第4話 騎士の本分とフィス

兵舎の自室で眠りについていたフィスは、深く寝入っているつもりで記憶の海を漂っていた。


人は、膨大な知識を記憶ができるのではないかと言われている。生まれてから死ぬまでの間、経験を含めて多くの知識を得て、それを活かしていくからだ。


そうはいっても、大多数の人は新しい知識や経験をすることで、過去を忘れていくものである。だが、時にはそれを忘れない人がいることも事実だ。


本当に忘れるわけではなく、ただ、記憶の奥底に沈み込んでいるだけなのだ。


夢の中のフィスは、見知らぬ場所を歩いていた。豪勢な邸の廊下だろうか。

歩いているのに、床を踏みしめている感覚が弱い。ふわふわした柔らかな絨毯の上をつま先だけで歩いているような。


不安定なはずなのに、よろけることもなく裾さばきも優雅に歩く自分が信じられなかったが、不思議と違和感はない。今、目が覚めてもできるような気がする。


「……、……」


誰かに呼び止められた気がして、足を止める。振り返るよりも先に、自分の意志とは別に体が引っ張られる。


「……」

相手の顔を見たような。

相手は誰だったのか。


わかるより先にぐるりと見えているものが渦をまく。


水の中に溶けることもなく沈んだ粉の様に、かき混ぜれば水に浮かんで渦を巻き、時間がたてば渦は静まり、水の底に沈み込んでいく。


代わりに浮かび上がってきたのはがらりと違う景色だ。


「……!……、……!!」

誰かが叫んでいる気がする。

森の中なのか、山の中なのか。周りは木で囲まれている。


決して人が多くいるような場所には思えないのに、周りには多くの人がいて、剣や槍をふるっている。


その光景をみて、フィスは見たこともないはずなのに、すぐに理解する。

魔獣と戦っているのだと。


まわりにいる者たちは騎士だろうか。冒険者だろうか。

身なりからして、おそらく騎士なのだろう。同じような鎧を身に着けており、年齢や腕もバラバラに見えた。


皆が同じ方向を見ていることで、無意識にそちらに目が行く。


夜ならば、暗闇に紛れてしまいそうだが、大きなうろこの魔獣はのっそりと鎌首をもたげた。鳴き声などないはずなのに、吐き出す息でまるで威嚇するような鳴き声のような音がする。


「……!」


背後から次々と矢が飛んでくる。レンガ色の魔獣である、蛇は頭の高さが木の高さと同じくらいにあり、周りにいた者たちは皆それを見上げた。


飛んできた矢は、まっすぐに蛇にあたってもほとんどが刺さることもなく跳ね返って落ちてくる。蛇の目や口に向かった矢は、その頭の一振りで叩き落された。


いくら、矢じりを強化していても、岩蛇の外皮は固すぎて、剣や槍で全力で当たらなければほとんどダメージを与えることはできない。


ぼんやりと、フィスはその外皮の堅さを感心してしまう。図鑑で見た堅さを目の当たりにして、どの程度なのか、ようやくわかった気がする。


深い、深いため息が出る。

魔法で火の魔法で熱と、氷魔法で急激な冷却をすれば。


再び、ぐるりと視点が変わる。

せっせと、摘んできて干した薬草を引いている。


「……、…………?」


誰かと話しているのだろうか。

ひどく楽しい気分だとわかる。


薬草を引いて、ポーションや薬を作ることが楽しいのではなく、どうやら違う理由らしいことがわかってくる。おそらく、話し相手がいるからなのか、楽しい相手だからなのか。


「…………」


話している内容はわからないのに、なぜだかその気分だけが分かる。自分が作った薬で、相手が元気になったからだ。

その薬は簡単なものではない。並の薬師では到底作れない薬をようやく作り出せたこと、それが相手を元気にできたのだから、嬉しいはずだ。


そうだった。

薬草の知識は……。


「……っぁ」


大きく息を吸い込んだフィスは手を伸ばそうとして、はっと目を覚ました。自分ではない誰かの記憶が、再び沈み込んでいく。


あの話し相手は誰だったのか。

思い出そうとして頭に手を当てた。


まるでリアルな舞台を見ていたような気がする。視点はその場にいたような感覚なのに、物語を眺めているような、実感のなさは夢だからだろうか。


ゆっくりと起き上がると、暗い部屋の中はいつもと変わりがない。

ただ、ひどく頭が疲れていた。


たくさん夢を見ていた気がするのに、夢の中身は覚えていない。それでもひどく疲れていて、起き上がったフィスは、枕元に用意してある水差しから水を注いで一気に流し込んだ。


