。そんなことを公言して、もし誘われなかったら恥ずかしいという神経はないのだろうか。

 貴星はきれいだし、祖父が前の仙総督だったし、雲集世家のご令嬢だし、きっと選ばれるには決まってはいるけれど。


「チーチー、早く行って何か食べてきなさい。夕飯の時、いなかったでしょ。食べたら、お風呂をわかしてちょうだい。下男達はみんな、お父さんのほうの手伝いに行っていないから」

「はい」

「これからは毎日、桃湯にはいるから、桃の葉を集めておいてちょうだい。お肌をすべすべにしなくっちゃ」

 貴星の顔立ちは端正なのだが、お肌に少々問題があるのだ。

「はい」

 これ以上、口を聞きたくない時には、「はい」と言えばよいことを竹香は知っている。



 竹香は食欲がなかったので、外に行って薪を運び、乾いたわらに火をつけた。竹の筒を吹くと、煙が目にはいってきて、ぽろぽろと涙が流れた。

 竹香は曲げた膝を抱くようにして、声を出して泣いた。

 でも、誰のせいでもない。自分が悪いのだ。

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