第4話

 僕の隣人になったヴィッセル指揮官は優しくて仕事ができる、僕の憧れの上司だ。  

 僕は昔、ヴィッセル指揮官と会話をしたことがある。僕が共同防衛省に入ったばかりの頃、経理の仕事についていけず、残業することが多かった。

 入省したばかりの僕は課長から頼まれた仕事が終わらずに、夜遅くまでパソコンを睨みつけながら仕事をしていた。当時の上司だった課長は丁寧に教えてくれるのだが、経験が違いすぎて素人の僕には直ぐには理解できず、それでも課長と同じレベルの仕事をしようと思って、四苦八苦していたのだ。

 その日も、一人だけ残り、経費精算に格闘していた。課長は家族の誕生日だということで帰ってしまったし、先輩達はみんな忙しいから手伝ってもらうこともできなかった。

 ふと時計を見ると十時を過ぎており、そろそろ帰らなければならないと思うのに、手元の仕事は全く進んでいなかった。疲れというものは恐ろしく、人をネガティブにさせる。

 その日、僕は減らない仕事を見て、この仕事に向いていないのかもと思ってしまい、なぜか絶望的な気持ちになってしまった。それでも誰かに相談することも出来ず、頭を冷やすために十分だけ休憩室で休むことにした。

 共同防衛省の休憩室にはいくつかの長椅子と自動販売機があり、そこで冷たい飲み物でも買って頭を整理しようと思ったのだ。

 休憩室の自動販売機で缶コーヒーを買って長椅子に座っていると、誰かが休憩室に入ってきたことに気がついた。顔を上げると、そこにはヴィッセル指揮官がいた。入省式の時に壇上で挨拶をしていたので顔は知っていたのだ。ものすごく偉い人が入ってきたことで僕は一気に緊張してしまう。

 けれど、なぜかヴィッセル指揮官も僕を見て目を見開いている。そして、彼は僕の方へ近づいてきた。狼獣人は上下関係に厳しいので、下っ端の僕から挨拶をした方がいいと思い、口を開く。

「えっと……、お疲れ様です」

「君は……」

 僕の側までやって来たヴィッセル指揮官の瞳孔が開いているように見えるが、きっと気のせいだろう。

「今年入省したヒビキ・ホンマです。……ここにいたら、邪魔ですよね。すみません。すぐ戻ります」

「いや、待ってくれ。部署はどこだ」

 ヴィッセル指揮官は戻ろうとした僕の手を掴みながら、更に言葉を続ける。僕は何かしでかしてしまったのかとおそるおそる回答する。

「えっ? えっと、経理課ですけど……」

「私は総括指揮官のガムラ・ヴィッセルだ。少し話しをしていかないか。入ったばかりの子がこの時間まで残業している理由も気になるから」

「いえ、あの……、それは……」

 その言葉を聞いて僕は戸惑った。心配してくれているのは嬉しいが、こんなに偉い人に僕の悩みなんて話せるわけがない。それに、そもそも僕の悩みなんて、指揮官から見たらちっぽけなものだ。そんなことを考えているうちに、ヴィッセル指揮官は僕の隣に座る。

「遠慮しないでくれ」

 そう言って、ヴィッセル指揮官は微笑んだ。その瞳が真摯な光を映していて、僕はなぜかこの人になら悩みを打ち明けてもいいかもしれないと思えた。

 最初は緊張していたが、ヴィッセル指揮官の相槌がとても自然で、次第に緊張が解れて、仕事の悩みを打ち明けた。

 彼は少し考えてから「課長が指導役というのは駄目だな。二、三年上の先輩から教えてもらった方が効率がいいだろう。私の方から経理部長に言っておこう」と言った。

 僕は他人に話したことで自分の考えを整理できて、それだけで少し気分が明るくなっていたのだが、それに加えて、ヴィッセル指揮官が僕の悩みを否定せずにアドバイスをくれたことに感動していた。

 僕達は取り止めもなく色々な話をした。仕事のことだけでなくプライベートなことも話したし、彼も自分のことを教えてくれた。彼はガムラ・ヴィッセルさんで、僕よりも八つ年上であり、ウルフワム出身で特に体術が得意なことなどを教えてくれた。

 僕からも、本を読むのが好きなことや映画も詳しくないが興味があることなどを話した。僕達は気づけば一時間以上も話をしており、それに気がついたヴィッセル指揮官が苦笑して止めなければもっと話していたかもしれない。それほど心地の良い時間だった。その時間の終わりにヴィッセル指揮官はこう言った。

「ヒビキ、私にできることがあれば、いつでも連絡をくれ。君の力になりたいんだ」

 その言葉から、一介の新入職員をここまで気にかけてくれるヴィッセル指揮官の懐の深さに感じて、僕達は別れた。

 そして、ヴィッセル指揮官が掛け合ってくれたのか、課長から直接指導されることはなくなり、僕の指導役にアカツキがつくことになった。その一ヶ月後くらいにアカツキからカモフラージュで付き合ってほしいと言われて、今に至っている。

 アカツキの教え方はとても上手く、僕の経理スキルは少しマシになった。僕はそのおかげで、ヴィッセル指揮官と話した休憩室の夜から残業することが少なくなり、あの夜以来休憩室に行くことはなかった。当然、ヴィッセル指揮官と話す機会もなかった。

 そして、いつだったかは覚えていないが、ヴィッセル指揮官と目が合うと逸らされるということが続いて、僕は知らない間に彼に失礼なことをしてしまったのかもしれないと思い、僕から話しかけるなんて馬鹿げたことは考えなくなった。

 けれど、そのヴィッセル指揮官が隣に住んでいるのだと思ったら、なんとなく落ち着かない気持ちになった。

 けれど、彼は隣の部屋に滅多に帰ってこないようだ。社宅の壁は薄いので、隣の部屋の扉が開閉する音は結構響く。それなのに、ヴィッセル指揮官が住む部屋の扉の開閉音を聞いたのは、一月経っても数回ほどだった。それも僕が寝ようとする頃である深夜に聞こえることがほとんどだ。

 仕事が忙しいのだとは思うが、もしかすると、隣りの部屋にいない時は仲の良いドルーガ副指揮官の部屋に行っているのかもしれないと思うと、なぜか腹の底がチリチリと焼けるような心地がする。

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