第2話 輝ける群青へ

「はぁ」

 積乱雲が彼方に浮かぶ夏の日に、一抹のため息が漏れる。これまでなら不安不満の合図なんだろうけど――あいにく、今は違う。


 テストが終わった金曜、つまり3日前、街中の至るところへ連れ回された。ファミレス、モール、訳のわからない服の店……とにかく"遊ぶ場所"と聞いて出てくるあらゆる場所。帰ったのが完全に日が沈んだあとってことはよく覚えてる。

 金曜日だけなら何も問題なかった。問題は土日もこんな調子だったってこと。


 土日は出掛けずの日。週末が訪れるたび、家の中でしかできない色々なあれこれをこなし続けてきた。5日間の褒美として、神が授けてくださった猶予だと心に刻んでいたから。まぁ、流石にこれは嘘。


 そう、仮に誘われたとしても、了承するわけない。こんな思考なんだから。


 ただ彼女、姫宮さんの誘いは……少し異質だった。遊びに誘うならそういうアプリか何かで話すのが普通だろう。

 当たり前だけど、その手段なら先に相手のアカウントを登録しておく必要がある。友達とかフレンドとかの欄に。ここで重要なのが、その時までお互いの連絡先を知らなかったということ。

 そういうわけで直接会わない限り、遊びの誘いはできなかった。そこで彼女が使った方法が……本当に大胆だったんだ。


――――――

 土曜の朝、8時にスマホが鳴動する。前日カーテンを開けっ放しにして寝たせいで、溢れるほどの光が差しこんでいた。眩しさと多少の息苦しさが、二度寝の欲求を見事に打ち消す。


 諦めて体を起こそうとしたその時――妙に生温かい何かに触れていることに気づいた。

 目覚めたと思いきや、まだ夢の中にいるのかもしれない。とにかくその正体を明かそう。


 輪郭を指先でなぞる。

 抵抗なく、総じて滑らかな質感。まるで、全ての繊維を誤差なく紡いでやっと完成する羽衣のような。


 この感触には覚えがあった。というより、昨日知ったものと全く同じだ。

 未だ触覚のすべてに確かな記憶として刻まれている。


 つまりこれは……


 人の手。


 指と指が絡みあった時点で、もしもが確信に変わった。気づかなければ良かったという後悔より先に、冷やかな血が巡るほどの恐怖が脳を支配する。

 あと一歩のところで悲鳴を出してしまうところだった。自身を律せた私はきっと誰よりも偉い。


 しかしそんな優越感は結局0.1秒も持たず、より強大な恐怖という感情が私を反射的にベッドから追い出した。災いの元から離れるように身を翻した刹那、おかしな声を聞いた。


『んもー、なになに……』


 ベッドに体を預けながら、こちらに話しかける存在。おかしい。本当にこれは現実なんだろうか?


『碧月さんて、寝相超悪いの?』

『えっ……えぇ、姫宮さん? じょ、状況が、……』

『あー、そうだね。まず――』

 

『おはよう。今日、一緒に出かけない?』


 驚愕と疑問だらけの私をさておき、無邪気な挨拶を投げかけ、あまつさえその場で予定を組む人間。そんなの1人しかいない。

 予想外の出来事が続いたおかげで中途半端に寝惚けた脳を懸命に使い、とりあえずの返事をする。

 

『え。あぁ、うん……』

『了解ってことで良いんだね。やった!』


 疑問は尽きない……でも今は後回しにしよう。 

――――――


 後々になって聞けば、『直接会いに行こうと思って家に行ったら、あなたのお母さんが喜んで部屋に入れてくれた』。『寝顔眺めてたらいつの間にか寝ちゃってた』、果てには『もしかしたら無意識に手とか握ってたかも』なんて数々の答えが返ってきた。どれも耳を疑う内容だった……高校生ともなれば、当たり前なんだろうか。


 とにかく、この土日は本当に疲れた。ただし今までと違うのは、なぜか心地良さを伴っていること。理由はよく分かっていない。

 

 そうだ。

 思い出すのに夢中で忘れてたけど、まだパンをこれっぽっちも食べてなかった。ささやかな昼食の時間。昼休みは決まって外で食べるようにしている。今日みたいな蒸し暑い日も、雪さえ降るような寒さの日も。夏はうちわ代わりに下敷きを持っていけばいいし、冬は着込めば意外となんとかなる。

