第29話 罠
フェンメルとコキュートスの戦いが始まる少し前。
深夜、一人の女子生徒が校長室へと訪ねてきた。
ミラエラとエルナスは、バベル内に出現した謎の存在のこともあり、明日のことについての話し合いを行なっていたところだ。
基本的に規則上は、何時以降は寮外には出てはいけないという決まりが定められているわけではないのだが、こんな夜更けに出歩く生徒はまずいない。
疑問に思いつつも、エルナスとミラエラは女子生徒を校長室へと通すことにした。
「明日は試練本番だろう。それに、こんな夜更けに女子生徒が一人で出歩くのは感心しないな」
「すみません。どうしても伝えておきたいことがあって———」
下を向き、何やら落ち込んだ様子を見せる女子生徒。
気力をなくし、生徒同士では打ち明けることができずに、教師を頼らなければならない事情はかなり限られてくる。
そうして真っ先にエルナスたちの脳裏によぎった言葉は、「イジメ」という一言。
この女子生徒は、一年生にしてバベル試練の選抜者に選ばれるほどの実力者であるが、かなり臆病な性格をしていることを二人は知っている。そのため、もしイジメを受けているのだとしたら、普通の生徒の何倍もの精神的ダメージを負ってしまっていることだろう。
「仕方ない。とりあえずは聞いてあげよう」
「ええ、無視はできないわね」
しかし次の瞬間、二人は戦慄させられた。
少女が顔に浮かべたそれは、瞳に殺意の感情を込めた狂気の笑顔だったからだ。
「———ッ⁉︎」
「何だ、その表情は?」
瞬時に危険を感じ取ったミラエラの浮かべる表情は、生徒に向けるそれではない。
やられる前にやるという気概を感じさせられる、冷徹な表情。
そして少女の纏う空気が変わった次の瞬間、まるで別人のような口調へと変化した。
「久しいな、ミラエラ・リンカートン。魔力はどうしようもないが、声や顔は敢えて変えずに其方の前へと現れたというのに、やはり思い出してはくれぬのか」
「何を言ってるの?貴方なんか知らないわよ」
少女にとって、屈辱極まりないミラエラの発言に対して分かりやすく眉を顰ませる。
「どれほどわらわを愚弄すれば済むのだろうな。それならば仕方あるまい。其方の対応次第では、あのフェンメルとかいう小物も殺さずに見逃してやろうなどと甘い考えを抱いていたのだが、やめだ」
「何が、どうなっている?」
エルナスはミラエラと違い、すんなりと切り替えができるほど器用ではない。
むしろ、この状況で平然と目の前の生徒に敵意を向けられるミラエラが異常なのだ。
彼女は、今の今までマルティプルマジックアカデミーの大切な生徒であった。
それなのに、受け止められないほどの信じられない豹変ぶり。
始めから騙していた?何者かによって洗脳され、操られている?
何よりも信じられないのは、フェンメルを殺すという発言。
フェンメルは今、バベルに潜む謎の存在の対処のため、バベル内に赴いている。
もしかして、謎の存在の正体を知っているのか?
考えれば考えるほど、理解不能な状況へと陥っていく。
「しっかりしなさい!」
どんどん思考の迷宮へと誘われていくエルナスの意識を現実へと引き戻したのは、耳元で聞こえたミラエラの声だった。
「ああ、すまない。私としたことが、あまりの衝撃さに動揺してしまっていた」
「無理ないわ。目の前の彼女から感じる魔力は、他の生徒と比べても遜色ないもの。それなのに、妙なプレッシャーを感じさせられるもの」
ミラエラも表面上は、平然とした態度を見繕っていたが、それは痩せ我慢に過ぎなかった。
ミラエラとて動揺しているのだ。しかしそれは、少女の豹変ぶりに対してではなく、圧倒的な強者からのみ感じ得る特有の圧迫感。
目立ちもしない、どこにでもいる平凡な生徒であったはず。それなのに、少女からは背筋が凍りつくような圧迫感を感じる。
「わらわが何者か、と問うたな?よかろう、教えてやるぞ」
少女の発言と連動するかのように校長室の空間全体が、徐々に液体のようにとろけはじめる。
「一体何が起きているんだ⁉︎」
「分からないけれど、彼女の仕業なのは間違いなさそうね」
「ミラエラ・リンカートン。特に其方はよく聞いておるのだぞ。わらわは最高神に仕えし神の使者であり、神名を『アクエリアス』という。しかと覚えておくのだぞ」
そうして名を語り終えたアクエリアスの周囲は、何種類もの絵の具をごちゃ混ぜにして描いたような物を物とも、人を人とも認識できぬ光景へと変化していた。
ミラエラとエルナスの姿は既に空間内から消えている。しかし、声だけは変わらずに聞こえてきた。
「まさか、この私にすら悟られずに魔法を発動するなんて、魔王に匹敵する強さだとでもとでも言うつもり?」
「言ったであろう。わらわは神の使者であると。この内に秘める魔力は、ただの飾り。わらわも魔法が使えたらと何度思ったことよな。さすれば、とうの昔に力の回復が済んでいたというのに」
「魔力を宿したセンムルなど、聞いたことがない⁉︎」
「校長よ、わらわを其方らが呼んでいるセンムルと同格にしないで欲しい。其方ら人間が呼んでいるセンムルとは、わらわたちにとってはペットに過ぎないのだからな」
大国をも滅ぼせる存在をペット呼ばわりとは、アクエリアスとはどれほど恐ろしい存在なのか?
