第3話 アカデミー入学①

 目の前を競走馬が歩いている。

 府中にある東京競馬場のパドックだ。

 

 透は競馬をするとき、オッズは見ない。

 競馬好きだった父親に、子供の頃から競馬場に連れてこられた。

 競馬場の託児所はなんとなく性に合わず、ずっとパドックを見ていた。

 幼いながらに競走馬をカッコいいと思っていた。


 透は21歳の大学生だ。

 16歳のときに両親を交通事故で亡くし、大学進学をキッカケに上京した。箸休め大学で文学を学んでいる。

 アルバイトをしながら大学に通っていたのは、20の誕生日まで。

 貯めた100万円を使って、自信のあるレースで複勝を転がし、800万円を超えたところで、アルバイトをやめた。

 今では、5200万円にまで膨れ上がっている。

 コツコツ増やしてきたけど、それも今日で終わり。

 Vtuberになるのだから、この金はもう必要ないと考えている。


 他人には理解されない考えだと、自覚している。



 透の目の前を、6番の馬が通り過ぎる。

 見たことのある勝負服。

 有名な馬主が所有する競走馬だ。

 名前を確認してみると『ハリボテトウスイ』とある。

 熱中症対策のミストのなかを、心地良さそうに歩いていた。



「……こいつかな」



 透はスマホを操作する。

 6番の単勝に、5200万円を賭ける。

 しかし、今日はギャンブルをしにきたわけではない。

 

 透は競馬場で、Vtuberとして活動するときの名前を考えていた。

 そして『トウスイ』という名前を頂くことにした。

 彼らしい名前の決め方である。

 透が『ハリボテトウスイ』に賭けた5200万円はその使用料のようなもの。

 

 使用料と聞くと、現金に思えるが、透はもっとエモーショナルな気持ちで、この5200万円を『ハリボテトウスイ』に賭けている。

 子供たちが競馬場の庭を駆けている。

 テラス席から、母親がその様子を微笑ましく見守っていた。

 

 透はパドックから立ち去った。

 レースの結果を見ることはなく、競馬場を後にした。




◇◇◇




 ニッポニアの本社は、都内某所に存在した。

 11階建のビルの、7階から11階までが、ニッポニアのオフィスであり、アカデミーは10階にあった。

 ちなみに、下の階にはスマホゲームアプリの開発運営を行う会社と、そのアニメ事業部などのオフィスが入っている。


 ビルの中に入り、受付をする。

 受付のお姉さんに要件を聞かれる。



「アカデミーの入学式に伺いました。清水です」

「確認しますね」



 お姉さんは、タブレットを操作する。



「はい。確認がとれました。左手のエレベーターに乗って、10階です」

「はい」


 

 透は中性的な容姿をしている。

 エレベーターに乗り、大きな鏡を見ながら前髪を整える。

 気合いが入りすぎていてもカッコ悪いと考えている。

 なので、大学に行くときと同じ、ラフな服装にした。

 顔には下地だけ塗って、血色がよく見えるようにしている。

 眉毛は描かなくても、カミソリで整えるだけでいい感じになる。

 香水は爽やかな匂いがするものを選んだ。

 清潔感は充分である。


 エレベーターが10階に到着する。

 廊下に出ると、看板に「アカデミー入学者はこちら→」と案内があった。

 矢印に従って廊下を歩くと、端っこの方にある部屋に辿り着く。

 部屋の名前は、多目的室①とある。

 ドアについたガラスから、部屋の様子を覗くと、すでにたくさんの人が集まっていた。


 透は腕時計を確認する。

 大丈夫。

 五分前には到着している。


 静かにドアを開けて、音を立てずに入室し、ドアを閉めるときには少しだけ音を立てる。

 部屋のなかにいた多くの人が、透のほうをチラッと見る。

 部屋のなかには、透を含めて7人の生徒がいた。

 女性が5人。

 男性が2人。

 どうやら女性が多いようで、男性は透ともう一人しかいない。

 

 指定された席はなく、生徒たちはまばらに座っていた。


 間隔を空けて座ることはできたけど、透はここでも賭けに出た。

 こういうとき、臆せずに誰かの隣に座ることができる人間がVtuberとして大成するという確信があった。

 透はさきほどからチラチラ見てくる女性の隣に座った。


 女性は、透に隣に座られるとは思わなかったようで、「えぇぇ」みたいな何とも言えない表情をしたあとに顔を背けた。



「おはようございます。自己紹介って、この場合、本名でいいんですかね?」

「あっ、えっと」



 透が話しかけると、女性は焦ったように声を出す。

 声には嬉しさも含まれていた。



「い、いいと思いますよ! 本名で。恩田 詩音です。わたし、経験者だからなんとなく分かるんです」

「へえ。経験者ですか。清水 透です。よろしくお願いします」

「よ、よろしくぅー」



 詩音は、にへっと笑った。

 

 どこか幼さが残る女性だ。

 髪の毛はとても艶やかで、肌もきれい。

 容姿のメンテナンスを行っている形跡がある。

 透から見て、魅力的な女性だったけど、しかし、どこか垢抜けていない印象もあった。

 猫背で、あまり堂々としていないからだろうか。

 言ってしまえば、陰キャな雰囲気の女性だった。



「経験者ってことは、Vからの転生ってことですよね?」

「そ、そう!」

「僕はVtuberの内側があんまり詳しくなくて、色々と教えてください」

「いいよ! なんでも聞いて!」



 詩音は声のボリュームを調整するのが苦手だった。

 ささやかな胸をポンと右手で叩いて、「まかせなさい」というのを態度で示す。

 


「わたしもいいかな?」



 前の席に座っていた女性が振り返る。

 顔にはニヒルな笑顔が浮かんでいる。



「わたしは、烏丸 梓。ノンフィクション作家をしている」

「ノンフィクション作家?」



 詩音はノンフィクション作家を知らない。


 透は知っている。

 ノンフィクション小説は、大学の授業でも取り扱うことがあった。



「実在する人物や、実際にあった事件に基づいた物語が書かれた小説のことだ。それを書いているから、ノンフィクション作家。Vtuberとノンフィクション小説は、かなり相性が良いとは思わないかな?」

「え、えっと」



 詩音は困って、透を見る。

 透は詩音の代わりに、口を開く。



「Vtuberは力強いキャラクターを持ってますからね。小説の題材にするには、ピッタリだと思います。ノンフィクション小説としての時代性や社会性もあるような気はしますね」

「君、語れるね。さてはそうとう文学が好きかい?」

「大学が文学部なんですよ」

「ああ、それで。何大学かな?」

「箸休め大学です」

「あはは。それなら、わたしの後輩だ。わたしは、箸休め大学の卒業生だよ」



 烏丸は「よろしくね」と笑う。

 軽薄な印象の女性だった。



「そ、それで、わたしに聞きたいことは?」

「ああ。君は、Vtuberの経験者なんだろ? 業界の裏側は詳しいのかい?」

「顔は広いよ」

「おお。頼もしいねえ。それじゃあ、一つ聞いてもいいかな?」

「どうぞ」



 烏丸はカバンの中から、メモ帳とペンを取り出す。

 このメモが、烏丸の商売道具だった。



「小湊 みさきの卒業理由が知りたい」

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