 外で昼休みを過ごすのに特別な理由なんて無い。ただ、前向きな理由が一つあるだけ。 


 相も変わらず、夏という季節はその輝きを放ち続けていた。色褪せることを知らないと言わんばかりに、地は陽炎を放ち、乱立する木々は黒と緑を彩る。


 目に映る全てが激情の舞を生み出していた。

 ただそんな中、熱を奪い去る風だけが均衡を保とうとするのだけれど。

 

 きっと、夏を夏たらしめているのは、時折吹き抜ける冷たさだ。


 ――そんなとりとめもないことばかり夢想しながら食事をする。悪くないと思う。欠点は……そうだ、チャイムが聴こえにくいことぐらいかな。

 それに相手にもよるけど、もし見つかったらそこそこめんどくさいことになるかもしれない。ほぼ確実に、広まるだろうし。


 過去の自分は、この場所だけは絶対に見つからないと高を括っていた。そう"絶対"。

 

 絶対の事象なんて、地球の歴史が始まってから一度たりとも無かったのに。


 というのも、今居る場所は生徒会の活動場所らしい。図書館棟と中庭の外れにあること、丁度日陰になっていることから、もう使われていない倉庫か何かだと勘違いしていた。

 だから人が絶対来ないわけじゃない。誰かが教えてくれさえすれば気づけたはず。教えてさえくれれば、ね。

 

 唯一の救いは、相手が良かったこと。 

 あぁ……名前は確か、彗依すい、だったかな。彗依先輩。3年生だったはず。生徒会長の。

 下の名前だけ名乗るのも珍しい。どちらかというと知りたいのは名字の方だ。まぁ今度会ったとき聞けばいい。


 あの時は本当に、お互い驚いただろうな。こっちはまさか人が来るなんて想像していなかったし、向こうはまさか人がいるだなんて思ってもいなかっただろうし。

 なにはともあれ、見つかったのが彼女で良かった、としか言えない。


 おっと。

 噂をすれば。

 

「あ、今日もいるんだね。霞ちゃん」


「隣、良いかな」

「もちろんです、彗依先輩」


 艶やかな黒髪が揺れる。仄かに漂うぬくもりと共に、先輩は隣へと腰掛けた。 

 

「で、テストはどうだったのかな?」

「普通、いつも通りです。先輩は?」

「うーん。特に言うことはない、かな」

「ということはまたトップ3ですか」 

「さて、どうだろう」

「その反応、さては当たりですね。もはや不思議じゃありませんけど」


 嬉しいこと言ってくれるね、と頭をそっと撫でられた。あざとい。もし私が恋に恋する乙女ならば、この時点で即告白していた。そしてもちろん、振られる。そう、全ては予定調和……

 

 しばしの沈黙が流れた。会話が尽きたからじゃない。

 私はまだ昼食を食べきれてないし、先輩はなにやら手帳を取り出し熟考しているようだった。

 今まで何回かこうして一緒に昼休みを過ごしてきた――もっとも、彼女の暇そうな姿なんて一度たりとも見たことはない。勉強と仕事に忙殺される毎日なんだと思う。かなり有名な大学を志望しているって聞いた。実際成績も頭一つ飛び抜けている……なぜ私なんかに構っているのか不思議だ。こういうのをお人好しっていうんだっけ? 違う。この人の聖人っぷりをそんな陳腐な言葉で片づけたくない。 

 

 パンの残り一欠片を飲み込んだのち、静寂の領域を破るべく口を開く。


「あのっ――」


 空を見上げたまま考えに耽っている先輩を見て、言葉をすぐに抑えた。

 聞こえていなかったことに多少の安心を覚える。

 せっかく集中しているのに、邪魔をするわけにはいかないから。

 

 ……ただ、表情を観察するぐらいは許されるはず。

 

 その瞳をしばらく見つめていると、神秘的な感覚に陥った。果て無き蒼穹と花翳を投影する瞳。無限の海が広がっているよう。いかなる荘厳な景色の中であっても、視線はこの一点に絞られるだろう。

 現に、私の視界は可憐な横顔ただ一つしか映っていない。

 ”美しい”