「……目が覚めちゃったな」


一度起きてしまうと、なかなかもう一度寝るのは難しい。このじっとりとまとわりつくような疲労感のせいだ。


ため息をついて諦めるのが一番である。


窓辺に灯りを灯して、クローゼットからローブを引っ張り出した。

裏側にまだ途中だった刺繍の続きをするために針を持つ。背中いっぱいの魔法陣だ。すべてを隠し、守りを固めるためにはいくつあっても足りないことはないと思って始めた防御魔法である。


何も考えずに手を動かしていれば、気もまぎれる。

前側の小さな魔法陣に針を刺し始めた。


ローブに刺す針は、誰に教わったものでもないはずなのにきれいな刺繍になっている。これも、フィスの中にある膨大な記憶のおかげだ。


自分の服を繕うことくらいしか必要に迫られてこなかったはずなのに、針を手にしてこうしたい、と思えばどうすればそれができるのかわかる。


だがそれは、誰にも知られてはいけない。


一針、一針、ローブと同じ色の糸を下絵代わりに描いていた、薄い跡をたどる様に通していく。よくよく近くで見なければわからないが、大きな魔法陣を外側から、回路を組み上げるように引いていく作業だ。

完成するまでは発動しないため、少しずつこうして眠れない夜に針を進めている。


明日は王城の警戒勤務だ。


普段より気を遣う勤務の日に寝不足なのは気が重いが、こればかりは仕方がない。早く夜が明けることを願いながら、フィスは淡々と針を動かし続けた。



* * *


「では、本日の勤務を交代いたします」

「引継ぎ、お受けいたします」


王城の中、今日から数日間、第四騎士団が王城の警備にあたる。その引継ぎである。各所で代表同士が挨拶を交わし、それぞれが持ち場に移動してさらに引継ぎを行う。


第一騎士団は王宮の警護、特に近衛騎士として王族の警護を担当する。黒か濃紺の騎士服ではなく、第一騎士団だけは白の騎士服である。


アルブレフトのいる第二騎士団は少し特殊で、諜報に重きを置いた仕事が中心である。そのため、四つの騎士団の中でも最も何を行っているのかわからないともいえるし、所属の騎士をほとんど見かけないというのも特徴である。


残った第三騎士団が王城の警備を中心とし、第四騎士団が討伐などのいわゆる外回りが多くなる。ただ、こればかりは同じ者たちが同じような仕事をするのは好ましくない面もあり、第三と第四の勤務が定期的に入れ替わる。


