第3話 一人きりのフィス
支度を済ませて兵舎を出たフィスは、王都の北門に向かった。薬草採取といっているが、その場所は王都から出た先の森の中にある。
隊長室に持ち込んだのと同じかごを抱えて北門を出れば、街道を行くのは商人や旅人、ギルドの冒険者たちだ。
それに紛れて、ローブを羽織ってはいるがかご一つだけで歩いていくのは珍しい。ただ、それだけで足止めされたりすることはない。ぞろぞろと北門を出ていく中で、皆フィスから離れるように移動していくが、フィスは気にすることなく歩いていく。
近くの森ならばそれほど危険はない。
せいぜい、盗賊か、そんなようなものだ。
整備された街道も、王都を離れるとただの道になる。馬車を借りるまでもない。歩いていくと、街道の周りにも木立が増え、見通しが悪い場所もちらほらと出てくる。
フィスは慣れた足取りでそのまま街道を進み、途中から木立の中に進んでいく。
深呼吸すれば新鮮な空気が肺に入り、心が軽くなる。森の入り口はすぐそこだ。慣れた空気がフィスを迎え入れる。
フィスは当たり前のように森の中に足を踏み入れた。周囲の木々が生い茂り、鳥のさえずりが聞こえる。
森の中の一部の場所に人を避ける結界の魔法がかけられており、フィス以外の者はこの場所に足を踏み入れることはない。
見知った場所までくると、足を止めた。
手のひらを広げて、魔力を集める。手のひらの上がほんのりと温かくなるのを感じて、薄く目を伏せる。
「スピリットガード」
静かに呪文を唱えると、手の上から小さな球が浮き上がり、淡い青色の光を放ち始めた。光がフィスの周りに広がり、森の木々や草花に浸透していく。人を避ける結界の魔法を施してあるとは言っても、時折迷い込む人がいないわけではない。
フィスがここにいる時は安全に過ごすことができるように、他人の意識がこの辺りに向かないように保護するための魔法だ。
光が周囲に散っていった森の中は、まるで別世界のようだ。
高い木々が空を覆い、陽の光が葉の隙間からこぼれ落ちている。足元には苔が一面に広がり、しっとりとした感触が靴越しに伝わってくる中を歩き続ける。遠くには小川のせせらぎが聞こえ、その音が静寂を一層深めていた。
王城や兵舎とは別世界のような静寂に、フィスは思わず足を止めた。
風がそよぐと、木々の葉がささやくように揺れ、鳥たちのさえずりに、流れていく風に含んだ緑の匂い。
歩き出したフィスは周囲の薬草に目を凝らす。自覚がないまま、幼い頃から薬草を見分ける目、知識があった。
歩きながら目についた薬草に手を伸ばす。白い花を持つ薬草を手に取った。これは傷を癒すための薬草だ。
次に、黄色い花を持つ薬草も茎ごとかごに入れる。これは毒素を中和する効果があるものだ。
王都に来て、救護院を出た後、フィスが住んでいたこの森の中には様々な薬草が生えている。それぞれの薬草の特徴を思い出しながら、調合する薬草茶を思い浮かべた。
緑色の葉が大きく広がった薬草は、炎症を抑える効果がある。また、青い花を持つ薬草は、鎮静作用があることで知られている。かごの中に次々と入れながら、足を向ける先は小さな小屋がある場所だ。
かごの中に薬草がいっぱいになる頃、フィスは久しぶりの小屋に近づいた。人を避ける結界の魔法がまだ効いているかを確認する。近づけば魔法印が変わらず、扉に輝いているのを見て、ほっとする。
小屋の扉を開け、中に入ると、木の香りが溢れでてくる。
幼いフィスが、この小屋に住んでいたのは救護院を出た後から高等学院に入るまでの期間だ。そう短くない間、ここで一人で働いて暮らしながら、定期的に救護院を訪ねる。それがフィスの日々だった。
扉を開けたまま、窓も開けて風魔法で部屋の中にこもった空気と埃を吹き払う。しばらくそのままにして、水魔法で新しい水を貯める。
さっと、テーブルを拭き清めると、お茶の道具を出して火を起こした。
