第三話「メイドになって」

瑠奈は一瞬、何を言えばよいのかわからず固まった。しかし、その瞬間に押し寄せる本能が彼女を前に進めた。彼女は少し頭を下げ、その場にふさわしいと感じた唯一の言葉で女性に挨拶した。「おはようございます」


女性も同様に挨拶を返した。彼女の声は柔らかく、しかしはっきりしていた。「おはようございます」


瑠奈は驚いて瞬きをした。その女性は完璧な日本語で話していた。ここは外国の地でもなければ、遠い時代でもない。彼女は自分の故郷、そして過去の言葉を話しているのだ。瑠奈の胸は一瞬鼓動が早くなった。女性は少し首をかしげ、興味深げに瑠奈を見つめていた。「どうしてここへ?」と彼女は、優雅でありながらも指揮的な声で尋ねた。


瑠奈は深呼吸し、勇気を集めた。「あの……。この屋敷で、メイドとして働かせていただきたいのです」彼女の声は感情の嵐に揺れながらも、しっかりとした響きを保っていた。


女性の目が一瞬大きく開かれ、驚きの表情が浮かんだが、すぐにそれを礼儀正しい微笑みで覆い隠した。「メイドとして働きたいと?」彼女は尋ねた。「何か準備をしてきたのかしら?」


瑠奈は一瞬ためらい、答えを探すように頭を回転させた。彼女には準備も、訓練も、経験もなかった。しかしそれを言うわけにはいかない。彼女はここにいる必要があった。もっと多くのことを知るために。「あの、田舎から来ました」と、彼女はとっさに話を作り出した。「都会で学びたくて…ここの生活をもっと知りたくて」


女性は長い間、彼女の真剣さを測るかのように瑠奈を見つめていた。それから、何も言わずに脇に一歩下がり、瑠奈を中に招き入れた。「お入りなさい」と彼女は静かに言った。


瑠奈は屋敷の中に入り、重たい扉が静かに閉じる音が背後で響いた。内部は外観と同じくらい豪華で、壁には豊かなタペストリーが掛けられ、空気には線香の香りと、何か他のものが漂っていた。女性は彼女を大きなホールを通り抜け、大理石の柱を過ぎて、長い廊下へと導いた。廊下の端にある扉を開けると、小さな図書室が現れた。女性は近くの棚に歩み寄り、慣れた手つきで一冊の本を取り出した。彼女はそれを瑠奈に手渡した。「これはメイドとしての基本が書かれている本よ」と彼女は滑らかに言った。「これを勉強しなさい。そして準備ができたら、あなたのここでの未来について話しましょう」


その本のタイトルはシンプルに『メイドの基礎』だった。瑠奈の手がわずかに震えたまま、それを受け取った。本は手の中で重く、ページはまるで新しく刷られたかのように滑らかだった。彼女はカバーを見つめ、その美しい文字が書かれた表紙に目を留めた。しかし彼女の注意を引いたのは中身だった。この本はただのガイドブックではなかった。それは地図だった。彼女がもはや思い出せない生活へ、だが再び築き上げることができるかもしれない人生への道標だった。彼女は最初のページを開き、その内容を目で追った。読み進めている間に、女性は指を鳴らした。すると瞬く間に、折りたたまれた紙が空中に現れ、ペンも一緒に浮かんできた。女性はその紙を開き、瑠奈に見せた。「あなたの署名をここに。これで契約をするの」


瑠奈は紙に目を落とした。それは契約書だった。シンプルで明快なもの。「あなたの契約書よ」と女は説明した。「ここでの雇用に関するものよ」瑠奈は一瞬だけ躊躇したが、それはほんの一瞬だった。ページ上の線をじっと見つめた。30歳未満の者はメイドとして働ける。その条件は驚くほど簡単で、あまりに単純すぎるほどだった。だが他に選択肢はなく、サインするしかないことを理解していた。


