第5話『ソレ』
「千春はさ、あっちで彼氏とか出来たの?」
過去に目を向けていたら、そんな声が耳に飛び込んできた。
「残念ながらいないよ。好きな人もいない」
何度か告白された事は有るけれど、どうしても、そういう気分にはなれなかった。好意的な感情があればある程、『私よりも相応しい相手がいる』という気持ちになる。その時だけは、『罪』の事が脳裏に浮かんで、足元が消え去ったかのような不安感に襲われる。
『こんなところで何してるんだ』って、もう一人の私が叱責する声が。幻聴だと分かっていても、耳から離れられなくなる。目の前の相手さえ、そう告げてきそうな恐怖に噛みつかれる。
だから私は、告白された時点で逃げ出すのが常だった。恋バナにも上手く参加できなくて、気付けばネットや娯楽に逃げ込んでばかりだった。
「……そう。じゃあ、キスをした事は?」
「それもないけど……どうして?」
疑問を口にした私の唇へ、テーブル越しに手を伸ばしながら。紅葉は皮肉げな笑みを浮かべつつ、戯れのような声で答える。
「異性愛者の貴女の唇を、それもファーストキスを奪ってしまえたなら、あの時の報復になるのかなって」
「……それは駄目だよ、紅葉。君の唇は、君が好きな相手の為に取っておくべきだ。私への報復は、君自身を汚さないやり方にして欲しい」
紅葉だって女の子なのだから、キス、それもファーストキスは特別なものの筈だ。いや、仮にもう初めてじゃないとしても、負の意味で使っていい行為じゃない。
そんなことしたら、多分、キスをする度に思い出す。幸せなキスというものを、出来なくなってしまう。そんな自傷行為には付き合う訳にはいかなかった。
もちろん、恋愛対象ではない相手とのキスへの、忌避感も有ったけれど。それ以上に、彼女には幸せに生きて――
「悪いけど、アンタに拒否権ないから」
――紅葉には、幸せに生きて欲しかったのに。
彼女は腰を上げて私の胸元を掴むと、強引に引き寄せて『ソレ』を重ねる。
腕がぶつかったコップが倒れて、残っていた麦茶や氷が、テーブルや床を汚した。
「んんっ!?」
驚きで半開きになった隙間から、彼女の舌が入り込んでくる。思考の停止した私では、ぎこちない蹂躙に抵抗することさえ、出来なかった。
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