それが今日から数日間のことで、その間、第三騎士団は訓練や依頼が来れば討伐に出て、第四騎士団は王城の警備を続ける。


見習いであるフィスも、広い王城の警備には参加する。警備の場合は、一日中、昼も夜もなく、隊の中でそれぞれ三交代制だ。


魔導士のローブは王城では目立ちすぎるので、普通の黒の騎士服で持ち場に立った。


「お疲れ様です。本日の勤務を交代いたします」

「引き継ぎ、お受けいたします」


決まり文句で挨拶を交わすが、第三騎士団の騎士からは胡散臭そうな目を向けられてしまう。同じ区画が担当でも、持ち回りでいつも同じ相手と引き継ぐわけではない。


小柄で幼く見えるフ兵舎の自室で眠りについていたフィスは、深く寝入っているつもりで記憶の海を漂っていた。


人には、膨大な記憶が眠っていると言われている。生まれてから死ぬまでの間、経験を含めて多くの知識を得て、すべてを記憶していることを活かしながら生きていくからだ。


そうはいっても、大多数の人は新しい知識や経験をすることで、過去を忘れていくものである。だが、時にはそれを忘れない人がいることも事実だ。


本当に忘れるわけではなく、記憶の奥底に沈んでいるだけだ。


夢の中のフィスは、見知らぬ場所を歩いていた。どこかの貴族の豪勢な邸だろうか。

廊下らしい場所を歩いているのに、床を踏みしめている感覚が弱い。ふわふわした柔らかな絨毯の上を、つま先で歩いているような。


不安定なはずなのに、よろけることもなく裾さばきも優雅に歩く自分が信じられなかったが、不思議と違和感はない。今、目が覚めてもできるような気がする。


「……、……」


誰かに呼び止められた気がして、足を止める。振り返るよりも先に、自分の意志に反して体が引っ張られる。


「……」

相手の顔を見たような。

相手は誰だったのか。


わかるより先にぐるりと見えているものが渦をまく。


水の中に溶けることもなく沈んだ粉の様に、かき混ぜれば水に浮かんで渦を巻き、時間がたてば渦は静まり、水の底に沈み込んでいく。


代わりに浮かび上がってきたのはがらりと違う景色だ。


「……!……、……!!」

誰かが叫んでいる気がする。

森の中なのか、山の中なのか。周りは木で囲まれている。


決して人が多くいるような場所には思えないのに、周りには多くの人がいて、剣や槍をふるっている。


その光景をみて、フィスは見たこともないはずなのに、すぐに理解した。

魔獣と戦っているのだと。


まわりにいる者たちは騎士だろうか。冒険者だろうか。

身なりからして、騎士かもしれない。同じような鎧を身に着けており、年齢や戦い方もバラバラに見えた。


皆が同じ方向を見ていることで、無意識にそちらに目が行く。


夜ならば、暗闇に紛れてしまいそうだが、大きなうろこの魔獣は巨大な首をゆっくりと持ち上げた。鳴き声は聞こえないが、吐き出す息がまるで威嚇するような音を立てている。


「……!」


背後から次々と矢が飛んでくる。レンガ色の魔獣であり、しいて言えば大きな蛇と言えるだろうか。頭の高さが木の高さと同じくらいにあり、周りにいた者たちは皆それを見上げた。


飛んできた矢は、まっすぐに蛇にあたってもほとんどが刺さることもなく跳ね返って落ちてくる。蛇の目や口に向かった矢は、その頭の一振りで叩き落された。


いくら、矢を強化していても、魔獣の外皮は固すぎて、剣や槍で全力で当たらなければほとんどダメージを与えることはできない。


ぼんやりと、フィスはその外皮の堅さに感心してしまう。図鑑で見た堅さを目の当たりにして、夢で見ているのに実感としてようやくわかった気がする。


深い、深いため息が出る。

魔法で火の魔法の熱で炙り、氷魔法で急激な冷却をすれば。


再び、ぐるりと視点が変わる。

せっせと、摘んできて干した薬草を挽いている。


「……、…………?」


誰かと話しているのだろうか。

ひどく楽しい気分だとわかる。


薬草を引いて、ポーションや薬を作ることが楽しいのではなく、違う理由らしいことがわかってくる。おそらく、話し相手がいるからなのか、楽しい相手だからなのか。


「…………」


話している内容はわからないのに、なぜだかその気分だけが分かる。自分が作った薬で、相手が元気になったからだ。

その薬は簡単なものではない。並の薬師では到底作れない薬をようやく作り出せたこと、それが相手を元気にできたのだから、嬉しいのはよくわかる。


そうだった。

薬草の知識は……。


「……っぁ」


大きく息を吸い込んだフィスは手を伸ばそうとして、はっと目を覚ました。自分ではない誰かの記憶が、再び沈み込んでいく。


あの話し相手は誰だったのか。

思い出そうとして頭に手を当てた。


まるでリアルな芝居でも見ていたような気がする。視点はその場にいたような感覚なのに、物語を眺めているような、実感のなさは夢だからだろうか。


ゆっくりと起き上がると、暗い部屋の中はいつもと変わりがない。

ただ、ひどく頭が疲れていた。


たくさん夢を見ていた気がするのに、夢の中身は覚えていない。それでもやけに疲れていて、起き上がったフィスは、枕元に用意してある水差しから水を注いで一気に流し込んだ。


「……目が覚めちゃったな」


一度起きてしまうと、なかなかもう一度寝るのは難しい。このじっとりとまとわりつくような疲労感のせいだ。


こういう時は、ため息をついて諦めるのが一番である。


窓辺に灯りを灯して、クローゼットからローブを引っ張り出した。

裏側にまだ途中だった刺繍の続きをするために針を持つ。背中いっぱいの魔法陣だ。すべてを隠し、守りを固めるためにはいくつあっても足りないことはないと思って始めた防御魔法である。