ペンを手に取り、慎重に漢字で自分の名前を書き始めた。その一画一画が、まるで彼女の知っていた過去の人生との最後の繋がりのように感じられた。ペンが紙の上で止まりかけるたびに、女はじっと見守っていた。最後の一筆が終わると、女は満足げに頷いた。「ようこそ、瑠奈」と彼女は静かに言った。「明日から仕事を始めてもらう」


その瞬間、瑠奈は感じた。自分をここに引き寄せた何か、そしてこの館に導かれた奇妙な力が、ようやくその本当の目的を明らかにし始めたことを。日々の静かな繰り返しの中で、時間はゆっくりと過ぎていった。瑠奈の新しい生活は単調でありながらも、一種の安心感を伴っていた。彼女は働き、掃除し、料理を作り、洗濯をし、必要に応じて侵入者に目を光らせた。どの仕事も単純でありながら、自分が選んだ人生の証として常に彼女の心に残っていた。この豪華な装飾が施された館は、広くて人の気配のない廊下を持ち、時間そのものを呑み込むようだった。彼女が雇われた最初の月には、大きな事件や目立つ出来事は一つも起こらなかった。それでも、瑠奈は知っていた。その日々の単純さこそが、何かもっと恐ろしいものを隠すカモフラージュであることを。まだ彼女にはそれを完全に理解することはできなかったが。


瑠奈の雇い主である古高真子は、彼女の生活において謎めいた存在だった。真子は先祖代々の伝統を引き継ぐように、常に着物を身に纏っていた。その着物は彼女が背負う深い歴史を示していたが、瑠奈はその重要性をほとんど知らなかった。真子は優しかったが、どこか距離感があり、その動作には内なる不安を感じさせるものがあった。彼女の顔は常に落ち着いていたが、誰も見ていないと思う時にだけ見せる目の緊張が、多くを物語っていた。真子が夫と頻繁に口論しているという噂は、家の中で囁かれていたが、誰もそれを口に出そうとはしなかった。大抵の場合、真子は自分の世界に閉じこもっており、瑠奈は館の静かで広々とした廊下を移動しながら、自分の居場所を問いただすこともなく過ごしていた。それは、彼女がかつて知っていた地球の賑やかな街並みとは大きく異なっていた。しかし、瑠奈にとってその生活はもはや遠い記憶となり、新しい存在としてのメイドの生活だけが重要だった。過去はもう関係なかった。


そして一ヶ月、瑠奈は期待される通りの仕事を淡々とこなした。部屋を掃除する技術、衣服を洗う際の微妙な手さばき、食事の準備をする正しい手順—これらはすべて、彼女がかつての生活で真剣に学んだことのないスキルだった。彼女は大抵一人だったが、その孤独には彼女なりのリズムがあった。予測不能なこともなく、乱されることもない日々。しかしある日、彼女は休憩中に館の図書室でふと立ち止まった。その図書室は、彼女にとって逃げ場のような存在だった。仕事の束縛から解放される場所であり、無数の本が並ぶ棚には、この月の社会についての知識が詰まっていた。瑠奈はその本に没頭し、今自分がいるこの異世界の理解を深めようとした。黄ばんだページと埃っぽい空気の中で、瑠奈はある驚くべき発見をした。


月の文明が日本に起源を持つという事実に、彼女は驚かされた。それは驚愕の瞬間だった。自分の先祖の国がかつて星々を支配していたという事実は、彼女に一時的に息を呑ませるほどの衝撃だった。まるで宇宙そのものが彼女に新たな真実を開いてくれたようだった。瑠奈は静かに微笑んだ。それは自分だけが知っている秘密のような、意味深な微笑だった。その知識には力があり、目的があった。しかし、微笑んだ瞬間、彼女はまだ感じていた。これが始まりに過ぎないと。この世界には、彼女がまだ理解できない何かが潜んでいると。しかし、瑠奈はこの発見だけでは、次に起こる出来事に備えられていなかった。彼女はあまりに長い間、仕事に追われ、その向こう側に目を向けることを忘れていたのだ。

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