第7話 拾い子のフィス

物心ついたころ、フィスに親はなかった。


どこで生まれたのか。

何時から一人なのか。


何もわからないまま、王都近くの大きな街の外れで一人、暮らしていた。


木の枝を拾い集めたり、雑用をすることで小銭を稼いだり、食べ物をもらったりしてその日暮らしの生活、というのが正しいかもしれない。

街の外れの廃墟の片隅を基地の様にして過ごしていた。


「フィス!今日は配達が多めに入りそうなんだ。手伝いを頼めるかい?」

「わかった!この届け物が終わったらまた顔をだすよ」

「はいよ!待ってるよ」


通りすがりの食堂の女将に声をかけられて、ひらりと手を振ったフィスは元気よく駆けていく。顔なじみの店からさらに、馴染みが増えて、少しずつ食べることに困らなくなっていた。


配達の代金といっても、子供の小遣いに色がついたくらいだ。それでも一日の終わりにはその日の残りを使った賄いをたっぷりと持たせてもらう。


それを自分の住処に持ち込んで、数日に分けて食べる。毎日配達がある訳ではないからだ。

金は常に身に着けていて、寝床には雨風を凌いで使い古しの毛布にくるまって眠る。


物心ついた時にはそんな暮らしをしていた。

さすがに子供一人が空き家を借りることはできず、かといって、自分で家を建てるなどできるわけもない。そして、こうした親のない子供たちを保護する救護院に連れていかれそうになったが、どうしても嫌だという感覚があって、ひたすら逃げ回っていた。


何故かわからない。

わからないが、ぼんやりと、救護院に行ったとしたらこんな目に遭うかもしれない、という様子が次々と頭に思い浮かぶのだ。


そんな目に遭うくらいなら自由がいい。自分で稼いだ分だけで食べられればいい。

目立たないように、その日をなんとか暮らせるように。幼いながら、なぜかそんな風に思えてしまい、気ままな暮らしがいいと日々を過ごしていた。


時には、たちの悪い大人に捕まりそうなときもある。

そんな時は、全力で逃げる。逃げることだけはとてもうまかった。


親切な大人が、面倒を見てくれようとすることもあった。

親切はありがたいが、いつか事情が変わって手のひらを返されるくらいなら、そういう状況は避けたい。それよりも、相手の負担にならない程度の関係が一番いい。

仕事をくれる大人たちの様に。


同じような家のない子供たちに食べ物や金を奪われそうになったこともある。

拙い魔法だが、近くに人が来ないような人寄けのまじないは、思いのほか役に立った。


廃屋ではあるが、自分でできる手直しをして、雨漏りもない。少しずつ集めて自分で作った乾草の寝床もある。そんな、お気に入りの住処から元気よく飛び出して、いつものように街の中に向かう。