扉を閉めてから、壁にかかっていた浅いかごの上に、摘んできた薬草を広げる。お湯が沸くまでの間に、風魔法と水魔法を使って薬草を綺麗にして、よく乾かす。
その間に小屋に置いてあった薬草を使ってお茶を淹れた。静寂の中で、火のパチパチという音が響く。
小屋の中は、まるで時間が止まったかのように静かだった。
どれほど自分のものだけが置いてあって、自分の部屋だとしても、兵舎の部屋で完全に気を抜くことはない。学院の寮にいた時も同じだ。
すぐそばに誰かがいることにどこまでも慣れないでいる。
誰かがいれば、誰かと関わることになり、誰かの手を借りたり、貸したりすることが出てくるかもしれない。そうなれば、天秤はどちらかに傾いてしまう。
外にいて気を張っているよりも、誰もいないここにいる時が一番、ほっとする。
学院にいた頃は、長期の休みにならないと帰ってこられなかったが、今は時間があれば来ることができるのがありがたい。
その分、なかなか泊ることができる日も少ないのが残念なところなのだが、それでも息抜きに戻れるのは嬉しい。
一息ついてから、小屋に乾燥させてあった薬草を使って薬草茶を作りはじめた。
小分けにする作業は兵舎で行うことにして、大きな袋を取り出して薬草茶を詰める。
新しい薬草は乾かしたまま、種類ごとに分けて小屋の壁に吊るしておく。
一呼吸おいて、部屋の奥にあるベッドに近づくと、そのままどさりと横になる。
馴染んだ薬草の匂いと、横になった時に目に入る景色に体中の力が抜けた。
ずっと、この小屋で薬草を摘みながら一生を過ごすこともできたかもしれない。だが、フィスは魔導士になるために学院に入り、そして騎士団に入った。
騎士団に入るには、まず学院を卒業する必要があった。フィスには既に多くの知識があったが、学院では欠けた部分を埋めるために通った。
学院では首席も余裕ではあったが、目立たないようにあえて手を抜いた。上位に留まる程度で、誰とも親しくなりすぎないよう努めていた。
何か手を借りることがあれば、必ず礼を返す。手を貸すことも同じだ。身を切るような手助けはしない。
厄介者だと思われても、実力が見合えば騎士団に入ることはできる。無理をして親しくならなくても問題はない。
学院の卒業と同時に騎士団への入団が認められた時は、ようやくかとほっとした。
魔力を使って生きるのなら、それなりに大義名分があって自由に使える方がいい。
騎士団に入ればただの平民なら、不利になることもあるが、実力が認められれば、貴族の養子とまではいかなくても貴族の後見を得られることもある。
身寄りのないフィスが、ある程度の自由とある程度の我儘さと、ある程度の平穏さを手に入れるならどうするべきか。育て親に近しい人たちの言葉と、頭の中にある知識で、考えた結果の騎士団であり、魔導士である。
ここからは今まで以上に慎重に、考えて、選んでいかなければならない。
ふと、高くない天井を見上げながら自分の手を伸ばした。
「……こんな時に親がいれば、何か違ったのかな」
どういう人たちなのか。
今も生きているのか。
どんな理由があって離れ離れになったのか。
時々思い出したように頭に浮かぶ。恨んでいるわけでもなく、会いたいと思うこともないが、ただ不思議なのだ。
育てられないとばかりに捨てられたのか。
それとも、それなりの家ではばかられる子供だったのか。
フィスの髪と目の色はとても薄くてミルクティのような色だ。
この国では、ほとんどの平民は髪色も瞳の色も濃い。それに対して貴族は魔力量に比例するように、色素が薄い場合が多い。まれに、色素が濃い場合もあるが、その者は魔力量が低いことが多く、平民でも魔力量が多い者は色素が薄い。
それだけに、フィスのミルクティのような薄い茶色は魔力量が高いことを表しているようなものだ。
「平民で……色が薄かったから危ないと思われたかな」
誰が聞くわけでもない呟きは、小屋の中だからこそ出てくる。
