『忘れていたもの』

(アマネ視点)


 狭い間隔で鳴る、フロントガラスのワイパーの作動音がやけにくっきり聞こえる。


 あれ?

 正成さんは?

 はわわ、なにここ。


 いつのまにか私は車の後部座席の窓際で頬杖をついていた。


「いやはっはっはまさかあの天音がね。信じられないな」


 運転席からお父さんの声がする。

 ん。

 誰の?

 私の。


 なんだかぼんやりとする。

 窓は結露で曇っていた。


「天音は手を出してないんだって」


 助手席からお母さんの声が。


 お父さん。お母さん。


 焦点が定まり、私は目を見開いた。


 これは、私の記憶だ。

 なぜ忘れていたんだろう。


「立派じゃないか」


 あの頃の私が曇った窓を拭うと反射して見えた頬や腕には傷を手当てしてできたガーゼが貼付けられている。


 手は私が動かしたわけじゃない。勝手に動く。


 これは、記憶を追体験しているのでしょうか?


 だとしたら、この夢は……。


 手当てされた場所はじんじんと痛む。


 そうだ、この痛みこそが、全てのきっかけ。


 お父さんやお母さんが学校に迎えに来た理由だった。


——なんであんたにこにこしてんの。


 きっかけはなんてことないことだったと思う。


 具合が悪くてラインの返信が少し遅れたこと。

 具合が悪くて友達の誘いに応じられなくなったこと。

 仲良かった子と少しすれ違ってしまったこと。


 それだけなら、なんとか修復できたかもしれない。


——わたしの気持ち知ってるよね。なんでそんなことできるの。


 けれど、その子が好きだった男の子と仲良く談笑してるところを咎められたとき、私は決裂が致命的なものになったことを悟った。

 その子の目は憎悪に染まっていたから。

 私の目鼻立ちは、整っている方らしい。

 距離感に失敗して、相手を勘違いさせてしまう事は多かった。だから女の子からはよく疎まれてしまい、仲間はずれになってしまうことが多い。なるべく疎まれないよう、男子からは距離を置いていたのに。また失敗してしまったのだ。

 私はただ友達がほしかっただけなのに。

 友達を大事にしたいだけだったのに。

 友達の好きな男の子だから邪険にできないと接してしまったのが運の尽きだった。


——モテモテだもんね天音は。そういうことかと思ったよ。それで何人の男くわえこんだのかな。


 そんなことしてない。


——ビッチじゃん。


 どうしてそうなるの。


 昨日まで仲良くしていた子が手のひら返しで私を罵る。

 そして最後は無視。


 私はお兄ちゃんの胸を借りてわんわんと泣いた。

「悔しい」とお兄ちゃんに打ち明けた。


 信じてもらえなくて悔しい。

 私は好きなのに、好きな子に嫌われたのが、悲しい。

 無視をされるのが辛い。

 そういう誤解をさせてしまった自分も悪いのかもしれないけど。

 納得がいかない。

 だから、悔しい。


『負けたくない。こんちくしょーって思ってれば良いんだよ。好きだった気持ちも、ショックだと思う気持ちも否定なんかしなくていい。無理に仲良くしようとしたり、我慢する必要もない。だけど、嫌なことを考え続ける必要もないんだ。人間関係はなるようにしかならない。どうしようもないことはある。それを学ぶのも大事なことだと思うぞ。だからどうしようもないことは、とりあえず置いておいて、今は食べること、眠る事、自分を大事にしてくれる人の事だけを考えろ。日々のあらゆることをしっかり楽しんで、ちゃんと寝るんだ。それでも、嫌なことされたら、放置せず先生やおれやお父さんやお母さんに言いつけるんだぞ。そして……そうだなおまじない唱えたらどうだ。なんでもいい。お前の好きなアニメのキャラを思い浮かべるとかさ』


 という言葉を真に受け、私はそんなお兄ちゃんを思い浮かべることにした。

 すると嘘みたいに平気でいられた。

 しばらく無視を決め込んでいた相手はそんな私を見て気に食わなかったのだろう。


 下駄箱に靴が無くなったとき、私はもう一度息ができないくらい取り乱した。


 目の前が真っ暗になって、唱えた。

『お兄ちゃん』と。


 すると『おー、漫画とかで見るやつじゃないか』とあっけらかんと笑うお兄ちゃんの顔が目の前に浮かんできて——不思議なくらい面白くなって、笑えてきて。


 されたことより、そんな気持ちにさせてくれるお兄ちゃんに向けて私は泣きながら声を上げて笑った。


 先生に報告し、スリッパを履いて教室に私が入ってくるとにやにやとその子は友達同士で笑っていた。私が肩を竦め、ぱたぱたと音を鳴らしながら席に座ろうとすると、男の子がどうしたのと心配してくれた。


 いじめの発端となった男の子だ。


 気まずく目をそらすと、無視を決め込んでいた女の子の顔がひくついていた。


 しまった、また反感を買ってしまった。

 すると授業中に、丸めた紙が飛んでくるようになった。


 机に落ちた一枚の中身を広げると、


——再婚相手のお兄ちゃんが好きとかビッチらしいよね。なんか性犯罪犯しそうな感じのお兄ちゃんだし、ヤラレてるんじゃないの。


 と書かれてあった。


 私の中でぶちっとなにかが切れた。


 授業中にも関わらず私は立ち上がり、その子の元へ睨みながら近づく。


「い、いいですか! わ、私は確かにコミュ障です! こんな性格だからあなたに嫌われるのもわかります! 無視するのも、わ、私が空気読めないことしちゃったからだって思ってます。それだけあなたにとって大事な人だからこそ、私のしたことは許せなかったんでろうな、って。でも、だからこそ、私もこれは許せません。お兄ちゃんは私にとってとても大事な存在だから。こんなことで腹いせするなんて卑怯だと思います! 本当に大事なことに向き合わず、腹いせして、そんなのあなたが弱いだけでしょ。あなたの弱さを私のせいにしないで!」