今日は食べるものもあるから今日はそれほどたくさん稼ぎに歩かなくてもいい。


そう思いながら、街の中を歩き回っていた時、目の前に馬車が止まった。立派な馬車は貴族か、誰かの馬車だろうか。

目の前を横切るような真似はしていないが、何か気に障ったのだろうか。


すぐに走って逃げる体勢で身構えていると、馬車の扉が開いて降りてきたのは神官だった。


「え……?」


馬車から降りてきたのは、街にいる神官の服とは違い、子供の目にも高そうな服だとわかるものだ。

護衛らしい者たちが慌てている中で、刺繍の白金の神官はフィスの目の前に屈みこむ。


「こんにちは、君、ひとりですか?」


フィスと同じ目の高さに屈みこんだ神官がにこりと笑うが、フィスにとってはそれが胡散臭く見えた。


親は。

家は。

家族は。


一言の問いかけにすべてが含まれていた気がして、フィスは怖くなって神官を見上げた。


知られてはいけない。

悟られてはいけない。


とっさにその考えが浮かんで、フィスは小さいながらも少し後ずさりしながら、思わず膝をついて礼を取った。


「お声をかけていただいてありがとうございます。神官様」


平民の、それも街の中で彷徨っている子供が膝をついて頭を下げただけでなく、丁寧に答えたフィスに神官の方が目を見開く。


「私は一人です。でも、救護院にお世話にならなくても大丈夫です」


ひたすら丁寧に、一生懸命その場で考えて応える。

フィスを心配して救護院に連れて行こうとする、大人よりも神官であれば逃げることも傍にいる護衛騎士に捕まりそうで怖かった。


だから気持ちの上では、精一杯、放っておいてほしい、そう思って答えたのだが、驚いた顔をした神官はフィスと目線を合わせた。


「あなたの名前を伺ってもいいですか?私は神官のソトラストといいます」

「自分はフィスといいます」

「そうですか。フィス、よい名前ですね」


名前には意味があり、口にすれば相手の存在を形作る。名前を聞いたソトラストは、続けてフィスの肩に手を置く。


「先ほどの答えは、あなたを救護院に連れていくために声をかけたと思ったのですか?」

「ちがうのですか?」


今度はフィスの方が驚く番だ。神官がわざわざ馬車を止めて自分のような子供のために声をかける。そこにどんな意味があるのかと考えたら、子供一人であるということで救護院に連れて行くくらいしか思いつかなかったのだ。


「なるほど、なるほど。もし、そうだとしたらどうするのですか」

「自分は一人でもなんとかなっております。救護院には、どうにもならない者がいくべきなので、お断りします」

「ほう……」


目を細めた神官は穏やかな顔で微笑んだ。傍に仕えているらしい神官が困惑顔で、フィスと神官を見比べている。移動の途中だったのか、後ろが使えている上に、立派な神官服のソトラストが町の中に姿を見せていることで、周囲にも人が集まり始めていた。


そろそろ逃げ出すべきだろうが、ソトラストはまだフィスの肩に手を置いたままだ。


「大神官様。……その子供が気にかかるようでしたら救護院の職員に申し伝えますので馬車にお戻りください。次の予定に差し支えてしまいます」


街の子供に大神官がわざわざ馬車を止めて声をかける。

それだけでも険しくなる護衛騎士の言葉に、ソトラストは首を振った。護衛騎士の言葉など、信用できないとでもいうのか、フィスに向かってエスコートでもするように手を差し出した。


「フィス、と呼ばせてもらいますね?」

「……はい」


フィスにとってソトラストは偉い神官であり、そんな人が自分のような者に丁寧に話しかけてくることは驚きだった。

そんなわけがないと思いながら、恐る恐る頷く。

子供相手に、不似合いな扱いは、後になって思いがけない重さで跳ね返ってくることがある。


フィスの不安をよそに、ソトラストは優しく微笑んで頷いた。


「私があなたに声をかけたのは、あなたが気になったからです。それから、救護院は、一人で暮らしている年寄りや、生まれたばかりの子供もいます。つまり、それぞれの状況によって、大人でも子供でも関係なく、暮らす場所です。だから、あなたが一人だからとか、子供だからという理由とは限りませんよ?」


アシュトラーゼ王国で生活していれば、誰が教えるでもなく、知ることになることの一つだ。いわゆる常識の一つのようなものである。

救護院の説明に頷いたものの、それを素直に信じる気にはなれなかった。


フィスが子供とみて、口先で言いくるめて連れて行こうとする大人はたくさんいるからだ。


顔には出さずに頷いたおかげか、ソトラストにはフィスが疑ってかかっているとは思われなかったらしい。


「わかってくれてありがとう。だたね。なぜ子供たちが多いのかというと、家族のいない子供たちが悪い考えを持つ人たちに利用されないようにするためなのだよ」


アシュトラーゼには奴隷制度はないが、奴隷制度のある国もある。そういう国に、奴隷として売られるということも、魔力の高い子供ならあり得る。すべての国で魔力があって、魔法が使える者がいるわけではないのだ。


フィスもそういう類の悪い大人たちに捕まりそうになったことは幾度もある。


「わが国では他国に比べて魔力の高いものが多いです。貴族であれば、魔法が使える場合が多いですが、平民にも魔力が高くて魔法が使える者が生まれることがあることも分かりますね?貴族であれば家が守りますが、平民はなかなかそうもいかない。そういう場合には神殿が守ることがあります」


生まれてすぐ、貴族でも平民でも神殿に行って祈りをささげる。その時に、自分の魔力と属性を調べることになる。そして、学院に入るときに、もう一度、魔力と属性を調べ直す。

