第2話

そこにいたのは、ガムラ・ヴィッセル指揮官だった。いつものように、襟のついた黒い隊服を来ている。僕は弾かれたように席を立ち、用を聞きに行く。

「ヴィ、ヴィッセル指揮官。何か御用でしょうか?」

「今日が経費の締め日だと聞いて、慌てて持ってきた。まだ間に合うか」

 ガムラ・ヴィッセル指揮官は、弱冠三十歳で、共同防衛省のトップに上り詰めたエリートだ。銀色に近い灰色の毛は艶々としている。声は低く穏やかで、聞いていてほっとするような響きがある。瞳は深い青色をしており、彼の穏やかで静謐な内面を表しているようだ。

 しっかりとした体躯を持つ狼獣人の中でもその体格の良さは折り紙付きで、毛皮の下にはしっかりとした筋肉に覆われているのだと思う。体術に優れており、指揮官ではあるが前線に出て戦闘することもあると聞く。

 彼に見つめられると、知らず知らずに顔が火照る。彼が素晴らしい燦然と輝く太陽だとしたら、僕はそこらへんには這いずり回る蜥蜴だ。干からびそうになりながら、彼を直視できずに吃りながら領収書を受け取る。

「は、はい。では、ぼ、私が受け取ります」

「ありがとう。ヒビキ」

「……っ!はい」

 受け取る瞬間、一瞬だけヴィッセルさんの手に触れてしまい、触れたところから熱が移る。そして、彼が省内の部下を名前で呼ぶことは知っていたが、一度しか話したことがない自分の名前まで覚えていてくれているとは思っても見なかった。その戸惑いから耳まで真っ赤になってしまっているのを自覚しながら、急いで踵を返して自分のデスクに戻る。ヴィッセル指揮官もフロアから出て行ってしまったようだ。

 太陽に触れてしまったことで心臓がバクバクと音を立てるが、それを無視して、机の上に積んである紙の山から目的のものを一枚抜き出す。そこには、今年上半期の経費精算の一覧が載っていた。それを睨みつけながら、動悸を鎮めるように仕事に集中し始めた。

 積み重なった書類を一つずつ処理していたら、あっという間に時間が経ってしまった。経費精算の締め日の後は、ただひたすら領収書や契約書を処理していかなければならない。経理部は毎年、この時期がとても忙しいのだ。僕は終わりの見えない仕事をいくつも抱えていて、今日は残業しなければならないようだ。現に時計は午後七時に差し掛かっている。

「ヒビキ。食堂いくぞ」

「ア、アカツキ……」

 肩を揉みながら仕事を続けようとする僕に声をかけてきたのはアカツキ・タマルだ。少し茶色い髪と分厚いフレームの眼鏡が印象的だ。彼は経理部の同僚で、僕の彼氏として周りに知られている。僕なんかが彼氏なんて作れるはずがないのだが、それはその通りで、アカツキとの関係は仮初のものだ。つまり、僕達は周りを欺いて交際していると言っている。

 なぜそんなややこしいことをしているのかというと、アカツキが重度の狼獣人嫌いだからだ。狼獣人は小さい人や物を可愛く思う特性があり、人間、特に日本人を可愛く愛しく思うと言われている。

 しかし、アカツキは生粋の狼獣人嫌いで、彼らの恋愛対象にされるのが死ぬほど嫌なのだそうだ。確かにアカツキは狼獣人には並ぶほどの高身長で百八十センチを超えており、僕とは十五センチも違う。

 また詳しく聞いたことはないが、異性愛者なのだと思うので、狼獣人の男性から好意を寄せられるのが嫌なのだろう。それである日、狼獣人からアプローチされないように、僕に対して身代わりの恋人になって欲しいと言ってきたのだ。

 狼獣人は本気で好きになった相手に一途であり、一度作ったパートナーは死ぬまで変えないため、恋人がいる人は絶対好きにならない。その習性を逆手に取って、アカツキは僕を隠れ蓑にしている。

 アカツキは僕より三年ほど前に入省した先輩なので、現在五年目だ。大学も出ているので、今年二十七歳になるとこの前聞いた。彼は経理の専門知識を持っているため、僕の倍ほどの領収書を抱えていても小一時間あれば全て処理しきれるほど仕事ができる。

 けれど、性格ははっきりしており、好き嫌いが態度に出てしまうため敵も多い。そんなアカツキだが、彼は僕の指導役であるため、経理部に入ってから彼のお世話になりっぱなしで、少しでも恩返しができたらと思って、僕はこの関係を了承している。

 仮初の関係は既に半年続いており、この関係が偽物ばれないように、お互いお揃いの銀色の指輪もつけている。

「今日の日替わりは、トンカツ定食だってよ。早く行こうぜ」

「う、うん」

 僕が椅子を立ったのを見て、アカツキは満足そうに微笑んだ。アカツキは僕よりも先輩であるため、本来は敬語を使わなければならないし、彼のファミリーネームであるタマルさんと呼ぶべきなのだが、そんな他人行儀な話し方は恋人として不自然なので、アカツキから二人の時は敬語をなくすように言われている。以前は、その切り替えに戸惑っていた僕もようやく慣れてきたのが満足なようだ。