何も考えずに手を動かしていれば、気もまぎれる。

前側の小さな魔法陣を作るために針を刺し始めた。


ローブに刺す針は、誰に教わったものでもないはずなのにきれいな刺繍になっている。これも、フィスの中にある膨大な記憶のおかげだ。


自分の服を繕うことくらいしか必要に迫られてこなかったはずなのに、針を手にしてこうしたい、と思えばどうすればそれができるのかわかる。


だがそれは、誰にも知られてはいけない。


一針、一針、ローブと同じ色の糸を下絵代わりに描いていた、薄い跡をたどる様に通していく。

よくよく近くで見なければわからないが、大きな魔法陣を、外側から回路を組み上げるように引いていく作業だ。

完成するまでは発動しないため、少しずつこうして眠れない夜に針を進めている。


明日は王城の警戒勤務だ。


普段より気を遣う勤務の日に寝不足なのは気が重いが、こればかりは仕方がない。早く夜が明けることを願いながら、フィスは淡々と針を動かし続けた。


* * *


「では、本日の勤務を交代いたします」

「引継ぎ、お受けいたします」


王城の中、今日から数日間、第四騎士団が王城の警備にあたる。

その引継ぎである。


各所で代表同士が挨拶を交わし、それぞれが持ち場に移動してさらに引継ぎを行う。第一騎士団は王宮の警護、特に近衛騎士として王族の警護を担当している。黒か濃紺の騎士服ではなく、第一騎士団だけは白の騎士服である。


第二騎士団は少し特殊で、諜報に重きを置いた仕事が中心である。そのため、四つの騎士団の中でも最も何を行っているのかわからないともいえるし、所属の騎士をほとんど見かけないというのも特徴である。


残った第三騎士団が王城の警備を中心とし、第四騎士団が討伐などのいわゆる外回りが多くなる。ただ、こればかりは同じ者が同じ仕事を続けるのは好ましくない面もあり、第三と第四の勤務が定期的に入れ替わる。


それが今日から数日間のことで、その間、第三騎士団は訓練や依頼が来れば討伐に出て、第四騎士団は王城の警備にあたる。


見習いであるフィスも、広い王城の警備に参加する。警備の場合は、一日中、昼も夜もなく、隊の中でそれぞれ三交代制だ。


魔導士のローブは王城では目立ちすぎるので、普通の黒の騎士服で持ち場に立った。


「お疲れ様です。本日の勤務を交代いたします」

「引き継ぎ、お受けいたします」


決まり文句で挨拶を交わすが、第三騎士団の騎士からは胡散臭そうな目を向けられてしまう。同じ区画が担当でも、持ち回りでいつも同じ相手と引き継ぐわけではない。


小柄で幼く見えるフィスが目の前に来ると、本当にこの相手でいいのかと、毎回のように疑わしげな目を向けられるのだ。


「まだ見習いの身ですが、精一杯務めさせていただきます」


この一言を添えると、だいたいが素直に「頑張ってください」と声をかけられて穏やかに終わる。今日も同様に、相手の騎士からは若い後輩を見る目に変わり、すれ違いざまに肩を軽くたたかれた。


少しだけ口角を上げて頷いたフィスは、持ち場につく。

今日は王城の中心に近い、議場のあたりが担当だ。中央に大会議場があり、その周りに中、小サイズの会議場がある。


どの部屋も盗聴防止の魔法が施されているが、その部屋を利用する上位貴族たちのほとんどは、自らも盗聴防止の魔法をかけているらしい。


ふかふかの絨毯の敷かれた廊下を一定時間回り、定位置で足を止める。メイドや、従者の姿がちらほら見えているところから、使用中の議場もあるのだろうが、廊下は驚くほど静かである。


従者は、主が議場にいる間、室内に控えることができない場合、部屋の前に控える。形だけは、従者が控える部屋も用意されてはいるが、ほとんどの者はそちらにいることはない。


すれ違うと、従者は控えめに目礼を送ってくるが、こちらは勤務中なので応えないのがルールである。


さすがに、従者たちはよくしつけられているから、フィスを見ても、驚きや侮るような様子を見せることはない。警備を続けていると、時間と共に、メイドや従者たちの動きが少しずつ変わる。会議が終わり、休憩の準備が始まる時間帯になる。