平民で色が薄いと思えば、貴族から目を付けられることも多い。子供を手に入れるために無理を言われたか、面倒を嫌って捨てられたか。
少なくとも守るためにという理由でまだ幼い子供を一人にするのは、よほど安全な環境に置かれない限りない。
そう考えると捨てられたか、親が亡くなったかの二つに一つだろう。
フィスが知識として知る世界にはそういう事もあった。
理不尽な扱いや、政治的な理由だけで望まぬ立場を強いられる者、搾取されるだけされた挙句、使い捨てられる者。
顔も存在も知らない親の想いとは違うかもしれないが、少なくとも自分は思う限り、できる限りの範囲でいいから自由に、平穏に暮らしたい。
誰かを必要以上に信じることもなくていい。
自分を動かすために、身近な人が危険な目にあうような、理不尽な目に遭うこともいらない。
そのために、孤独でいなければならないとしたら、それは望むところだ。
どこか負けず嫌いなところだけはどうしても捨てきれない分、人に振り回されることなく一人静かに生きたい。
「何にせよ、早く見習いは卒業したいな」
ポツリと呟いた後、勢いよくフィスはベッドから身を起こした。
「よし!暗くなる前に戻ろう」
自分自身に喝を入れるように声に出す。起き上がったフィスは、作り終わった薬草茶と薬草の袋をかごに詰めて、部屋の中を片付け始めた。
新しい水で部屋の中をもう一度拭き清めて、風魔法でからりと乾かす。
小さな暖炉の中でぱちぱちと音をさせている火を見ると、どうしても離れがたいが、それを振り切るように水瓶に残った水をかけて火を消した。
お茶の道具も片付けて、最後に窓を閉めて小屋の中が来た時と同じくらいすっきりと片付いたのを確かめると、フィスはローブを肩に羽織り、かごを手に持った。
「じゃあ、いくね」
誰にともなく、そう呟いてフィスは扉を開けた。
* * *
王城は一つの建物ではなく、王宮を囲むようにいくつかの建物が点在している。兵舎に最も近い門からフィスが戻ると、少し早い夕食に食堂に向かう者がちらほらと動いているのが見えた。
「よう、フィス。外出帰りか?」
自分の部屋に向かうフィスを見かけ、ルキウスが足を止めた。
「はい。あまり遅くなるよりはよいかと思いまして」
「お前、真面目だなぁ。夕飯、一緒にどうだ?」
「いえ、私は後でいただくので結構です。リンフェルド先輩」
騎士団では貴族、平民問わず、が基本である。当然、話し方も同様でルキウスはリンフェルド子爵家の次男だ。フィスの方は基本的に誰に対しても変わらないのだが。
眉をひそめたルキウスは、腕を組んでフィスの前に立つ。
「……俺のことはルキウスでいいって何度も言ってるだろ?」
「ありがたいですが、私は平民でしかもまだ見習いですから」
「それ、こっちがいいって言ってんのになぁ……」
ルキウスは弓騎士の一人で、明るくて気さくな先輩だ。淡いピンク色の巻き毛をいつも気にしていて、モテるためには必要だと、いつも小さな鏡を持ち歩いている。
長身が多い騎士団らしく、ルキウスも背が高い。しょんぼりと項垂れた姿は小さな子供のように見えた。
「……なんというか、申し訳ないです」
「申し訳ないっていうなら、名前で呼べ!畏まるな!」
「なんとも、申し訳ない限りで……」
「だから……っ」
申し訳ないと言いながらも決して折れないフィスに、苛立ったのか、ルキウスは巻き毛が乱れるのも気にせず、ぐしゃぐしゃと頭を掻きまわした。
一部の者はフィスが平民であることや、遅れて入隊したことから軽んじる向きもあるが、ルキウスはその正反対だ。
新人が来たら自ら声をかけて、早く隊に馴染めるように気を配る。フィスよりも三か月先に入った新入隊員たちは、もうすでにルキウスを介して先輩たちとも気安く飲みに行ったり、声を掛け合うようになっていた。
ところが、一番遅く入ってきたフィスは、話しかけても最低限の受け答えしかしない。そもそも、いまだに一緒に食事をすることさえないのだ。
