第11話
そういえば、皓介は言っていたではないか。目の前にいる彼女も、自分と同年代の、大人と対等になるべく背伸びをしている少女にすぎないのだと。
「親父さまが拾ってきた可憐な小鳥たちは、どの娘も平等に愛される。けれど、歌劇団の歌姫たちは鳥籠のなかで囀るだけ」
外へ飛び立つことはできないのだと暗に告げられ、黙り込む。
「だけど翡翠は違う。あたしみたいに自分から鳥籠のなかにいることを望まない限り、ふたたび外の世界へ飛び立つことができる」
けれど、外の世界はときに残酷だとアマネは嗤う。
「選ぶのは貴女よ翡翠。朝周と結婚してこの鳥籠を出る? それともこの歌劇団で、あたしと勝負する?」
詰め寄られた翡翠は、アマネの真剣な表情から、漆黒の瞳から視線を外せない。
だから、素直に応えを返す。
「まだ、わかりません」
そもそも婚約者の朝周と顔を合わせてないのに結婚できるかと問われても何も言えない。それに、翡翠がアマネの脅威になって歌姫稼業を妨げるのも申し訳ない気がする。
「それよりアマネさん、朝周さまってどんな方なんですか?」
翡翠の指摘でアマネも気づいたのか、彼女がまだ朝周と顔を合わせていないことについて呆れたように愚痴を零す。
「噂が独り歩きしているような方よ? 親父さまが匙を投げるほどのね」
「はぁ」
翡翠が聞いたのは、黒い肌を持つ異国の巨人という想像できないものだった。確かに父親の誠は肌が浅黒いが、日本語は堪能だし、巨人というほど大きくもない。あんがい息子も似たような見た目なのかもしれない。
「夜な夜な色街で遊び耽っているとか、ワケあって帝国大学休学中だとか、いろいろ言われているけど……彼なりの信念がある、みたい」
じゃっかん歯切れが悪いのが気になるが、アマネがそう言うので、翡翠は素直に信じることにする。
「悪いひとじゃないんですね」
「ぶっ……」
思わず吹き出し笑いをするアマネに、翡翠がきょとんとした表情を向けると、彼女はぶんと首を振り、突き放すように言葉を投げる。
「どう思うかは翡翠の勝手。ただ、たいていの良家の子女が彼に耐えられなかったのは紛れもない事実……だけど翡翠なら、平気かも」
平気だったらいいなぁ、と半ば願望のようにアマネは呟き、翡翠の双眸を覗き込む。
「……あたしの部屋はここからちょっと遠いから、何かあったら階下の守衛に伝えて。まだ混乱しているだろうけど、今夜はゆっくりおやすみ。もし早起きできるようなら裏庭に行ってごらん、彼に逢えるかもしれないから」
アマネの部屋は翡翠のいるA棟ではなく、百貨店から一番近い場所のC棟にあるという。翡翠はアマネからの説明を聞きながら、あらためて自分がここで生活をはじめることを意識する。
「……がんばらなくちゃ」
「ひとりで抱え込まないでね。貴女のことは親父さまにしっかり面倒みるよう頼まれているんだから」
なんてね、と囁きを残して、アマネは扉をあけ、翡翠の部屋から風のように立ち去っていく。
ひとり部屋に残った翡翠は、押し込められるように置かれた寝台に倒れこみ、ふぅ、と息をつく。
「皓介さま……」
一緒に歌劇を観ていたのが、まるで夢のようだ。それともいま見ているものが、夢なのだろうか。
翡翠は突っ伏した状態のまま、まとまらない思考を遊ばせる。
――そういえば、アマネさんって何者なんだろう。異母姉弟?
誠に面倒をみるよう指示されたのは、はじめから翡翠を歌姫にするためだったのだろうか。それにしては金城家の内情にも詳しそうだ。妾の子どもだろうか。
あれで自分と同年代だなんて信じられないくらいに大人びている。金糸雀百貨店の歌劇団が創設されて以来ずっと首位の座を護っているという歌姫だけあって、身のこなしは優雅で清らかだ。
けれど鳥籠と口にしたときの何かを諦めたかのような表情が気にかかる。それから、歌姫を引退することが結婚に直結するという誠の言葉も。
――だけど、愛の間を揺蕩う音色、でアマネだなんて。芸名にしても不思議な名前。
もっと彼女のことを知りたいと、持ち前の好奇心が疼く。ちょこまか動き回るなんて令嬢らしからぬ行いだとみどりは文句を言っていたけれど、いまの翡翠にしがらみはない。
婚約を破棄され実の父親に売られたばかりだというのに、なぜだろう、アマネの言うとおり、悲観的になれずにいる。
むしろ、帝都の屋敷と女学校の往復しか許されていなかった昨日までの生活の方が、翡翠にとっては鳥籠のような生活だったのだ。
ならば、いまの状況を甘受し、誠が差し出した条件から、自分にいちばん見合うであろう未来を選択すればいい。
このまま翡翠は誠の一人息子と結婚すべきなのだろうか、それとも自ら歌姫になってアマネを蹴落とすことで自由を勝ち取るべきなのだろうか。
「……どうしよう」
結局こたえを出せないまま、翡翠は糸が切れたかのように眠りについていた。
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