第10話
とはいえ。
「そ、そんなに心配しなくても大丈夫です。わたしがいきなりアマネさんを抜く歌姫になんかなれるわけないですから」
「……でも、そうしないと翡翠は朝周と結婚することになるんじゃない? 早く横濱から出て、お父上や婚約者の元へ向かいたいでしょう?」
「まぁ、そうですけど……」
すぐに事態が動くほど甘くない。行弥は借金を肩代わりしてもらう代わりに翡翠を金城氏に渡したのだし、誠は翡翠がアマネを越える歌姫にならなければ翡翠を解放しないと断言したのだ。まともに考えれば無謀としかいいようのない提案だ。
翡翠は絶対に歌姫になれない自信がある。音痴だからだ。致命的と言っても過言ではない。
だというのに誠は翡翠がアマネを抜く歌姫になると見込んでアマネにまで条件を出してしまった。
こうなると不憫なのは巻き添えを喰う形になるアマネである。翡翠は申し訳ない気持ちになるが、当の本人は翡翠に対してというより一方的に物事を決めてしまった誠に対して憤りを感じているようで、彼女にはヒトコトも文句を言わないでいる。
「難しく考えるのはあとあと。今日だけで運命が二転三転しているのだから、すこしはゆっくり休まないと」
そう言って百貨店内の中華レストランで軽い食事をした後、敷地の裏にある従業員たちの多くが暮らす寮へ案内された翡翠は、部屋を見て愕然とする。昨日まで暮らしていた屋敷の自室と同じ家具が、ひとまわり狭い部屋だというのに、同じような配置にされていたのだ。それはまるで自分の家に戻ってきたのではないかと錯覚するほど。
だが、洋風家具が並ぶ床がよく見ると畳敷きだったり、出窓にかけられていたレエスカーテンの向こうが殺風景な嵌め殺しの窓になっていたりしていることから、ここが自分の家ではないことが理解できる。
「ご丁寧に、立花家の侍女が荷物を運びこんでいてくれたんだ。本人に黙ってね」
まったく腹立たしいねと頬を膨らませて、アマネは翡翠を姿見の前に置かれた椅子へ座らせる。鏡に映る自分の姿を見て、翡翠は思っているよりやつれていないことに気づき、苦笑を浮かべる。
「ほんとうなら金城邸に案内すべきなんだろうけど……はじめから君を歌劇団で働かせるつもりだったんだろうな」
金城氏が暮らす邸宅は横濱の山手にあるらしいが、ふだんから百貨店で寝泊まりすることが多い誠や、帝都で好き放題しているという放蕩息子の朝周は滅多に戻らないという。
そうと知っていたから、荷物を最初からここへ運び込ませたのだろう。翡翠は誠の思惑通り、金糸雀百貨店の従業員として雇用されるようだ。アマネを抜く歌姫候補という特別待遇で。
翡翠にとって与えられた個室は小ぢんまりとしていながらも居心地良く整えられている。この先のことは気が重いが、衣食住が確保されていることはありがたい。
「それに……むしろ、いきなり知らない男のひとの花嫁になるより気が楽です」
「そう?」
翡翠の物言いが気に入ったらしく、アマネはくすりと笑って嬉しそうに頷く。
「公家華族のご令嬢だって聞いたから『こんな狭い部屋耐えられない!』とか『内風呂のない生活なんてイヤ!』とかもっと悲観的になって泣きわめくかと思った」
でも違うのね、というアマネの言葉に翡翠はぼそりと言い返す。
「……鈍感なだけです」
まだ、自分のなかでこの出来事が完全に消化されていないだけだと翡翠はアマネに説明するが、彼女はそんなことないよと笑いながら首を振る。
「楽しみな新人ができて嬉しいわ。鍛えがいがありそう」
うふふとほくそ笑むアマネに、翡翠はそういえば自分は明日から金糸雀歌劇団の劇団員という立場で生活しなくてはいけないのだと気づき、さぁっと顔を青ざめる。
「無理です。無茶です。無謀です。だってわたし、音痴ですから!」
「だからこそ鍛えるんじゃない! 親父さまの期待に応えられればこの鳥籠から抜け出すこともすぐに叶うのよ?」
「鳥籠?」
彼女の口から出てきた鳥籠、という言葉に思わず翡翠は反応する。
「そ。親父さまは綺麗で可愛くて美しいものが大好きなの」
あたしみたいにね、と茶化しながらアマネは呟くが、彼女の表情は笑っていない。
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