隊の若手の中では誰とでも打ち解けていると自負していたルキウスにとって、フィスは難関として立ちはだかっている状態なことが我慢ならないらしい。
「……もういい。先輩命令だ。お前、これから一緒に食事だ」
「私は後でいただくと申し上げましたが……」
「それでも先輩命令だ。いつ食べても一緒だろ」
しびれを切らしたルキウスがきつめに言うと、フィスはしばらく考え込んだ。
一緒に食事をするのはかまわない。今行くのか、後で行くのかはさておき、夕食はとるのだ。ルキウスと一緒に行ったとしても、結果に変わりはない。
ルキウスに関わりたくはないが、彼が良かれと思って声をかけていることはわかっている。
自分の中でそんな整理が終わると、そのまま向きを変えて歩き出す。
「お、おい」
「食堂に行く前に荷物を置いてきます」
ルキウスは、折に触れて声をかけてくる先輩の一人で、これからもフィスに関わろうとするだろう。それなら一度、一緒に食堂に行くことである程度の満足してくれるかもしれない。
そうであってほしい、という願望と共に自分の部屋に荷物を置いてきたフィスが戻ってくると、ルキウスは目を瞬かせた。
「お前、本当に真面目なんだな」
「どういう意味ですか?」
「いや、こっちの話。じゃあ行くか」
先に立って歩き出したルキウスの顔は見えないが、半歩遅れて歩くフィスからは、ほんの少しだけ赤くなった耳が見えた。それが照れなのか、嬉しいからなのかはわからないが、多少なりともルキウスが満足したことは間違いなさそうだ。
食堂に入ると、フィスが戻ってきたときに見かけたよりは隊員たちがいたようだ。広い食堂の三分の一くらいは、席が埋まっている。フィスはいつも、人の多い時間を極力避けているので、人に会うことはほとんどない。
滅多にみない食堂のざわめきにすうっと目を細めた。
「え……」
「あいつ、珍しいな」
ひそひそと聞こえる声に、ルキウスの方がそわそわする。
「あー……、その、フィス」
無理矢理引っ張ってきておいていうのもおかしいが、食堂の様子にルキウスは急に罪悪感が湧いてくる。フィスが食堂にいるのを滅多に見かけたことがないからだ。
フィスが利用する時間に他の騎士と会わない分、他の騎士たちもこれだけ驚いてざわざわするのだろう。それを知らないルキウスからすると、落ち着かないのだろう。
だが、フィスにとっては予想できた反応なので、少しも気にせず淡々と、列に並んだ。
「リンフェルド先輩、お先にどうぞ」
「お、おう」
ルキウスに先を譲る。兵舎の食堂は、カウンターに並び、メニューを受け取って各自が好きな席に座るしくみで、ある程度決まったメニューから好きなものを選べばよい。
自分に向かう視線をチクチクと感じているフィスはひたすら胸のうちで呟き続けている。
なぜなら、朝食も昼食も規則的に取っている。
夕食だけは、外に出た日はとらないことが多いだけで、食堂をありがたく活用させてもらっているのだ。
その証拠に、食堂で働いている職員たちはフィスを見ても驚いてはいない。
ただ人の少ない時間を選んでいるだけの話なのだ。
ただそれだけなのに、お化けでも見たような反応はどうなのか。
軽いサラダと肉団子の入ったスープを選び、最後にほとんどの者がアルコールを選ぶところで、フィスは一人お茶を選んだ。
コーヒーや紅茶は、だいたい貴族のお茶の時間に出されるものか、平民用でも少し高めの店の食後に出てくるものである。騎士団では一応用意されているが、ほとんどの者が選ばないので、今ではフィス専用と言っていいくらいなのだ。
「フィス!こっちこっち」
先に席を取ったルキウスに呼ばれてテーブルに向かうと、その周りを同期の騎士たちが取り囲んでいた。
「皆お前と話したいってさ。いいだろ?」
自分だけでなく、他の若手騎士たちもいればでフィスが一人でも多くの仲間と言葉を交わせるだろう、と思っていることがすべて顔に出ているルキウスだ。