成長するにつれて変化することがあるからだ。


その間にも、平民で魔力ありとなった場合、無事でいられるケースは少ない。だからこそ、貴族の養子になったり、貴族が後見人についたりするのだ。

この説明を、わざわざフィスに聞かせることが分からなくて、フィスは半歩ほど、無意識に後ろに下がる。


「あの……」

「あなたははどうです?まだ一度も調べたこともないのであれば一度、神殿に来て調べてみませんか?」


その言葉を聞いて、フィスは少しばかり青くなった。


今までは、神官に声をかけられても逃げることができたし、救護院に連れて行こうとする大人がいても、そのたびに適当な言い訳をして逃げることができた。

目の前にいる神官はおそらく、自分に魔力があることをわかったうえで話しかけている気がする。だから、こんなところにいるのではなく、神殿に連れて行って魔力を調べたうえで貴族にでも売りつけようとしているのではないか。


そう思うとじりじりと足が後ろに下がる。その様子に気付いたソトラストの笑顔が苦笑いに変わった。


「魔力を調べたとしても、君がどんな属性で、どのくらい魔力があるかは誰にも教えたりしませんから、安心なさい」


フィスを連れていくことを諦めそうにない、ソトラストの様子に護衛騎士がフィスを捕まえようと少しずつ立ち位置を変える。どうせなら早く捕まえて連れて行った方がよいと判断したのだろう。


どうしよう。

冷汗が流れ、心臓の音がバクバクと響き始める。フィスはお腹のあたりにぎゅっと握りしめた手を当てた。


いつも困った時に、自分の助けになる知識があることを知る機会になるかもしれない。

少しでもいいことがあるのかと考えた結果、頭に浮かんだのはそのくらいで他には自由がなくなることしか思い浮かばない。


頭に浮かぶ知識の塊は次々と逃げろと警鐘を鳴らしてくるが、フィスの中の好奇心が動いた。


「わ……かりました」

「そうですか。どうもありがとう」


微笑んだソトラストの手を握る前に、フィスは自分の服で何度も拭ってから手を伸ばした。


自分を助けてくれるこの知識が、何なのか。

普通とは違うという事だけははっきりわかる、知識の理由がわかるかもしれない。


その好奇心でソトラストの手を取ったフィスを、護衛騎士が眉をひそめてフィスを見た。


「大神官様。まさかこの馬車にお乗せになるとはおっしゃいませんよね?この町の神殿に迎えに来させましょう。今から使いを……」

「いえいえ。貴方の手を煩わせることはありませんし、この町の神殿もいきなり護衛騎士が姿をみせたら驚くでしょう?この子は私が大神殿の方へ連れて行きますから大丈夫ですよ。馬車が狭いと思うようなら護衛の方たちと一緒に後から来てもらってかまいませんからね」

「ソトラスト様!そのようなわけにはいきません。私は大神官様を常にお守りするのが仕事です」


汚れた子供を同じ馬車に乗せることなど、ありえないという神官に睨みつけられて、フィスが手を引こうするよりも先にしっかりと握られた。


「移動の間ですからそのように気負う事はありません。むしろ、優秀な護衛騎士にいつも視察に同行頂くのは申し訳ないですね。次から他の方に交代でお願いすることにしましょう」


ソトラストの言葉に護衛騎士の表情はみるみる青ざめて、小刻みに頭を下げた。そのやり取りは、護衛についている他の騎士たちにも聞こえている。目線を交わして頭を下げようか、どうした方がいいのかという気配を見上げながらフィスはソトラストが本当に偉い人なのだと思う。


街の神殿にいる神官でも護衛騎士がつく人は見たことがない。一番偉い神官は、他の神官を引き連れているのを見るくらいだ。

それなのに、ソトラストが降りてきた馬車の後ろには箱馬車が続いていて、他にも護衛騎士が数人着いているというのはよほど偉いのだろう。

そう思うと、手を取ったのは正しかったのか、間違いだったのか、ぐるぐると頭の中で考えが渦を巻く。


フィスが、混乱している間にも口を出していた護衛騎士をおいて、他の護衛騎士たちはソトラストの為に馬車の扉を開く。


屈みこんでいたソトラストは腰をあげると、開かれた馬車の扉を前に、自らフィスを抱え上げて馬車に乗せた。

続いてソトラストがフィスの隣に乗り込むと、先ほどの護衛騎士とは違う一人が馬車に乗り込んだ後、その扉は何事もないかのように閉まった。


「さあ、では少し遠いですが、参りましょうか」


* * *


「おや。新しい服は少し大きかったようですね?」


王都の大神殿に着いてすぐ、ソトラスト自らが指示を出してフィスは風呂と着替えを済ませに向かった。もっとも、日頃から食堂の配達をするフィスは、こまめに身ぎれいにして、サイズがあってなくても洗濯もまめにしていたのでいうほど汚くはないつもりだった。


