二人の夜

ノックの音がして顔を上げる。

時刻は22時。この時間に訪ねてくるのは光輝か静香しかいない。千紗は抱きつきぐせはあるけれど、ちゃんと一線を守ってくれる。

「どうぞ。」

声をかけると扉が開き、静香が立っていた。

今日はカーディガンを羽織ってる。正直助かる。異性の部屋を夜に尋ねるのに自衛をしないのは危険だし、心配になる。

「お邪魔します。」

「何もない部屋だけどね。」

俺の部屋はシンプルだ。机、椅子、ベッド、パソコン、参考書類。過去に漫画や小説を集めていたがそれは全部隣の和室の襖の中にある。

手元にあると読んでしまうし、時間が勿体無い。その代わりに今は参考書類がある。

ベッドから上半身を起こすと隣に静香が座る。

甘い匂いに心臓が跳ねる。

「近くない?」

「嫌ですか?」

「嫌じゃないよ。」

もちろん嫌なはずはない。何を話したものかと暫く黙ってしまう。

元々異性はあまり得意ではない。人助けをする中で抵抗はなくなったとはいえ、今は違う。

多分俺はこの子を恋愛対象に見てる。だからこそうまく会話ができないのだ。

こんな俺といてもつまらないかもしれない。

そう思っていると柔らかい感覚と重みがかかり、油断していたのもあり押し倒されてしまう。柔らかく暖かい。

「嫌ですか?」

「嬉しいまであるね。でもよくないよ。」

そうだ。良くない。俺には恋愛よりやらなきゃいけないことがある。真剣に考えなきゃとは思うが、俺ではきっとこの子を幸せにできない。

「私は今幸せです。」

考えていることを読まれたのかと心臓が跳ねる。恐る恐る目線を落とすとカーディガンがはだけて谷間が目に入る。急いで目を閉じる。

「好きな人ができて、恋を知りました。好きになった男の子はすごく優しくて、私を大事にしようとしてくれる。それだけでいいんです。」

「俺には優先順位がある。だから君の事を後回しにする事もある。」

「そうですか。でも別にそれはおかしい事じゃないです。私は一番にして欲しいなんて思ってないですからね。」

頬に柔らかいものが触れる。ちゅっと音が聞こえて、驚いて目を開ける。

「辛い時は隣にいてあげます。愚痴だって聞きましょう。疲れた時は抱きしめます。そしてあなたの夢のために、私が支えたい。私の幸せの定義は貴方の横にいることです。微笑みを向けてもらえればさらに良い。」

目の前ある頬に触れるとすりすりと顔を動かす。

「心を閉じないで。もっと私を見て。私を知ってください。そしてあなたの事を教えてください。」

自然と涙が流れた。あの日以来の涙だ。止まれと念じても止まらない。

「大好きな両親がいたんだ。優しくて、温かい人たちだった。二人はいつも他人を思い遣ってた。生きていたら、きっとたくさんの人に手を差し伸べてたはずなんだ。」

そうだ。きっと二人が生きていたら助けられる人には手を差し伸べる。そして笑顔で笑う。その笑顔が俺は好きだった。

頬に柔らかい暖かさが触れる。俺はその手に自分の手を添えた。今きっと彼女は微笑んでいるだろう。でも涙で見えない。

「俺もそういう人間になりたい。そういう生き方がしたい。でも何もない人間が誰かを助けるなんて傲慢だ。」

「私はそうは思いません。小さいことで良いじゃないですか。迷子の子供、動けない老人、迷子の旅行者。皆んなが貴方に笑顔を向けていた。人助けに大小はありません。一つ一つの優しさが今の貴方を作ってる。それに貴方は何もない人間なんかじゃないよ。誰もが自分の為に日々忙しなく生きている。そんな世界の中で周りに手を差し伸べられるというのは凄く尊いことだよ。そんな貴方を私は横で支えたい。」

涙が溢れる。

『なんで人を助けるかって?ふふ。人は一人で生きれないからよ。だから支え合って生きるのよ。きっと貴方にもそんな人が現れる。その時に意味がわかるわ。』

母…さん。

記憶の蓋が開く。遺体の顔を思い出したくなくて封じ込めた蓋から光が漏れる。

『笑顔で生活する為さ。困ってる人を放置したら帰ってから気になっちゃうだろう?そしたら少しずつ笑顔を失う。そんな人生楽しくないと思わないかい?それに僕は智己と亜美が誇れる父親でいたいんだ。』

