episode 2 私は伊原一範マニア

「ねえ、ねえ……、一範くん」

 突然の甘ったるい声に振り返る私、目の前にいたのは件の一範くんそしていかなる男子にも媚びる美人の辺見へんみさんだった。彼を下の名前で呼ぶのは私も同じだし彼女なら当然の所業だけど、彼のことを考えていたからやけに鼻につく。でも、彼は彼女を好きではないんだ。

「あのさ、サッカー部に勇太ゆうたくんっているでしょ、ミッドフィルダーの」

草薙くさなぎ勇太? いるけど」

 一範くんは首をかしげて顔に不安を浮かべる。

「そうそう。あの人に私を紹介してくれない?」

 うわあいきなり。辺見さんの美しい横顔をにらみそうになった私は視線をずらし、彼女ご自慢の栗色ポニーテールに目をやってごまかす。誰にも見られなかっただろうか、きっとみんな辺見あゆの欲望が透けた二人の会話に気をとられているはず。

「紹介ってそんな……、どうすれば――」

「どうすればって、簡単よほら。私たちをまっすぐ引き合わせてくれればいいのよ。ね?」

 動揺する一範くんに迫る辺見さん、甘い囁きは相変わらず強引。彼は「そう……、そうか。うん、じゃあ」と要求にいじいじ応じてしまう。かわいそうに。仲間の色恋沙汰にわきたてない内気な彼の頭を私はそっとなでてあげたくなった。

 私は辺見さんと草薙くんがどうなったか結果を見る前にクラスの噂で知ることだろう。それとも一範くんから? 私は草薙くんの存在もよく知らないし、嫌いな女の恋に興味はなかった。ちなみにあの立派なポニーテールはエクステなのに、先生方は何も知らない。

「ねえ、ねえ、一範くん」

 辺見さんと同じ台詞、しかし色気のない声を私は掛ける。

「おう……。う、うん?」

 私なんかとも話してくれる親切で優しい一範くん、魔性の辺見鮎に毒された今日は私にまで歯切れが悪い――実は理由がもっと別にあることを私は知っている。修学旅行、彼と同じ班なんだけど。

「さっきさあ、先生一範くんのことすっごい怒ってたけど、あれおかしいと思うよ? 一範くんちゃんと積分まではできてたし、先生の言い方だって悪かった」

「え……っ、うん。ありがとう」

 一範くんは伏し目がちにお礼を返し、やがて顔を上げる。

「――ああ、そんな風に言ってくれる人他にいないよ。頭がいいだけじゃなくて、きっと人としてすごいんだ。悔しいくらい」

 悔しい? 私は伊原いはら一範マニアのクラスメート、一範くんあっての私。本来なら彼を萎縮させる愚かな人間であってはならない。そもそも決められた筆記テストの結果で勝っているだけ、何も偉くない。私は悔しがる彼のことが悔しかった。

「やだ、私なんかのことで悔しがらないでよ。私なんかこんな、ほら……何だろう」

 言葉につまった私は逃げで制服に包まれた自分の身体をぱたぱたたたき、一範くんは私から目をそらして「その、『私なんか』って言わないほうが――、多分いいと思うよ」と独り言のように助言をくれる。

 おや?

 驚いた拍子に気のせいか水仙の匂いがつんと鼻を刺し、すぐさま消え去った。アウトフォーカスのように静かにぼやけた一範くんが視界の中で再び輪郭を取り戻していく。私は花よりもと彼の前に回り込み、できる限りの笑顔をつくって言った。

「ねえ一範くん、一範くんの言う通りなら、一範くんは自分を卑下する私で悔しがってるからおあいこだよね。違う?」

「え? 同じ? ええとでも……」

 ああ、これは内容云々の前にあまりにも「一範くん」のくり返しすぎだろうか。彼に指摘されるはずもないからため息で処理するしかない。

 一範くんは実奈が好き。黒髪ショートの内向的で意外に胸もお尻もある、さらに律儀で実はイラストが得意な実奈が好き。では表に出ない彼の理想の〝タイプ〟はいったいどんな姿や心をしているのだろう。それはとても非常に思いきり知りたい事項なのだが、私には彼が〝現実の世界〟で好きになった岡田実奈の情報ばかりいくつもいくつも積まれていた。あとはマニアな私の興味の対象、彼自身のこと。

 実奈の話をしよう。県立では市内二番目の進学校、前からも後ろからも五番目の教室。辺見鮎に負けないのんびりが続く二年五組で半年過ごした岡田実奈は、一般的なショートカットの活発なイメージに反して内弁慶で友達も少ないながら、この通りサッカー少年の心を射止めた。一範くんのほうだってその期待値にそぐわずあまり社交的ではないのだけど、そんな彼は男子ではめずらしく以前から彼女と親しくしてきた。

 え……、ん? 華やかな声に振り返った廊下はやけに明るく、一束の花が瞬間鈍く光をばらまいた。

「あの花……」

 さっきは――一度感じた生々しい匂いが鼻腔の奥に蘇るも、見知らぬ横顔が運ぶのは水仙とは似ても似つかぬ秋桜っぽい桃色の花だった。あの可憐さあふれる花弁の曲線と特徴的な細い葉は一瞬だが間違いない。

 秋桜といえば、先週実奈が道端に枯れたピコティ――秋桜の一品種――を見つけた。深紅の縁取りとグラデーション、自分の好きなタイプの末路にかわいそうと足を止めた彼女は中学生時代の残念な出来事を思い出す。残念というか哀しい、三学年総出で学校の周囲に植えた秋桜が甲高い機械音に刈り取られてしまったのだ。眼前に突きつけられた容赦ないあっけなさ、彼女の胸にたいした怒りもわきはしない。きっと請け負った業者に悪意はなく、作業を依頼した先生方が学校の見てくれよりとても大切なことを忘れていたのだろう。

「人は忘れっぽいもの。フェンス脇の秋桜はいつまでも小さくて目立たなかったからね」

 そう一範くんに話した実奈こそ目立たない。身長百五十九センチ、体重五十二キロのひかえめな性格は笑った時に右の頬だけ不気味に引きつり暗くなる〝残念〟なのだけど誰にも指摘させない。見て見ぬ振りされているのではなく、存在自体が退屈で気づけないんだと彼女は思っている。怖くて自分から主張したこともない。

 一範くんはどう思ってるんだろ、やっぱり気がつかないのかな。彼の理想の〝タイプ〟にはそんな不細工なものないよね、理想と現実は対極にあるんだから。ああもう、とても非常に思いきり知りたい彼の理想。だって好きなんだもん、この同じクラスに所属して好みの女のタイプに岡田実奈を挙げた伊原一範のことが。目指すところは彼の理想――山の頂、女として当然である。目立たない実奈なんかではない。

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