フィスを着替えさせた神官の方が少し意外そうだったことに、にやりとしそうになったくらいだ。そして、着替えを終えて、改めて大神官の部屋に連れてこられた瞬間の言葉が先ほどのものだ。


だぼだぼのシャツとズボン姿のフィスに、目を細めた大神官は頷いた。


「この子に新しいミルクを持ってきてもらえますか?」


フィスを連れてきた神官にそう告げると、少し悪戯っぽい顔で片目をつむる。


「ちなみに、私の背はもう伸びませんが私の分もお願いしますね」


護衛騎士ほどあからさまではなかったが、拾い子一人に対してありえない対応だと思っていることは、口に出さなくてもフィスには伝わっていた。

だが、神官はフィスを拾った時のやり取りを知っているのか、頭を下げてすぐに指示通りにミルクを取りに行った。


身の置き所がなくて、シャツの裾を何度も握るフィスの向かいにソトラストは腰を下ろした。


「さあ、少しの間私と君だけですよ。今のうちに君の魔力と属性を見てみましょうか」


頷いたフィスの前に、ソトラストが小さなガラスのキューブを置く。サイコロよりも二回り位大きいだろうか。キューブの真ん中には小さな白い核がある。


「このキューブには魔核を使った真核が入っています」


このキューブを手に持つと、下側をのぞいた五つの面が属性を表す色に光る。その光の大小で魔力量を図るのだ。


知っていても初めて本物を目にしたフィスがまじまじと見ていると、ソトラストは声を小さく抑えた。


「ここからは私と君だけの内緒の話ですよ?」


何を言うのだろうと思っていると一つしか使わないはずのキューブをさらに並べてソトラストは一つを取り上げた。


手の上に乗せたキューブを見せながら、ソトラストはフィスに向かってにこりと笑う。

その瞬間、キューブの上を向いた面が白色に濁って光っていた核が見えなくなる。他の面まで薄らと白く濁っているのは影響が強いという事だろうか。


「このように魔力をこめると、属性の色がついて、透明度によって魔力量の判定を行うのですが……」


濁りの度合いは人それぞれで、不透明に近ければ近いほど魔力量が非常に高いことを示している。ソトラストの白の濃さは治癒属性の高さを示すもので、とても強いことがわかるものだ。


それを机の上に置いて、新しいキューブに手を伸ばす。


「神官でもこれを知るものは、ほとんどいないといっていいでしょうね」


ソトラスト以外に知らないことなど、どんな秘密だと驚いてしまう。自分のような子供が知っていいはずではないと、きょろきょろと部屋の中を見回してしまう。


そわそわとソファの上で、身を縮こませたフィスの目の前に手を上げた。

開いた手の上のキューブを逆さにして、とんとん、と底にあたる部分を叩く。


「この底にあたるところには魔力を反射する板があるのですが、このまま逆さにして魔力を込めるとどうなると思いますか?」


内緒の悪戯を見せ合うように、悪戯っぽい笑みで魔力を流す。ふわりとキューブが光ったように見えた後、ソトラストはキューブを正しい位置に戻す。


「あっ……」


先ほどの濁り具合と比べて、三分の一程度だろうか。乳白色に近い濁り方だが、まだ薄ら透けている程度だ。そして他の面も同様で、少しばかり白さが混ざっているようだが、よく見なければ気づかない程度だ。


「たまに間違えて逆さに持つ方がいらっしゃるのです。その場合、正しく計れていないという事で、改めてやり直すことがほとんどですし、神官たちは皆、失敗したと考えてその意味に注目する人がいないというだけですから」

