第7話

――ご武運?


 ぎょっとする翡翠の耳元へ、侍女が囁く。




「金城朝周さまは、異国の風貌を持たれる黒き巨人と噂されております。ご不興を被らぬよう、お祈りしております」




 つまり、気に入られなければ何をされるかわからない、ということだろう。翡翠はぶるっと身体を震わせ、すがるようにアマネを見上げる。




「……そんな心配しなくても大丈夫よ、あの莫迦は結婚する気なんかさらさらないんだから」




 アマネは爽やかに返し、軽い足取りで翡翠を連れていく。


 駅からふたたび出た翡翠は、アマネに連れられ伊勢佐木町の百貨店方面へ戻ることになる。


 後ろを振り返れば、すでに侍女の姿はなかった。それを見て、アマネは目を眇める。




「薄情ね、大事な愛娘を差し出すのに、侍女がひとりだけだなんて」


「……仕方ないです」




 母は生まれてすぐに亡くなっているし、父も事業の立て直しでそれどころではないのだ。それに、父は最後に皓介と観劇することを許してくれた。いま思えば彼なりの餞別だったのだろう。


 黙り込んだ翡翠を見て、アマネも口を閉ざす。


 夜の帳が下りた賑やかな街並みへ足を踏み出し、翡翠は唇をきつく噛みしめる。皓介と歩いた時とは異なる、不安と緊張を伴いながら。


 さっきまで金糸雀百貨店の客だった翡翠は、関係者専用通路に導かれ、薄暗い裏口へ足を踏み入れている。夜の冷気が足元を通り抜け、ワンピースのスカートがふわりと揺れる。


 おそるおそる歩く翡翠を見て、アマネがやさしく囁く。




「怖いわよね。でも、大丈夫。すぐに馴れる」




 ひとりだったら動けなかっただろう。けれど翡翠の隣にはアマネがいる。聖母のように微笑む彼女に従えば、きっと悪いようにはならない。いつの間にか、翡翠はそう考えるようになっていた。




「……平気です」




 金城氏が横濱で百貨店業を営んでいたことを思い出し、翡翠は頷く。


 そして悟る。


 ふだんなら横濱まで遠出することを渋る父の行弥に皓介と金糸雀百貨店へ歌劇を観に行くことを許されたのはこのためだったのだと。


 知らなかったのは皓介と翡翠だけ。


 彼はこのことを知ってどう思っただろう。抜け目のない尾上男爵のことだから既に別の華族令嬢に白羽の矢を立てているのかもしれない。裕福で、主人のいうことをなんでもきく人形のような少女を。翡翠より大人な彼は、妹のような自分のことなどすぐに忘れてしまうだろう。むしろ煩わしさから解放されたのではないだろうか……


 歌劇で観たような情熱的な恋愛感情は理解できないけれど、翡翠は淡い恋心を皓介に抱きはじめていただけに、素直に事実を認められずにいる。彼のことを思い出そうとすると、胸が苦しくて、息がつまりそうになる。


 それはこの泣きたくなるような薄暗い通路に凝る埃っぽい空気のせいもあるのかもしれない。


 突き当たりの業務用エレベーターに乗り、五階へ着くと、ようやく明かりがついた廊下に降り立つことができた。翡翠は新調したばかりの萌黄色のワンピースが汚れていることにも気づかず、黙々と歩きつづけている。




「――気丈ね」




 何も知らないであろうアマネは、俯きながらも前へ進む翡翠を見て、ぽつりと零す。




「そんなこと、ないです」




 咄嗟に言い返して、顔をあげたら、涙が零れた。


 アマネは翡翠の瞳から流れた雫にそっと触れ、漆黒の双眸で彼女の潤んだ瞳を覗き込む。




「あたしの前でなら、泣いてもいいわよ」


「……え?」


「だけどもうちょっと堪えてくれるかな。もうすぐ狸ジジイと対決しなくちゃいけないからさ」




 あえて茶化すようにアマネは言い、場違いな木製の扉の前へ立ち、ノックする。

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