第2話 スイレンとミリア
スイレンは困り果てていた。
目の前にはフイと顔を背ける女の子。柔らかそうな栗毛は胸元までのびていて、前髪は飾りのついたヘアピンでとめている。明るいパステルブルーのワンピースを着た彼女は、ストローをくわえてオレンジジュースをズッと啜った。
ここはスイレンの恋人が営む不動産屋の事務所だ。革張りの低いソファに腰掛けた女の子を見て、スイレンは小さくため息をついた。
何故、スイレンが困っているか。それは決してこの子が知らない子供だからではない。はたまた、冷めてしまったカフェラテのことでも、窓の外で降る止みそうもない雨のことでもなかった。
では何故か。それはこの子ミリアが、スイレンの恋人、ツカサの娘だからである。
「ねぇ……ミリアちゃん」
「きやすく呼ばないでくれる?」
東堂ミリア七歳。生物学的にも、戸籍上でも、正真正銘、恋人の東堂ツカサの娘だ。
スイレンは刺々しい彼女の態度に、ひくりと頬を引き攣らせた。 七歳の女の子が使うにしては、些か、というか大分違和感を感じる大人っぽい言葉だった。スイレンは先程の、ツカサが出かけた直後のミリアを思い出す。
今日はツカサの娘に初めて会う日だった。恋人ツカサの元妻は二年前、交通事故で命を落としており、頼れる親親族もおらずそれ以降ツカサは、ずっと男手一人でミリアを育ててきたらしい。そして自身の経営する不動産屋でスイレンと出会った。
スイレンは一人暮らし用の物件を探していて、知人の紹介で東堂不動産の扉を叩いたのだが、出てきた柳のような男を見て、これが運命だと思たのだ。スイレンの一目惚れだった。
何かにつけてツカサと連絡をとったスイレンからのアピールも、ツカサは最初笑って流していたが、スイレンの真剣な態度に徐々に絆されたのか物件を引き渡す頃にはお付き合いを始めることになっていたのだ。
そして付き合って半年経った先日、隠していたことがあると言われた。死んだ妻と、その子供ミリアの事だ。
そりゃあ最初は驚いた。家に帰ってわんわん泣いたし、何故、とも思った。がしかし、その反面、スイレンは心のどこかで納得していたのだ。
ツカサは土日休みもどちらかしか会ってくれなかったし、なにより、今まで、ただの一度も朝まで隣にいてくれたことがなかったから。
「ごめんね。私、なにか怒らせるようなことしちゃったかな?」
なるべく刺激しないように、そっと覗き込むように話しかける。しかしミリアは不機嫌そうに鼻を鳴らすだけだけだ。もう十分以上こんな感じで、スイレンはツカサが一秒でも早く帰ってくる事を胸中で祈った。近所の製菓店にケーキを買いに行くと出ていってしまった男のせいで、スイレンはミリアと二人きりになってしまったのだ。まさか会ってそうそう二人きりになるとは思っていなかったスイレンは、とりあえず話しかけてみたのだが結果はご覧の通り。スイレンは思わず眉間を押さえる。頭の中では、昨日のミナミの声が響いていた。
『いい?目線を合わせるのよ』
品のいい北欧風家具が置かれた駅裏のカフェでミナミはサンドウィッチをつまみながら言った。
産地に拘る店主が作るメニューは、どれも栄養価が高くほっとする味で、自炊が苦手なスイレンはこの店を気に入りよく足を運んでいた。ランチタイムを過ぎた時間でも店内は賑やかで、スイレンはパスタセットについてきたサラダをつつく手を止め聞き返す。
『目線?』
『そう、体の大きさが違うんだから。大きい知らない大人は怖いでしょ?あと口調もよ』
『それくらい分かってる』
『彼氏の娘かぁ、ほんとフクザツ』
高校時代からの友人は、隣に座る娘の口元を拭ってウーンと唸った。ミナミの娘、アズサはきらきらした瞳でスイレンを見て聞いた。
『スイちゃんのかれし?』
『そ、彼氏』
『じゃあスイちゃんママになるの?!』
『そう、なるのかなぁ……』
スイレンはアズサを見て、それから明日会う写真でしか見た事のないミリアを想像してみる。
写真の中のミリアは、とろけるような笑みで母親に抱きついている。今は亡きあの人の妻は、愛おしげに目を細めミリアを抱きしめかえしていた。綺麗な人だ。本当に、絵に書いたように幸せそうな親子の写真だった。
私が……この子の……?