 そんな感想さえ湧き上がった。

 

 身近な人の顔なんてそうじろじろと見たことないけど、今目の前にいるのが本物の美少女だってことぐらいは分かる。それもかなり高いレベルの。


 ちょっと待って。今の自分もしかしたらそこそこの変態かもしれない。いや、もしかしなくてもか。

 

 こみ上げる罪悪感と照れに抵抗できず、すかさず片手で額と両目を覆った。ただ一つ惜しむべきは……遅すぎたことかな。


「ん? どうしたの、霞ちゃん」

「あぁ! いえ、なんでもないです。本当に、なんでもないんです……」

「ふぅん?」

 かの美少女は手帳を閉じ側に置くと、こちらに向かって暗き微笑みを浮かべる。……いや美少女はもういいんだって。これ以上意識するのは絶対良くない。いずれ顔に出てしまうから。


 そんな雑念の数々も、次の一言で一瞬にして無に帰すことになった。

「……教えて。なんで私の顔見つめてたの?」

「………………………………」

「言えないことなのかな?」

 

 なんでバレた。視野角の値おかしいでしょ。まさか第三の目を持っているのか。

 必死に目線をそらそうとしても、今度は肩を力強く抑え込まれてしまった。

 海の底にいるかのような色彩。ハイライトのない紺碧に、一筋の深淵を持つ瞳孔がこちらを捉えている。


「え、えと……先輩、とっても綺麗で思わず……」

「へぇ?」

 つい正直に言ってしまった。あぁ、神よ。どうかご加護を。

 

 冷酷で艶やかな表情も束の間、彼女は一瞬にして透明かつ誇り高い微笑みを作った。まさか繊細な表情の全てを自在に使い分けられるの? いよいよ分からなくなってきた。

 

「ありがとう。霞ちゃんは私の機嫌をとる天才だね」

「それ褒め言葉でいいんですね……?」

 はぁ、本当に怖かった。これからは二度と怒らせないようにしなくては。ただもうやらない保証なんてどこにもないんだけど。

 まぁ終わり良ければすべて良し、おそらく。


「そうだ。ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」

 首をかしげ、後方を見つめながら問う。

「あの子って知り合い? さっきからずっと私達のこと観察してるの」


 指先を辿り、人影を確かに確認した。逆光で誰だかよく分からないけど……

 体型的に女子であることは間違いなさそうだ。それに先輩の言葉から察して、私に会いにきたんだと考えると……

「あっ」

 まさか。


 多分予想は当たっているんだと思う。その人影は、こちらと目が合うなり小走りで近づいてきたから。

 そして――勢いよく私の腕に抱きついた。


「大丈夫、碧月さん!? いじめられてない!?」

「姫宮さん、なんでここがわかっ――ぐぅっ! いた、痛いから! 私は大丈夫だから! お願い、離して!」

「と、友達……でいいんだね。うん。そうだよね」

 左は引き気味の苦笑、右は締め付けられる痛み。普通の脳髄はこういった状況に耐えられるようにはなっていない。

 この場を抜け出す策はなかなか閃かないが。けど別にいい。もう流れに身を委ねよう。

 

「この子に何してたの!? ていうかあなた誰!?」

 姫宮さんが波濤の如く責め立てる。もし私が先輩の立場だったら泣いてしまうかも。強弱のある攻撃って本当に苦手だから。現実においてもゲームにおいても。

「えーっと。私は朔晦たちもり。で、霞ちゃんとはただの友達。疑われるようなことは何もしてないよ」

「朔晦? 朔晦……」


 彼女は眉をひそめ、必死に記憶を手繰り寄せているように見えた。一方の私は『彗依先輩の苗字を知る』というサブクエストをクリアしたため、ほんのわずかな達成感を実感している。

 数秒ほど経ったのち、彼女は長考から解き放たれ、信じられないといった様子で言葉を紡ぐ。


「もしかして……ですけど」

「生徒会長の朔晦さんですか?」


「うん。正解。元だけどね」 


 心が読めるわけではないが、姫宮さんの考えていることは分かる。多分『あっちゃ〜』だろう。 

 制服を見てどの学年か分かるのなら、こういう不幸なアクシデントを減らせるはずなのに。自分より上の学年との付き合い方っていうのはなかなか難しい問題だと思う。全員が全員彗依先輩と同じ性格なわけないし。 

