第8話 涙

(アッキーナ……アッキーナ……アキヒロ? アキラ? アキヨシ? いや、男友達ならハートマークはつけないか。)


 現実を受け入れたくなくて、そんなことを考えていると、近藤が目を覚ました。

 たまきは咄嗟に目を閉じ、寝たフリをする。

 近藤はメッセージに気づくと、返事を打ち込み始めた。


(ああ、間違いメールってこともあるか。「彼氏に送るはずのメール、間違えて送ってない?」 そう返してるはず。そうに違いない。)


 たまきはそっと薄目を開け、近藤のスマホ画面を見やった。


「俺も♡ 今度いつ会える?」


 心の奥に、またしても冷たい針が突き刺さる。やっぱり浮気してた……。確実な証拠だ。でも、たまきはどうすることもできなかった。ただショックを抱えたまま、じっと寝たフリをしていることしかできなかった。



 ーーたまきと近藤は、高校の同級生だった。

 高2の時、文化祭の実行委員で一緒になり、親しくなり、付き合うことになった。受験の時も励まし合って頑張った。しかし、たまきは近藤の大学には落ちた。


(もうちょっと勉強頑張れてたら、一緒の大学に行けていたら、こんなことにはなってなかった?)


 確かに、会う頻度は少なくなっていた。一週間に一回会うか会わないか。

でもお互いに大学でのことがあるし、サークルもあるし、と思っていた。


(今日だって、楽しかったのに。優しかったのに。この前くれた言葉はなんだったの? 嘘? 平気で嘘つけるの? 二股はいつから? 私のことなんだと思ってるの?)


 たまきは、心に溢れる言葉をまたしても近藤にぶつけることはできなかった。



 二人は、近藤のアパートがある駅で降り、改札を通ろうとしていたところだった。

 近藤は改札を越えたが、たまきは足を止めた。

 

「真紀?」


 近藤が振り返って、声を掛ける。


「ごめん、今日は行けないや。ごめんね」


 たまきはそう告げて、駅のホームへと引き返していった。

 その瞬間、ついに涙が溢れ出す。


(こんなのってないよ。ひどいよ。ひどい)


 ひどいと思いつつも、まだ近藤のことが好きなたまきは、整理しきれない思いを抱えたまま、しばしホームのベンチでうつむき、涙するのだった。



 最寄り駅の改札を抜けたたまきは、商店街へと続く細い通りを一人で歩いていた。夜更けの街灯が、店先の古びた看板をぼんやりと照らしている。たまきはうつむきがちに足を進めていた。


 「おう、田崎」


 突然の声に顔を上げると、目の前には山口が立っていた。彼の明るい声は、たまきの耳にひどく不釣り合いに響く。


 「あ……」


 たまきは小さく声を漏らしたが、それ以上何も言えなかった。


 「ん? どした? 大丈夫か?」


 山口が首を傾げながら、たまきの顔をじっと覗き込む。その視線は真剣で、彼女の赤く腫れた目元にすぐ気づいたらしい。


 「ちょっと話そっか」


 山口の一言に、たまきは小さく頷いた。それから二人は通りを抜け、駅近くの静かなカフェへと入った。

 


 小さな丸テーブルに向かい合い、それぞれコーヒーカップを手にする。たまきはしばらくの間、口を開くのをためらっていたが、ようやく今日の出来事をぽつぽつと話し始めた。山口は時折頷きながら、相槌を打つだけで、じっと耳を傾けていた。


「そいつはもうダメだよ」


 山口の言葉は静かだったが、はっきりしていた。たまきはその一言に、肩の力が少し抜けるのを感じた。


「そうですよね。そうなんですよね……」


 たまきの声は弱々しかったが、どこか納得の色があった。


「もっと誠実な男は他にもいっぱいいるし、別れた方がいいって。絶対」


 山口の言葉はたまきの胸に鋭く突き刺さる。


「そうですよね……」


 小さく頷くたまき。けれど、どこか言葉にしきれない思いが胸に残っているのを山口は感じ取った。


「まだ好きなんだな」


 静かな声で山口が問いかける。たまきは視線を落とし、カップの縁を指先でなぞった。口を開こうとしたが、言葉が出てこない。


「……」


 その沈黙は肯定とも否定とも取れる微妙なものだった。山口は小さくため息をつくと、続けて言った。


「こんなズルズルズルズル、都合よく扱われたらさ、嫌だろ? 俺は、嫌だ」


 強い口調ではないが、はっきりとした意志を感じるその言葉に、たまきは驚いて顔を上げた。


「……え?」


 山口は少し真剣みを帯びた表情で、たまきを見つめて言う。


「俺だったら絶対嘘はつかないし、二股だってしない。まあそんなモテないってのもあるけど」


 自嘲気味の笑いに、たまきはどう返していいのかわからず、困惑した表情で視線を彷徨わせた。


「いやいや、ここはそんなことないですよっていうとこだから」


 山口が冗談めかして言うと、たまきは慌てて答えた。


「あ、はい。そんなことないと思います」

「うん、まあいいや。とにかくいつでも相談乗るからさ」


 山口は片手を軽く振り、わざとらしく軽い調子を装った。その自然な優しさが、たまきの心をほんの少しだけ楽にさせた。彼女は息をついて、落ち着きを取り戻す。


「ありがとうございます」


 その一言には少しだけ笑顔が含まれていた。山口はその微かな変化に気づき、軽く頷いてみせた。


「今度どっか行こっか」


 軽い口調で、山口はさらりとたまきを誘った。




 


 

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