その強さの一端を表しているのがこの現状である。
四天王よりも強いミラエラと、六武神であるエルナスを、まるで赤子のように捉えて見せるとは、尋常ならざる実力を意味している。
「其方らを今し方異次元に存在する隔絶空間へと閉じ込めた。ここへはあらゆる力の干渉が届かず、抜け出すためには、内側から空間を破壊する他ない。おや?どうやら決着がついたようだな」
不敵な笑みを浮かべる少女アクエリアス。
そんなアクエリアスの笑みを見て、ミラエラとエルナスは根拠のない嫌な予感を感じる。
「決着とは、一体何のことだ?ここへ捉えられる以前から周囲への意識は張っていたが、戦闘があった気配など、一ミリも感じはしなかった」
「フッ、本当に愉快な脳みそだ。わらわがいつ其方らを隔絶空間へと閉じ込めたかなど、知る由がなかろうに。まぁよい、あやつはもうじき死ぬのだ。隠す必要もあるまいか」
死ぬ。その一言を聞いた瞬間、エルナスは直感的にそれがフェンメルのことだと理解した。
そして込み上げてくる絶望感。
歳も近く、学園の校長になる前は、よく二人で任務もこなす仲だった。冷たく接しはするが、エルナスはフェンメルのことを大切な仲間であると思っていたのだ。それは今も変わらない。
そして聞かされる真実。
「四天王フェンメルが、今し方わらわの愛しいペットに敗北した。けれど、まだ息はあるようだな」
折れかかっていた心を何とか保つ。
まだ生きているのなら希望はある。
勝たなくてもいい。だから死ぬことだけは許さない。
「それでは、せっかくだからわらわ自らが出向き、人類の希望とやらをくじいてやるとしよう」
アクエリアスによって放たれた言葉は、ギリギリで保てていたエルナスの心をへし折るには十分であった。
「ふざけるな!なぜだ・・・・・なぜ神は私たち人類を滅ぼそうとする!かつて魔王を滅ぼすために協力した仲だというのにどうしてなんだ‼︎」
何とも哀れなエルナスの虚しき抵抗。
そんなエルナスには目もくれず、アクエリアスはミラエラへと語りかける。
「ミラエラ・リンカートン。明日は其方の番ぞ」
「どういう意味かしら?」
「言葉通りの意味だ。明日、其方ら抜きで選抜生徒をコキュートスの檻へと放り込む。可愛い生徒たちを皆殺しにされたくなければ、死に物狂いでこの空間から抜け出して見せよ。そういえば、選抜者の中には其方の家族もいるのだったな。確か名はユーラシア」
その言葉を聞かされた瞬間、ミラエラからも怒りの一言が発せられた。
「絶対に許さないから覚悟してなさい」
しかしそのセリフは、アクエリアスにこそ相応しい。
「さすれば其方は思い出すであろう。かつて蔑んだわらわと、わらわの愛しきペットの存在を—————」
そう言い残し、アクエリアスは隔絶空間から姿を消した。
「貴方は一体誰なの?」
ポツンと漏らしたミラエラの一言が、静けさを纏う空間に響き渡る。
アクエリアスとミラエラは、互いが守りたいもののために激突する。
そして、今回起こる出来事は後に、『白銀世界事変』と称されることとなるのだが、それはまた別の話。
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