「なる……ほど」


「『そう大した秘密でもない』とはいえ。

正しく計れないのではなく、正しく『弱く』計ることができるのは大きな秘密だろう。


目を大きく見開いて二つ目のキューブを見ていたフィスは、顔を上げた。


「これはどのくらいでしょうか」


その言い回しに、ソトラストは面白そうに片眉を上げる。


どのくらい、という言葉選びが子供とは思えないと思ったのだろう。

人によるのか、込める魔力量を抑えられるのか、どのくらい正確なのか。


口に出すことを避けて、あれこれひとまとめにした“どのくらい”なのか、という問いかけにソトラストは頷いた。


「このキューブの面は水、火、土、風、治癒のそれぞれの属性を指すことはわかりますか?」

「はい」

「いわゆる五要素と言われるものですね。ちなみに、王族はこのすべての要素を持ちます。そして、五公八侯十六伯といいますが、この国の貴族は主となる属性を持っている家門となります」


同じ属性の家同士が仲が良いという事はなく、そこは派閥があり貴族社会の複雑な利権や付合いがあるのだろうが、それには触れずに大神官は二つのキューブを並べる。


「よくごらんなさい。この面の分、つまり正しく計った場合、から五分の一です」


平民なら、逆に握ってしまっても全く変わらないだろう。だから、失敗だともう一度新しいもので試すだけだ。それに対して貴族の場合は、属性と魔力の出方の両方に影響がある。

逆に握ったとしたら失敗としてすぐに新しいキューブを握るだろう。


ごくまれに要素が出ない場合や、要素があっても魔力がない場合もある。その際は全く違う調べ方になるのだが、それはこの際置いておくとして、大神官はフィスに向かってキューブを差し出した。


