第5話
――遠くで、汽笛の音がきこえる。
叔母は翡翠を蒸気機関車に乗せず、長椅子で座って待っているよう命じた。その間に皓介は帰りがてら事情を説明したいと言う彼女、みどりによって新橋行きの陸蒸気で帰されてしまった。
別れの言葉を交わす暇すら与えられなかった。それ以前に、このまま逢えなくなることが信じられなかった。ただ、自分の父親が事業に失敗したことで、ふたりのあいだにあった婚約話が白紙に戻ったことは、事実なのだろう。
「残念ですが、嘘ではありません」
あのあと、入れ替わりに現れたみどりの侍女が、茫然自失の翡翠の隣で、ぽつぽつと事情を話してくれたからだ。
以前から父が借金を重ねていたこと。
今回の事業の失敗によって、負債は更に膨らみ、ついに支援者たちから見放されたこと。
支援者のひとりであった
逆に、別の支援者である金城氏から、借金を肩代わりしても構わないが、愛娘を自分の息子に嫁がせたいとの申し出が出ていたこと。
行弥はすでに皓介と関係を築いている娘を別の男性の元へ差し出すことに悩み、弟夫婦に相談したが、「翡翠の嫁ぎ先が新華族に変わるだけだ」と説得されたことでついに翡翠を手放すことを認め、先日、契約が結ばれたということ。
その際、翡翠が通っていた女学校にも退学の報せを伝え、受理されたこと。
水面下で動いていた現実に気づけなかった己を恥じながら、翡翠は呟く。
「……そうだったのですか」
皓介との婚約ももともとは親同士が決めたものだ。けれど、お互いに穏やかに関係を培ってきていただけに、突然引き裂かれるような別れ方に、翡翠は戸惑いを隠せない。
男爵家のひとり息子に没落華族の娘は不要だと、向こうが言ってきたのだから仕方がない。だが、皓介も何も知らなかったことを考えると、ずいぶん急な気がしないでもない。
とはいえ、自分たちの土地と家、つまりは公家華族としての爵位を守るために父は翡翠を使うことを選んだだけだ。翡翠に拒む権利など、はなから存在していない。
「お嬢さまを騙すような形になってしまって申し訳ないです……でも」
みどりに仕える侍女は、表情を曇らせ、ぽつりと零す。
「でも?」
「そうでもしないと、きっとお嬢さまが駆け落ちしてしまうと行弥さまが」
「……え?」
「だって、あの金城氏ですよ! お嬢さまが可哀想で……」
翡翠が首を傾げる横で、侍女は悔しそうに項垂れている。金城氏といえば、横濱界隈では有名な貿易商で、明治末期に突然華族の仲間入りを果たした成金一族だということくらいしか翡翠は知らないが、それのどこが可哀想なのだろう。
ぼんやり思考を巡らせる翡翠の背後から、澄んだ声が届く。
「もしかして、君が
我に却って振り向けば、長身の女性が翡翠を見下ろしていた。
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