嬉しくて食事を運んできたフィスを手招きしたが、それを見たフィスの足取りは少しだけ重くなる。
「……どうも」
腰を下ろしたフィスに向かって、同期たちが少しずつ席を詰めてくる。
「やはり、入隊したからには隊に馴染むのも仕事の一つだしな」
「ルキウス先輩、まだまだ俺たちのことも面倒見てくださいよ」
周りにいた同期たちがフィスを囲む中、嬉しくて仕方がないルキウスは笑顔でいっぱいだ。自分がフィスを誘ったことも、フィスと三か月違いとはいえ同期たちが仲良くなるきっかけができたことも、とにかくよかった。
珍しいことが重なったわけだがなんであれ、いいことに変わりはないのだ。
「どうだ?こうして皆で一緒に食べるのもいいだろ?」
「……リンフェルド先輩。お腹が空いていらっしゃるのでしょう。召し上がってください」
「ああ。お前も食べろよ」
フィスも喜んでいる、と勝手に思い込んだルキウスは、目の前に食事に手を伸ばす。その隣で周りにいた同期たちの中からすっと手が伸びてきて、フィスの皿に何かを乗せた。
「フィス、それ、足りないだろ。これも食べろよ」
にやにやと笑っている同期たちの様子はテーブルに近づいてくる間に気付いていた。
同期の中で魔導士はフィスだけである。三か月遅れて入団したフィスに、他の同期があまり良い感情を抱いていないことを、ルキウスは気づいていなかった。
同じ学院時代を知る、天秤計りの魔導士、というただ厄介な者として見ているに過ぎないのだ。
皿に乗せられたのは、料理に添えられる飾り用の葉であって、香りづけだけで食用ではない。それをサラダにたっぷり一掴みは乗せられている。
ちょっとしたからかいのつもりなのだろうが、この葉は食べるとひどく腹を壊す。
食べろと皿にのせられたそれを見て、フィスは少しも迷うことなくフォークを手にして、一口分をすくいあげる。
「え……っ」
小さい驚きの声が聞こえたが、かまわず口に入れる。サラダの皿からすくい上げたトマトとチーズの間に鋭い苦みが広がる。
驚いて、顔を見合わせた同期たちが急に黙り込んだことで、ルキウスが不思議そうに顔を上げた。
「どうした?」
ルキウスの問いに、同期たちは視線をそらし、フィスは無言でサラダを食べ続けた。こんな悪ふざけに怒っても無駄である。一番賢明なのは、何事もなかったかのように振る舞うことだ。
こんなこと、くだらない。
天秤の傾きが崩れれば、余計に厄介事を呼び込む。そんなことに関わるのは御免だ。
それならば、この程度、後になって薬草茶を飲むか、治癒魔法をかければ済む話だ。
それに、彼らは知らないがフィスの腕につけている保護魔法のかかった腕輪がほんのり温かくなっていて、きちんと毒素を打ち消しているのも分かっている。構わずに、さっさと食べ終えるのが一番だ。
「あ、いや……」
「えと……、ルキウス先輩たちが召し上がっていらっしゃるので、その、邪魔してしまうかなと……なぁ?」
気まずいのか、しどろもどろに言い訳をする同期をちらりと見て、フィスは無言を通す。大事にするつもりはないが、口に入るもの、食堂で働く人々その他もろもろへの敬意がないことだけは腹が立つ。
兵舎の食堂で出るものは基本、無料である。
いくら食べようと給料が減るわけでもなく、食べなかったからと言って給料が多くなるわけでもない。だからといって、口に入るものに対して何かをするということは、作ってくれた人や、食材を手配した人たちすべてに対して感謝の心がない。
小さい頃から一人で暮らしてきたフィスにとって、雑草しか口に入るものがない時もあった。それでも食べられるだけありがたいと思った。
魔法があれば腹を壊すことも対処できるし、無毒化もできる。薬草を集めて、それで食べるものと交換して食いつなぐことができるようになっても、それは変わらず、手に入るものへの感謝がある。
