第3話

「皓介さま。すごいのね! 金糸雀かなりあ歌劇って」




 さきほどまで見ていた歌劇の余韻を引きずったまま、翡翠は婚約者の皓介と陽が落ちたばかりの横濱よこはまを歩く。瓦斯灯ガスとうが生み出すふたりの陰は手を繋いだ形で陽炎のように揺らめいている。




「歌劇を観るのは翡翠、初めてだったな」


「ええ……お父さまがなかなか許してくださらなかったものですから」


「無事試験に受かって結婚したらいつでも行けるだろう、とは言われたけどね」


「お父さまったら、皓介さまにまでそんなことを?」




 まぁ、と呆れる翡翠に、皓介は柔らかく微笑む。久しぶりに見た婚約者は、まだ帝国大学の学生だというのに翡翠よりも大人びて見える。




 ――結婚なんて、先のはなしなのに。




 女学校に通う翡翠は、未だに結婚という言葉の響きに現実味を持てないでいる。


 それでも見慣れない背広姿の皓介と並ぶと、翡翠は面映ゆい気持ちになってしまう。




行弥ゆきやさんは翡翠を手放したくなくて仕方がないみたいだな」




 父の名を出されて翡翠は頬をぷぅと膨らませる。栗鼠が木の実を頬張るような翡翠の表情を見ても、皓介は微笑を浮かべたままだ。




「……お父さまは過保護なんです。わたしだって数えでもう十九ですよ」


「だからですよ。まだ翡翠は女学生だけど、同い年くらいの女の子で働きに出ている子もいるでしょう?」


「離れていくのが淋しいのかしら」




 当然のことなのに、と呟く翡翠に、皓介も苦笑している。




「そういえば、今日観た歌劇団の主演女優も貴女と同じくらいだったと思いますよ」


「え、そうなんですか? あの金糸雀の首位歌姫が……」




 小鳥遊愛間音たかなしあまね

 アマネと呼ばれている彼女の煌びやかな芸名は、歌姫にぴったりだと翡翠は溜め息をつく。


 東京日本橋の白木屋百貨店の白木屋少女隊に対抗する形で生まれた金糸雀百貨店の金糸雀歌劇団は創設して間もないものの、花型女優であり歌姫である小鳥遊アマネの華々しい活躍により、すでに横濱の新たな名物として注目を浴びているのだ。まさか彼女が自分と同年代だったとは。




「どうしたらあんな風に歌えるのかしら」


「翡翠はいまのままでも充分だよ」


「でも……」


「翡翠、遅いわよ!」




 鉄道が行き来する横濱駅の駅舎まで辿りついたところで、皓介は待っていた翡翠の叔母、みどりの元へ翡翠を引き渡す。


 木製の長椅子ベンチに座っていた濃い紫色のドレスを着たみどりは、ゆったりと立ち上がり、翡翠と皓介へ視線を向ける。




「みどり殿、申し訳ない、ゆっくり歩きすぎたみたいだ」


「翡翠が歩くのが遅すぎるのです。皓介さまが気になさることはございませんわ」


「ごめんなさい、みどりさん」




 ぺこりと頭をさげる翡翠に、みどりはいやだわと声を荒げて言い返す。




「まぁ、仕方がないわね。最後のデエトですもの、少しくらいは大目に見ますわ」


「最後?」




 翡翠と皓介が首を傾げると、みどりはあらやだと豊満な身体を揺らしながら意地悪そうに微笑み、告げる。






「そうよ、可哀想な翡翠! あんたはね、これから売られるの。可愛がってくれたお父さまにね」






 みどりの言葉は、未だ観劇の余韻に浸っていた翡翠に容赦なく襲いかかる――……

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