 すると女の子はわめきながら私につかみかかってきた。


 頬を何度か強く叩かれ、さらに蹴ろうとしてきたところを尻餅をつくように私は避けた。


 空を切った蹴りでバランスを崩し、女の子もこけた。


 わめきながら女の子は立ち上がり、私の胸ぐらをつかんでもみ合いになった。


 周囲の机にぶつかりながら私の腕は床に擦れて傷になり、引っ搔き傷がいたるところにできていた。


「もやもやするわね。ただ睨んで相手が殴ってきたのを避けただけなんだって。そしたら相手が机にぶつけて怪我して大騒ぎするなんて」


「大人でもできるもんじゃない。以前の天音ならそんなことできたとは思えない。正成くんの影響かな」


 にやりと笑う顔が浮かんだ。

 今の35を過ぎた顔じゃない。まだ若い頃の。


 早く会いたいな。


 こうして、両親は学校に呼び出され、私は早退することになり——そして。


 あの日の絶望が始まった。


「な」


 切羽詰まったお父さんの声。


 すかさずクラクションが鳴った。

 なにが起こったのかわからなかった。


 垣間見たのは、巨大な車のフロント部分。

 眩しい光が迫って、ガラスが砕け散る。


 いつのまにか閉じていた瞼を開いたとき、血だまりができていた。


 私のか、と思ったが、違う。


 私は奇跡的に無傷だった。


 横転した車から這い出して、ひしゃげた前方席を見て水たまりの上で私はへたりこんだ。


 雨の音がやけにはっきり聞こえた。


 そこからは時間の感覚が曖昧だ。


 救急車に乗り込んで、病院に着いて……。


 後になって、居眠り運転のトラックが中央線を突如はみ出して突っ込んできたからだと知ったが。


 実感がわかなかった。


 さっきまで話していた二人が、もうこの世にはいないのだ。


 なんで。


 私を迎えにきたせいで。


 つまり、私が、殺した?


 頭から足のつま先の神経が逆立つような感覚だった。


 いくら事故だと頭の片隅で言おうが、自分のせいだという思いは張り付いて取れそうもない。

 ああ。

 病院の長椅子の上で膝を抱えながら、蠢く怪物のような痛みが、神経を駆け巡った。


 もうどこが痛いのかもわからない。


 新たに貼られた湿布や包帯ではこの痛みは収まらない。


 行き場が無い。


 あるはずがない。


 こんな巨大な空虚な痛みがあるなんて、私は知らなかった。


 病弱だった私を捨てて去った本当の母にだってこんな痛みを覚えたことはなかった。


 お父さんがいたから。


 そんなお父さんを愛してくれた、お母さんがいたから。


 私は、忘れられた。


 自分は要らない子だっていう感覚を。


 お母さんの連れ子のお兄ちゃんと出会ったから。

 これからどんな不幸だって乗り越えていけると思った。

 でも、もう無理だ。

 私のせいで、みんな不幸になった。

 私のせいで——死んだ。


「天音……」


 いつのまにそこにいたのだろうか。

 お兄ちゃんの声が聞こえた。

 私のせいで——お兄ちゃんも不幸になる。


「天音」

「来ないで!!」


 だから拒絶した。


「私のせいで——! 私のせいなの、だから!」

「違うよ」


 なのに、お兄ちゃんは構わなかった。構わず、私を抱きしめた。


「事故だ。天音のせいじゃない。そんなことより、天音が無事で本当に良かった。天音、それがどんくらいすごいことなのかわかってんのかよ。今、おれ、天音に救われてるんだぜ」

「なんで、私のせいで、お父さんとお母さん、し、死んじゃ……」


 私はこのときはじめて涙が出た。

 自分は今ただ悲しいのだということに気づいたのだ。


 自分のせいだという思いよりももっと深い、目に浮かぶいっぱいのお父さんとお母さんへの想いに気づいた。


「お前が、生きてんの、奇跡なんだってさ。ほんのちょっと座る位置が違ってたら、死んでたって。おれ、それ聞いて怖くてさ。今だって、ほら足震えてやんの。全て失っちまったとしたら、おれ、どう生きればいいかわかんねえよ」


 私はお兄ちゃんにすがりついて、鼻水を垂らしながら泣いた。


 ぐちゃぐちゃになった感情のまま、お兄ちゃんの胸に鼻を埋めた。


「天音。生きててくれてありがとう! 本当に、ありが、とう!」


 今私は、お兄ちゃんに救われた。


 どうしようもない感情に囚われそうになった私を、確かにお兄ちゃんは救い出してくれた。


 背中に回ったお兄ちゃんの力強い腕に包まれながら、私はお兄ちゃんを心底から好きだと思った。一生きっとこのまま好きでいられると思えるくらい——。



——なんで、忘れていたんだろう。


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