 そして、二人で経理部のフロアを出て、地下にある食堂へ向かう。食堂へ着くと、これから残業する人達で混んでいて、僕達はタイミングよく空いた一番奥の席に向かい合って座った。

 僕はきつねうどんを頼み、アカツキはトンカツ定食を頼んだ。美味しいか美味しくないかで分けるとしたら、そのちょうど真ん中に位置しするきつねうどんを食べながら雑談をしていると、不意に思い出したかのようにアカツキが口を開いた。

「あ、そうだ。ヒビキに聞きたいことがあったんだけど、総務課の追加費用って処理してる?」

「う、うん。僕が担当だってさっき課長に言われたけど、どうかした?」

 アカツキの顔を見ようと思って顔を上げると、今日話したヴィッセル指揮官が、僕の位置から見える席でご飯を食べているのが見えた。僕は滅多に残業をしないためこの時間の食堂を利用したことがなく、ヴィッセル指揮官は食堂をよく利用しているのだろうかと思い、ふと彼の方を見つめてしまう。

 ヴィッセル指揮官は大盛のラーメンのようなものを食べており、大きな口でバクバクと食べる様子は見ていて気持ちがいいし、それでいて不快感がない。その食べっぷりに惚れ惚れしてしまい、よそ見をしていると、アカツキは勝手に話し出す。

「実はさ、あれって俺が直接総務課に行って作業するはずだったんだよ」

「そ、そうなの?」

 急に言われた言葉に驚いて、アカツキに目を向ける。先ほど課長から頼まれた仕事がややこしいものだったので、少しナーバスになっていたのだ。

「でも、ちょっと忙しくて行けなくてさ。悪いんだけど、総務課まで代わりに行ってきてくれないか?」

「わかった」

 元々アカツキがやるはずだった仕事であれば、難しくて処理が複雑なのも理解できた。アカツキは申し訳なさそうに聞いてくるが、今まで僕が彼から教わってきた時間と内容を考えれば大した問題ではない。そう思い、頷く。

「サンキュー。助かるわ」

 アカツキは、そんな僕の様子を見てニッコリと笑ってから、食事を再開した。僕はアカツキとの会話が途切れたので、再びヴィッセル指揮官の方を窺い見ると、先程まで空席だった彼の隣りには仲の良いバロン・ドルーガ副指揮官が座っていた。二人は談笑しながら、ご飯を食べている。

 ヴィッセル指揮官とドルーガ副指揮官は、ウルフワムの中でも同じ故郷の出身だそうだ。年齢は一才違いで、ウルフワムにある高等学校へも一緒に通っていたほど仲がいいと聞いたことがある。ドルーガ副指揮官の方が毛の色が黒っぽく、毛が銀に近いヴィッセル指揮官と並ぶと見目の良さも相まって、とてもしっくりくる。

 狼獣人は大抵、恋人の存在をオープンにするが、二人とも恋人がいるという話しは聞いたことがない。今の二人には恋人はいない可能性が高いが、僕にはそれは正しくないと思っている。それは二人が思い合っているにも関わらず、肩書きゆえにお互いをパートナーに出来ないだけではないかという僕なりの仮説からだ。

 二人を見ていると、太陽が二つ並んだようで、蜥蜴の僕はじりじりと焼けこげそうになる。

「……なぁ、ヒビキ。大丈夫か」

「なにが……?」

「いつにも増して、ボーッとしてるから」

 アカツキは心配そうに僕の額に手を当ててくる。その家族のような振る舞いが嬉しくて、僕は下を向いて堪えきれない嬉しさを噛み殺す。

「あ、ごめん……。なんでもない」

「あー、なんか狼どもの気持ちが分かる気がする」

 アカツキは僕の様子を見て、何かに納得したようだ。しかし、その何かは分からず、思わず聞き返す。

「え?」

「いや、こっちの話し。それで、話変わるけど、明日は俺の部屋来いよ。明後日は土曜日で休みだし、また映画見よう」

「う、うん」

 僕の問いには答えるつもりがないようでスルーされる代わりに、映画鑑賞に誘われた。僕とアカツキはしょっちゅう一緒に映画を見ている。そのきっかけは、アカツキの大の映画好きが高じて、臨場感が味わえる大きなテレビと特注品のスピーカーを購入したことから始まった。

 仮交際を始めた当初から見ているので、もう何十回と見ている。僕はある理由から、アカツキの誘いを了承することを一瞬だけ迷ったが、折角誘ってくれたのだから行かなければと思い返事をすると、彼は嬉しそうに笑った。アカツキは一人で見ていてもつまらないと以前言っていた。

「よしっ!じゃあ、決まりな」

 言いたいことを全て言い終えたアカツキは、食べ終わった食器を持って立ち上がると、「先に戻るわ」と言い残して去っていった。その後ろ姿を見送ってから、僕も急いで食事を済ませようと箸を動かし始めた。そんな僕達の様子をヴィッセル指揮官が見つめていたのは知らずに。

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