第62話

そういう類の脱出は得意中の得意だった。



もうすでに向こうへ行く手段は掌中にある。


ベランダには植物が植っていて添え木のために針金が設置してあった。これを使う他ない。



その針金を2本ほど拝借して、鍵の形状に合わせる。



人生、やってきたことはなんでも役に立つな、と感慨にふけりながらガチャガチャと集中した。




少々手こずりはしたが、解錠した音がした。




私は非常扉から堂々と隣人のベランダへ侵入し、トントンと窓ガラスをノックしてみた。




なんだか色々な法を犯しているが、後の祭りだ。




2回ほど繰り返しノックすると、ガラガラと窓が開いた。




視線を下げると、いつかの坊やが涙でぐちゃぐちゃの顔で「ママがぁ、ママが……」

と訴えてきた。



部屋の中は水を打ったように静まり返っている。逆にそれが恐ろしくもある。



私はぽんぽんと頭を撫で「お邪魔します」と言って、心の中では「色々間違った侵入をしてすみません」と謝りながら、部屋に入った。




私の部屋と間取りは同じ、リビングの中央でこちらに背を向け、母親が倒れていた。



「おい、大丈夫か?」



声掛けをしながら、脈をとる。



脈は正常で、ただ気を失っているだけのようだ。



肩を何度かたたくと、意識がはっきりしてきたようで「ううっ」と呻いて、起き上がろうとした。




「まて、横になったままでいい」




私が制すと横になったまま「あの子は、あの子はどこ……?」と視線をさ迷わせた。



「ああ、そこにいる」



ベランダのそばで鼻をすすりながら、立ち尽くしている。

母親が目を覚ましたと分かるとほっとしたようにまた泣き出した。



「頭、打ってないか?」


「え、ええ、大丈夫です」


「良かった」



ゆっくりと母親は体を起こし、子供を抱き寄せる。



「で、何があった」


「それは、その……」




私が聞くと、言い淀んで話そうとしない。そんなに言いたくないだろうか。



「じゃあ、率直に聞くが、誰に殴られた」



ビクッと母親の肩が反応する。



「なんで……」


「いいから、早く」


「……その。えっと……夫、です」




それから、何があったか大まかに話してくれた。

端的に、浸透した言い方で言うならば、DVに相当する。



忘れ物を取りに戻ってきた夫に訳もなく殴られ、蹴られ、あまりの痛さで気を失ったと、母親はそう話した。

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