会議室で使われたお茶のセットを下げる物、新しく支度をする物がメイドたちの手によって、整然とした動きで行われていく。彼女たちの動きはとても静かで、訓練されたものだ。フィスはその様子をいつものように、見る、ではなく一つの風景の様に捉えている。


一方、従者たちは各々の主人のために先回りしたり、次の会議の準備を手伝ったりしている。ある従者は大きな書類の束を抱え、急ぎ足で会議室へ向かっている。その顔には焦りの色が見えるが、動きは的確で、書類を一枚も落とすことなく運んでいる。


別の従者は、議場の前で主のために待機状態だ。その姿勢はまるで石像のように動かず、主がいつでも必要とするものをすぐに提供できるように準備している。


フィスはふと、廊下の片隅で控えめに話し合っている二人のメイドに目を向けた。彼女たちは小声で話をしているようだった。話が終わると、一人は厨房の方向へ、もう一人は別の会議室へと急いで行く。


別のメイドは、足音を立てずに静かに廊下を歩き、絨毯の上に落ちた微細な埃を掃除している。その丁寧な作業ぶりを見ながら、フィスは時間と共に場所を変えた。


一つの会議室の前で、主のために控えている従者の一人が、突然立ち上がり、議場の扉を静かに開けた。中から出てきた主が何かを指示すると、その従者は深々と一礼し、急いで離れて行く。


王城の中で働くすべての者たちが、それぞれの役割と思惑で動いている場所だ。


メイドや従者たちの働きぶりを見て、小さくため息が漏れた。



王城の勤務は、三交代制ではあるが、当然やむをえない状況や休憩時間は存在する。次の交代予定の者と、休憩の際は入れ替わりを行うのだ。


「交代時間の為、引継ぎを行います」

「引継ぎをお受けします」


時間通りに現れた交代者と儀礼的な挨拶を行うのだが、今日の交代相手がラウヴァルトだったためか、わずかにフィスの表情が崩れた。


長身痩躯という言葉がきれいに当てはまるラウヴァルトを見上げて、フィスは極力口を動かさないように小声でささやいた。


「……第三会議場」


短い単語だけで伝わるか、不安はない。相手は学院自体から優秀さで有名な相手であり、多少は面識があった先輩だ。


一切表情を動かさず、頷くこともしなかったが、ラウヴァルトは、フィスと場所を入れ替わる瞬間に、フィスの手の甲を一度さりげなく叩いた。

叩いた、というよりも触れたに近いが、承諾の意味だろう。


お互いの場所が入れ替わるともう一度、向かい合って礼をする。そして、その場からフィスは離れた。

一度兵舎に戻り、食事と休憩を取るわけだが、騎士たちはそのまま兵舎の執務室に向かう。すでに戻っていた騎士たちもちらほらいるが、皆、無言で手を動かしていた。


休憩時間、という名目で持ち場を離れはするが、その間に見聞きしたこと、すべてを報告書にまとめる時間でもあるのだ。場合によっては、第二騎士団に回る場合もある。


それぞれに持ち場によっては、報告内容も多岐にわたり、黙殺するかどうかも騎士の資質を問われることになる。


フィスは、自分の使っている席に腰をおろすと、羊皮紙に書き出す前にペンとインクに魔法をかけた。水系の魔法と火の魔法の組み合わせで、書いた端からすぐに乾いて見えなくなるものだ


どの持ち場も簡単に口にできない事柄が多いものだが、会議場の区画も例外ではない。

特に、家持ちの貴族であれば、どうしても書き残しづらい事柄も多い。しかし、フィスは平民と名乗っているからなのか、このような持ち場を割り当てられることが多かった。


「……さて」


今日も多いなぁと、思わず、口に出しそうになる代わりに、息を吸い込み、ペンを走らせ始めた。


王城に勤める者たちの中で、日常的に最も行動範囲が広いのは、騎士に次いでメイドたちだ。メイドも持ち場が厳しく決められてはいるが、伝言や使いなどで持ち場以外の場所に足を運ぶことも多い。


