第7話

 そして、焦燥に駆られた僕が、息を潜めて、ヴィッセル指揮官側の部屋の扉の音を聞き漏らさないようにしていると、ガチャリと鍵が開いた音がした。この社宅は鍵の部分が重く、異様に大きな音がするのだ。

 それを聞いて、僕は不自然にならないように少し待ち、ワイシャツにスラックスという仕事終わりのような出立ちで隣りの部屋の前に立つ。

 そして、震える手で社宅の安っぽいインターホンを鳴らした。そうすると、ピンポーンという機械的な音が途中で切れて、部屋の主がカメラ越しから僕のことを見ているのが分かる。僕はヴィッセル指揮官から話しかけられる前に自分から話し出す。

「ヴィッセル指揮官、すみません。ヒビキ・ホンマです。いらっしゃるようでしたら、いま少しお時間いただけないでしょうか」

「ヒビキ……?……少し待っていろ」

 そう言われた後、ガチャリと扉が開いて顔を出したのはヴィッセル指揮官だった。帰宅して間もないので、まだ隊服を着ているようだが、胸元は寛げているので、そこからふわりとした毛が見えて、なぜだかどきりと鼓動が跳ねた。

「あの、ヴィッセル指揮官、ご相談したいことがあります。ここでは話せないので、中に入ってもよろしいでしょうか……?」

「いきなりどうした。仕事のことか」

 ヴィッセル指揮官は玄関から退かずに僕を見つめている。

「い、いえ……」

 ヴィッセル指揮官が戸惑っているのが分かり、僕は内心焦る。確かに、これまでろくに話したことがない部下が突然家に来て、相談したいことがあるから中に入れてくれと言うなんておかしいと思うだろう。どう言えばいいのかまごついている僕を見て、ヴィッセル指揮官は目を細めて尋ねる。

「……タマルはどうした」

 いきなり聞かれたのはアカツキのことで、ここのところ頭を悩ませている存在を指摘されて思わず吃ってしまう。

「え?ア、アカツキ、は……あの……」

「……入りなさい」

 言い淀む僕を見て、何かを察したのかヴィッセル指揮官は僕を部屋の中へ迎え入れてくれる。

 ワンルームの部屋の中にはベッドとテレビといった最低限の家具と家電しかない。その中で使用した形跡があるのはベッドくらいで、この部屋にいる時間はとても少ないのだと言うことが分かる。それでも家族や仲間を大切にするというウルフワムらしく、テレビ台のところには家族写真が置いてあった。その中で微笑む幼いヴィッセル指揮官を見つけて、彼が大切に育てられてきたことが分かる。僕とは正反対の太陽のような人なのだ。

「ソファなんて洒落たものがなくて悪い。ベッドにでも座ってくれ。何か飲むか?」

「……いえ」

 僕は促されるままベッドの端っこに腰掛ける。アカツキ以外の誰かの家にこんな風に上がること自体が初めてで緊張してしまう。しかも、相手はヴィッセル指揮官だ。いつもとは違う状況に心臓が激しく脈打つ。それを落ち着けようと深呼吸を繰り返すと、ヴィッセル指揮官が話しかけてくる。

「君とこんな風に話すのは休憩室で出会った時以来だな」

 そう言われて、休憩室で会話したことを覚えていたのは僕だけではなかったのだと驚くと同時に歓喜する。

「それで、こんな時間にどうしたんだ? タマルが心配するだろう」

「え、っと、あの……」

 その喜びを表すことも出来ずに、ヴィッセル指揮官に対してどう答えればいいのか思い悩んで言い淀む。ヴィッセル指揮官に対してだけだなく、僕自身がどうすればいいのか、ここのところ考えるのはそればかりで、謎の体調不良と相まって、答えのないその問いに悩んでいることが辛くなり、ぽろりと涙が出てきてしまった。

けれど、僕がこの人を謀るのは<<決まっている>>のだ。このことがバレたら、憧れの人からは確実に嫌われるだろう。僕が決めたことなのに、行き場のない思いが胸の中から溢れてしまう。

「っすみません」

 それを見て、ヴィッセル指揮官はそれを見て、ヴィッセル指揮官は驚いた顔をして慌てている。

「ど、どうした。どこか痛いのか」

「ち、違います……。あ、あれ……すみません」

 自分でもどうして泣いているのか分からず、涙を止めようとするのだが止まらない。ヴィッセル指揮官はそんな僕の隣に腰掛け、僕の背中を撫でてくれる。彼の手は大きくて、撫でられるだけで安心できるような力強さを感じる。

「何があったんだ」

「す、すみません……。僕、彼の気持ちが分からなくて……」

「ああ……」

 ヴィッセル指揮官は何故か少し辛そうに、僕の言葉を遮らずに聞いてくれる。辛そうな表情の理由は分からないが、話を聞いてくれようとするその姿勢に僕は言いようのない安心感を感じる

「頭の中がぐちゃぐちゃで……。僕、どうしたらいいのか……」

 言葉には出来ないが、アカツキがウルフワム打倒連合軍に入っていること、そしてそのアカツキからスパイ活動をするように言われていること、アカツキの言葉に抗えない自分、そんな目まぐるしい変化を頭の中でまとめきれずに、つい本音が出てしまう。

「……タマルが浮気でもしたのか? 」

 そんな僕の様子を見て、ヴィッセル指揮官が意を決したように口を開く。想定外のことを言われて、一瞬涙が止まる。その様子を見て、ヴィッセル指揮官はそれが当たっていたと思ったようで、牙を出し、苦々しい顔をする。

「パートナーがいながら浮気など許せん。しかも、お前のようなパートナーがいながら」

「あの……」

「どうした?」

「……あの時の言葉はまだ有効ですか」

 ヴィッセル指揮官が自分のことのように怒ってくれている様子を見て、僕は自分の胸の内を整理できずに、ただ言葉だけが口からこぼれ落ちる。その時、アカツキの家族という言葉とヴィッセル指揮官に対するが憧れや思慕が、僕の中で一気に膨れ上がり、僕はヴィッセル指揮官の胸にすがりついた。

それは、アカツキの指示通りに行動したのか、自発的に救いを求めたのか自分でも分からない。上を向くと僕を見下ろすヴィッセル指揮官の静かな湖のように澄んだ瞳があった。その瞳を真っ直ぐに見て、震える声で伝える。

「あの、僕、じゃだめですか?」

 アカツキから言われた言葉を繰り返す。カタカタと手が震えるのが分かる。ヴィッセル指揮官は、グッと目を見開いた。僕の背中に回った腕はびくりと震えたのも伝わる。彼の部下を思う純粋な気持ちを踏み躙るような真似をしていることは理解している。アカツキの顔とヴィッセル指揮官の顔が交互に浮かんでは消える。

「……っ!やめなさい。ヒビキは混乱しているだけだ。私でよければ話を聞くから」

「……で、でも」

 断られた時になんて言おうかなんて考えておらず、頭の中でぐるぐると言葉が浮かんでは消えていく。その中でぽろりと漏れた言葉は、僕の本音だった。

「あの時、力になるって言ってくれて、とても嬉しかったんです……」

「それは……」

「僕、寂しくて……だから」

 その言葉を聞いて、ヴィッセル指揮官は観念したように息を吐きながら唸る。その短くも長い時間の後、ヴィッセル指揮官は僕の目を見て言った。

「……分かった。ヒビキが望むのなら、俺が側にいる。泣いているヒビキを見て、心が動かないほど出来た男ではないんだ」

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