第二章 迷宮都市
プロローグ 異常
薄暗い、岩石に囲まれた洞窟のような場所、迷宮上層。
「はっ、はぁ、」
その下層や、上層の中の深部、所謂中層などのものと比べ、明らかに狭い通路の中、一人の男性の冒険者が、何かから逃げているかのように走っていた。
薄い革鎧を身に纏ったその冒険者の走る速度は常人離れしており、それは彼が速度強化よりの身体能力強化スキルを有していることを示している。
その冒険者の走る速度であれば、上層に存在する魔獣、いやそれどころか中層魔獣をを巻くことさえ容易いだろう。
彼の疲労具合を見れば、長い時間走ってきたことは明らかで、普通であれば何かに追われていたとしても、最早巻いただろうと思ってもおかしくはない。
「くそ!くそがぁっ!」
……しかし、それでもその冒険者が足を緩めることはなかった。
その冒険者は身体に致命傷ではないが、それなりに深い傷を腕に、負っていた。走る度にその傷から新たな血が溢れる。
このままでは、この冒険者が貧血で走れなくなるのも時間の問題だろう。
そのことを示すように、無精髭が覆う冒険者の顔は、青白くなっている。
「はぁ、はぁっ」
だがそれでも冒険者が走る速度を緩めることはなかった。
限界が近い状態であるのにもかかわらず、冒険者はそれでも走る。
……… 目に見えない幻想から逃げようとするかのように。
「何で、こんなことにっ」
必死に走る冒険者の顔に浮かんでいたのは、恐怖の感情だった。
「俺は、中層の冒険者だぞ!」
冒険者は走りながら、何とか恐怖を誤魔化そうとするように、大声を上げる。
しかし、そんな叫びが冒険者の思った通りの効果を発することはなかった。
「…………っ!」
……… 何故なら冒険者はその言葉に改めて、自分達のパーティーを襲い、仲間を殺したとある存在の異質さに気付かされたのだから。
その瞬間、今まで無心で逃げてきた冒険者の緊張が途切れ、頭の中で様々な感情と思考が入り乱れる。
仲間が殺されたという悲しみ。
自分が中層の冒険者であるという自信の喪失。
今まで意識をそらしてきた傷の痛み。
─── そして、中層である自分たちのパーティーを、たった一体で蹴散らした魔獣への恐怖。
それらの感情が一気に噴出し、頭が埋まった冒険者は周囲への注意を欠いてしまう。
「がっ!」
次の瞬間、冒険者は迷宮の出っ張りに足を取られ、盛大に転んでいた。
転んだ冒険者はその足を地面の硬い石にぶつけ呻く。
全力で走っていた勢いで転んだせいで、冒険者の足は骨を痛めたのか、酷い痛みを発していた。
「っ!」
………その痛みで自分が上手く歩けないことに気づいた瞬間、冒険者の顔から血の気が引いた。
このままではいけない、そんな思いを冒険者は抱くものの、どうすることも出来ない。
パーティーに治癒師がいることで、魔法薬を持ち歩かなくなった冒険者には、現時点でその足を直す手段は無かった。
そのことに冒険者はその顔を絶望に染める。
「あ、あれはっ!」
自分の側に転移陣があったことに気づいたのはその時だった。
冒険者の顔から絶望が消え、希望が浮かぶ。
時間は掛かるかもしれないが、それでも自分は地上に戻ることができる。
そうすれば、今起きている状況を冒険者ギルドに伝えられる。
そんな安堵を抱きながら冒険者は這って転移陣の方へと向かおうとして。
「ギギ」
「………え?」
………だが次の瞬間、冒険者の行動をを脇から伸びた緑色の手が阻んだ。
引き止められた時、冒険者は最初何が起きたのか分からない、といった様子だった。
だが、自分を掴む緑の手を見た瞬間、自分を押し留めた存在の正体を理解し、その顔に絶望を浮かべる。
「ギ、ガガッ」
恐る恐る振り返った冒険者の目に入ったのは、自分を嘲笑するように口元を歪める上層の魔獣、ホブゴブリンだった。
嘲笑、それは魔獣が取るはずのない感情表現で、その異質さに冒険者はようやく理解する。
……自分の肩を掴むホブゴブリン、それは自分の仲間を殺した個体あの異常な個体だったことを。
「誰ガァぁぁぁぁあ、たすけてぇぇぇえ!」
その瞬間、冒険者は必死に悲鳴をあげる。
ホブゴブリンは通常の冒険者なら容易く倒すことができるはずの魔獣。
だが、目の前のホブゴブリンが例外であることを、冒険者は理解していた。
───何せこのホブゴブリンは、中層のパーティーだった自分達をあっさりと壊滅させる程の実力を有しているのだから。
冒険者は必死に助けを求める声を上げる。
……だが、その声は誰にも届くことはない。
「あぁぁぁぁぁあ!」
誰かに助けを求めるような声、それはどんどん遠ざかっていき。
……最後には、ぽつりと途絶えたのだった。
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