身元は十分に調べられ、教育も施されているはずだが、所詮は人である。


今日は登城だけで会議場に現れていない貴族の従者が廊下に姿を見せていた。メイドとすれ違った後、引き返して去っていったが、そのメイドは会議場担当である。

名前と容姿を書き留めて、その様子も記しておく。名前の記憶違いや、誤認を避けるためだ。


それから、メイド同士の会話、従者の動き。

そうしたものを書き留めていく。


最後のあたりで、どう書いたものか迷ったのは、ラウに引き継いだ第三会議場のことだ。

先に従者が一度姿を見せておいて、後で主と共にもう一度現れた。レノール子爵とウィベリア伯爵が同じ会議場に入っている。


この二家は今、表立ってはいないが、非常に微妙な状況に陥っている。どちらも派閥は同じで領地も近く、特産品も穀物ということで似通っているのだが、価格と資産が逆転しつつある。


ウィベリア伯爵領では、ごく普通の小麦を中心とした穀物を元にしているが、この生産量がこのところ落ちているのだ。

特別なものではないが、豊かな領地を活かして大量に生産しているため、我が国の台所を預かるとも言われていた伯爵領が揺らぐのは、国としても大きな問題だ。


ところが、それを補うように、レノール子爵領が目覚ましく伸びてきている。レノール子爵領で収穫されるのは、小麦ではなく大麦を主としており、主に庶民の食卓や飼料用に使われ、それに続いて酒の原料となる。

しかし、ウィベリアに比べて面積は狭く、収穫量がそれほど多いわけではなかった。


それがどうして逆転する状況なのか。

ウィベリア領では魔獣被害が集中し、生産が滞っている。一方、レノール領では魔獣被害がなくなり、収益が伸びている。この不自然な状況により、両者の関係が微妙になっていた。


そのため、ウィベリアでは収穫前の穀物が狙われ、その対応で働く人々も魔獣対応に駆り出される。駆り出されることで、農場に関わる人が減り、収穫もままならなくなる。


これまでは、どちらも同じ程度の魔獣被害だったにもかかわらず、子爵領ではパタリと減っている。


ウィベリア伯爵は、働く人々を守るとともに、冒険者ギルドから冒険者を多く雇い入れ、魔獣に対応しているが、それだけでも多額の費用がかかる。


第三会議場での議題は、それらを含む食品の物流と価格についてだが、この両家がいるということは、何が起きても不思議ではない。


レノール子爵は、特に同じ派閥の中でも、同じような特産品を扱っているにもかかわらず、伯爵家よりも常に下に見られることに常々不満を抱いていたことは誰もが知る事実であり、“意欲的”な人物である。


ウィベリア伯爵の方は、レノール子爵を下に見る、ということはなく、何か困ったことがあれば手を差し伸べようと表明するくらいには、貴族らしい貴族だが、子爵側からすればそれも癪に障るのだろう。


この地域には近々調査の一環で、遠征の予定が組まれている。

第四騎士団としても、動向は注目している組み合わせなのだ。


「……」


第五会議場までは中会議場であり、入る人も多いため、メイドの数が多くなるのはわかるが、他の会議場は二人でお茶を運ぶのに、今日は三人でお茶を運んでいた。

そのうちの一人は、会議場の担当ではあるが持ち場の定められていないメイドである。


どう書くべきか迷ったが、結局担当したメイドが三名だったことだけを書き残した。


何か起きていれば、自分が交代するまでに騒ぎになっているだろうし、そうでない場合は自分が関わるべきことではない。


一枚の羊皮紙に書ききれるように、文字を小さくしてちょうど端まで書いてペンを置く。


目の前の羊皮紙は、初めと同じく何も書かれていないように見えるのを確かめて、くるりとそれを巻いた。


席を立って、窓際で仕事をしているカーライルに提出すれば、やっと本来の休憩時間である。


「お願いいたします」

「フィスか。ご苦労だったな。午後も頼む」

「はい」


カーライルは、書類仕事でもきちんと相手の目を見て話をする。報告を受け取るだけなのだが、きっちりとフィスと目を合わせて頷いたカーライルが、ちらりと羊皮紙に目を走らせたが、あえてそこでは何も言わなかった。


執務室を出たところで、ルキウスが背後から速足で追いついてくる。


「フィス!」

「お疲れ様です。リンフェルド先輩」

「ああ。お疲れ、その……。フィス、これから食事だよな?」


先日の一件を気にしているのか、今までのような強引な口ぶりではない。

それでも懲りずに様子をうかがうような問いかけに、言い訳を頭の中で用意しながら頷く。


「あー、もしよかったら……」

「すみません。自室で勉強のために読みたい本がありまして、朝のうちに食堂に頼んで昼食は用意してもらっておりますので」


すべてが嘘ではない。王城勤務の時は、朝食はさておき、昼食と夕食がほかの騎士と同じ時間になりやすい。だから、朝のうちに食堂に頼んでおいて、サンドイッチなどの軽食を作ってもらう。