スイレンは家に帰ってからも何度もあの写真を思い返した。彼女の隣に立つ自分を、スイレンはイマイチ上手く想像出来なかった。
視界の端でカッと空が光って、目の前の子供に意識を戻す。今朝から降っていた小雨は、天を裂くような雷を伴い勢いを増していた。
「ツカサさん……お父さん、大丈夫かな。心配だね」
言い切る前に聞こえた、数秒遅れてゴウっと響く音と高い声。ミリアはその轟音に、耳を押えて身体をビクつかせた。
「雷……近いね、大丈夫?こわいよね」
「ッ、バカにしないで」
「馬鹿になんて……」
「うるさいっ」
ミリアは顔を歪め、声を荒らげた。振った腕が当たったせいか、ヘアピンがズレ前髪がほつれている。
「あ、髪の毛……」
無意識に治そうと伸ばした手を、小さい手が叩き落とした。
「さわらないで!」
「!ごめんなさい、ただ髪を直そうと」
「おまえはミリアのママじゃない!」
スイレンはハッとして、ミリアの目を見つめた。
「ミリアの、ミリアのママは、ママだけ……!」
大きな黒目がちの瞳が潤んでいるが、ミリアは泣かなかった。ただ黙って下を向いて、叱られるのを待つような怯えた顔をしていた。
スイレンはミリアのつむじをぼんやりと見つめる。二人の間には重たい沈黙が川のように流れていた。
ちいさく息を吐いたミリアはオレンジジュースを飲んだ。氷はもう殆どとけてしまったようで、グラスの結露がぽたぽたとワンピースに落ちて大きなシミになっている。
それを見て、スイレンは酷く後悔した。
「ねぇ、」
三十秒程黙して、スイレンはミリアを見て呼びかけた。ミリアは一瞬反応したがそのまま黙ってストローの紙袋を指先でいじった。
「アタシが悪かった、謝る」
「えっ」
バッと顔を上げたミリアが、しまったと言わんばかりに慌て、再び視線を窓の外にやった。スイレンは再構わず再び、ねぇ、と話しかける。
「……なに」
嫌々、仕方なく、といった感じで返すミリアをじっと見つめて、スイレンは頬杖をつき口を開いた。
「貴女のヘアピン、めっちゃ可愛い」
「へ?」
「どこで買ったの?」
フランクな、砕けた口調だった。ミリアは今までと違うスイレンの態度に戸惑っているようだ。
無視されるかもというスイレンの考えとは裏腹に、ミリアはゆっくりと返事を返した。
「……おみせ。みむらのおばちゃんのお店で、買ってもらったやつ」
「商店街の?ツカサさんが買ってくれたんだ」
「そう、」
「へーいいじゃん」
スイレンはすっかり冷えたカフェラテを引き寄せひと口飲んだ。カップに口を付けた拍子に、サイドの髪が落ちてきてそれをはらう。髪をまとめ直そうと、バレッタを一旦ローテーブルに置いたところで、ミリアの熱心な視線に気付いた。
卓上に置いた華奢なバレッタ。これは先週、駅ビルの中の小物屋で見つけたものだ。黒いベルベット生地の上に大粒のパールが乗っていて、周りに小さなストーンが沢山着いている。離れてもチラチラ煌めいて見えるのでスイレンは気に入って最近はこればかり付けていた。
そして、ミリアの目は何よりも雄弁だった。
「これ、欲しいの?」
「!」
「駅ビルで買ったの。イイデショ、だからあげる」
スイレンはバレッタをミリアの方に滑らせた。
ミリアはバレッタとスイレンの顔を見比べるように見た後、グッとバレッタから視線を逸らした。
「別に……」
どういう身の振り方をすればいいのか、分からないのだろう。素直に受け取れないのだ。しかし離れたはずの視線は、再びバレッタへ向けられていた。スイレンは言葉を促すように、ミリアの言葉を復唱する。
「別に?」
「パパは、……髪の毛むすべないから」
ミリアは自分の毛先を指でひっぱり、躊躇いがちに口を開いた。その姿は、先程感じた歪な大人っぽさはなく年相応の子供にみえた。
「これは挟むだけよ」
「パパぶきっちょだよ」
「あー確かに……じゃ私が結んだげよっか」
「それはママのしごと!」
キッと刺さる鋭い視線。スイレンは手に持ったカップをゆっくりと置いて、静かに笑った。
「友達じゃ、ダメ?」
ミリアは剣呑な目付きから一転、ぽかんとした顔をしてスイレンを見上げた。
「ともだち?」
「うん、女友達。それならいいでしょ」
「おんなともだち……?」
「友達なら髪結びっこするでしょ」
確かに、そうかもしれない……。ミリアは同じクラスの友達が髪を三つ編みにしてくれた事を思い出し、小さく頷いた。
「もし友達が、雷で怖がってたら心配しない?」
「……する」
「でしょ。ほら、お茶会もするし」
まぁ事務所だけど、とカップを持ち上げるスイレンを見て、ミリアは信じられないような顔で繰り返した。
「おんな、ともだち……」
「そうそう」
そうしてしばらく黙ってしまう。おそらくその小さな頭の中でたくさんのことを考えているのだろう。スイレンはカフェオレを飲みほして、お茶請けからチョコレートをひとつ取った。キャンディのような包装紙を開いて口にほおりこむ。
「なら、ちゃんということがあるでしょ」
思いがけず反撃を食らったスイレンはチョコを噛み砕こうとして、へ、と気の抜けた声を出した。
「な、何?分からないわ心当たりがない……」
「あやまる、じゃなくてごめんなさいでしょ!」
口の中でチョコレートがみるみる解けていく。
意表をつかれたスイレンは、たどたどしく謝罪の言葉を口にした。
「……!ご、ごめんなさい」
「ふん」
ん、とミリアが手をこちらに差し出す。人の手は紅葉の形とはよく言ったものだ。子供体温であろうミリアの手は薄桃色だった。
なんて自分勝手な考えをしていたんだろう。自分がこの子の、母親の代わりにならなければなどという傲慢。
すべて、勝手に自分が背負おうとしただけだった。誰も、そう。ツカサも、ミリアも、スイレンに母親の代わりを求めなどいなかったのだ。その事実にスイレンは自嘲した。
手のひらを見つめたまま黙ってしまったスイレンを見てミリアは首を傾げた。
「あくしゅよ、知らないの?」
仲直りするにはあくしゅしなきゃいけないのよと、ミリアは得意げに言った。
だからスイレンはまず、この小さな女友達と小さなスキンシップから始めてみることにして、その柔らかい手をそっと握ったのだった。
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