あぁ。そうだね。父さんは俺達の誇りさ。

あぁ…なんて馬鹿なことを。暖かい記憶の方が圧倒的に多かったのに…。

頭を抱き寄せられる。柔らかい感覚に包まれて頭を撫でられる。

「大丈夫。もう一人じゃないよ。」

あぁ…そうか…。なら頼ってもいいんだな。

目を閉じる。意識が落ちていく。

「大丈夫。私が君を幸せにしてあげるから。」

それは男としては逆がいいな。意識が完全に消える直前、最後に俺はそう思った。


白い世界で目を開ける。

夢か?ボヤけた視界に人が映る。誰だ?じっと見つめる。それは小さい俺と父さんだった。

小さい頃の俺が父さんの上に座って笑っている。あの時は確か…。

『父さんは何でお母さんと結婚したの?』

『父さんはね。迷子の母さんを助けたら懐かれちゃったんだ。そういう意図は無かったんだけどね。ほら、母さんは猫が好きだけど、性格は甘えん坊の犬みたいだろう?』

そう言って苦笑する。亜美が生まれる前の事だ。母さんが友達の結婚式でいなくて、俺は父さんと留守番だった。

『お母さんはお父さんにべったりだもんね!』

『はは。母さんに告白された時は驚いたよ。でも僕みたいなお人好しは、自分から巻き込まれていくから結婚には向かないって言ったんだよ。そしたら一緒に助ければいいですね!ってさ。この人しかいないって思ったよ。』

『さすがお母さんだね!押しが強い!』

『そうだね。だけど僕みたいな人には彼女みたいな人が必要だったんだって今ならわかる。だから智己にもきっとそういう人が現れるよ。だって智己も僕みたいにお人好しで優しい男の子だからね。』

そう言って頭を撫でる父さんの顔はとても優しかった。


景色が移り変わる。小学3年の日の事だ。その日は父さんが生まれたばかりの亜美と出かけて、母さんが俺と出かけていた。両親は平等の愛を与えるためには二人で出かけて目一杯の愛情を注ぐ日も必要だと言っていたっけ。

母さんが目の前で泣いている女の子に優しく話しかけて立ち上がる。

手を引いて俺のところに歩いてくる。

『しずちゃんだって。旅行に来て逸れたみたい。迷子センターに連れてくよ。』

しず。長い黒髪をポニーテールにまとめた女の子。覚えてる。ショッピングモールで迷子になってしばらく一緒に過ごした子だ。

本やアニメの話を沢山した。

女の子は苦手だったけど、何故か話しやすくて安心する子だった。きっと俺の初恋だった女の子。でも2度と会うことはなかった。きっと彼女も俺の事を覚えてはいないだろう。

また移り変わる。母さんが俺の手を引いている。その顔は笑顔だ。

『可愛かったね、あの子。』

『うん。お母さんと無事会えて良かったね。』

『そうね。せっかくの旅行だもの。楽しい思い出じゃないとね!』

『母さんは父さんがいなくても人助けをするんだね。』

『勿論。だって大好きな人がそうしてるんだもん。私もそうしないとダメでしょう?それより、本当に名前を告げなくて良かったの?』

『いいんだよ。あの子は旅行で来たんだからもう会うこともないよ。僕のことなんて忘れて、笑顔で生活して欲しい。だから思い出は俺の中だけでいいんだ。』

『はぁ。やっぱりあの人の息子ね。智己にはグイグイくる女の子じゃないと駄目ね。そうじゃないと捕まえられないもの。』

そう言って苦笑した。


景色が移り変わる。

亜美が生まれた日だ。小さな手がまだ小学生の俺の手を握っている。

『今日から智己もお兄ちゃんね。』

『妹を守ってやるんだぞ?』

『任せてよ。母さん、父さんから貰ってる愛情をちゃんとこの子に注ぐからさ。僕は二人みたいな優しい人になって、妹にも大好きになってもらうんだ。』

『ふふ。素敵なお兄ちゃんね。』

『大人びててちょっと怖いくらいだけどな。』

父さんと母さんが俺を撫でる。

この優しい手を俺は生涯忘れないだろう。


目を覚ます。鳥の囀りが聞こえる。すうすうと寝息を立てる静香が目に入る。

しずと静香か。どうやら同じような名前の子と縁があるらしい。そっと頭を撫でるとすりすりと擦り寄ってくる。

俺は亜美を守らなければならない。

だから彼女を一番にはできない。

でもいいのかな…母さん、父さん。

俺は誰かを好きになっていいのかな。

答えは返ってこない。でも二人なら笑顔で頷いてくれるだろう。ならこの子と一緒に過ごす事はきっと俺と亜美の幸せにつながるだろう。

そう考えて漸く自分の気持ちを自覚する。

きっと俺はこの子に惹かれている。魂が引き寄せられるようなそんな感覚。もしかしたら俺たちは出会う運命だったのかもしれない。

今度は俺から抱きしめてみる。暖かい。

そのままもう一度目を閉じた。

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