練習

@bbb_Sui

第1話 レイコとシノミヤ

「なんで、追ってこないの」


レイコは静かな声を落とした。

今は深夜の一時半、ここはレイコのアパートから三分歩いた所にある寂れた公園だ。

辺りは静かで、小さい虫の音と、時々風が草を揺らす音がする。

吹く風が冷たくて、レイコは露出した二の腕を片手でさすり目の前の男を睨みつけた。本人に睨みつけたつもりは無かったが、その位鋭い眼光だった。


「なんで、黙ってるの」


男は黙って、ただじっとレイコを見ている。レイコの剣呑な雰囲気に対して、男はずっと穏やかだった。薄いサングラス越しに見える目は細まり、口元に湛えた緩やかな微笑は、レイコの神経を逆撫でした。


「なんとか言って!」


ヒステリックに声を大きくしたレイコに、オトコはゆっくりと口を開いた。


「なぁに、レイコさんは何が気に入らないの?」


その声音にレイコは泣きたくなった。

駄々を捏ねる子供をあやす様な、飼い猫を甘やかす様な、そんな声だった。


「本気で言ってるの」

「だって、本気で分からないんだ」


撫子の震える唇を見て、心底不思議そうな顔をするこの男は、名をシノミヤと言う。レイコはこの男と付き合っていた。


ずっと、何度も別れようと思っていた。

レイコはシノミヤの仕事も、生まれも知らなかった。教えてくれなかった。名前すら、本名であるか分からない。そんな男を信じて待ってやれるほどレイコは若くなかったし盲目でもなかった。ただ合う度に胸が痛くて、何とかそれから解放されたかったのだ。レイコは寂しいのも痛いのも大嫌いだった。


「全部よ、全部!貴方のそういう余裕ぶったところが嫌いなの!」

「うん」

「全部ごまかして、何にも教えてくれない癖に……いつも勝手にいすわって」

「うん」

「迷惑なのよ」

「うん」

「何にも、言わないくせに……ッ」


耐えきれず決壊した涙がぽろりと頬を滑るように落ちて、レイコは顔を覆って俯いた。

レイコは先程、ようやく別れを告げたのだ。シノミヤがのらりくらりとかわすから、一方的に言いつけて、その場を後にしようとした。そうしたのに……。


「だからっ、別れるの」

「別れるの?」

「別れるの!」

「でも追ってきて欲しいんでしょ?」


レイコは一拍置いてから僅かに頷くと、しゃがみこんでしまう。これにシノミヤは笑って、レイコの傍によった。


「レイコさん、自分が何言ってるか分かってる?」

「……わかんない!」


シノミヤは耐えきれず、といった感じで破顔した。自分もしゃがんで、その長い手でレイコの身体に手を回して閉じ込める。


「もー!ほんとにかわいい、レイコさん」


レイコの冷たい黒髪を撫でてやると、腕の中でモゾモゾと反抗されるが、シノミヤにとっては子猫が暴れている様なものだった。そのままグッと力を込めて強く抱きしめる。


「でも、ダメだよ」


真っ黒な声だった。

いつの間にか首にシノミヤの右手がかかっていて、親指でクッと喉を圧迫された。


「っぐ」

「分かってるでしょ」

「、ッウ、げほ」


一瞬だったけれど苦しくて、固い咳をして必死に息を吸った。驚きで涙が引っ込んだ。シノミヤはその間、宥めるようにレイコの頭を撫でていて、レイコはその右手に震えそうなくらい安心したのだ。


本当はわかっていた。

この男が男ではないってことくらい。

秘密主義だし、居なくなったと思ったら二週間後にひょっこり帰ってきてまたすぐに居なくなる。怪我は多いし、ベッドの上で見た彼の身体には古い傷がいくつもあった。あと大きな刺青も。

それでも、分かっていたのだ。

自分がこの男から離れることが出来ないことくらい。

レイコは寂しいのも痛いのも大嫌いだった。でも、シノミヤが居なくなるのはもっと、ずっと嫌だった。

結局、そういうことなのだ。

そしてシノミヤは、レイコよりそれをよく知っていた。

一際強い風が吹いて、シノミヤのしろい額があらわになる。月の光がシノミヤの顔を照らした。琥珀の瞳が弓なりに細まる。


「レイコは俺から離れられないでしょ」


あぁ、きっと離れられないんだろう。

私も……彼も。

グッとシノミヤの顔が近付いて、彼の深い香水と、肌の匂いがした。

シノミヤは屈んで、黙って目を閉じた。


「年下のくせに、ッ生意気……」


レイコはキッとシノミヤを睨んで、胸ぐらを掴む。強く引き寄せて、レイコは震えるくちびるでキスをした。

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