だいたい、ここで食事に何かした場合、食堂のスタッフにも迷惑がかかると思わないのだろうか。
食べ進めるうちに、フィスはますます腹立たしくなり、心の中で文句が止まらなかった。
同期のしたことにも、フィスが腹を立てていることにも気が付かないルキウスは、きょとんとした顔をしている。
「変なやつらだな。なあ、フィス?」
「さあ。自分はよくわかりませんが」
苦みを飲み下しながら周りを見ると、一様に皆視線を外した。
胸の奥で何かが軋む。
天秤が傾けば、悪い結果を招く。
こういう時は正そうとしても、変わらない場合がほとんどだ。
全く、面倒この上ないとはこのことだ。
「わからないってなんだよ、お前、もう少し仲間と交流しろ?」
まったく気づく様子がないルキウスに目を向ける。気のいい先輩だとは思っているが、もう少し周りの様子にも目を向けるべきじゃないだろうか。
「ん?なんだ?」
「先輩は、騎士団の皆さんと仲がいいですが、それでいいことがあるんですか?」
「そりゃ、色々あるだろ。くだらない話でも男同士、交流を深めると気心が知れる。それで仕事がやりやすくなるとかあるだろ」
ルキウスの性分からしても、腹芸のようなことよりも、騎士団で脳筋と言われそうな交流が合うのだろう。
なるほど、と思いはしても同意をすることもできなければ共感もない。
まあ、そういう考えもあるのはわかる程度だ。
「交流しないと、仕事はできませんか」
「いや、そういうことはないけど、圧倒的にやりやすさは違うだろ?」
「さあ……。あまりやりづらいと思ったことがないので違いがよくわかりません」
「それはな。お前が仲間に打ち解けてないからだろ?腹割って話せば違うって」
友人も、気心が知れた相手も。
いればいいということではない。
「先輩の意見には同意はしかねますが、一つの考え方としては理解します」
「……理解って……。お前は真面目というか、固いというか……。もう少し柔らかくなれないのか?」
「柔らかい、というのはどういうことでしょうか」
自分の天秤が水平でないときは、必ず後悔する。それは絶対にしないと決めているのだ。
話をしながら口に運んでいたからか、苦みはそれほど気にせずに皿を空にできた。スープを口直しのように流し込んで、胃のあたりがすでにいっぱいになっているのを感じる。
後は早く自室に戻って薬草茶を飲みたいところだ。
ルキウスの方は、話をしながら食べているからか、まだ三分の一は残っているが、それを待つまではしなくていいだろう。
席を立つタイミングを見計らっていると、頭の上から声が降ってきた。
「珍しい顔ぶれだな?」
ラウヴァルトがフィスの背後に立っていた。
といっても、フィスは少し前から近づいてくる気配に気がついていて、慌てているのはルキウスと新人たちである。
「ラウ先輩っ!」
「相変わらず新人を構いたがるなぁ、ルキウス」
穏やかな声だが、じっとりと重い圧を感じる。フィスの椅子の背に片腕をかけて隣に座るルキウスに圧をかけるのはやめてほしいと思う。
そろそろ席を立って自分の部屋に帰ろうと思っていたところなのだ。
遠回しな言い回しに鈍いルキウスは、額面通りにラウの言葉を受け取って、素直に反応する。
「いいじゃないですか!俺も新人の時に先輩たちに構ってもらったんで、俺もそれを継いでいきたいんですよ」
余計なおせっかいもほどほどにしろ、というラウの言葉の意味に気付かないルキウスは、さすがに貴族の子弟として、大丈夫かと言いたくなる。
だが、ここで余計な口を出すことはしない。もうすでに今日はラウヴァルトと十分すぎるくらい、関わっている。
「へーえ……?」
ラウヴァルトは、背後で同期たち一人一人と目線を合わせているのだろう。
フィスからは見えていないが、同期たちの顔色がみるみる青ざめていく。
「俺としては、ただ“仲良く”してるだけなら構わないが。なあ、フィス。お前はどうなんだ?」
「……さあ。自分に聞かれましても困ります」