「さあ、おいしいミルクが届く前にやってみましょうか」


そう言われて、フィスは手を伸ばした。途中で何度も手を引っ込めそうにった後、ようやく手を開いた。

その手の上に、ソトラストはキューブを置く。


「魔力の込め方を教えましょうか?」


貴族ならまだしも、平民は魔力の使い方がわからないことの方が多い。だが、フィスは少し考えてから首を振った。


手のひらに意識を向ける。

真ん中のキューブを置いた場所が一瞬、温かくなる。


多少の差はあるようだが、すべての面が濁った。

濁ってなお、それぞれの面に色がはっきりと出ていた。


それを見たソトラストは、黙って手のひらの上のキューブを新しいものに取り返る。今度はためらいなく同じように意識を向けると、再び手のひらが温かくなる。


今度はどの面の色も白い濁りも薄く淡い者になった。


何も言わずに立ち上がったソトラストは自分の机からグレーの布を手にしてすぐに戻ってくる。

そして、机の上に広げてフィスが濁らせたキューブを置いた。

キューブを包み込んだ布の上に、ソトラストが握ったキューブも無造作に転がすと、さして勢いをつけることもなく布を重ねてその上から手をついた。


ぱりっと聞こえた音に、目を丸くする。

一つだけ残ったキューブは、よく見ればどの面にも細かくキラキラしたものが混ざっているように見えた。


「素晴らしいですね。君は五要素すべてに属性がある珍しい方です。ただし、『魔力はそれほど強く』ありません」

「……はい」

「ですが、魔力が『強くなく』ても五要素すべてに反応があるだけでも珍しいので、人には話すときは五要素に反応はあるが魔力量は多くないというといいでしょう」

「……わ、わかりました」


握りつぶされたキューブは灰色の布に包まれたまま、トラストの机にしまいこまれた。それとほぼ同時に、先ほどの神官が戻ってくる。

大神官の目の前には立派なグラスにミルクがたっぷりと注がれていて、フィスの目の前には木の小さなコップが置かれる。


ちらりとフィスの目の前に置かれたキューブを見て、小さく笑った神官を見ればわかるように誰もが聖人ということはないのだなと思う。


平民に対して区別をもつ者もいれば、救護院には一切関わらない者もいる。

ミルクを持ってきた神官はソトラストの補佐の一人らしく、その地位に誇りを持っているのだろう。


大神殿に着いてすぐ、ソトラストが大神官だということが分かった。王とさえ言葉を交わすことができる立場であり、王国にある神殿すべての頂点に立つ人物だ。

そんな人が、拾い子のフィスにかまうなど許せないのだろう。これが貴族の子弟であればまた違うのだろうけれども。


「どうぞ、お飲みなさい。飲み干してもまだおかわりがありますからね」


ソトラストの言葉に、ちらりと神官に目を向けながらフィスはカップに手を伸ばす。

再び、小さく神官の口の端があがるのが見えて、ああ、と内心思った。


幼いころからほとんど意識せず当たり前のように、口にするものには魔法を使ってきた。泥水には浄化を、毒には解毒を。


そうしなければならなかったこともあるし、そのおかげで、食べ物に困ることはなかったともいえる。


少し古くなった匂いにぱちぱちと目を瞬いたが、浄化と解毒の魔法で、コップに注がれたミルクは無害となる。

こくりと飲みながらちらりと神官を見ると、その目が面白くて仕方がないとばかりにフィスを見ていた。


「さて、この子は大神殿の救護院に当面の間、面倒を見てもらうようにしましょう」

「ソトラスト様。この子供をわざわざ王都まで連れてこられたのは、どのような理由によるものか伺ってもよろしいでしょうか」


ミルクを運んできたシグイド神官は貴族の出身で、プライドが高い。そして、神官長の腹心でもある。

神殿と言えど、勢力争いもあれば、派閥もある。ソトラストは、にこりと微笑んでシグイドに半歩近づく。


「シグイド神官、実は君だけに話しておきたいことがあるのですが、ここだけの話にしてくれますか?」

「もちろんでございます」


少しばかり声を小さくしたソトラストに、シグイドが心得顔で少しばかり近づく。フィスのことは、居ても居なくても変わりないと思っているのか、全く気にする様子がない。


「優秀なあなただから相談したいことなのですが、実はこの子の魔力が高いのではないかと思って、連れてきたのですよ。ですが、これを見てくれますか?」


きっとお芝居なのだろうな、と思いながらフィスはソトラストの動きの一部始終を眺める。

いかにも秘密だと言わんばかりに、テーブルに置いてあった先ほどの色の薄いキューブを手に取った。


「それなりに魔力はあるようだが、このように属性も薄いじゃありませんか。とんだ見間違いでこの子を連れてきてしまったと思っていたところなのです」

「なんと!そのようなご事情でしたか。意外でございました。ソトラスト様ほどの方でもそのようなことがあるのですね」

「お恥ずかしい限りですよ。そろそろ私も引退しろという事でしょうかね?」

「とんでもございません。ソトラスト大神官様の代わりになる者など、今の神殿にはおりませんでしょう」


どこか優越感を漂わせて、頭を下げたシグイド神官は、自分だけが知る、ソトラストの失態に満足したらしい。


黙って二人の会話を聞いていたフィスにとっては茶番もいいところだが、余計な口は挟まない。大人しくミルクを飲んでいるだけだ。


「それではソトラスト様。この子は視察に同行されていたカルバド神官が王都に戻る途中で見かねて連れてきた子という事に致しましょう。ソトラスト様のお許しをいただいて大神殿の救護院に預けることをお許しいただけますでしょうか」

「どうもありがとう。神に仕える者として、シグイド神官の心優しき行いに感謝を」


微笑みと共にソトラストは胸の前で両手を合わせた。手のひらを返したようにフィスに微笑みかけたシグイドは、フィスをソファから立たせる。


「では、改めて救護院の方へ連れてまいりましょう」

「お手数をかけて申し訳ないですね。これは、私からロフレスカ院長への手紙です。よろしくと伝えてください」

「承知いたしました」


シグイドに腕を引かれて立ち上がったフィスの目は、ソトラストに向かっている。屈みこんだソトラストはフィスの手にそっとキューブを握らせた。


正直なところ、フィスはどうしてこの人が自分に声をかけてここまで連れてきたのか、よくわからない。ただ、今までフィスを救護院に連れて行こうとした人の誰とも違う事だけは確かである。


それを信用していいのかどうかわからないが、ここまで来たからにはしばらくいう事を聞くしかない。どうしても嫌であれば、救護院から抜け出せばいいだろう。


立ち上がったフィスは、ソトラストに向かって頭を下げた。


「神官様。どうもありがとうございます」

「いや、ここに来たことが君の為になることを祈りましょう。しばらくの間、救護院で過ごしてください。また時間をみて話す機会を持ちましょうね」


ソトラストの言葉に頷いたフィスはそれから一年ほど、王都大神殿の救護院に身を寄せることになった。

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