朝食終わりに受け取って自室に置いておけば気兼ねなく食事ができる。


「そうか。じゃあ、……また今度」

「はい。お声がけありがとうございます」


目に見えて項垂れた姿はわかりやすすぎて、ほんの少し罪悪感を覚えそうになるが、それでフィスが行動を変えることはない。


自室に引き上げて、ゆっくりとお茶を入れて、食事をとろう。


この時間に自室に向かう者は少ないから廊下は静かで、足音だけが響く。部屋に戻るとさすがのフィスも緊張がほどけて、ほっと一息ついた。


机の上には、朝のうちに食堂で頼んでおいたサンドイッチの入った、バスケットが置いてある。いそいそと、魔法を使って用意したお湯でお茶を入れる。見た目にも美味しそうなそれを手に取り、ぱくりと口にした。


「うん、美味しい」


食堂で出る料理は、季節によっては保存食も多いが、それでも十分に美味しい。パンは時間がたっても、風味がしっかりしていて、具材のハムとチーズは絶妙なバランスで口の中に広がる。その隣は、黄色い卵の中にパセリの緑が鮮やかな色合いで、さらに美味しさを引き立てている。


「誰かに作ってもらったものってだけじゃなくて、この兵舎の食堂はおいしいんだよな」


温かいお茶を飲んで、美味しい食事に満足する。食べ終わりと同時にお茶のセットは、水魔法をつかってきれいに戻し、バスケットも水魔法できれいにした後、風魔法で乾かした。