これは一連の悪ふざけを見ていて、近づいてきたのだろう。大事になられても困るので、早々に席を立つ方へ舵をきることにする。
「リンフェルド先輩にお誘いいただいて、夕食を取っただけです」
「別に、お前は望んできたわけじゃないってことでいいんだな?」
せっかく、切りかけた話の流れを強引に引き戻してくるラウヴァルトに困惑する。
どう答えたものかと思っていると、素直なルキウスがさらに追い打ちをかけてくれた。
「ラウ先輩!フィスもこうして同期と交流することは大事だと思っていますって。楽しんでるよな、フィス?」
夕飯に付き合わされ、悪ふざけをされ、話題も特になく、ただ周囲の話を聞く。これのどこに楽しい要素があるというのか。
ルキウスから引き出した一言を、ラウヴァルトはどう思って聞いているのだろうか。これ以上の面倒はいらない。
何も知らないとばかりにフィスは応える。
「自分は夕食をとっていただけですから、リンフェルド先輩や皆が楽しんでいたのならいいのではありませんか?」
「おい、フィス?!」
「なるほど。お前は関係ないよな」
ただでさえ、食堂中の注目が集まっていたのに、ラウのおかげでますます注目が集まってしまった。何かあるのかと、立ち上がって様子をうかがう者も出てきたくらいである。
軽く咳をして、椅子を動かしたフィスは背後を振り返る。
「ラウヴァルト先輩、食べ終わったので片付けたいのですがよろしいですか」
「よろしくはないけども?」
穏やかな口調だが、ラウヴァルトも腹を立てているらしい。
フィスにとって、これがわからないから一番困る。ラウヴァルトが親しくしているわけでもないフィスが悪戯されたとしても、それに腹をたてる理由がわからない。
ただ穏便に済ませたい。
それだけを考えて、フィスは立ち上がった。
「ラウヴァルト先輩、自分は夕食の前に戻ったばかりで部屋に採取してきたばかりの薬草を置いたままにしております。早くそれらを片付けたいので、失礼したいです」
「それは悪かったな」
悪かった、と言っているのに椅子を押さえたままその場を動こうとしない。
こうなったら、きっぱり言い切って動くのが一番だ。貴族の子弟のわりに、騎士団にいるときのラウヴァルトは口も悪く、態度に圧がある。
丁寧にフィスは頭を下げて椅子を押す手に力を入れた。
「ありがとうございます、先輩。お先に失礼します」
振り返って見上げたフィスの前に、ラウがフィスに合わせてその背をかがめた。少し伏せた金髪がさらりと落ちて、目元を覆う。
「……俺は騎士にあるまじきと思うがいいのか?」
低いささやきを拾って、フィスは表情を変えずに当たり障りのない答えを繰り返す。
「自分は薬草の処理をしたいです」
「そうか……。邪魔をしたようですまなかった」
ぱっと椅子を押さえていた手が離れる。本当にすまなかったと思っているようで、ようやく通してくれた。
どうぞ、と促す手に頭を下げて、ようやくフィスはその場から離れることができた。だから、その後のことなど知らない。
一人離れていったフィスが食堂から姿を消した後、ラウはそのままフィスが座っていた椅子に腰を下ろした。
「ところで……」
自分たちも離れようとしていた新人たちに微笑みと共に圧がかかる。
「お前たち、あいつと同期だったよな?」
「は、はい」
「お前たちは、騎士なんだよな?」
一斉に下を向いた新人たちに、地獄の魔王のような一言が降ってくる。
「騎士というのは、同期の騎士にたとえふざけるにせよ、食べてはならないものを食べるように強いることを是とするのか、よく聞かせてもらおうか」
新人たちの沈黙と、怪訝な顔を向けるルキウスと、怒りの圧と重奏は何とも言えない空間である。この後、彼らに何があったのか、フィスの耳に入ることはなかった。
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