 

「ごめんなさい。目上の人とは知らずに失礼なことを」

「そんなの気にする必要ないよ。むしろもっと気軽に来て欲しい。だから顔上げて? ね?」

「ううっ、先輩優しい……」 

 

 その後も二人は私を挟む形で会話を続けていた。生徒会長ってやっぱり大変ですよね、とか2人はいつ知り合ったの、だとか。

 やはりコミュ力強者同士、一瞬で仲が深まっているように感じた。はぁ、この境地に至るためにはどれくらいの時間が必要なんだろうか。少なくとも一生の内は無理決まっている。

 とにかく今は口を挟まないでおこう。


 ただ会話に耳を傾けているうち……なんだか不穏な兆候を感じ取った。まるで、台風の前の静けさのような。鳥のさえずりが止み、木の葉が擦り合う音だけが聞こえる世界。


 そして、私の名前が出た時、かのそよ風は嵐へと変貌したんだ。

 

「やっぱり霞ちゃんは可愛い系だよね。燈夏ちゃんもそう思うでしょ?」

「いーえ違います! 碧月さんは断然美しい寄りです! これだけは譲れませんから!!」

 

 せめて最初から会話を追っていれば止められたかもしれない……数%の確率で。

 まったく、どういう話の流れで私の外見に行き着いたか見当もつかない。気にならないと言えば嘘になるけど、聞く勇気も度胸も今はない。

 とにかく、下手に反応しないようにしないと。放っておけばそのうち興味も無くなることだろう。


 結論から言えば、沈黙は数ある選択肢の中で最も最悪なものだった。

 

「見てください、こんなに髪の毛つやつやでさらさらなんですよ。手入れの跡も無いのに」

「本当だ。もっと美容に時間かければすごい美人さんになりそう。まぁ、私はこのままのほうが好きだけどね?」


 背筋に悪寒が走る。髪が逆立つ感覚にも。実際、これは比喩でもなんでもなく、二人が私を好き勝手し始めた結果にすぎない。

 姫宮さんは毛先へ沿うように髪をとかしている……許可した覚えはないのに。加えて先輩はというと、いつの間にか私の手を両手で強く握っていた。……もちろん、許可はしていない。


「ほら。こんなに触ってるのに、声一つ上げない。霞ちゃん、ちょっとは警戒しないとダメだよ? 女同士だからって油断してたら……ふふっ」

「朔晦先輩? 色々まずくないです? 気持ちは分かりますが……」

 

 なんなんだ! 動けないし暑いし……不本意なモテ期ほど始末に負えないものは無い。

 ……まぁ、正直言って悪い気はしないけど。正直に言って。


「あ、チャイム鳴ってるね」

「えっ嘘? 昼休みってこんなに短かったでしたっけ?」

「また今度三人で話そうよ。次はお昼休みの始めから、ね」

 

「……二人とも、いつまで触ってるつもりなんですか」


 私のあがく声で正気に戻ったのか、二人はその手をようやく放した。普段は敵意を向けていたチャイムにも、今日限りは感謝している。ありがとう。

 とにかく名残惜しいけど、今日は一旦ここまで。


「ごめん、ちょっと待って!」


 姫宮さんが腰を上げた私達を静止する。右手にスマホを携えて。


「記念に写真撮っておかない? あとでグループに送るから」


 いつの間に連絡先交換してた? それもこんな短い時間に? いや、それは重要なことじゃない。

 お互いアイコンタクトで了承の意を伝えあった後、最適な画角に収まるよう試行錯誤しながら身を寄せあった。本来ならとっくに断っていただろうけど。少し疲れてしまったから……


「カメラをちゃんと見て、さぁ!」

 どこかで聞いたような?


 *

 

 放課後、例の画像が送られてきた。

 私以外の二人は実によく撮れている。やはり絵になる人達だ。こういうのを"映える"っていうのかな?


 数十秒後、こんなメッセージが届いた。


『ちゃんと確認すれば良かった!』


 中央の私をよく確認すると……丁度目を閉じている残念な瞬間だった。

 うん……まぁ。別にいい、か。

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