後片付けを済ませて、自分の身なりを窓ガラスの反射で整えたら、部屋を出る。


自室にかけてある人を避ける結界の魔法はいつも通りで、ドアを閉めた瞬間に、小さく扉がきしむような作動音を確かめる。


バスケットを返すために食堂を経由して持ち場へと戻る間、フィスに声をかける者はいなかった。


ラウヴァルトと再び交代するために持ち場に向かう。午前よりも午後の方が、会議場のあたりは慌ただしさが増す。

人通りも増えていて、従者やメイドだけでなく、貴族や文官もちらほらと姿が見えた。

フィスよりも背の高いラウヴァルトの姿は、廊下の端からもよく見える。近づいていくと、ラウヴァルトに惹かれるメイドたちがちらほらと視線を向けてくる。


「休憩時間終了のため、引継ぎを行います」

「引継ぎをお受けします」


頭を下げて場所を入れ替わると、すれ違いざまラウヴァルトは、フィスの手の甲を軽く二回たたいた。


どうやら、騒ぎはおきなかったようでほっとする。


ラウヴァルトがそのまま離れていこうとするところに、メイドの一人が近づいてきた。


「騎士様、少々よろしいでしょうか。そちらの騎士様も」


会議場担当のメイドの一人ではある。声をかけられたラウヴァルトがフィスを振り返った。

目線を送られて一歩、そちらに近づく。


「何かございましたか?」

「お手を煩わせて申し訳ないのですが……」


そういって、さらに声を落としたメイドは、落ち着いてはいるがわずかに焦りのようなものが見え隠れする。


「あちらに少しおいでいただけないでしょうか?」

「自分ひとりでよいでしょうか?」


騎士が、真顔で向き合うと、本気で圧をかけなくても慣れない者には、怖さを覚えることもある。金髪碧眼の美丈夫は、その見た目を有効活用するように笑みを浮かべた。

警備任務中の騎士を呼びつけるということは、何かあっての事でない限り、断りの対象である。


そして、メイドがこうした場で『向こうに来てもらえないか』というのは、何かあったので来てほしい、という意味でもある。


ラウヴァルト一人でよいのか、という問いかけにメイドが小さく声を落とす。


「あの……、検分をお願いしたく、同行いただけますでしょうか」

「承知しました」


交代時で二人いるところに、わざわざ声をかけた。

それはどうやら間違いないようだ。彼女は、少しばかり陽気だがフィスも知っている仕事ぶりの良いメイドである。


ごく自然に周囲への目配りをしながら、ラウヴァルトとフィスはメイドの後に続いた。

メイドたちが行き来する通路から、給仕するお茶の道具が並ぶ部屋に入る。


「このような場所に足を運んでいただきありがとうございます。こちらにお願いできますか」


未使用の茶器や、下がってきたばかりのもの、これから使うために並べられている茶器とは別な場所におかれていたワゴンの上からメイドが覆いを取った。


「こちらはどの会議場から?」


表情を変えずにラウヴァルトが問いかける。口元に指を当てたフィスがじっと見つめる先には、内側が明らかに黒ずんでいるカップと、ソーサーに乗せられているティースプーンが変色しているセットだ。


「従者控室から下げたものです。担当のメイドが片付けようとして気づいたもので、わたくしは担当ではございません」

「担当のメイドの方は?」

「それが、この下げてきたカップを見て具合が悪くなってしまい、今は休んでおります」


穏やかに頷いたラウヴァルトは、ちらりと部屋の中に目を向けた。会議場担当のメイドたちが手を動かしながらも不安げな目をチラチラと向ける。


担当のメイドが具合を悪くしており、騎士である二人を呼びに来たのだ。メイドたちが不安になるのも仕方がない。

ラウヴァルトは、自分がどう見えているかを十分に理解した微笑みを浮かべた。


「皆さん。あえて申し上げるまでもございませんが、このことはどうぞお忘れください。決して、他言などなさいませんように」


ラウヴァルトの言葉にメイドたちは、手を動かしていた者たちは一度手を離してから、姿勢を正して頭を下げた。

こうしたことが全くないわけではないだろうが、念押しは必要だ。


その間に、フィスはポケットから白い手袋を出してカップを手にした。匂いは特に違和感はないが、一客は明らかにおかしいもので、もう一客薄らと黒ずんでいるティーセットがある。


「フィス、調べられるか?」

「問題ないかと」


ラウヴァルトがさりげなく、長身を活かして他の目から遮るように立つ間に、フィスは手をかざした。

探知魔法をワゴンの上に向ける。

ワゴンの上のものが、霞の様にそのままの形で空間に浮かび上がった。


変色したカップとスプーンは、特に色濃い。


「紅茶……、これは王城でいつも提供しているものですね」


カップに残されたものに何が含まれているのか、霞の影から少しずつより分けるようにして中身を確かめる。

金属、陶器、紅茶、砂糖。


はっと、目を見開いたフィスが、くるくると動かしていた手を下ろすと、霞が消えた。



「終わりました」

「わかったのか?」

「ええ。だいたいは」


頷いたラウヴァルトがメイドから借り受けたクロスで二つのティーセットをくるむ。二人に声をかけてきたメイドは、きっちりと結いあげた黒髪に乱れはないが、体の前にした手がわずかに緊張で震えている。


「こちらは私たちがお預かります。何かあれば第四騎士団へ問い合わせください」

「わたくしの目が行き届かず、お手数をおかけします。わたくしは、会議場担当の上級メイド、テリア・フォスタと申します。体調を崩しましたメイドは、リリア・ベルナールと申します」

「承知いたしました。フォスタ殿は上級メイドとのことですから、この後は通常通り、皆さんを統率してお仕事をお続けください」


ラウヴァルトの穏やかな応対にほっとしたのか、フォスタは、深くお辞儀をして、他の会議場担当のメイドたちに頷いた。成り行きを見守っていたメイドたちが、硬い表情ではあるが再び動き始めた。


クロスに包んだティーセットを抱えたラウヴァルトと共に、元の廊下へと戻る。歩きながらラウヴァルトは小声で問いかけた。


「フィス、ものは何だった?」

「『混乱』か『錯乱』と思います。時間がたっても多少の効果が残っていたようですね」


誰が混ぜたのか、そしてそれを飲んだのは誰だったのか。

その影響でメイドも具合を悪くしたのだろう。


持ち場の前に戻ったところで、ラウヴァルトと向き合う。


「とりあえず、お前は何があるかわからないから持ち場に戻れ。あとで応援を寄越す」

「了解しました」

「俺は隊長のところへいく」


黙って頷いたフィスは、腕に白いクロスを抱えたラウヴァルトが急ぎ足で去っていくのを見送った。

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